皆様も同じだと思うのですが、私も
ちょこちょこと病気になっていると思います。
風邪でしたり、もっとタチの悪いものでしたり、、
ただ、私は ほとんど めったに、お医者さんに行きません。
ですので、自分が えらいことになっていたとしましても、気づかないのですね、、
習いにいらしているおかたが、
「先生、近ごろ、また危ないですか?」
と
年末でしたか、おっしゃいました。
その時は、「イエス」でしたね。
何かが、危うかった、、
それも、病名がつかないまま、
自然に治りました。
こういう、何度か危ない橋を渡って、
何度か帰ってくる、ということを やっております。
結果的に、命があって、
元気でしたら、途中は何かありましても、いいとしよう、と 思っております。
↓こちらに書きました3回の危機は、
お医者様がたから、
強く治療を薦められて、
それでも 踏ん切りがつかなかったりで受けてなくて、
いつの間にか治った経験です。
まあ、実際問題、危なかったのだと思います。
小さな健康上の危機を
何度か、知らない間に
乗りきっております。
おとといのブログに、
なぜ、岡山大学大学院のときの成績表を載せたかと申しますと、
私が大学院を出たとか、全国模試2番でした、とか、上智大学首席でした、と言っても
「ぜってー、ウソだ」
と 言われる人がいらしている、とお聞きしたからです🤣
昔、
全国模試の成績一覧が配られた時、
ほかのクラスから何人も、男子が謝りに来たのでした。
「ごめんな、俺ら、
カタヤマのこと、
アホかと思っていた」
「ごめんな、通りがかりに、バカと言うて」
高校生のいじめでした。
私は、女子高校生に似合わず、
当時、太っていましたし、
忘れ物が多く、
雨の日にカッパを来て登校しましたら、
シワになったらいけないというので、
スカートを家に忘れて来ていたりしていました。
学生カバンを持って来るのを忘れたこともあります。
というように、
まったくケタ違いのバカっぷりでしたので、
高校時代は、アホかと思われていたのでした。
それなのに、全国模試2番。
当時のBenesseの「進研模試」は、100人くらい名前が出ますので、
私立文系コースで
「カタヤママスミ」
が2番目にあるのを見て、
次々に謝りに来られたのでした。
(当時の私の名前は、片山ますみです)
1980年11月の進研模試の成績データを、Benesseに問い合わせたりしたのですが、もう残ってないと言われました。
しかし、岡山朝日高校の同級生300人と先生がたはご存知ですので、
どなたにでも聞いてくださればと思います。
同級生には、小川洋子さん(作家)もいらっしゃいます。
小川さんは、10年くらい前にお会いしましたら、私のことを覚えて下さっていました。
全国模試の成績のことも、今でも覚えてくださっていると思います♪
まあ、「芸当」ですね。
試験に強いという「芸」があった、のだと思います。
この芸は、本当にのちのちも身を助けて、
上智大学外国語学部英語学科も首席でした。
とはいえ、英語力は、あまり なかったです。
Aの数を多く取る、という「芸当」ができていたのだと思います。
体育会女子バレーボール部でも頑張り、
関東バレーボールリーグ、16部中、8部にいたチームが連戦連勝、30連勝しまして、
卒業時には、3部の入れ替え戦まで行けました。
ウソのようですが、これも本当のことです。
部活と勉強を気が狂うほど頑張れば、誰にもできます。
食べるものは、毎日同じメニューでも構いません。
毎日、五時間くらい運動して、何でもいいので、食べて、寝る。
翌日、朝一番から授業に出て、1日勉強して、部活を頑張って、寝る。
その繰り返しの四年間でも、全然構わない。
それが私の生活でした。
ともかく、朝、目覚めましたら
頭の中にネットが貼ってあったのです。
そのネットの前で、自分がどうプレイするか、
シミュレーションして、目覚めて
学校に行きました。
学校で授業を受け、
昼も夕方もバレーボールをして、
帰ってお風呂に入りましたら、
また
目の前にネットが貼ってあるのです。
このネットの前で、
自分はどうプレイするか、考えながら寝ました。
そんなこんなで30連勝できました。
成績も、マジでAの数は多く取れました↓
逆さですが😆
こういうのを、真っ直ぐ直すとかは
できにくいです。
、、というふうに、
普段の行動が
できないことだらけですので、
なかなか、成績だけは良かった、とは
わかってもらえませんでした。
PR塾の試験を受けてみまして、
もう、その「成績だけは良かった」も通用しなくなったな、と実感しました!
50代の記憶力は
アテになりません!
さて、大学を卒業したあと、
私は岡山県に帰って教師になることに、一ミリも疑問もためらいもなく、
教員採用試験を受けて、受かって、
岡山県井原市井原中学校の教師に赴任したのでした。
そこで、井原市の小学校教師をしていた元夫に出会い、
結婚し、娘と息子ができ、
45歳で別れました。
結婚していた20年は、幸せであったと思います。
本当に、毎日同じごはんのメニューでも構わない、生きることに興味がない、ただ何かを達成するようにプログラミングされたら、必ずそれを実現するまでやる、そういう、ちょっとメカニックな自分に
「愛」
を教えてくれたのが、子どもたちだったと思います。
しゅうとめとも、ケンカばかりでしたが、実は、仲が良かった。
楽しい家庭が実現できていたという気がします。
今日は、単に
思い出話に、なりました😆
おしまい、、です。
大阪気功 太田マスミ masumiota313@@gmail.com
@を1つに