
♪毎日、毎日僕らは一般論〜 上で言われて嫌になっちゃうよ
と、面白くもない替え歌で始めます。
生きづらさを抱えながらも社会の荒波で「およげ!たいやきくん」といった感じで。
本日、奥山佳恵さんの講演会に行きました。
次男がダウン症と診断された時の苦悩や、「障がい」というものへの偏見への反省や、子育てをする中での向き合い方を聞いて保育園児男子を2人育てる親として何度も涙ぐみました。
最近、「障がい者」という言葉の指すカテゴリの広さに、すごく悩まされる日々です。
別に自分や家族がそのような診断を受けたわけではないですが、仕事柄、いろいろな家庭を見る中で「障がい者」という言葉への視線の違いがものすごくあるなと。
自分自身、今の仕事に就くまでは「障がい者=自分では何もできず支援がなくては日常生活を送れない人」と思っていた。
しかしながら、実際そんなことは全くなく、「日常生活を自力で過ごしているが極端な苦手分野があるため、生きづらさを抱え苦しんでいる人」が多いこと多いこと。
きっとステージがステージだったら、障がい者と言うカテゴライズされることはないんだろうと。
農業などの第一次産業従事者が大多数だった時代には、軽度知的障害は気にされることはなかったけど、コミュ力至上主義の現代では、ちょっとでも人と違う振る舞いをしてしまうと「面倒なやつ」「周りに合わせられないやつ」となってしまい、それに悩み、苦しみ、ステージを降りなければならない。
それが故に、「障がい」というカテゴリに当てはめなければならないという。
障がいの程度をグラデーションなんて言ってしまうと、それ自体が差別的表現になってしまうかもしれないが、その人の「個性」が「社会によって与えられたステージ」によって「線引き」されるのに違和感を感じざるを得ない。
「個性の尊重」を求めつつ「わかりやすさ」を求められるが故の、「画一化」や「一般論」に当てはめざるを得ない矛盾。
それに向かい合うには「優しさ」や「思いやり」といった、抽象的なものでしかない。
「一般論では〜」とか「普通は〜」とか、誰もが簡単に口にする枕詞(しかし同時に誰もが耳にすると嫌がる枕詞)は、それはあくまでそれを言い出す人の主観でしかないので、それだけで終わらせてはならない。
その人のステージをきちんと踏まえた上で、現時点の「点」で見るだけでなく、人生という「線」で考えることが、「優しさ」や「思いやり」を持って、接するということなのだろう。
実際、時代の流れに合わせたアップデートを求められ、否が応でもステージを変わらざるを得ない中、自分や家族や友人もいつメンタルを病むかもしれないリスクを抱えているこの時代。
多くの人がそうしたアプローチを意識できるようになることで、「障がい」や「障がい者」に対する価値観もグラデーションのように変わっていけばいいなと。
最近知ったこの曲を聴きながら、仕上げたこの文章。
古い価値観を持ち続けるが故にインターネットの波に飲み込まれないよう、ブログでは遠泳を泳いでみたいと思います。
この本を読むきっかけは、9月21日放送の「星野源のオールナイトニッポン(ゲスト:荻上チキ)」でこの本が紹介されており、自分は福祉関係に従事している仕事柄、障害者の当事者への理解を深めたいことから手に取ったことである。
著者は自身が脳性マヒであり、肢体が自由に動かせず歩行ができない方であるため、この本から当事者としての困難などの理解を深めることができる一方、読み進めていくにつれ、「不自由さ」の中にある「自由」というものを教えていただくことができた。
自分は以前より漠然と「不器用な人間の方が新しいルールを考えることができるのではないか」と考えていた。
(自称)器用な人というのは既存のルールに適応できてしまうため、不自由さを感じることがなく、現状に満足することができるため、わざわざ新しいルールを考える必要がないのだ!
と、なんの根拠もなく、自分が不器用であることの言い訳としていた勝手な考えである。
この本を読んで、その漠然とした考えに後ろ盾を与えて頂いたような気持ちとなった。
第6章「隙間に「自由」が宿る」内に「「つながれなさ」はつながりの契機」という項目がある。
この項目に至るまでに、脳性マヒの当事者だからこそ、様々な面で不自由さがあるからこと、その人でないとつながれない「つながり方がある」ということが書かれている。
誰しもが、「つながれなさ」を持っているからこそ、他の人とつながるための言葉を持ち、外部との対話などを通じて相手を理解するものであり、「つながれていない」状態が、未発達や不適応という消極的な意味合いにとどまらない。という内容が書かれている。
その項目では、最後に「より適応していくことだけを「発達」とみなす従来の考え方には、どこか重大な落とし穴があるような気がしてならない」と締めている。
これは、なにも脳性マヒの方だからということでもなく、当然障がい者の方だからという限られた対象のことではない。誰にでも当てはまることなのだ。
周囲の関わりのある人(大枠でいうと自分も含む)に対し、既存の社会構造(ルール)に適応させる(「する」ではなく「させる」)ことが、いかに個人の自由(あえて言うなら「発達」)を阻害しかねない。
ということを、改めて考えさせられたと同時に、自戒の思いを込めて、大切にしたい考え方であると感じた。
(また星野源の話かよ、と思われてしまうだろうが・・・)
以前、星野源のオールナイトニッポンにオードリー若林正恭がゲストで来た際、「周囲から「夜中に一人でバスケをするなんておかしい」と言う指摘をされる意味がわからない」という話題で盛り上がっていた。
自分の中で「やりたいこと」をしているだけなのに、「普通はそんなことしない」というツッコミ目線からそういう指摘を受けることに戸惑いがあるということである。
具体性のない【誰か】が作り上げた「【普通】はそんなことしない」という【社会】に適応しなければならない意味がわからず、〈自分〉が「〈やりたい〉からやる」という純粋な考えでしているだけだという。
このエピソードを聞いて、自分も【社会に適応する】ことが【したいこと】になってしまっているなと思い、自らの生き方が【枠にはめられてしまっている(=不自由に固定されてしまっている)】と改めて考えたところである。
(必ずしも枠にはめられることが悪いことではなく、むしろ余計なことを考えなくても済むという利点もある)
つまり、自らの不自由さに気づくことが、新たな自由を作る可能性となるのである。
もう少し言うと、またそこで作られた自由の中に生じる不自由さに気づくこと、その連続こそが、変わりゆく社会に「適応」する術なのであり、こうした思想を持ち続けることが新しい「自由」を作ることに繋がるのかもしれない。
しかし、一方で自分にとっての「自由(つまり、生き方)」を考えること、考え続けること、これが最も難しい課題なのだとも思う。
そういった意味では、障がい者の当事者の方は、こうした課題に向き合わざるを得ない(考えなければならない)場面が多くあるため、本当に尊敬するし、こうした話をもっと伺いたいと感じた。
あちこちオードリーとは、毎週水曜日11時6分から放送しているオードリーがホストを務めるトークバラエティであり、聞き役の若林の類稀なる好奇心からくるゲストへの興味=インタビュー力からゲストが思わず本音を言ってしまうことが魅力の番組だ。
6月30日の放送のゲストは星野源だったが、これがもう最高の放送だったので、記録として残したく、久しぶりにブログ更新を行うこととした。(プロデューサー佐久間さんは本当にいいものは「言葉にできない」と言っているが、本当にいいものを「本当にいいもの」ときちんと咀嚼したいので、あえて言語化させ、感情にとどまらせるのではなく、「理解」したいので、自分への整理のためにも駄文を連ねることとする。)
この番組の冒頭の視聴者からのお便りコーナーで「オードリーは最近褒められたことがあるか?」という質問がされた。その中で、歳を重ねるとあまり褒められることがなくなるという話題となり、その中で登場した星野源に対して同様の質問を若林がしたところ、やはり星野源もあまり褒められることは無くなってきたと言っていた。
さて、この放送の中で、個人的に最も興味深かった発言からまずは「仕事」というものはどういったものなのかということを考えたいと思う。
若林からのプロになれると思った瞬間は?という質問の中での星野源の以下の発言である。
今まではインストバンドとして活動していたが、趣味で歌ったデモテープを知人に聞かせたところ、ライブで歌う機会を与えられたとのこと。そこで歌ったところ前列のお客さんが泣いていて、そこで「もしかしたら人ができないこと自分ができるのかもしれない」と感じたとのこと。
その上で、「自分がするべき仕事って、自分が楽でやってんだけどすごい返りが多いというのが、自分に実は向いてる仕事なんだ」という発言があった。
確かに、以前何かのビジネス本で「仕事」には、以下の4つの分類があると見たことがある。
A:「やりたいこと」 ×「やらなくてはならない仕事」
B:「やりたくないこと」×「やらなくてはならない仕事」
C:「やりたいこと」 ×「やらなくてもいい仕事」
D:「やりたくないこと」×「やらなくてもいい仕事」
多くの人が「仕事」に対してネガティブな印象を持っているのは、きっとBのスタンスで仕事をしている人が多いからなのだろう。(もしかしたら職場の環境次第では、Dの環境になっていることもあるのかもしれないが、それは最悪だ。)
また、せっかくモチベーションを持って仕事をしていてもCであると認識をされてしまうことも仕事に対する意欲を下げる原因にもなるだろう。
これに対しては、Cの精度を高めて周りにAであるということを納得させることができればいいのだが、あまり多くの人はそこまでの熱意を持って仕事をしている人はいない。(それを見てくれる上司・先輩など周りの環境にもよるだろうが)
多くの人が日常生活の上で最も時間を費やす「仕事」については、Aのような仕事を見つけられることができれば、ネガティブではなく、ボジティブに無理なく楽しく続けることができるのである。
しかしながら、こうした活動の中で手応えを感じた星野源ではあったが、その後、歌手や俳優やエッセイストなど様々な「仕事」をする中で思い悩むことがあったとのこと。
多忙を極める中で、自分が想定している作品のクオリティに対して満足なものを作りきれない創作の過程で途中自分を殴りながら歌詞を書くなど、自分を追い込んで取り組んでいた結果、レコーディング終了直後にくも膜下出血で倒れたことがあった。
こうした経緯を経て、「生活をきちんとしよう」「何も考えない時間が必要だ」ということに気づき、「自分を追い込んで作るのではなく、楽しく作ること」に改めて気づいたとのこと。
この発言を聞き、自分自身の「生活の充足」が「仕事のクオリティの精度」を高め、また維持し続けるることにつながるのではないかと感じた。
先ほどのビジネス本の例を出せば、たまたま、Aのような「やりたいこと」と「やらなくてはならないこと」が合致する機会に恵まれることは、仕事をしていれば数回はある。その時に仕事に対してやりがいなどを感じることは確かにある。
だが、それが続かないのは、あくまでそれが「たまたま=非日常」なことであるためである。
「非日常」なことを継続的なものとするためには、それを「日常」にする必要がある。
つまり、「日常=生活」のクオリティを高めるよう努めることで、「仕事」のクオリティの向上にもつながるのではないかと考える。
人によって仕事の内容も異なるため、「仕事のクオリティ」が上がるとも言い切れないことはあるのかもしれないが、生活基盤が安定することで、少なくとも「仕事に対するモチベーション(のクオリティ)」は上がるのは言い切れる。
とはいえ、全てが全てAのような仕事ばかりではないし、Aと思って取り組んでいてもBのような「やりたくはないけどやらなくてはならない」仕事も多くある。
オープニングでの「歳を重ねるとあまり褒められなくなる」という話題に戻るが、褒められることが少なくなると、自分が「必要とされているのか」ということが不安になることがある。
目の前に仕事に対して、自分が何をどう必要とされているかわからないにもかかわらず、取り組まなくてはならないという環境こそが義務感の押し付けであり、Bのような仕事である。
しかしながら、褒められたり認められることで「やりたい」と思いに改めて気付かされたり、新たな価値観に気づくことができることとなり、「やらなくてはならない」という義務感も薄らぐことはよくあることだ。
つまり、「仕事」を安定的に続けるためのスパイスとしては【褒められることによる「必要性」の定期的な確認(または承認)】が必要不可欠なのである。(これは「仕事」ではなく、家族間における「生活」に置き換えてもそう言える)
最後、星野源が若林のしくじり先生での立ち回りを絶賛していた。
通常、先生役の芸能人は教科書を読みながら(カンペを読みながら)講義をすることが多いのだが、若林は内容を咀嚼し、自分の言葉に置き換えていたので、教科書を見ずに前をむきながら話をしていたという指摘をしていた。
それに対し、若林はまさにそこに意識をしていたと言い、「誰にもわかられなくてもいい」というマインドながらも自分の芯を持ってこの講義をしたところ、星野源はそこに気づいてくれ、すぐにLINEがきて、「わかってくれてる!」と喜んだ。
その上で、若林の最大の理解者である星野源は最後に若林に対して、最高の褒め言葉を送った。
日本テレビ界の「希望」だと思うんです。
これからも悩み苦しみながら、また楽しみ喜びながら輝き続ける彼らに「希望」を抱きながら、(前回更新の10年前では考えられなかった)妻と子供2人がいる「いまの生活」では今晩のオールナイトニッポンを生で聞くことはできないので、後日タイムフリーのradikoで聞くことを楽しみに寝ます。