リハビリの夜/熊谷晋一郎 | コントリーの反省ブログ

リハビリの夜/熊谷晋一郎

この本を読むきっかけは、9月21日放送の「星野源のオールナイトニッポン(ゲスト:荻上チキ)」でこの本が紹介されており、自分は福祉関係に従事している仕事柄、障害者の当事者への理解を深めたいことから手に取ったことである。

 

著者は自身が脳性マヒであり、肢体が自由に動かせず歩行ができない方であるため、この本から当事者としての困難などの理解を深めることができる一方、読み進めていくにつれ、「不自由さ」の中にある「自由」というものを教えていただくことができた。

 

自分は以前より漠然と「不器用な人間の方が新しいルールを考えることができるのではないか」と考えていた。

(自称)器用な人というのは既存のルールに適応できてしまうため、不自由さを感じることがなく、現状に満足することができるため、わざわざ新しいルールを考える必要がないのだ!

と、なんの根拠もなく、自分が不器用であることの言い訳としていた勝手な考えである。

 

この本を読んで、その漠然とした考えに後ろ盾を与えて頂いたような気持ちとなった。

 

第6章「隙間に「自由」が宿る」内に「「つながれなさ」はつながりの契機」という項目がある。

この項目に至るまでに、脳性マヒの当事者だからこそ、様々な面で不自由さがあるからこと、その人でないとつながれない「つながり方がある」ということが書かれている。

誰しもが、「つながれなさ」を持っているからこそ、他の人とつながるための言葉を持ち、外部との対話などを通じて相手を理解するものであり、「つながれていない」状態が、未発達や不適応という消極的な意味合いにとどまらない。という内容が書かれている。

その項目では、最後に「より適応していくことだけを「発達」とみなす従来の考え方には、どこか重大な落とし穴があるような気がしてならない」と締めている。

 

これは、なにも脳性マヒの方だからということでもなく、当然障がい者の方だからという限られた対象のことではない。誰にでも当てはまることなのだ。

 

周囲の関わりのある人(大枠でいうと自分も含む)に対し、既存の社会構造(ルール)に適応させる(「する」ではなく「させる」)ことが、いかに個人の自由(あえて言うなら「発達」)を阻害しかねない。

ということを、改めて考えさせられたと同時に、自戒の思いを込めて、大切にしたい考え方であると感じた。

 

(また星野源の話かよ、と思われてしまうだろうが・・・)

以前、星野源のオールナイトニッポンにオードリー若林正恭がゲストで来た際、「周囲から「夜中に一人でバスケをするなんておかしい」と言う指摘をされる意味がわからない」という話題で盛り上がっていた。

自分の中で「やりたいこと」をしているだけなのに、「普通はそんなことしない」というツッコミ目線からそういう指摘を受けることに戸惑いがあるということである。

具体性のない【誰か】が作り上げた「【普通】はそんなことしない」という【社会】に適応しなければならない意味がわからず、〈自分〉が「〈やりたい〉からやる」という純粋な考えでしているだけだという。

このエピソードを聞いて、自分も【社会に適応する】ことが【したいこと】になってしまっているなと思い、自らの生き方が【枠にはめられてしまっている(=不自由に固定されてしまっている)】と改めて考えたところである。

(必ずしも枠にはめられることが悪いことではなく、むしろ余計なことを考えなくても済むという利点もある)

 

つまり、自らの不自由さに気づくことが、新たな自由を作る可能性となるのである。

もう少し言うと、またそこで作られた自由の中に生じる不自由さに気づくこと、その連続こそが、変わりゆく社会に「適応」する術なのであり、こうした思想を持ち続けることが新しい「自由」を作ることに繋がるのかもしれない。

 

しかし、一方で自分にとっての「自由(つまり、生き方)」を考えること、考え続けること、これが最も難しい課題なのだとも思う。

そういった意味では、障がい者の当事者の方は、こうした課題に向き合わざるを得ない(考えなければならない)場面が多くあるため、本当に尊敬するし、こうした話をもっと伺いたいと感じた。