小島慶子が語る日常からの脱ネタ理論
現在、メディアの進歩によりブログやTwitterなどで誰しもが簡単に言論を発信できるようになった。かく言う私も、こうしたブログという形で何か感じた事を発言している。このブログでは、主にテレビ番組や芸能人について感じた事を“ネタ”として扱っているものだが、Twitterでは、本当にどうでもいいような日常で感じた事を“ネタ”として発言している。多くの人がブログやTwitterなどのSNSを利用して自分たちの日常を“ネタ”にしながら、不特定多数の何者かに向けて発言している。ネット上には、多くの人の「日常の様子」が“ネタ”として溢れているのである。しかしながら、こうして扱われる“ネタの日常”は本来の日常と乖離しているものではないのか、と思うことがある。
「人間は言葉と出会ったときから、思想的である。」とは、寺山修司の遺した文言ではあるが、自分の考えていることは時として、言葉に邪魔される事がある。本来の感じていることを、言葉というパッケージにしようとしたときにどうしても窮屈に感じる事がある。だが、発言をする以上どうしても思想をそのパッケージに押し込まなくてはならない。そしてまた、そのパッケージに自分の思想を押し込む事で、元の思想自体が若干揺らいできてしまう、ということがよくある。特にそれを“ネタ”として扱おうとする時、そのパッケージも他人にわかりやすいようなパッケージにしたがる。また、パッケージ化させる際に、どうしても「オチ」をつけなくてはならない。つけなくてはならないというわけではないが、よりよいパッケージとして提示するためには、「オチ」をつけたほうがいいと思って、「無理矢理オチ」をつけようとしてしまう。自分の考えをわかりやすいベーシックなものに変換させようとしたとき、そこには本来のニュアンスが大きく変わってきてしまうのである。例えば、初めて異性の人とデートの約束を取り付けたとする。この異性のことはまだよくわからないし、とりあえずデートをしてみて相手の事を探ろうという状況である。しかしながら、この状況を“ネタ”として扱おうとしたときに、明確な答え(=オチ)を提示しなくてはならない。そのため、自分としてはまだ不明瞭な状況であるにもかかわらず、それなりの答えを出さなくてはならないのである。結果として、自分の考えていることとは違った発言をしてしまう。それが、周囲に知れ渡る事でその発言が事実となり、またそれが思想となる。正確に言えば、思想とならざるを得ないのである。
現在のテレビ番組は、バラエティ番組全盛期であり、また、トーク番組が主体のプログラムである。面白い話を出来る人がもてはやされる時代だからこそ、特にパッケージを面白いものにしなくてはならない。という強迫観念を感じる人も少なからずいるだろう。特に、ブログやTwitterを熱心に行っている人ほどそういった傾向に陥りかねないのではないか。しかしながら、それに疲れてしまう事もある。また、そうしたパッケージ化が蔓延することで、そもそも発言すらしたがらない人も増えてきている。「自分の日常にそんな“ネタ”なんてないよ。」と、「“ネタ”を作るのに疲れた」という大きく分けて二種類の人がいるのではないか。ここで重要なのが、パッケージ化されたデザインでないと他者を惹きつけることができないという危機感を勝手に感じることはないということである。パッケージ化させるのに苦労して、「じゃあもう他者を惹きつける必要なんてないんだ!」という、発言の放棄をしてはいけない。大事なのは、「パッケージ化されたデザインでなくても出荷できる“居場所”をつくること」だと私は思う。無理矢理面白い“ネタ”のような話を作る必要なんてなく、自然に考えた事をナチュラルに楽しみながら発言できる場所を作る事で、自分の思想と発言を一致させる事ができるようになる。こうした居場所を多くの人に提示させようとしているのが、TBSラジオのキラ☆キラなどで活躍しているラジオパーソナリティである小島慶子である。
小島慶子は、以前、雑誌QuickJapanのインタビューで「誰もが見られる事に過敏であるがゆえに、見られるに値する自分と、値しない自分はダメな自分はダメな自分って思っているのかもしれませんね。」続けて「でもそうではなくて、見られるに値しない自分はみんなが持っていて、かっこわるいから見せてないだけなんですよ。だから私もあなたと同じなんだと考えれば、世の中ってそんなに生きづらいわけではない。」と、語っている。つまり、みんなが「パッケージ化された人間」というわけではなく、「パッケージ化された側面」を持っているだけであるということだ。要するに、全てをさらけ出そうとするから、無理矢理ネタにしなくてはならないという強迫観念を感じてしまうだけであって、別にしゃべりたい事だけをしゃべればいいのである。これはとてもシンプルな事ではあるが、誰もが発言しやすくなった環境であるからこそ、それを見失いがちになってしまう。自分の発言に力を感じているからこそ、全てをネタにしなくてはならないという空間に自らを追い込んでしまうのである。小島慶子は、誰もが「見られる自分」でトータルコーディネートされているわけではない。ということをラジオで語っている。「見られる自分」も、「くだらない自分」も、「弱くて仕方ない自分」もあって、全部があって自分なんだよという考えである。しかし、それはとても難しい。なぜなら、自分の弱さを認めなくてはならないからである。自分の弱さを認めなくては、自分の全てを見える事が出来ない。ましてや、他人の弱さに共感する事もできないのである。
小島慶子は、自分の弱さと戦っている人であるからこそ、そういった居場所を大事だと思えるのである。そのため、パーソナリティを大事にしているキラ☆キラでは、リスナーからの日常のお便りをとても大事にしている。ネタになんかしなくても、面白い事は溢れているという事を思えば、もっと素直に日常を楽しめる事が出来る。パッケージされたものでなくても、面白いんだと言う価値観の提唱を行っているのが、キラ☆キラであり、小島慶子なのである。
「人間は言葉と出会ったときから、思想的である。」とは、寺山修司の遺した文言ではあるが、自分の考えていることは時として、言葉に邪魔される事がある。本来の感じていることを、言葉というパッケージにしようとしたときにどうしても窮屈に感じる事がある。だが、発言をする以上どうしても思想をそのパッケージに押し込まなくてはならない。そしてまた、そのパッケージに自分の思想を押し込む事で、元の思想自体が若干揺らいできてしまう、ということがよくある。特にそれを“ネタ”として扱おうとする時、そのパッケージも他人にわかりやすいようなパッケージにしたがる。また、パッケージ化させる際に、どうしても「オチ」をつけなくてはならない。つけなくてはならないというわけではないが、よりよいパッケージとして提示するためには、「オチ」をつけたほうがいいと思って、「無理矢理オチ」をつけようとしてしまう。自分の考えをわかりやすいベーシックなものに変換させようとしたとき、そこには本来のニュアンスが大きく変わってきてしまうのである。例えば、初めて異性の人とデートの約束を取り付けたとする。この異性のことはまだよくわからないし、とりあえずデートをしてみて相手の事を探ろうという状況である。しかしながら、この状況を“ネタ”として扱おうとしたときに、明確な答え(=オチ)を提示しなくてはならない。そのため、自分としてはまだ不明瞭な状況であるにもかかわらず、それなりの答えを出さなくてはならないのである。結果として、自分の考えていることとは違った発言をしてしまう。それが、周囲に知れ渡る事でその発言が事実となり、またそれが思想となる。正確に言えば、思想とならざるを得ないのである。
現在のテレビ番組は、バラエティ番組全盛期であり、また、トーク番組が主体のプログラムである。面白い話を出来る人がもてはやされる時代だからこそ、特にパッケージを面白いものにしなくてはならない。という強迫観念を感じる人も少なからずいるだろう。特に、ブログやTwitterを熱心に行っている人ほどそういった傾向に陥りかねないのではないか。しかしながら、それに疲れてしまう事もある。また、そうしたパッケージ化が蔓延することで、そもそも発言すらしたがらない人も増えてきている。「自分の日常にそんな“ネタ”なんてないよ。」と、「“ネタ”を作るのに疲れた」という大きく分けて二種類の人がいるのではないか。ここで重要なのが、パッケージ化されたデザインでないと他者を惹きつけることができないという危機感を勝手に感じることはないということである。パッケージ化させるのに苦労して、「じゃあもう他者を惹きつける必要なんてないんだ!」という、発言の放棄をしてはいけない。大事なのは、「パッケージ化されたデザインでなくても出荷できる“居場所”をつくること」だと私は思う。無理矢理面白い“ネタ”のような話を作る必要なんてなく、自然に考えた事をナチュラルに楽しみながら発言できる場所を作る事で、自分の思想と発言を一致させる事ができるようになる。こうした居場所を多くの人に提示させようとしているのが、TBSラジオのキラ☆キラなどで活躍しているラジオパーソナリティである小島慶子である。
小島慶子は、以前、雑誌QuickJapanのインタビューで「誰もが見られる事に過敏であるがゆえに、見られるに値する自分と、値しない自分はダメな自分はダメな自分って思っているのかもしれませんね。」続けて「でもそうではなくて、見られるに値しない自分はみんなが持っていて、かっこわるいから見せてないだけなんですよ。だから私もあなたと同じなんだと考えれば、世の中ってそんなに生きづらいわけではない。」と、語っている。つまり、みんなが「パッケージ化された人間」というわけではなく、「パッケージ化された側面」を持っているだけであるということだ。要するに、全てをさらけ出そうとするから、無理矢理ネタにしなくてはならないという強迫観念を感じてしまうだけであって、別にしゃべりたい事だけをしゃべればいいのである。これはとてもシンプルな事ではあるが、誰もが発言しやすくなった環境であるからこそ、それを見失いがちになってしまう。自分の発言に力を感じているからこそ、全てをネタにしなくてはならないという空間に自らを追い込んでしまうのである。小島慶子は、誰もが「見られる自分」でトータルコーディネートされているわけではない。ということをラジオで語っている。「見られる自分」も、「くだらない自分」も、「弱くて仕方ない自分」もあって、全部があって自分なんだよという考えである。しかし、それはとても難しい。なぜなら、自分の弱さを認めなくてはならないからである。自分の弱さを認めなくては、自分の全てを見える事が出来ない。ましてや、他人の弱さに共感する事もできないのである。
小島慶子は、自分の弱さと戦っている人であるからこそ、そういった居場所を大事だと思えるのである。そのため、パーソナリティを大事にしているキラ☆キラでは、リスナーからの日常のお便りをとても大事にしている。ネタになんかしなくても、面白い事は溢れているという事を思えば、もっと素直に日常を楽しめる事が出来る。パッケージされたものでなくても、面白いんだと言う価値観の提唱を行っているのが、キラ☆キラであり、小島慶子なのである。