「ゴリラ」はゴリラの皮を被っている空想の生き物だ。
ゴリラのそうしたイメージと現実の差異の大きな要因として挙げられるのが、なんといってもいかつい外見だろう。威厳のある黒い色彩で、さらにゴツいその様は仮に実際に握力が600kgもなくても力強く恐れ多い雰囲気を出している。しかしながら外見的にも似た生物であるチンパンジーのイメージはどうか。チンパンジーには、ゴリラのような凶暴性や恐怖感といった印象を与えない。同じ霊長類でありながら、ゴリラとチンパンジーイメージの違いは何かといえば、やはり外見のゴツさなのである。実際、先日ゴリラを見に動物園に行ったのだが、恐ろしい様子など一切なく、危機管理意識ゼロのただのジェームスブラウンであった。(気をつけなくてはならないのは、ジェームスブラウンがゴリラに似ている訳ではなく、動物園のゴリラがジェームスブラウンに似ているというところだ。)
つまり、ゴリラ自身はみなさんのイメージするような「ゴリラ像」を体現した者ではない。そして、動物園のゴリラを見ると「ゴリラ」からかけ離れた様子のゴリラがそこにはいないので、動物園に行く際には気をつけなければならない。動物園のゴリラには動物園のゴリラの振る舞いがあるということを忘れてはならない。つまり「ゴリラ」とは、外見のせいで本来のゴリラとして見られない、プラダを着た悪魔なのである。
「『明石家さんま』というコンテンツ」についての解説
明石家さんまの芸とは何か。それはズバリ「雑談」である。実は雑談をテレビというメディアで披露したのは、さんまが初めてなのである。笑っていいともでタモリとの雑談のコーナーが記憶に残っている方も多いだろう。(始まった頃のタイトルも「タモリ・さんまの雑談コーナー」といういかにもなものだった。)1984年に始まったあのコーナーがテレビのコンテンツとして初めて成立したものだった。その翌年、1985年には番組自体が雑談のみで構成される「さんまのまんま」が始まる。番組名の通り、明石家さんまをそのまんまコンテンツ化させると、あのようなゲストとの1対1の構図となるわけだ。他の出演番組でも基本的には「雑談」の要素が多く混じっている。「オレたちひょうきん族」でのさんまの最も印象的な場面は、ビートたけしとの私生活の暴露し合いだった。また、「恋のから騒ぎ」も1対大勢の女性という構図ではあったが、話のフリ方は常に1対1の雑談の構図であり、女性からのエピソードに対するさんまのリアクションで笑いを生んでいる。それは「踊るさんま御殿」でも同じことだ。そしてコントライブでも印象に残っていることといえば、やはり雑談なのである。実際にトークがメインのオープニングだけでも3時間中1時間使っていたし、コントという設定が始まっても、さんまが軸に笑いを生む場面の多くはジミーやショージなど出演者のエピソード紹介などの「雑談」であった。もちろん、他にもコント的なネタは多くあったのだが、やはり印象的なものは「さんまの雑談」だったのである。
先日、youtubeで上岡龍太郎がテレビというメディアがもたらした、芸人の在り方の変遷を語っている動画を見つけた。(http://www.youtube.com/watch?v=xJx5tnRgXBo)そこで上岡龍太郎は、さんまのことを「素人芸を極めたチャンピオン」と評価している。この動画での上岡龍太郎の言い分を要約すると、テレビは素人芸が面白いと言っている。テレビ登場以前、芸人の主戦場は舞台であった。しかし、テレビの登場以後、芸人の活躍の場所はテレビとなった。舞台は送り手と受け手との空気感の共有を以てして成立していたのだが、テレビではそれができない。テレビには洗練された芸など必要なく、新鮮でリアルで、さらにインパクトがあり誰でもわかるものでなくてはならない。しかしながら、インパクトのあるものは雑であり、飽きが来やすい。逆に言えば、それくらい維持し難い素人芸=テレビ芸を長年続けることは非常に難しいということである。雑談という素人芸を長年続けている明石家さんまはテレビというメディアに非常にマッチしているといえる。また、素人芸というのには「マネ」というのが存在しない独自のものでしかあり得ない。素人に師匠という存在はいない。そのため、盗むべき芸というものは素人芸にはあり得ないのである。一応さんまにも落語家の笑福亭松之助という師匠がいるが、さんまは落語でのデビューではなく形態模写によるものだった。(形態模写は高校生のときからやっていたものだと雑誌「本人」で語っていた。)要するに、さんまは芸を師匠から教わった訳ではなく、自らの芸を自らで高めて成功した芸人である。つまり、その人しかできない「独自の素人芸」というものを初めて成立させた芸人が明石家さんまなのである。
「独自の素人芸」を言い換えれば、「コンテンツ」である。明石家さんまはその人自体がコンテンツなのである。さんまはドラマに出演しても関西弁の台詞であり、ドラマというジャンルでも明石家さんまなのだ。最初の舞台の件でも触れたが、どのメディアに登場しても明石家さんまという存在は、やはり明石家さんまというコンテンツなのである。独自のコンテンツなどは、他のコンテンツとの優劣を比べるべきものではないのかもしれない。しかしながら、明石家さんまというコンテンツは、芸人界において今でも他を圧倒する勢いとパワーを兼ね備えている。その理由の一つとして、明石家さんまは自伝などで自分の思想を表現したりしないということが挙げられるだろう。明石家さんまの生き方自体がコンテンツなのだから、杉本貴文(本名)の考えなどは単なる邪魔でしかないと考えているのかのようだ。人生を24時間テレビ配信されてしまっているという映画『トゥルーマンショー』を地で生きる明石家さんま。(しかも上質なコンテンツとして。)コンテンツとして一生を捧げる芸人魂は、やはり彼が今の日本で一番だろう。
余談ではあるが、今回のコントライブで最も笑ったのが村上ショージの「どうも、マグネシウム小池です。」会場全体の一瞬の戸惑いからの爆発的な笑いがたまんなかったです。テレビ芸だとしてもなんだとしても、結局たくさんの人が腹かかえて笑えたらそれでいいですよね。
オリラジ中田敦彦の操縦士としての過剰な責任感
その「オリラジの笑い」の形成を追求しようとしたのが、中田敦彦だ。2010年に発表したDVD「我」で、オリラジはブラックマヨネーズと自身の笑いについて赤裸裸に語り合っている。(中田はブラマヨを紹介する際、最高の漫才師と呼んでいる)そのDVDの中で中田は「自分たちの漫才はブラマヨさんたちみたいな色がない」と悩みを打ち明けていた。中田はこう続けた。「いまやっている漫才というのは、誰がやっても成立する漫才だ。ブラマヨさんは自分たちにしかできない漫才をしているから面白い」と。中田は自身の漫才を未完成だと感じており、その理由が「自分たちにしかできない笑い(=オリラジの笑い)」が見つけられていないからだと言っている。このDVDではその後、ブラマヨがどうやって「ブラマヨの笑い」を形成させていったかという話になる。
ブラックマヨネーズの漫才のネタを書く吉田敬は、M-1で優勝する以前、自分たちの漫才のスタイルに限界を感じていたという。それは客観的に見て決して笑えない漫才ではなかったし、実際に漫才の賞ももらっていたものだという。しかしながら、これは「自分たちの漫才」ではないと感じていた。その理由は、『自分たちの漫才がリアルではない』からだと吉田は分析した。漫才のネタよりもラジオで話している掛け合いの方がよっぽど面白い。それは、漫才の『ネタの設定』があくまで『設定』であり、本当に本心から言っている言葉ではない。一方ラジオは『自分の言葉』を自分が面白いと思って使っているからリアルなんだと。自分が本当に面白いと感じているのは作り上げた漫才ではなく、ラジオでの小杉との掛け合いだ。と、自身の作り上げてきたいままでの『漫才』を全否定したのである。そのことについて、吉田は「ボケとしては恥ずかしいこと」と前置きしておきながらも、「小杉の使う小杉独特のツッコミが自分の考えるネタよりも面白いということを認めることができたから」と語っている。そして、今までの漫才の作り方を全く変えたところ「自分たちが一番面白いと思える漫才」が完成し、その結果M-1で優勝することが出来た。こうして「ブラマヨの笑い」が完成したのだそうだ。その話を中田は自分なりの答えを模索するように熱心に聞いていた。一方、相方の藤森は自分のサラダと間違えて先輩の小杉のサラダに手を付けて怒られてしまうのであった。
では、「オリラジの笑い」とはなにかを筆者なりに考えてみた。私の考えるオリラジの笑いは、「藤森の人間性」だと考える。藤森といえば一般的に「チャラいキャラ」として認知されている。藤森ほどチャラい芸能人は他にいないのではないか。実際に先日のしゃべくり007にオリラジが出演した際も、「藤森のチャラさ」だけで1時間成立してしまった。
先述のようにオリラジは『武勇伝ネタ』でデビュー後すぐにブレイクしたが、このネタをもし中田と別の人間がしていたとしよう。おそらくすぐにブレイクすることはなかったのではないか。それは、武勇伝ネタの最も重要なファクターである「ポップさ」が一気に失われるからである。オリラジがバラエティ番組から姿を消し始め、漫才に重点的に力を入れ始めた頃、一気に「オリラジらしさ」が失われたように思う。それは、漫才を形式化しようとする中田の自己顕示欲が表に出て来てしまったからである。デビュー当時、オリラジの武器であった『若さ』や『勢い』、そして『ポップさ』を利用して中田は『武勇伝ネタ』を作り上げた。しかしながら、『武勇伝ネタ』でブレイクした自分たちのスタイルはバラエティで結果を残せなかった。そのため、別のスタイルを模索しないといけないというので、中田は漫才というフィールドを選択したのだろう。完璧主義の中田にとって「教科書通りの漫才」を作ることは容易だ。しかしながら、『武勇伝ネタ』で見せたような「自分たちらしさ」を失う格好となった。教科書通りの漫才に藤森は不要である。むしろ、藤森の人間性からして教科書通りの漫才は不適当である。それこそ、別の相方とするべきであった。しかしながらオリエンタルラジオとして活動する以上、中田と藤森は一心同体である。F-1で例えるなら、武勇伝ネタでは藤森のエンジンを使って操縦していた中田だが、バラエティから遠ざかって以降、操縦士である中田は、藤森というエンジンそのものをカスタマイズしようとしたのである。
最近、「藤森のチャラさは異常だ」という弄られ方を他の芸人がするのをよく見かける。(先述の『しゃべくり~』然り、『行列のできる~』然り)芸人が本当にブレイクするときは、他の芸人が面白いと認めるようになったときだと思う。さまぁ~ずがブレイクしはじめたきっかけは、「三村ツッコミ」にナインティナインが注目し始めた頃であり、くりぃむしちゅ~がブレイクしたきっかけは、有田が萩本欽一の舞台に出演した頃だ。(何を以てして『ブレイクのきっかけ』と言うのかは非常に曖昧だが)つまり、コンビがブレイクする時は、コンビ自らがキャラクターを作っていくのではなく、周りがそのコンビが面白いように見えるキャラクターを作り上げたとき(作り上げようとしているとき)である。オリエンタルラジオはいまその時にいる。いまこそ「オリラジの笑い」が成立する過渡期なのである。この過渡期をどのように過ごすかは操縦士である中田にかかっている。オリラジの操縦士として、現在の周りからのオリラジへの視線をどのように受け止めるか。そして、それをどのように昇華させるかは中田が決めることである。
中田敦彦が「自分たちの色を探す」ということを止め、「自分たちの色を楽しむ」こと、それはつまり「藤森慎吾の人間性を楽しむこと」をし始めたとき、我々は「オリエンタルラジオの笑い」を見られる時がくるのだろう。
それはそうと、藤森さんは人として面白いですね。あそこまでのお調子者はきっとどこの世界にいっても大成するでしょう。藤森さんには「チャラさ」を維持しつつ、でも安っぽくならないでほしいな。中田さんのためにも。難しい案配だけんど、カラテカの入江んとこまで行くと嫌悪感が出てしまうもんで。
ももいろクローバーというコントキャラクター
最近、AKB48の活躍がめざましい。紅白に2年連続出場したり、CDを出せばミリオンセラーを記録するといったことはみなさんもご存知だろう。また、先日から日本テレビ系列で木曜19時から「なるほど!ハイスクール」というゴールデンでのAKB48がメインのバラエティ番組も始まり、AKB48は『アイドル界』という枠から脱皮して、芸能界の一大勢力となった。(「なった」と完了系で表現してももういいだろう。)
AKB48は芸能界の一端として存在感を表したが、そうしたAKB48の活動に扇動されるように近年、数多くのアイドルグループが誕生している。いわゆる「女子アイドル戦国時代」である。「モーニング娘。」はいまだに健在であり、「スマイレージ」や「℃-ute」といったアップフロント系のアイドルは、流れの速いアイドル界の中でも揺るぎない安定感が漂っている。また、最大手の音楽プロダクションであるエーベックスも「東京女子流」というアイドルグループをプロデュースし始めている。その他にも芸能プロダクションがアイドルの発掘・育成に力を入れているようだ。そんな中、今回取り上げるアイドルは、スターダストプロモーションから誕生した「ももいろクローバー」である。
ももいろクローバーはよく「他のアイドルとは違う」と称されている。今年の2月にゲストとして登場したしゃべくり007でもチュートリアルの徳井が「ももいろクローバーっていうとんでもないアイドルがいるという噂を聞いたことがある」と言っていた。実際、この番組でのももクロの振る舞いは非常にアイドルらしからぬものであった。というのも、ももクロのメンバーの悩みをしゃべくりメンバーが解決する「お悩み007」というコーナーで、ももクロのメンバーである有安の「誰も話を聞いてくれない」という悩みでのことだ。他のメンバー曰く、有安の話があまりに長くてまとまりがないとのこと。どう長いのかをしゃべくりメンバーに紹介するために、有安が「お正月」をテーマに話しだしたのだが、その話始めが「まず~朝起きたんですよぉ~」であった。そこから初詣の話をし始めるのだが、最初にバスに乗ったときの話をしたりとなかなか話のオチにたどり着く様子が見えない。そんな中、しゃべくりメンバーが有安の話に飽きる表情をし出し、そこから変顔をするという流れが生まれた。通常ならばしゃべくりメンバーの変顔だけで終わるのだろうが、なんとももクロメンバーも変顔をしだしたのである。その表情というのが、かわいい系の変顔ではなく、本気で笑わせにいっている変顔なのである。アイドルらしからぬその表情がとても面白くお客さんだけでなくしゃべくりメンバーも笑っていた。ここで取り上げたいことは、ももクロがお笑いに長けているアイドルグループだということではない。(もっともクイックジャパンvol95でのインタビューで「自分たちは芸人みたいなアイドルになりたい」と発言しているし、しゃべくりでのこの流れも本番中にももクロのメンバー自身が流れを読んでやりたいとと申し出たものらしく、笑いに長けているということは事実であるが。)私がこの番組で最も注目したいことは、有安の長話で見せる変顔におけるメンバーの変顔の種類が全員違っていたという点である。つまり、アイドルグループというまとまった集団でありながら、とてもわかりやすい形でメンバーそれぞれの個性を表現している集団が「ももいろクローバー」なのである。これは他のアイドルグループとは明確に違っている点である。
タイトルにもあるように、私はももクロを「コントのキャラクターである」のようだと捉えている。先述のように笑いを生み出せるということもあるが、メンバーそれぞれの個性が際立っており、キャラクターとしての役割がわかりやすく明確であるからだ。ももクロは、いま【アイドル】という設定で【ももいろクローバー】というコントキャラクターを演じているように私は感じる。いまのももクロのメンバーで最も面白いことを仕掛けるためには、どのような設定をしたら良いのかと考えたとき、【アイドル】という設定だったのであろう。ここで重要なのは「最も面白いことを仕掛けるために」というコンセプトである。普通アイドルの人気を出そうと考えたときに、「売れるためにはどうしたら良いか」や、「かわいいと思ってもらうためには……」と戦略を練るだろう。しかしながら、ももクロの場合は最初からコンセプトが違うのである。ももクロに求められているのは「面白さ」である。この場合の面白さは「笑い」に限ったことではない。「奇抜さ」であったり、「意表を突く」であったりもする。「面白さ」を「サプライズ」と言い換えてもいいだろう。はなからアイドルらしい物語を作ろうとはしていないのである。それはまるでコントの作り方と似ているのではないだろうか。どのコントもまず設定を考える。そしてその設定では絶対にあり得ないことをするキャラクターがいて、その設定の現実とコントでの行動とのギャップによって笑いが生まれる。「ごっつええ感じ」で松本人志が演じたキャシー塚本という料理家のキャラを思い出してもらえばわかりやすいだろう。料理番組で食材を投げたり冷蔵庫をなぎ倒したりというのは現実ではあり得ないが、現実の中に非現実的な要素を加えることで、そのズレによって「面白さ」が生まれる。
AKB48の活躍によって一挙にアイドルという存在が市民権を得た。「アイドル好き=オタク」という認識も今は昔である。いままでは「アイドル」という設定自体が非現実な空間を生み出していたので、コントキャラクターは作り出しにくい状態であった。しかしながら、アイドルが身近な存在となり、アイドルを受け入れる体勢が世間にできたことによってアイドル界の常識が生まれた。その常識を真っ先に意図的に破り始めるために誕生したのがももクロであり、またバラエティ番組でアイドルらしからぬ変顔をするようなメンバーの個性を活かせるのも、「ももいろクローバー」というコントキャラクターがあるからである。
ちなみに、副リーダーのクールビューティー早見あかりが脱退したことでももクロがアイドルっぽくなるんじゃないかと心配していますが、その心配はおそらく無駄なことになるでしょうと書きながら、もう一つちなみに私自身の好みは有安ですが、リーダーも好きです。
モノマネの青木隆治について
現在のモノマネ番組における、「モノマネ」の存在意義は「笑い」にあると思う。
モノマネ番組における笑いの見せ方には、様々な種類が存在する。
例えば、フジテレビのモノマネ番組は「楽しげな宴会芸のノリ」で笑いを生み出しているし、日本テレビのモノマネ番組は「モノマネ芸人によるネタ」によって笑いを作っているという違いがある。
かつて90年代前半には、コロッケはフジテレビのモノマネ王座に出演していた。しかしながら、フジテレビのモノマネ番組の在り方が、徐々に「宴会芸気質」になってきたのに伴って、コロッケは日本テレビのモノマネ番組に立ち上げ段階から参加していた。これは、コロッケの「ネタ指向」による方向性の違いだろう。現在のフジテレビのモノマネ番組と日本テレビのモノマネ番組の出演者を見比べてみると、いわゆる「モノマネ芸人」の枠が日本テレビのほうがはるかに多い。フジテレビの出演者の中の芸人は、ダチョウ倶楽部をはじめモノマネを本業にしている芸人ではない。モノマネ芸人が自分のネタを存分に発揮できるのが日本テレビのモノマネ番組であり、最初のコンセプトが「モノマネ芸人による、モノマネ芸人のための、モノマネ番組」なのである。
そんな日本テレビのモノマネ番組に、最近青木隆治というモノマネタレントが出演するようになった。
彼の持ち味といえば、なんといっても歌唱力だろう。彼が得意とするモノマネといえば、美空ひばりをはじめ松山千春やGReeeeNなど歌手が多い。男性のなのに女性歌手の曲を歌えてしまう声域の広さが青木隆治のモノマネタレントとしてのアピールポイントなのだろう。しかしながら、私は彼がモノマネタレントとしてモノマネ番組に出演するのにとても違和感を感じている。なぜならそれは最初に言ったように、モノマネ番組の存在意義が「笑い」にあると思うからである。
彼が出演している日本テレビのモノマネ番組が先日放送されていた。それを見る限り、番組の構成が彼の使い方を迷っているほうにしか思えないのである。番組の最初のコーナーに「青木隆治オンステージ」といって一人でモノマネをしていた。そこにモノマネ番組としての「笑い」の要素は一切なく、まさに青木隆治オンステージというコーナー名の通り、青木隆治の歌唱力を存分に味わえる内容となっていた。そのコーナーの後、数組のモノマネが披露されたのち、再び青木隆治の出番があった。その時は、青木隆治とコロッケと原口あきまさを並べ「モノマネ三銃士」として紹介し、関根勤などのモノマネ審査員にネタフリをしてもらって、彼らがそのモノマネを披露するというものだった。ここでの青木隆治は確実に浮いていた。コロッケ・原口あきまさは確実にモノマネ芸人として、モノマネをすることによって笑いを生んでいた。見ている人も
「モノマネ=おかしくて笑うもの」という認識にあるので、二人のモノマネに対して素直に「笑い」というリアクションを起こすことができる。モノマネの見方として、もはや条件反射的にそういった関係性ができあがっている。しかしながら、青木隆治はモノマネ芸人ではない。青木隆治はモノマネという武器を持っているが、笑いを生むという効果は果たせないのである。そのため、いくら得意なモノマネをしたところで、「モノマネ=笑い」という条件反射のリアクションが起こせないので、会場全体が青木隆治に対して気を使っているような雰囲気になっていた。コロッケ・原口あきまさという芸人と並列に青木隆治を並べてしまったことで、青木隆治は明らかに浮いてしまったのである。見ていてツラくなるほどに。
何度も言うが青木隆治がモノマネタレントとしての魅力は、「歌唱力」なのである。それは現在放送されているモノマネ番組に求められている「笑い」というものとはかけ離れている。一言に「モノマネ」と言っても見方の違いというのは180度変わってくる。青木隆治はモノマネ番組としては浮いてしまうが、最初から歌唱力を見せつけるというコンセプトの元に作られた青木隆治単独のステージでは、彼の魅力が最大限に味わうことができるだろう。
同じことがAV女優にも言える。おねだりマスカットDXという番組には有名AV女優が出演するバラエティ番組である。この番組によってAVの中ではわからない彼女たちの人間性が見えることで人気があるが、逆に彼女たちの人間性を知ってしまうことで、本業であるAV内での彼女たちの「偽りの面」が浮き彫りになってしまうことはないだろうか。
高倉健はテレビドラマやバラエティ番組に出ないことで、「高倉健性」を保ってきた。青木隆治の目指す先は、モノマネ界の高倉健ではないかと私は思う。
もっとも、個人的な意見を言ってしまえば青木隆治はただの歌のうまい人でモノマネタレントとは思えないのだが。