コントリーの反省ブログ -2ページ目

アメトーーク芸人ドラフト会議から見るフットボールアワー後藤の汎用性について

 8月4日のアメトーークでは、「芸人ドラフト会議」という企画が放送された。この企画は、出場者がもしもトークを主とした冠番組を持つならどういったメンバーをキャスティングするのかを楽しむもので、今回は千原ジュニア・バナナマン設楽統・フットボールアワー後藤輝基・有吉弘行の4人が出場していた。この企画で一番注目すべき点は、なんといっても“出場者がどういった番組構成をしたいのか”というのが見えるところであろう。この企画を通して、普段芸人が何を考えながら番組に出演しているのかが見え隠れするところがとても面白い。そして、見どころといえば、やはり最初に指名するドラフト一位に誰を指名するかというところであろう。
 まず、今回の放送された芸人ドラフト会議での各出場者が指名した一位を挙げていくと、[千原ジュニア/フットボールアワー後藤][設楽統/ブラックマヨネーズ小杉][後藤輝基/次長課長河本][有吉弘行/フットボールアワー後藤]となる。千原ジュニアと有吉がフットボールアワー後藤で重複したのである。結局、抽選の末有吉が後藤を獲得したが、その獲得した際の後藤を評したコメントが非常に気になるものだったので、文字起こししておこう。「お笑い界で最も汗をかいてるツッコミですよ。まあもう、攻守ともに。どんな無茶ぶりだろうが対応しますし。一生懸命汗をかくという意味では一番働いている人間だと思いますから。」ここでのコメントで個人的に気になる点は、「攻守ともに」という言葉である。ツッコミである後藤を評価するのに「攻守ともに」とは一体どういった意味であろうか。次の章では、この言葉について考察していこう。
 通常、笑いを生むとされているのが「ボケ」の役割である。ボケが笑いの発生源として機能し、そしてツッコミが拡声器として笑いを大きくさせるというのが、一般的な役割分担である。しかしながら、近年のバラエティ番組(特にトーク番組)ではこの役割分担はもはや形骸化されている。コンビ間でのボケやツッコミという役割など、番組のMCが一人いればその人が進行役となるのでツッコミを兼ねなければならない状況になる。すなわち、番組内ではコンビ間で決められた役割など関係のないものとされるのである。つまり、バラエティ番組では、ツッコミであっても笑いの発生源としての機能を求められるということである。しかしながら、普段はツッコミという役割をしている人間が急にボケのスタイルをとり始めると、その人の人間像が崩れてしまい、受け手の対応が混乱する。笑いの発生源としての役割を求められているのだが、ツッコミという役割を汲んだ形で笑いを生まなくてはならないのである。こうした形をとりながら、現在最も活躍しているのが、フットボールアワーの後藤である。
 後藤のツッコミスタイルを検証していくと、最初はオーソドックスなツッコミをして自分のスタンスを示しておいて、その後ボケのような言葉を乗せる。例を挙げれば、「ちょっと急になんなんこれ!温度差で風邪引くわ。」といった案配である。後藤の注目すべき点は、後半部分の後のせツッコミのボキャブラリーが豊富かつ秀逸な点である。ただのツッコミだけであれば、そこで笑いを大きくする事はできる。しかしながら、後藤はそこに別の視点から“後藤なりの言葉”を乗せるため、新たな笑いを生む事ができる。後藤なりの言葉を付け足す事で、一気にその場を支配する事ができる。一度こうした流れを作る事で、次から後藤のツッコミに注目するようになる。そうなれば、後藤自身がツッコミをしやすい仕組みを作り上げる事ができるようになるのである。番組MCとしては、笑いの発生・拡散・そして別の視点の提示。と、番組の流れ作りという負担を分散する事が出来る。それにより、番組の進行に専念することができるのである。フットボールアワー後藤がMCに信頼される存在になった事で、番組の核ができやすくなった。番組の核さえ出来上がれば、あとは誰がどのように騒いでも番組はおおよそ成立する。むしろ、他の人が騒げば騒ぐほど、番組に広がりがうまれるようになる。例を挙げれば、TBS系列の「クイズ☆タレント名鑑」のような、笑いどころが随所にあるような番組構成をすることができるのである。無論、フットボールアワー後藤がいるだけで、そのような番組が完成するかと言えば、そうではないが、その期待を持たせるのがフットボールアワーの後藤なのである。また、後藤一人が現在はその期待をさせるような存在になったということである。それを評価したの今回の芸人ドラフトで、有吉であり、千原ジュニアということがわかったのだ。

 ちなみに、私が個人的に最も驚いたのが設楽統がアシスタントとして指名したトリンドル怜奈だ。その理由が、騒いでいる芸人たちをトリンドルが冷めた目で見ているの状況を作りたいというものだったのが、設楽らしい視点だなと思って非常に興味深かった。

ナインティナインはこれからも「孤独な闘い」を勝ち続ける

 先日、FNS27時間テレビ「めちゃ2デジッてるッ!笑顔になれなきゃテレビじゃないじゃ~ん!!」が放映された。この番組は、アナログからデジタルに完全以降する瞬間を放映する記念すべき番組であり、また7年ぶりにナインティナインとSMAPの中居正広が総合司会を務めるという事で放送前からかなりの話題を集めた番組である。この番組の一番の目玉企画と言えば、やはり矢部浩之の100キロマラソンだろう。実際に最高瞬間視聴率を記録したのも矢部が100キロマラソンを完走した瞬間(29.8%)だったのだから、多くの人がマラソンに注目していたということだ。私自身は今回の矢部のマラソンで「ナインティナインのコンビ愛」に思わず涙を流してしまった人のうちの一人である。なぜ、涙を流してしまったのか。それは、ナインティナインが常に孤独な闘いをし続けて来たコンビであり、それを二人が支え合う事で勝ち続けて来たコンビだと思うからだ。そのため、普段テレビやラジオでは見せない「コンビ愛」を明確に映し出されたため、思わず感動してしまったのである。では、ナインティナインがしてきた「孤独な闘い」とは一体どういうことであろうか。
 1990年にデビューしたナインティナインは、翌年から吉本印天然素材のメンバーに抜擢され人気を獲得し、93年には現在のめちゃイケの前身番組である「とぶくすり」でメインをはり、翌年から「ぐるぐるナインティナイン」など全国ネットの番組のレギュラーを次々と増やしていくなど、デビュー直後から常に第一線で活躍してきた。いわゆる“下積み”が皆無の珍しい芸人なのである。一見華やかな芸能生活かと思われるが、下積みがないということはそれだけ周りからのやっかみが強くなるという事である。特に当時の吉本興業というのは、大阪を拠点にしており、東京にあまり芸人がいない時代である。デビュー間もなくしてすぐに東京進出したナインティナインには、仲間と呼べる芸人がほとんどいなかった。当初メンバーとして加入していた天然素材も、全国ネットでのレギュラーが増えるうちに脱退する。それにより元メンバーだった雨上がり決死隊やFUJIWARAからの嫉妬の想いも余程強かったことだろう。周りに頼れる人がいない状況なのにも関わらず、同士だと思って一緒に活動して来たメンバーから見放されるというのはものすごくツラいことだ。それにも関わらず、仕事量や周りからの期待度はどんどん上がっていく。誰にも頼れないのに不安感ばかり募る状況というのは、とても孤独である。それにも関わらず、ナインティナインは戦い続け、そして勝ち続けて来た。このときナインティナインは、コンビ同士お互いを頼っていたのだろう。周りは頼れないのだから自分たちを頼るしかない。このときに他のコンビよりも相当固い絆が出来上がったのだろう。その固い絆によって、その後に繋がる太い芸能活動のレールが出来上がった。このレールが完成してからも、ナインティナインはレールに甘んじる事なく、特にめちゃイケで見せるような勝ち続ける姿勢をとり続けた。
 しかし、勝ち続けるのにも限界が来てしまった。それが、昨年の岡村隆史の体調不良による芸能活動の一時休止である。岡村隆史は周りに頼らずに戦い続けたため、あまりにも負荷がかかってしまい、その反動が昨年きてしまった。(岡村自身が公言しているが、)心の病を煩ってしまったということは、余程根詰めて戦っていたのだろう。その負荷の原因を当時の岡村の活動を振り返りながら推測すると、その前年からレギュラーの番組以外の日も主演を務めた映画「てぃだかんかん」の撮影を行っていたり、まさに芸能活動を休止する直前には「一人芝居」の舞台をやろうとしていた。ここから推測するに、岡村自身は今後の芸能活動を相方の矢部に頼るのではなく、自分自身で独立しようと考えたのだろう。しかしながら、それができるだけの(心の)体力がなかったため、休止する羽目になってしまったのである。
 岡村隆史復帰後のナインティナインは非常に仲がいい。10年以上ナインティナインのオールナイトニッポンのリスナーである私だが、岡村復帰以降はお互いがお互いを楽しんでいるように思えるのだ。おそらくこの番組のリスナーの方であれば多くの方がそう感じていると思う。それだけ、わかりやすくナインティナインは仲がいいのである。先ほど、ナインティナインは東京進出の際に誰にも頼れなかったためにコンビ間で固い絆が生まれたと書いたが、現在のコンビ愛はそういった類いのものではないと私は思う。現在のナインティナインは、お互いがお互いの事を積極的に信じているのである。積極的に信じるとはどういうことか。元々、岡村と矢部は同じ高校のサッカー部の先輩と後輩という関係性である。そのため、芸人の道に誘ったのも矢部からだというのだから、矢部は岡村のことを多いに信頼していた。岡村側からしたら、自らの責任感から自分がひっぱっていかないといけないという使命感も当然あっただろう。そのため、コンビのパワーバランスとしては、岡村の方が上であり矢部はそれを支えるという関係性であった。岡村は非常に真面目な性格であったため、そのパワーバランスを崩さずに、「ナインティナインであり続けるための関係性」をその形であり続けようとした。真面目な人ほど、自分が決めたことに関しては、その形で居続けようとする。しかしながら岡村自身がその負荷に耐えられず、自らが設定したその関係性が崩れてしまった。だが、かつての関係性が崩れた事で、考え方や立場・状況など様々なことが一旦リセットされ、岡村は矢部を頼ることができるようになったのである。現在のナインティナインのパワーバランスは実に平等である。当然、矢部は今まで通り岡村の事を信頼しているし、岡村も矢部の事を信頼している。ここで重要なのは、矢部自身が“岡村さんが自分の事を信頼してくれている”という自覚を持ったという事である。一方的に信頼していたとしても、それは本当の意味での信頼し合える関係とは言えない。「お互いがお互いを信じ合い、またお互いに信じられていることを共有すること」で、本当の意味での信頼性というのは生まれるのである。
 今回のFNS27時間テレビでは、矢部がマラソンを走ることでスタジオでの進行は岡村がしていた。そのことについて走る前の矢部は非常に不安がっていたが、岡村はスタジオでの大役をこなしてみせた。お互いがお互いで孤独な闘いをしていたのだが、それぞれがきちんと結果を残した。100キロを完走した矢部を讃えるように抱きしめた岡村だが、矢部も27時間テレビという大舞台の進行を勤め上げた岡村を讃えているに違いない。人間には長所と短所というのがあるが、それを双方がきちんとわかり合える事でもっと大きな力が生まれるのだろう。
 いま現在ナインティナインがコンビで持っているレギュラーというのが、テレビで2本・ラジオで1本であるが全部の番組が15年近く続いている。15年も続く番組を3本も持っている芸能人は、ナインティナインぐらいしかいない。病気からの復帰など唯一無二の存在となったナインティナイン。最近はそれぞれピンでの活動も目立つが、やはり二人でしか見せられない活躍があるのだと再確認した27時間テレビであった。と、同時に今後の“ナインティナインのコンビでの活動”に非常に注目したい。

水原希子は仲間由紀恵と並列で良いものか?

 最近、個人的に気になるCMといえば、資生堂の『ザ・コラーゲン』である。このCMがなぜ気になるのかというと、不景気かつ震災の影響で沈みがちなご時世にも関わらず、必要以上に華やかすぎるからというわけではない。私の好きな『水原希子』が出演しているからである。はっきり言って私は水原希子のファンである。しかしながら、このCMにおける水原希子の存在は不適当だと思うのである。
 私が水原希子の存在を知ったのは昨年末公開された映画「ノルウェイの森」である。主役の松山ケンイチ目当てで映画を見たのだが、一目で水原希子の虜になってしまった。それ以来、zoffやユニクロのCMが放映されていたら釘付けになってしまった。とはいえ、ノルウェイの森からのファンなので、言ってしまえばまだ半年程度なのだが。しかしながら、水原希子の代表作と言えば、やはり「ノルウェイの森」であろう。以前から、ファッション紙のモデル等で活躍していた彼女だが、全国的に知名度を上げたのは、やはりノルウェイの森の出演によるものであり、その映画によって、水原希子という存在を知ったという人も多いだろう。つまり、水原希子が有名になり始めたのは、わずか半年前のことなのである。
 話を資生堂『ザ・コラーゲン』のCMに話を戻そう。このCMで水原希子は仲間由紀恵と並列に扱われている。CMラストの水原希子と仲間由紀恵の二人が笑顔のアップで写されているカットが何よりも印象的である。で、ここで疑問である。果たして、水原希子は仲間由紀恵と並列に扱われてもいいものなのだろうか?この疑問を解決するためには、水原希子と仲間由紀恵の情報を比較しなくてはならない。まず年齢を比較してみると、水原希子が20歳、仲間由紀恵が31歳。その差は11歳である。並列させるには、あまりにも差があるのではないか?資生堂『ザ・コラーゲン』の商品属性を考えたときにターゲットは当然女性であるが、「女性であることのしあわせを、いま、すべての女性たちへ。」というコピーから類推するに、年代別で言うなら30歳前後の女性に向けられたものだろう。水原希子の世代である20歳の女性はターゲットから外れてはいないのだろうが、メインターゲットはやはり仲間由紀恵と同年代である30歳前後の女性だろう。こうして考えると、仲間由紀恵が単独で出演していても何らおかしい事はないのである。しかしながら、このCMには水原希子が出演している。しかも、仲間由紀恵というタレントランクも違う大先輩と一緒に。やはり、並列して出演している意味が私にはどうしてもわからない。
 現在、水原希子が女優として出演した映画と言えばノルウェイの森程度であり、今でも主な主戦場はモデルである。一方、仲間由紀恵は芸能界にデビューしたきっかけはテレビドラマであり、最初から女優として活動してきた。この二人を並列させたCMを頒布させたことで、二人の今後の芸能活動にも少なからず影響があるだろう。仲間由紀恵と並列化したことで水原希子に女優としてのイメージもより強固なものとなった。今後、水原希子は女優としての活動が増える事になるかもしれない。いずれにせよ、この資生堂『ザ・コラーゲン』のCMによって、視聴者が水原希子と仲間由紀恵のイメージが変わるきっかけとなった。この“きっかけ”をどのように今後の芸能活動に繋げるかが非常に楽しみである。水原希子ファンとして。

ニーチェを加藤浩次が訳す「人間変化」論

 今日時間があったため、過去録音していたTBSラジオ『極楽とんぼ 加藤浩次の吠え魂』を聴いていた。聴いたのは2010年3月12日の放送回で、その回の開始33分ごろから加藤浩次が「人間は変わるものだ」という話をしていたので、今回はそれをまとめようと思う。
 まずは、「人間は変わるものだ」という話になる前段階の話を振り返ろう。この回のオープニングで『加藤浩次の吠え魂』があと3回で終わるということが発表された。番組当初は、極楽とんぼのコンビとして放送されていたが、途中相方の山本圭一の不祥事により一旦終了。その後、加藤浩次ピンでの放送開始となった。そんな吠え魂も合計で約10年続いたという話になり、10年前と今ではなにが変わったのかという話題に。「昔は男のシャンパン現象なんて信じてなかったもんね。」(*「シャンパン現象」が何なのかについては各自で調べてください)「それがいまでは、ビデオも出てるくらいだからね。」と言う加藤。続けて、「いまああだこうだ言ってることでも、何年も経ったら全然違うってことってあるからね。」そして、加藤浩次は過去の自分を思い出しながら、「昔はさぁ『絶対こうだよ!』とかよく言ってたんだけど、どんどん変わってくるもん。」と語る。
 加藤浩次はデビューしてから今もなお順調な芸能活動を続けており、その地位は堅実なものへと確立しつつある。極楽とんぼとしてデビューしてから二年目に『とぶくすり』のレギュラーを掴み、以降20年近くレギュラー番組が途切れる事なく続いている。また、2001年10月にはピンでMCを務める『スーパーサッカー』が放送開始、2006年4月には朝の番組『スッキリ』のメインキャスターも務めている。しかしながら、相方の山本圭一の不祥事によるコンビ解散という大きな変化もあり芸能活動の危機も迎えたこともあった。また、キャラクター面で言っても、かつてはケンカのイメージでニックネームが「狂犬」と言われていたが、結婚して子供が生まれ、さらに朝の番組を始めたことでいまではその影を潜めている。これだけ、自身のキャラクターや状況が変化しているのにも関わらず、順調な活動をしている芸人も珍しいのではないか。芸能界に広げて考えてみても、プライベート面・芸能活動面でもこれだけの変化を経ていても20年以上テレビに出続けるタレントというのは稀である。これは、加藤浩次が「変化に対応できるだけのバランス感覚」の才能が抜群にあるからに違いない。
 ラジオの話題に話は戻す。自身の体験を振り返りながら言った後、加藤浩次は「人間というのは、変わっていいんだって。変わって当たり前なんだって。言ってた。」と続ける。おそらく何かの本を読んだのだろう。それを受けて、構成作家の鈴木工務店が「誰が言ってたの?」と尋ねると、「ニーチェが。」と加藤。加藤がニーチェの哲学書を読んでいる事にも驚くが、また加藤のニーチェの実存主義の解読にも驚く。「変わらない人はダメなんだって。」と続ける加藤、それに対し、鈴木工務店は「えー、でも変わらないで大事なものを守り続けるっていいじゃないですか。」と返すが、それに対して加藤は「変わりながら大切なものを守り続けれるでしょ?」そして、「大事なところだけ変わらなきゃいいでしょ。」と語る。私が加藤浩次の“大事なもの”というのが何を指すのかはわからない。しかしながら、“大事なものを守り続ける方法”というのを加藤浩次のこの話と生き方から学んだ気がする。人それぞれ、“大事なもの”の中身は異なる。だが、それを守り続ける方法の一つとして、加藤浩次が語った「大事なところだけ変わらずに、他は変えていく」というのはあると思う。しかしながら重要なのは、それはあくまで方法の一つでしかないという事だ。大事なところを変えずに、他を変えてみたところで必ず上手くいくというわけではない。何を変えるかという問題も、どう変えるかという問題も、そしてどうして変えたいのかという問題もある。そしたまた、変えれば良いという問題でもない。
 加藤浩次における人生のターニングポイントは、やはり相方の山本圭一の芸能活動休止だろう。自分が変わろうとしなくても、変わらざるを得なくなった状況になってしまったにも関わらず、加藤浩次はそれから一層芸能界での地位を確かなものとした。もしかしたら、変化しなくてはならない状況になった時こそ、真価が試されるのかもしれない。そしてまた、進化をすることができるきっかけなのかもしれない。『「変化」それは「進化」にも「退化」にもなり得る。』と、名言っぽい言葉を残したところでこのブログをしめようと思う。

「面白いテレビを知っている人はカッコいい」運動

 今号の「TV Bros」にて、面白いテレビ番組特集をしていた。取り上げられていた番組は3番組。『マツコ&有吉の怒り新党』、ドラマ『鈴木先生』、そして『クイズ☆タレント名鑑』である。今回は『クイズ☆タレント名鑑』の特集での、司会の田村淳・演出兼プロデューサーの藤井健太郎・構成の興津豪乃の3人の鼎談を取り上げたいと思う。たった2ページの記事なのだが、そこには近年とくに注目されるようになったテレビというメディアで扱われるコンテンツの内容についての問題提議がなされている。今回はこの記事から近年のバラエティ番組の問題点を上げながら、クリエイティブなことをするために必要な事とは何かということまで発展させて考えていこうと思う。
 この鼎談では、序盤に番組が立ち上がった経緯や番組での人気企画である「オファー引き受けた?引き受けなかった?クイズ」や「芸能人 検索ワード連想クイズ」について語られるが、注目したいのは後半の『どういった意識で番組作りをしているのか』という話である。そこで司会の田村淳は、テレビはまともじゃなきゃいけないという風潮を壊したい。と語っている。それを受けて藤井健太郎は、番組制作の方法として、わかりやすくて知らない人に合わせる番組づくりは違うんじゃないか。説明過多にするんじゃなくて、テレビは視聴者の先を行ってないと面白くない。と話す。なるほど、確かに近年のテレビ番組、特にバラエティ番組は視聴者にわかりやすい番組づくりになっている。それの最たるものが、かつてのエンタの神様で行われた芸人のネタへのテロップフォローであろう。本来、芸人のネタというのはそれだけで面白いものであるはずなのに、それに対して演出効果を施した。ネタをテレビ仕様に演出したのである。エンタの神様でのそうした演出は、ネタをテレビ番組として扱うための演出としては、視聴者が見やすい形にするための間口を広げる意味でも効果的だったのかもしれない。しかしながら、ネタの面白さを拡大させる意味では効果的とは言えない。
 演出とは、特にバラエティ番組の演出には、二種類の考え方があるのではないかと私は思う。一つは、面白さを深めるための演出。もう一つは、面白さをわかりやすくさせるための演出である。先ほど例に出したエンタの神様は後者である。わかりやすい番組作りをすることで、視聴者は気軽にその番組を見ることができる。それ故、高視聴率を稼ぐ事ができやすい。視聴率主義のこの時代において、高視聴率が稼げる演出方法が好まれるのは必然だろう。しかしながら、「わかりやすい番組」というのは、言い換えれば「飽きやすい番組」である。気軽に見られる事が出来る番組というのは、言い換えれば深く掘り下げて見る必要がない番組ということである。そのため、何か別のことをしながらテレビを見るという「ながら視聴」となる傾向が強い。そうなれば、別にどんな番組がやっていても構わないのである。「ながら視聴」で流される番組は、なんとなく騒がしそうな、面白そうなことをしている番組でいいのである。そのため、固定の番組のファンというのがつかなくなる。番組のファンがつかないということは、結果としてその番組の視聴率を下げる要因となる。それが近年言われる「テレビ離れ」へと繋がっているのである。
 鼎談の続きに話を戻す。藤井健太郎は、「電波少年」を見ていて自分が思ったように、スタッフが面白いと思われるのは嬉しいと言っている。続いて、構成の興津は「誰が作っているんだろう?」って思わせるような個性的な番組が増えれば、テレビはこの先面白くなっていくと思います。と語る。現在の特にバラエティ番組は、芸人の力を引き立たせるような番組作りが多い。芸人の力をどう演出するかという考え方である。その背景には、お笑い芸人の笑いのレベルが急激に上がったことがある。そのため、芸人よりも面白いことを考えるテレビ番組制作者がいなくなった。いや、正確に言えば、芸人よりも面白いことを考えようとする制作者が減った。であろう。「面白い事は、芸人さんが考えてください。私たちは、それを一生懸命アシストしますから。」という番組を多く見かける。しかしながら、それは本来間違っていると思う。芸人の作る「笑い」と、テレビ制作者の作る「笑い」は全く違うものであるからだ。例えるなら、芸人はいい素材(笑い)を作る農家であり、番組制作者はその素材を料理するコックである。芸人がすべきことは、自分たちの笑いとはこういう形なんだということを示す事である。その中でその素材をブランド化させることが芸人の笑いを作り上げていく作業である。一方、番組制作者は調理するにあたって自分の使いたい素材を使えばいいのである。自分が中華のコックなのだとしたら、中華料理に必要な素材を使えばいいのであり、周りがバジルを使っているからといって、バジルを中華料理に使ったところで美味しくも何ともなく、その素材の良さを消してしまうだけである。というよりも、番組制作者はコックである以前に、毎晩夕飯を作る主婦になってしまっているのではないか。自分の得意分野もなく、毎日来る時間に合わせて手軽な素材で調理を済ますという番組制作をしているような気がする。どこの主婦かわからない料理を食べたいという人は少ないだろう。このすぐにDVDがレンタルできたり、youtubeで面白い番組を見る事が出来るこの時代に、プロが作っていない料理を食べたくはない。それが結果として、「テレビ離れ:」へと繋がっていくのだろう。
 最後にもう一度鼎談に戻ろう。「これからのテレビとどう向き合っていけばいいのか」という問いに対して、田村淳は「失敗をいかに見せるか」が大切だと考えており、さらに、視聴者の「失敗したものを見たくない」という考えから引き起こされる制作者の「失敗したものを作りたくない」という連鎖によって、今のテレビは元気がないと分析した。いまの視聴者に「失敗」を受け入れる土壌がないために、テレビがつまらなくなっているのには非常に納得できる。これは、番組制作に関する事だけではなく、生き方の問題にもなってくるのだが、「失敗」を受け入れる土壌が整わない限り、いつまでたっても失敗を恐れるものである。失敗をしない限り、その痛みやどこまでならできるかという線引きを感じる事ができない。この辺りの感覚というのは、頭で理解していても体験しないと身に付かないものであろう。そうやって失敗ができない土壌にいることで、自主規制が蔓延するのである。自主規制の蔓延の先には、何も新しい者は生まれない。結局は、誰でも出来る焼き直しである。その連鎖が続けば、テレビの視聴者が減るだろうし、テレビ業界を目指す人もいなくなるだろう。その結果、テレビというメディアの衰退へと繋がるのである。
 とはいえ、藤井健太郎が最後に、「これからは、テレビに詳しい事がオシャレみたいになっていったらいいですよね。」と語っている。こういう考え方の制作者がいる限り、まだまだテレビはオシャレであり続けるだろうし、その考え方に同調する視聴者も増えていくだろう。

*今年の27時間テレビも相当オシャレなことを仕掛けてくれそうなので、非常に楽しみです。