40歳代から55歳くらいまではベテラン営業マンとして大いに忙しく動き回って、自分自身としては十二分に業績を上げたと思っていましたが、周りの人的環境は劣悪だったというべきかと感じています。勿論、中には私の仕事ぶりに感心して褒めてくれる人もいましたが極めて少数で、大半の役員や管理職は私に対する目線が斜めで皮肉に満ちたものだったと思います。そういう感情が表れている役員とか管理職は極め品格の無さが表れていたと思っていまたし、顔つきも人前に出せるような顔では無いように感じられる人達だったと思います。
次から次へと、まあこんな人がと思われる営業部長や事業部長に現れたのには驚きを隠せなかったのは事実です。類は類を呼ぶという諺を地で行くような職場だと自分では評価していました。何故そうなるのかは、仕事も出来ない管理も出来ないのに自尊心だけは高いという自身が普通のサラリーマンよりは相当落ちる能力だというのが無自覚で、自然と自分の周りには普通よりは能力は落ちるが調子のいい人間ばかりがいるのも認識できないらしく、自分の後任には無難な人材と勝手に思い込んでいる社員が自分と同類の仕事も出来ない管理も出来ない人間であったのだったと思います。そういう意味では人事に対する客観的な判断が出来ないというのも社風なのかと思えていました。

私の仕事ぶりは顧客利益を重視するのは当然で、自らの顧客に対する貢献が自分の会社の利益として反映されるものだというポリシーを貫いていました。社内の目先しか見ない役員とか管理職とかとは一線を画していたので、そのギャップは自身で采配を考えての行動となるのは仕方ない事でした。
会社では中期計画とか長期計画とかを定期的に報告をするのですが、形式主義がまかり通るのでいい加減に辻褄を合わせるというのが実態でした。役員や管理職で現場実務を経験していない人は空想や妄想にとらわれて、何となく尤もらしい話を聞かされると安易に納得するというレベルなので、退職した今ではどうでもいい話なのですが、企業としての先行きも決して安楽ではないだろうと感じていました。役員や管理職が、外資系コンピュータ会社からの目立ちたがりの転職社員が他人の褌でまわしを取っているのが如何にも尤もらしいと勘違していたのと相通ずることがある見識の無さの素地は、経験が少ないとか知識が不足しているとかいう理由ではなく、元々サラリーマンとしての基本的な思考能力に欠けていることだろうと推測をしていました。そうなると、そもそも新入社員の採用基準にまでさかのぼって考えないといけないのかなとさえ思えるときもありました。
以前のブログでも紹介しましたが、転職前の会社も伝統ある保守的な会社で、役員が赤字事業の理由を明確に理解出来ないので素人判断で黒字事業部と合併させれば赤字が解消できるのではないかと思って実行されたことがありましがが、問題の本質はそんなところには無いので赤字は解消できる筈も無いのを笑って見ているだけでした。
転職後の会社では役員や管理職が少しは情報産業に関わったという自負があるだけに厄介で、どう客観的に見ても素人の域を出ないのを自覚できないので、客観的第三者と勘違いして相手の事情よりも金儲け優先のコンサルタントとかを起用して経営判断材料としていたのには驚きを通り越して単に能力の無さを自ら表しているのだなと思える時もありました。そういう時はサラリーマンとして何事も感じない様にすることが大切なのかなという故事を得たような気にもなったものでした。
個別の事象については以前のブログで大まかに紹介しておりますが、転職した事業部から子会社に異動後に会社は新会社となり、更に退職前には別会社を吸収合併して新会社となったという企業に勤務していたのですが、職場環境というのは会社名が変わったりしても変化は無かったと感じています。
いい意味ではのんびりした光景にも見えますが、それは会社として切磋琢磨していないという証拠でもあったかなと思うし、人材にも恵まれず凡人が集まっても何も成果が出ないという企業の典型を見ているような気もしたのでした。
そういう凡々たる社員の中で新しい顧客との契約を次々に展開していた私に対して、役員や管理職の中には妬みや羨みを持った人もいて、何かにつけていちゃもんを付けてくることがありました。私はサラリーマンとして給料の対価として業績への寄与と言う普通の思想を持っていました。社内には能力も無く風貌もとても私の上司として紹介出来ないと思えるような管理職や役員が多かったので、顧客に対して自然と自分自身で自作自演をせざるを得ないような仕事振りだったと、退職した今頃になり改めて感じているところです。
顧客から見るとえらく熱心な営業マンというのを評価されて契約に至るのですが、契約に至る前には上司を紹介することは契約の障害になると何時も想像されて出来なかったのでした。契約さえできれば顧客も付き合わざるを得ない状況となりましたが、上司の発言や行動が安心は出来ませんでした。時々はそういう非常識な上司の発言や行動に対して、後日言い訳をして解説をするというような事も多々ありました。役員や管理職にも私の努力を素直に見ていた人もいましたが極少数であったというのは、それだけ社内には良識のある人が少ないのかなとも感じていました。

こうして考えてみると、私が営業マンとして契約した顧客というのは、私が勤務していた会社には似つかわしくない顧客ばかりだったのだろうかと思えるのでした。会社の体質を私自身の対応や説明でカモフラージュしていたのは間違いのない事実でした。当然ながら、契約後の顧客とは色々な面倒な問題が発生するのは自然の成り行きで、無知な上司や役員からは何故利益が上がらないのかとか指摘されることもあり、所詮目先しか見えない明盲の管理職や役員の発言には呆れるしかなかったのですが、社員として従うべきは従わざるを得ないとして無理難題を顧客に伝えたこともありました。当然の帰結として、私が営業マンとしてその顧客の担当を外された後には顧客は契約を解消したのは、私の上司や役員は単に変な顧客であったとしか見えなかったのだろうと思えました。
私が契約した顧客は自身がサラリーマンとして働いているうちは、社員の務めとして契約を増加したりするのは当然と考えていたので、業績向上を優先して考えると顧客関係の強化のために個人的な大きな負債を作ったのも仕方なかったのかなと思っています。営業マンたるもの個人的な費用の支出は我慢せざるを得ないというのは転職前の会社では教育されていたので、この会社で管理職や役員が、交際費とか簡単な部下との飲食でも支払いに困窮していたのには驚きを隠せませんでした。そういう小さな金額でも全て経費で落とそうとするせこい思考は管理職とか役員とかの資格がないので無いかと思える時が多々見受けられて、これも社風としては恥ずかしい部類に入るのだろうなと感じていました。
費用で思い出したのですが、事業部の中で業績の悪い事業部に配属された事業部長が早々にしたことが社員の交通費の抑制というのでタクシーを利用するなという事だったそうです。この事業部長は、まともな仕事をしてないという事を自ら立証したようなものですが、貧すれば鈍するという発想しか出来ない社員を配属したのも社風なのかなと感じていました。
私の場合はひょんな事から転職と言う機会を得て、転職前の会社と転職後の会社というのを比較するということが出来る貴重な人間であったと思っています。退職した今では転職後の会社での出来事や背景を口に出して言えますが、当然ながら勤務していた頃は心の中で随分と違うものだねというのを感じて記憶に留めていただけでした。
転職後の会社は社風といえば結構いい加減な面が多々あり、そういう風土につられて外資系の会社から多数の人間が転職してきていたと思います。私が転職者の面接官をしていれば殆どの外資系コンピュータ会社からの転職者は採用不可という判断をしていたと思うくらいに、能力的に不足している人間を易々と採用していたのは、いい加減というよりも採用する側にも能力が無いと言ってもいいかも知れないと思っていました。
私が転職前に勤務していた会社の事業部は会社の伝統的な事業ではない事もあり、それなりに転職者がいましたが外資系コンピュータ会社からの転職者は少なく、私が担当者であった時に係長であった男一人だけという風に記憶しています。私はこの係長からは色々な勉強をさせて頂いたという記憶があり、外資系コンピュータ会社に在籍していたとは言いながら外資系コンピュータ会社にありがちな口先饒舌という人間ではなく真面目で実直な人でした。
このブログでは何度も書いていますが、どういう訳か私が転職した後の会社には口から先に生まれたような外資系コンピュータ会社からの転職者が多過ぎるというのが私の感想でした。仕事のスキルレベルはプロパー社員の低い能力と殆ど変わらないので、転職してきた外資系コンピュータ会社の転職者から見れば易々と過せる環境になるので、外資系コンピュータ会社から転職してきてから再び転職する人は少ないと思えました。逆に、プロパー社員の若い人で少し目立つような人は、そういう会社の風土や技術レベルの低さを感じて転職していったというのが象徴的だとも感じていました。私は転職後に学生の採用活動をしたことがありますが、何とか説得して入社させた男が4・5年後には転職していたという経験をしていました、この時も転職していった若い社員の気持ちが理解できるような気がしていました。
 
転職前の会社も転職後の会社も社風は極めて保守的でしたが、社内での光景はまるっきり違うものでした。転職前の会社は悪い表現で言えば軍隊式で規律を重んじていて、社員の出社時間には厳しく、職場は常に清潔を旨にしていたので書類が机に散乱していることはありませんでした。事業部の業績は毎年赤字続きなので、小さな池での争い毎は多く喧嘩に似たようなことも起きて、人格問題は含んではいたものの社員の仕事に対する真面目さというものが基本であったと思っています。
転職後の会社も保守的では変わりませんでしたが、建前を重視するだけなので、建前が守られれば後は野となれ山となれというようないい加減さが常にありました。仕事は社員全体が与えられたものというような印象を持つようになっていたので、自主性を発揮する場面は少なく、事なかれ主義が自然と蔓延する職場になっていたと思っています。そういう社員の態度が顧客との軋轢を生むのですが、社員は顧客の事情よりも社内事情を重視する体質となるので、まともな顧客は少なくするのは自然の流れだろうと感じていました。
子会社で私が勤務していた事業部の事業部長とか営業部長は次々に入れ代わり立ち代わり交代していったのですが、その人物像はつかみどころのない人たちばかりであったという風に記憶しています。所詮サラリーマンでやっていますというのが根底にあって、自らが業績に貢献するとかという発想は皆無で、上から言われたので何とかせねばならんというだけのことで済ましていたと見えました。
これは今でも変わらないと思いますが、会社の事業理念が希薄で行き当たりばったりなので、何で業績を上げなくてはならんのかという意識が希薄で、社員だけでなく形だけの責任代表としての事業部長とか営業部長や技術部長はサラリーマンとして形だけ従っているので、実のある業績向上なんかは望むべくもないのだろうなと感じていました。そういう中でも自らの無能を自覚しないで保身のために粉飾をしていた事業部長もいましたが、道化師のごとくと言う風にしか思えませんでした。
私が勤務していた事業部に異動してきた事業部長はどういう訳か変わり者が多かったという風に思いました。子会社は後に親会社の新規事業部を合併して新会社になったのですが、その傾向は変わらなかったように思います。子細は以前書いたブログで紹介していますが、私が二十年以上も勤務した事業部に配属された事業部長の中でも非常に真面目な人は一人二人で、そういう事業部長とは話をする機会が多かったと思いますが、真面目なだけにリスクを感じて金縛りにあって何も出来なかったのではないかと感じる事が多かったと記憶しています。

多くの事業部長は役員と仲間と類推される人たちで、配属早々から業績を口にするのははばかれるという様なレベルの人達ばかりでしたが、形を重んずる社風なので皆一様に業績の計画は右肩上がりにするのが慣習となっており、実態とはかけ離れてもカエルの面如く知らん顔をして報告していたのが可笑しくもあり悲しくも見えていました。すぐ横で社員が実務をしているので普通の人間ならば実態が分かろうと思われるのですが、社員のしている仕事が理解出来ていないというのも不思議に思えました、同時に何でこういう人達が管理者になるのかというのも不可思議に思えました。中でも外資系コンピュータ会社から転職してきた人たちは饒舌なので、何も分からぬ役員はころりと騙されるのかなという事も多いのだろうと思いました。
事業で騙されるということについえては色々な思い出がありますが、騙される側の能力不足もあり、自信過剰のためでもあったという風に感じることも多々ありました。新規事業を立ち上げても暫くするとダウンするというのは世間の波に乗っていただけの事と理解が出来ずに自らの能力で業績を上げたと勘違いをしていたせいだろうと見えていました。
一番の傑作は、パソコンでホストコンピュータの業務をできると外資系コンピュータ会社の宣伝に乗せられて本当に事業化してしまったことでした。コンピュータの機能を会社の役員や事業部長が理解できていないために安易に宣伝だけに乗せられたと思えました。最後にはユーザーに納入して仕事が出来ない事が分かって初めて使えない事が分かったようでしたが、事前に調査したらすぐに分かりそうなのに、そういう事が理解できない位にレベルが低いのだなと思って見ていました。
こういう事が繰り返し起こるのも社風と言えば言えるのかなと感じていました。
私が子会社に異動後の5年程の間に新しい7社の顧客と賃貸契約してデータセンターを売っていったのですが、最後には親会社のコンピュータを他のデータセンターから移設して満床になったという経緯がありました。当時の社長は「データセンターはのどに刺さった骨だ」と正月の挨拶で私の勤務していたフロアに来て苦言を呈していましたが、建築したのを承認した責任者が後になって他人事みたいに言うのを聞いて、役所みたいな会社だなと錯覚した覚えがあります。
当時、営業部の高齢の営業部員はデータセンター営業の事を自虐的に不動産営業ですと言っていました。その意味は、コンピュータ設置する貸す場所の契約できるのですが、コンピュータを動かすオペレータ等の用役契約が全く契約できないことを指して言っていました。その理由は、顧客への説明が満足に出来ない事の裏返しだと私は分かっていました。私は長年のコンピュータの利用や運用についての経験があるので顧客の問題解決を提案しながら用役業務を契約することが出来たので、そういう意味でも他の社員とは違う色の人間と思われていたと感じていました。
余りに私一人が世間に名の知れた顧客を次々に受注するので役員の中には偏見を持って私の悪口をいう人がいたのは普通に考えれば信じられませんが事実でした。自分の無知を恥じて教えを乞うという態度が無く、自分の説が正しいと言うばかりの役員が揃っていたので業績が伸び悩むのは自然の成り行きだろうと判断していました。
私の契約した顧客は信頼感があって、顧客という関係が出来ると次々に色々な案件を紹介されて非常に多忙になりました。ハードウエアからソフトウエアまでの販売だけでなく、システム開発を受託したり、常駐のヘルプデスクを受託したりという案件を次々に受注したので自然と業務多忙になり、一人で受注する金額も一つの事業部と言える程だと思えました。一度水が田圃に流れ始めると、留めなく次から次へという風になっていったのは嬉しかったのですが、年齢が50歳にもなるのにこれほどの多忙な日々を送ることになるとは予想もつかなかったことでした。丁度、男性の更年期障害みたいに思えて体が非常に疲れるようにも思えた時期でもあり、多忙に疲労が重なってストレスをため込んで、ストレス解消で詰まらぬ多額の借金を作ったのもこの時期でした。

何事も顧客から頼まれたら断らないという精神が一番発揮されたのは、データセンターの顧客で鉄塔をセンターの敷地内に作りたいという案件の時でした。顧客から鉄塔建設業者が談合して価格が下がらないという話を聞いていたので、私が別の業者を調べて見積もりを取ると談合している業者よりも安く建築できることが判り、顧客から私の勤務していた会社経由での契約にしましょうという事がありました。私は業者に鉄塔図面を作らせていた時に、営業部長が心配なので親会社に移管したいという話が出て、無知の上司には単なる心配事にしか映らなかったと思えて、未練を残して移管を了承したということもありました。
先日、たまたまデータセンターの近くまで行ったので、データセンターの横を通った時には顧客はとっくにいなくなった筈なのに鉄塔が残っていたので、どういう事なのかなと不思議に思えたのでした。
又、私は顧客との付き合いも仕事だけでなく交流を深めるというのは転職前の会社でも教育されていたので、顧客との休日のソフトボール大会とバーベキューと言うセットの行事を相当に長い間続けて、顧客との関係を盤石なものにしていったという自負はありますが、営業担当が変わった途端に風向きが変わってどんどんと顧客との関係が希薄になり、段々と業績も落ちていったのも面白い現象であったと思っています。
子会社で新しいデータセンターを建築したのはいいとして、誰も営業が出来ずに閑古鳥が鳴いていたところに経験豊富な私が営業担当として加わったという状況でした。子会社に移動してからの営業部長や事業部長は私の仕事の仕方に対して何の口をはさむ事も無かったので、自分の思うままに仕事を進めることが出来たと思います。子会社に異動後の私は、会社の文化とか違和感のある人が来て一人で何か知らないが仕事をしている、というような風に見られていたと思います。個別の思い出については以前のブログで紹介もしたので割愛しますが、子会社だけに親会社とは違ったのんべんだらりとした風潮もある中でも、次から次に親会社や子会社の他事業部から異動で来る人達は何か情熱が欠如していたり、何か個性が強い過ぎたりする50歳代の人たちばかりで、職場の雰囲気は老人ホームのようだなと思えるし、自らそういう雰囲気だなという人もいました。
私は性格上職場で何もしないというのが出来ない質なので、自然と自分の経験から新規顧客のコールをしながら毎日をあくせくとして過ごし、それこそ毎日があっという間に過ぎていくという日々を10年程、事業部長から顧客担当を外される50歳中ごろまで続きました。そういう状況は、営業部というものの社員は自ら新規の顧客を訪問するという事が全くできない人達ばかりだったので、私が毎日電話をしているので自分達もワープロで文書を添削するという一見仕事をしているようなふりをせざるを得ないというような状況になり、これも私が嫌がらせをしているように思われていたのかなと感じていました。
毎日毎日が次の一手はどうしたらいいのかという事を考えて過ごしていたので、夜も休日も頭の中には仕事の懸案が漂っていて、思いがけなく良いアイデアが出てくるのは風呂に入っている時であったというのは、地のめぐりがよくなって策が思いつくのかなとも思っていました。ある意味では戦国時代の武将のようなもので、城を落とすための策を毎日考えていたのかなとも思える時もありました。それは何時も相手が自分をどうしたら認めてくれるのかという策であって、決して相手を蹴落としたりするようなものではありませんでした。
今では無職で何の仕事という圧力も無いので、休日に音楽を聴いていても仕事の現役に聞いた時の印象とは随分と違って聞こえます。解放されたという気分を十二分に味わえるというのを感じています。音楽が仕事の嫌な思いや圧力の癒しのように思えていたのが様変わりして、流行の音楽家とかに流されるのではなく、そもそも自分はどういう音楽が楽しく感じられるかと改めて問い直しているような状況になります。
 
転職して新規事業部でベンチャー製品を3年間で上場企業20社位と契約したものの、私が子会社に異動した後数年もした時には、私が新規に契約した上場企業との縁は切れているというのを知った時には、会社との付き合いというものは営業担当者の采配に掛かっているのだというのを確認したことになりました。この子会社に異動後、新規に私が契約した10社の顧客も私が担当を外れると櫛の歯が欠けたように次々と顧客を失っていったといいうのは同じことの繰り返しという事を知らされせたと思っています。
余程鈍感か意図を持った顧客でない限り、顧客対応がおかしくなると顧客は自然離れるということで、まともに顧客への対応が出来ない体質の会社は自然と限られてくると言う風に感じています。それは社風と言うべきもので、まともな仕事の経験の無い人間が会社の経営に口出して、如何にもまともな事を述べているように勘違いしているのを誰も非難をするどころか、そういう幹部にコバンザメみたいにすりよる連中が多いので益々世間の感覚から離れた議論が堂々とまかり通っていたという風に感じていました。失敗した事業もずるずると引きずって何時までも辞められないのも、建前ばかりを重んじて社内の牽制能力が無いという証明にもなるのかなと思っていました。
子会社には7月に月に異動になりました、子会社では丁度新しいデータセンターが竣工した時期で営業マンが必要という理由があったようでした。
転職した会社の新規事業部門がベンチャーそのもので業績のみを必死に追い求めていて社員が駆けずり回るような雰囲気だったのに対し、子会社の方は親会社からの定期収入があるという事情もあり、私が配属された営業グループでは43歳の私が一番の若手でした、全員が50歳を超えているような人達ばかりで雰囲気はのんべりだらりとしたものでした。この営業グループは高齢故というほかに、元々社内事務しかしていない人達だったので営業といってもなすすべもなく、親会社や取引先から顧客の情報を貰う以外に無く、紹介されるのをひたすら待っているだけでした。そういう事情も有り、営業グループの社員は一日中特段にする仕事も無いので、ワープロで同じ文章を一週間かけて添削するか、ワープロ付属のカードゲームや麻雀ゲームをして時間潰しをするか、あとは談話しているような状態でした。
この営業グループでは既存の顧客担当を任されたのですが、以前のブログでも紹介した通り年配の技術者が営業担当の私に連絡も無く勝手に顧客と打ち合わせて業者の見積書をもってくるので腹に据えかねていましたが、年齢が違うだけに長年我慢をしていたということになりました。この見積もりも1社に偏っていたので私が知り合いの業者から相見積もりを取らせるようにしてからは原価が下がったのは当然で、これは会社の親戚筋に当たる業者からは嫌がらせかなと思われたと思います。
こういう簡単な仕事のブラッシュアップさえ出来ない能力をというのを見透かされ、某外資系コンピュータ会社の営業マンからうまい話ですと耳打ちされた役員がデータセンター事業を始める話に乗せられて、親会社も絡んだ信じられない程の高価なデータセンター事業を始めたものの、某外資系コンピュータ会社の営業マンの思惑が外れてデータセンターが閑古鳥が鳴いている状態のところに私が異動したという事情も後で知りました。
事業というものを紙きれや他人の見聞のみで行うということが当たり前みたいな社風があって、それは所詮自身の能力欠如を他人が補ってくれる筈という手前勝手な思い込みに気づかず、その社風は今でも変わらないと思っています。どうでもいい事ですが、そういう事が何度も何度も延々と続いて失敗しても社員を首に出来ないので間接社員が異常に多くなり、会社としてはものすごく高価なコスト構造が将来も続いていくと想像していますが、その構造は全て顧客への対価という形で現れるので、自然と顧客も減っていくという状況だろうと思います。
異動先であった子会社の営業グループは、転職した会社のベンチャー事業部とはまるっきり雰囲気が違って誰からも指示される事も無いという事が、私の自主性に火を点けて自分の経験から見込み客のリストアップから訪問までを全て一人でこなしていました。当然ながら技術者の支援を受ける事も無く自分自身で説明書や提案書をワープロで作るという日々を半年以上過ごしましたが、最初の顧客となる情報システム部長とは、その顧客の入居するビルを訪問した時たまたま同じエレベータで一緒に乗り合わせたという出会いを受注後の会議で「出かけるところでした」と聞かされて、その会社が丁度訪問100社目というような節目でであったというような事だけでなく、縁があっての事なのだろうと退職した現在でも覚えています。
その顧客の入居していたビルが10年後に新しい顧客の一部門が入居していたというのも、私の一連の仕事ぶりが延々と続いていたのかなとも思えた時もありました。
転職して最初の3年間の時間は疾風怒濤の如く瞬く間に過ぎ去っていったと思います。転職前の会社が役所張りの文書一点主義で社内も人間関係が複雑な職場であったのに対して、転職後の会社のプロパー社員の様子を見ていると文書を書く能力は低く、社内は親分子分の関係で部下を連れて来ていたりしていました。前の会社に比べれば割合に開放的なのはいいのですが役所体質は同じでした。
転職先の会社では当然ながら即戦力を期待されていたのだと思いますが、多分私が他の転職してきた社員との大きな違いは、単に商品の受注をするだけでなく、広告宣伝とか販路拡大とかというのを実務として伝承したと思います。しかし、折角のそういう施策はプロパー社員の能力不足で受容が困難だったようで、私がこの職場から離れると全て元の木阿弥になって無くなり、業績も自然に落ちていったのだろうと思います。
この時、私が伝承した一つに受注した顧客のユーザー会という行事があり、事業拡大のステップとして考えていたのですが、今では自己都合の定期行事と陥っているので顧客からは感謝されるどころか内心迷惑だという風に評価されているという事さえ気づかない鈍感さがあると思っています。基本的な顧客との接し方も理解ができていない会社というのが見え隠れする機会になっているだけと思っています。
転職前の職場でも文科系の管理職幹部が事業を潰していったのですが、転職後も全く同じ構造でしたので先行きが読めるような気がしていました。案の定、最初の1・2年は上り坂で調子が良かったのですが、暫くするうちに提携先のベンチャーの業績不振と共に事業の伸びも鈍化して自然な下り坂に入ったのでした。
この時に起きた色々な出来事については以前のブログで紹介しましたが、一番記憶に留めているのは何も知らない新入社員が社内のベンチャー部門に配属されて、まともな教育も受けないままで営業をさせられていた事でした。今どきのブラック企業そのものであったという気がします、そういう時期に入社した社員が今では会社の幹部になっていると想像すると、何となく会社のレベル感と言うものが知れるのかなと感じています。
社内ベンチャーなので本当に金の無いベンチャーに比べれば資金も潤沢で、長期的視点に立った人材の育成ということも出来たのだろうと当時から感じていましたが、教育という発想そのものが無いような雰囲気で、企業は人なりを忘れているという違和感はずっと長い間持っていました。
後に社内で色々な事業を検討していた時も、わざわざ金をだして社外の外資系コンサルタント会社に資料を作ってもらっていたようでしたが、私がそういう資料を見た時の感想は何時も誰でも作れるあたりまえの内容で、こういう資料さえ自分で作成できないのに新規事業を考えるという幹部の頭の中はどうなっているのかなという疑問が何時も出るのでした。同時に情報整理とか調査という能力が無いままに会社の経営にかかわっている人材が多いという実態があらわになったのだろうとも感じていました。金さえ出せば自分達の望むものが出てくるというのを当然と考えている節があって、世間一般では相手の能力を見ながらビジネスというものが出来ているという事実に全く気付かないという間抜けな幹部が多いと感じていました。
3年間の新規事業の営業を担当していた時の部長は前回も紹介したように、何時も社内で目立だとうとして上司の役員に好調を報告していました。そういう意欲は良いとしても、部下に対して自分の偏見した意見を押し付けてくるのが焦りとして見えました。サラリーマンなので後々部下に恨まれるようなことは慎むべきという教えを受けていなかったのでやり放題ということだったと思いますが、当然ながら部長が異動になった途端に人間関係もぷっつり切れて音信不通になり、部下は解放された気分になるだけのことだったと思います。
この時期は毎日が多忙で時には土日も出勤していたので体も疲労困憊という風に記憶しています、どうしても土曜に出なくてはいけない時にはタクシーで出勤した時もありました。外資系コンピュータ会社から転職した社員は、こういう変わり者の上司がいる職場に慣れているせいか鈍感と思えて、色々文句を言われても特段に気色ばむ事も無いのが羨ましいと思えました。私の忍耐も3年を超えては持ちこたえが出来なかったのだと思いますが、私が前の会社で習得して伝承した事が全て忘れ去られた頃には、事業も落ちるところまで落ちて行って、次の異動先で私一人で一年間に稼ぐ金額よりも低い事業になっていました。
転職したのは丁度40歳の時で、弱小事業部の事業部長の肝いりで私と広島支社の社員との交換を画策したのがきっかけでした。この時、たまたま私の顧客に転職先の会社の営業マンが来ていて、顧客から私の名刺を見せられて私に直接電話があり転職の誘いがありました。そういう意味では、人材会社に登録して再転職したのではないので、産直みたいな形での転職であったと思います。
本当に人生の分かれ道と言うものは不思議なもので、広島転勤を渋っていたところに転職話がきたという事で、選択を迫られたのでした。どちらの会社も弱小事業部ならば、新しい事業部の方が私の活躍の可能性が高いだろうと思って、転職を決めました。
結局のところ、私が13年勤務していた本社の弱小事業部は私が転職後暫くして、赤字が解消できないまま子会社化されたのですが、転職した会社の新規事業部も全ての投資案件を失敗して子会社されたのをみると、同じような命運をもった会社に勤務していたのも何かの因縁かなと思う事があります。
Ⅰ期  新規事業部(CAD関連機器販売)     3年
Ⅱ期  アウトソーシング営業(既設データセンター)10年
Ⅲ期  アウトソーシング営業(新規データセンター) 14年
転職した新規事業部では、私が転職前に担当していたCAD/CAM製品の延長みたいな製品だったので、製品の特長も直ぐに理解して、転職後3か月ほどで以前勤務していた会社の私の顧客に販売することができました。この時、私の所属していた部長が目立ちたちがりやで、あわよくば役員に昇格したいと思っていたふしがありました。焦っているというのが分かったのは、毎週の朝会では素人にも拘らず、玄人の私にたいしていちゃもんをつけてくるのが煩わしく感じられて、3年後にはぶちきれたという事でした。部長個人の思いが強く出た変な運営状態だったので、私は転職前の職場で色々と文句を言われても我慢をするという事を学習していましたが、我慢出来ない外資系コンピュータ会社から転職してきた連中は事業部の雲行きがおかしくなると、私に「大変な事態ですよ」と耳打ちして、何時の間にか転職先を見つけていなくなるという事がありました。転職後は秘書付きの会社にいるらしいと聞くと、どうしてそんな事ができるのかと不思議に思えてなりませんでした。

転職後は前職18年の経験を活かした営業が出来たと思っています。最初の3年で扱ったベンチャー製品販売は、プロパー社員が世間でも名の知れないような零細企業にしか販売できなかったのに対し、私は上場一流といわれる会社に多数販売できたのは、同じ製品でも売る人によって違う商品になり得るのだというのを自ら実証していたのかと思いました。一番苦労したのは販路の拡大で、全方位外交みたいに協力してくれる人は誰でも受け入れますというような具合だったことと、こういう仕事はプロパー社員には全くできなかったので私が一人で切り開いていたようなものでした。そういう私のやり方に部長は嫉妬心があって、自ら受注した大手会社の事例を盛んに自慢をするのが癖でした。
扱っていた製品が特殊な商品で市場が限られるので次の手を考えなくてはいけなかったのですが、プロパーの技術者には到底そういう能力もなく、私が子会社に異動した後は奈落の底に落ちるようにして最低限の仕事だけが残る部署になり果てていました。
 
新規事業部で扱っていた商品はベンチャー製品が多かったというのは、実力相応の会社しか相手にしてくれなかったという事情もあったのだろうと思います。金はあるが能力は無いという状態を正確に理解できていなかったと思います、それは全ての新規事業でものすごい金額の赤字を出したことが証明していたと思います。同時にこういう大きな事業失敗に対して誰も責任を取ることなく、いつの間にか分社して上場までしたというのは何とも平和ですがおかしなことだと感じていました。サラリーマンとしては流され流されてやりましたという状況だと思いますが、そういう状況を正確に社員に説明もせず建前だけを何時も延々と述べているだけでした。皮肉な見方をすれば、倒産して社員が解雇されなかっただけでも良かったという風に思う事も出来るのかなとも思います。
本社の事業部内の人間関係というのは極めて希薄であったのですが、工場の技術者とはまた違った意味での付き合いがありました。私の所属していた事業部はとっくに子会社になり果てて、工場も今では無くなって小さな研究組織だけが細々と残っているようです。その研究組織で過大な残業が理由のノイローゼで退職させられた人の事件が今年に新聞紙上に出ましたが、私は社内風土から推察してさもあらんという感想を持ったのでした。
新しい製品販売の時には、工場長以下開発部門の幹部が本社に来て、説明会で事業部員に向かって「たくさん売って下さい」と言うと同時に「物は安くないですから」という文言を付け加えるのも恒例でした。弱小事業部にも拘わらず製造業の会社ということからか千人規模の工場があるのは不思議には思っていませんでしたが、事業部にとって新規の顧客とか優良とは思えない案件の厳しい条件提示が必要になると、課長同伴で工場まで出向いて工場提示費用の値引き折衝を行わなくてはならないことが多くありました。そういう場合に工場から提示されるのは原価の内訳なのですが、見せられる費目の多さには驚くばかりで説明に納得しても了解は出来ないというようなことが多かったと思います。最後は事業部長から工場長に談判してもらうしかなくなると、営業担当者としてはほっとしたのですが、事業部長のご機嫌が悪くなるというような具合でした。弱小事業部に工場などは不要であったのに、そういう問題を解決するだけの能力が会社の幹部になく、事業部が分社された時にようやく工場を廃止することになったという事例であったと思います。
工場のソフトウエア開発部門とは別に、本社や全国支社の営業部門を支援するシステムエンジニア部門があって、こちらの部門とは顧客への提案とか問題解決とかが主な業務なので頻繁に会議とか打ち合わせをしましたが、人間的にはあまり深い付き合いができなかったのは、その仕事振りを私自身が技術者の素養で見るので嫌がられたせいもあると思います。この営業支援の技術者は工場の技術者と比べると、技術的な素養の深さが浅いと思っていました。同時に、営業マンまがいに口先が上手い人がいて、営業マンから重宝されていましたが、そういう意味では技術系営業マンとも言えなくはないとも思っていました。中には口下手でしたが訥々とした語り口が特長の人もいて、かえって朴訥な説明口調が顧客に安心感を当たるということもあって、顧客に対する信頼というのは口先の上手下手だけではないというのも教えられました。
その顧客支援のシステムエンジニア部門が入居していたビルには、転職後に某顧客で付き合うことになるシステム会社が入居していていましたが、そういう事を思うと随分と古くから将来への伏線があったのかとも思ったことがありました。
 
工場の部課長も個性的な人が多く、以前のブログでも紹介しと思いますが、個性的でも人間的には付き合って安心感があると思えたのは、本社の文科系の事業部社員とは何か違うものがあると感じていました。基本は仕事に対する姿勢は非常に真面目であるということがベースにありましたが、仕事以外でも何か普通の人とは違うことをしていて話を聞くのが楽しかったように覚えています。
当時はコンピュータのハードウエアだけでなくソフトウエアも自前で開発をしていて、弱小だけに人材難からかどうかは不明でしたが顧客からクレームが度々来るので、営業マンとしては工場の営業部門に連絡してから動いて貰うのでは遅いので、何時も直接工場の開発課長や部長に電話で緊急事態内容を伝えて対策をお願いしていました。土日でも障害の連絡が来るので、課長や部長の自宅に電話をして対応をお願いすると、直ぐに工場に関係者を出勤させて月曜日の朝一番に顧客に出向いて修正情報を届けてくれたという思い出があり、その真面目で素早い対応は本社の事業部のいい加減な文科系社員とはかなり違うなと感じていました。後日私の上司に当たる課長や部長から工場の部課長には、対応をしてもらった御礼の電話をするのですが、極めて事務的な物言いで、部下が勝手にやらかして迷惑を掛けましたというニュアンスのほうが強かったと思います。
工場のソフトウエア開発部長とか課長と一緒に障害説明とか対策で顧客を電車に乗って訪問する時もあり、長い車中で世間話をしていると真面目な人間同士というわけでもないと思いますが、気心が通じ合ったような人が多かったと思います。そういう人からは毎年年賀状が届くと、昔の付き合いを思い出すというようなことになります。