本社に配属されてから、社内外の人間関係は工場勤務の時と比べても希薄になったのは、皆一様に電車通勤で1時間以上もかけて出社するという通勤事情からだけではないと思います。
工場勤務の時は割合に年齢の近い者若者同士で、何泊かの旅行もしましたし、横浜中華街に出かけたりするという様なことも日常的にあり、職場の若手だけで土日に会社のテニスグランドで一日を過ごすというようなこともありました。
工場勤務の時、技術部長が偏差値の高い社員を特別な課に集めて自慢していました。そういう雰囲気は、普通の仕事をしている社員の間に嫌悪感を生んで、部長に媚びる若者もいましたが大半は心根に反発心を持っていたので、仕事が終わってからの時間とか土日は閉塞的な職場からの開放感を味わいたいという風に思っていたのではないかと思います。工場勤務の時の同期社員は今でも親近感が持てるのは、当時のそういう付き合いがあったせいだろうと思っています。

本社で新規まき直しという気持ちで勤務をはじめたものの、事業部の惨憺たる実情とか、まともに仕事も出来ない口先だけの上司がたむろする暗い雰囲気の職場では、社員同士で何かをしようとする意欲さえも出ないという状況であったと思います。
この暗い雰囲気は事業部内にとどまらず社内全体にあり社風であるとも感じました。その理由は、私の配属された弱小事業部は、余程の思い切った事を始めるとか、切り替えるとかすべきだったと思うのですが、何もできないのは事業部長や営業部長の能力不足なのだろうと思っていましたが、そういう不甲斐なさが職場に活気を抑制し社員同士がいがみ合うというような状況があっただからだと思います。
一方、業績の良い事業部ではどうかというと、毎年の売り上げは自然に世の中の景気に連動して上がりました。仕事の実務は全て協力会社の社員がするので、社員は会議や打ち合わせに加えて、取引先の接待が仕事となり、のんべんだらりとしたマンネリの雰囲気がフロア全体に広がっていて、外目には静かで良い職場と見えるかも知れませんが、実態は前日の飲み過ぎでぐったりして居眠りしている人もいたのが暗い雰囲気を醸成したと思います。
又、当時は事業部でゴルフ大会とか慰安旅行などというのが会社の方針もあって行われていて、私も幹事を何度か経験しました。こういう行事では、社員同士が仲良くなれるのではなくて、単なる飲み会が場所を変えて行われているだけで何の効果もないと思いました。バス旅行などの慰安旅行というのは自然にさびれたのは、企業に余裕が無くなっただけでなく、社員同士の懇親には効果がないというのも理由だったのではなかったかと思います。
時々、ライン課長が思い出したように夜8時過ぎに課員を飲み屋に誘う時がありましたが、嫌われ者の課長からの誘いでも酒好きな社員は足取りが軽かったのですが、酒を飲めない私は苦痛のひと時を過ごすのが嫌でした。上司の係長や他の課員との残業後の飲食は週に1回位はあって、課長の変な拘束力を感じない中で、営業部長や課長の悪口を好き放題言い合って食べてばかりいました。そういう生活をしていたら自然に腹が出てきて体重も増えるという悪い兆候が表れて、背広は作り直すたびに胴回りが増えていきました。
しかし、そういう社員同士の懇親会をしたところで仲良くなるという訳でも無く、お互いに不平不満を言い合う場所になっていただけでしたので、転職後にも付き合うということは皆無でした。その職場仲間の中にも呑気な性格の人だけが今でも年賀状を送ってくるというようなものです。

丸の内勤務というとサラリーマンでもステータスですと誰からか聞かされたのは本社異動後に随分と時間の経った時だったと思います。そういう事が理由かも知れませんが、職場に配属されていた事務女性社員は美人が多かったように思いました。
本社各フロアに配属される女性事務社員も、取引先や系列会社役員の娘を紹介されるという例が多く、業績が悪くて女性事務員の採用が少ない時に、紹介されて断るのに大変だと社内でも噂が聞こえるような時もありました。そういう事情があり、事務女性社員の容姿は自然と美人が多かったように思いましたが、意外だったのは以前のブログでも紹介した通り、社内結婚というのが非常に稀で、女性は近くの別の企業の社員と結婚する例が多いのでした。こういう事情は、女性社員が事務作業を通じて感じる職場の暗さに由来していたのではないかと推測をしています。
職場はあくまでも生活をするための場所であって、生涯の仲間となるというようなことは無いというのを知らされた時でもあったと思います。
本社の弱小事業部に配属されて色々な仕事をしたのですが、こうして振り返ってみると一番時間の経過が長く感じられたのは社内での事務作業ではなかったのかと思います。
毎日、朝9時始業でしたが8時前には出社していました。事業部の中では大抵は一番か二番目に早く出社していたという状況でした。次に早く出社するのが女性事務職員で、自分の所属する課員の机を雑巾で拭くのが日課で、機嫌のいい時はお茶を出してくれたりするときもありました。
本社勤務の時の私の席は、何時も窓際から離れた蛍光灯がつかないと暗い場所ばかりが割り当てられていたというのも目が悪くなった理由かも知れませんでした。近眼になったのは工場で毎日仕様書や図面を書きすぎて仕事の内容に目の視度があったのだと思いますが、本社では照明の暗い場所で長時間書類を書きすぎたせいで近視の度が進んだのだと思います。
早く出社していた理由は何らかの理由で毎日毎日何かしらの書き物があって、当然手書きなので何度も書き直しをする必要がありました。
事業部のフロアには、手書き文書作成に字が上手下手は関係なく、一応きちんと字が揃って書けるようなマス目の大きさに色々な種類がある方眼紙がありました。こうした紙に毎日字を書いていても大して上手く書くようになれなかったのは、小学生の時にちゃんと勉強しなかったせいだとも感じて、小学教育の重要さを理解した時でもありました。
 
営業という仕事柄、顧客を訪問した時には帰社後に必ず営業報告書という書式が決まった用紙に、顧客の状況とか事件とかを書いて課長に提出するということがありました。手書きなので時間が掛かりましたが、この報告書を書くことで情報を整理するという習慣が身について悪い事ではないと思いました。しかしながら、この報告内容に対して気の小さい課長が細かいどうでもいいような事にいちゃもんを付けて赤字でコメントして返して来るのが気に食わぬことでした。この課長は部長にはごますりをして部下には厳しく当たるという男で、そういう男を課長としてを据えていたというのも、弱小事業部の幹部の能力不足を示しているのだとは当時から感じていました、そういう意味での失望感を抱きながらも毎日を送ることにストレスを感じ続けていました。
事業部では毎月全員が受注目標の達成状況を事業部長に報告するという会議がありました。期初に決めた受注見込みの金額が達成できそうかどうかを、大きな会議室で50名くらいがぐるりと四角に並べた机に課ごとに座り一人ずつ報告をしました。この会議の資料作りも一仕事で、単なる数字の説明資料だけでなく、悪いか良いかは別にして、案件の状況や競争相手の状況も説明するための資料も作成をしなくてはなりませんでした。そのうちに、事業部内だけでなく工場との情報交換のために資料を作るとか、役員説明用資料とか言われて作成する資料の数がどんどんと増えて、毎日毎日残業をしても追いつかないというような状況に陥ってしまったのでした。
この目標管理会議の3月の年度の終わりの会議では、社内営業や昔からのなじみ客を担当している課以外は殆ど達成できていないという事を全員に知らしめるような感じになって、事業部中でも勝ち組と負け組があるような雰囲気でした。たまたま担当している顧客によって業績に差があると、それが本人の能力なのかと勘違いをしていたのが営業部長や事業部長だったというのも感じていたので、本当にこういう事業部で定年までやるのかなという疑念を持つと、毎日の仕事に対する意欲も失せてしまう様に感じていたのを思い出します。
それ以外に、顧客に対して製品を売り込むための提案書もシステムエンジニアと一緒に作成して徹夜作業というのも当然というような事も多々経験しました。手書きの提案書からワープロ作成の提案書に変わっても、見栄えが良くなっただけで提案書自体を作成する手間が少なるということはありませんでした。
苦心して作成した提案書も完成すると課長とか部長に一応は見せるのですが、何せ文科系出身者ばかりなのでシステムの内容を十分に理解できないせいか、体裁ばかりに目が行って肝心の中身には触れることが無く、本当に提案内容が顧客の要望にマッチしているのかどうかさえも判断できていないと思えて、儀式みたいなもので何の効果も無いので時間の無駄だなと心の中では思っていました。
提案したものの、うまくいけば受注出来ましたが、失注した時は多くの場合事業部長や営業部長の判断誤りであったというのも、能力と地位との乖離が原因だろうと思っていました。失注した際には、誰彼関係なく殆ど場合に部下のせいにされるという傾向があって、これも事業部内の雰囲気を暗くしている理由だと思いました。
事業部の業績が段々と悪くなるにつれて作成する言い訳の資料も自然に増えてきて、便利屋使いみたいに朝から晩まで営業職を兼ねながら資料作りにいそしんだという時を過ごしました。最後の頃には、書き物を作成するために毎週土曜日まで出勤していて体力も限界だなと感じることもありました。
本社に異動してからコンピュータの販売とか顧客フォローというような仕事を担当しました。弱小事業部のなかでは少ない顧客を巡って取り合いがあったのはコップの中の争いそのものでした。一番儲かって営業も楽なのは社内の利用部門に対する営業でした。身内営業なので社内接待をして担当者をまるめこんで費用は若干値引きするにして手打ちを行うというような具合で、外目には定期的に大きな受注がくるので楽な営業だなと羨ましく見えました。そういう楽な営業を事業部長が率先して行って、厳しい営業に取り組む連中には余り協力をしてくれなかったと思います。この時、事件が色々起きましたが個別案件については以前のブログでも紹介した通りです。
弱小なるゆえに事業部長自ら色々な施策を打つのかと思って見ていましたが、何も出来ずに戦前の軍隊如く「今度はあなたが切り込み隊長だ」と言って課長を鼓舞していただけで、競争相手が最新の兵器で攻めてくるのにこちらは竹槍しかないという状況を理解していないのではないかと思わざるを得ませんでした。
社員としては上司をけなすということはしませんでしたが、心の中ではそういう風に感じている人も何人かはいたかと思います。この事業部長が赤字事業の引責みたいな形で退職した後に、外資系企業に転職して散々社内接待した利用部門にちゃっかりと再就職した会社の製品を販売して、その成果をわざわざ退職した事業部の子飼いの連中を集めて自慢していたのを覚えています。この事業部長もプロバーの社員ではなく転職して事業部長になったと聞きましたが、こういう能力は無いが体裁ばかり繕う人間がやり手に見えるのは今も昔も変わらないのかもしれないとも思います。
私が転職後の何十年後も経った後で、何回かこの元事業部長に地下鉄で出会ったのですが、すっかりみすぼらしい老人に成り下がっていた相手は、私が何時も背広を着て勤務している姿に驚いている様子で私の方を見ていましたが、私は相手を無視してさっさと下車するということがありました。サラリーマン生活している中で、感謝すべきことをしてもらえなかった人とはサラリーマン退職後は当然見も知らぬ他人になるということだろうと思いました。
この事業部長が目をかけていた業務部長が数年前に横領というような疑いで新聞紙上をにぎわしたので興味を持ちましたが、数人の共謀者の中でもこの元業務部長だけは契約上に何の不都合もないとして罪を認めていないというような報道がされていました。この元業務部長の昔の行状を思い出してみれば、冷静に上司のご機嫌取りをして自らの評価を高くしようとしていたような行動をしていたのが、サラリーマンの最後に自ら仕組んだ罠にはまったのだろうと思うと、これも皮肉なものだという風に感じました。
業績の悪い職場だったのが元々暗い社内の雰囲気を益々暗くしていたのは間違いないと思います。そうなると人間関係がぎすぎすして、顧客の取り合いとかもあって社員同士がいがみ合うという事もあったので定年後も年賀状のやりとりをする人も限りなく少なくて、人の好い人だけが付き合う相手として残ったという風に思えます。
そういう悪い社内の雰囲気の事業部に営業要員として新入社員が配属されると、会社に入社した最初の時点で同期の新入社員とのものすごい差があるのが見えて可哀想だなと思う様になり、時々は飲み屋とかに行くようなこともありました。同時に、事業部には協力会社から派遣されている若手の社員もいたのですが、そういう人達とは万年厳しい営業という仕事をしていて仲良く出来ました。それは何時も虐げられているという共通の土壌があったからだろうと思っていました。つい先日も、偶然地下鉄でこの昔の協力会社の社員に出会って驚いたのですが、ずいぶん昔に勤務条件のいい会社に転職しましたという話を聞かされました。
子会社の工場から一緒に本社の営業部門に異動になった数十人のうち、私が転職するまで本社に残ったのは私一人だけになりました。そのほかの人たちはシステムエンジニア部門とか関連する他部署とか、地方営業所に異動になりました。
本社に異動した時、事業部には未だ販売課という名称が残っており、学生採用も販売課という名前なので理科系の出身者が応募してくるのは皆無で、文科系の出身者ばかりでした。販売すると言っても右から左に流すような商品ではなく、コンピュータの正確な商品知識が求められるものでした。従って技術に明るくない販売員は当然のように何時もシステムエンジニアに同行してもらい技術説明をせざるを得ないという状況でした。
子会社の工場から異動した人たちは全員が技術者で、理屈を自身で立てることが出来るので、本社の販売課にいた文科系の人たちと話をするとやり込めてしまう事があり、異動先の文科系の人たちとは反りが合わないような面があって他部署に異動になったものと思います。しからば何故私一人が残れたかというと、売れない事業部でも以前のブログで紹介した通り少しずつは成果を出していて無視できなかったからだと思います。
又、本社には別の面があって、部下が親分子分の関係を自ら求めて上司にすり寄るというような事もありましたが、その上司が何かやらかして地方に異動になったりしたときは、社風かどうかは判然とはしませんでしたが、上司が異動した暫く後に子分も地方営業所に異動になって親分子分一家が島流しの様に地方営業所に異動になるというようなことがありました。
職場に薄々そういう気配を感じるようになってからは、特別な人と仲良くなるのは自ら自制していましたし、元々酒が飲めないので相手からも誘われるという機会が少なかったのが幸いして、工場から本社に異動してから転職する迄の13年もの長い間、本社に勤務することが出来たのだと思います。私の勤務していた会社の本社では他事業部でも異動は多々あり、10年も本社に勤務していた人は少なかったという風に記憶しております。私の所属していた事業部以外の事業部では、特段な知識とか能力を求められる事業部は少なく、何処の営業所や工場に異動しても朝から晩までのんべんだらりと会議とか打ち合わせをしていれば務まるという様に覚えているので、異動の理由は親分子分の関係での島流し的な異動ではなく役所の定期異動に近いものだったと思います。

私の所属していた事業部は文科系の人たちが多く、コンピュータの理解というのは難しかったというのが事業部が行き詰った理由の一つだと思います。コンピュータというのは使い手によってどうでにも変わるという商品なので、顧客の理解レベルの高低で利用の効果が何倍も違うというものだという事が分からず、システムエンジニアが頭で想像した宣伝文句を繰り返しているだけでは売れない商品で、市場一般に出回っている商品とは一味も二味も違う非常に特殊な商品だと思います。そういう特殊な商品だけに、一般企業では社内理解が進まないのが返って幸いして、担当部門と外資系コンピュータ会社が裏でごそごそやっていても理解が出来ずに、ネームバリューに役員が惑わされて導入を安易に決めている事例が多いのではないかと思います。
商品にネームバリューも無い、資金力も無い、技術力も無い、営業力も無いという、無い無い尽くしの環境にあるにも関わらず、私の勤務していた事業部の上司は部下に大きなノルマを課していたのは全くもって理不尽であったとは今でも思いますが、そういうノルマを課している事業部長や営業部長が現状認識も出来なかったのは、やはり文科系出身の能力では弱小な事業を遂行することは不可能であったというのを証明していたと思います。
私の所属していた事業部は万年赤字でしたので、私が転職後10年程後には分社されて子会社になったのですが、今ではこの子会社社長が親会社社長の退職後ポストになっているというのを聞いて皮肉を感じざるを得ません。 
本社での13年にわたる仕事は当然ながら変遷の歴史がありました。弱小事業部だけに一人であれこれこなすことが求められたのですが、根が正直だけに何の疑問も持たずどんどんと受け入れてしまうところが自身の弱点であったと最近になり気づいたところです。
Ⅰ期 顧客フォローと営業基本取得  5年
Ⅱ期 営業企画と宣伝広告      5年
Ⅲ期 技術システム営業統括(CAD/CAM)8年
本社に配属されて右も左も分からず、初心に帰り学生時代に一番の苦手であったコンピュータの勉強を始めると同時に何社かの既存契約先顧客の担当を任されました。その中で色々な事件が起きたのですが、それは以前のブログで紹介しました。この時は毎日手書きの報告書を書いて国語の勉強をし、顧客からは親切心から営業のイロハをご指導賜ったというような時でした。
「営業としてはこうしなきゃ駄目さ」と顧客の課長から指導されて、会社に戻ってから上司の課長に報告すると「そんな事はありまへん」と関西弁で反論されて顧客と会社の上司との板挟みになっていた様な時期でした。早い話が、顧客の要望が弱小事業部のわずかな利益に反する時にはのめませんと課長は器量の小ささを示していただけの事でした。私の直属上司として係長がいましたが、内々は私の味方でしたが建前としては課長に従わざるをえないという立場は理解ができました。年を経る程にストレスが増えて行ったのも当然と思います。
自然に仕事量も増えたこともありましたが、夜8時が定時という職場で、部長が帰宅すると課長が帰るという流れがあり、平社員は課長が帰った後に帰るので夜8時から9時が退社時間でした。部課長が悪い業績の言い訳文書を作成していて、帰宅時間が9時も過ぎて遅くなりそうな時には、係長や隣の課員から「ちょっと打ち合わせでもしませんか」と声が掛かってぞろぞろと何人か連れだって会議室に行って上司の悪口を言いあうということもありました。
毎日が夜遅くなるので、夕飯を丸ビルのギンセイという食堂で食ってから職場に戻り、夜10時から12時過ぎまで何かを書いているという状態が7・8年は続いたと記憶しています。当時は未だ30歳代だったので元気がありましたが、後に考えてみればよく体力が持ったものだと自らの過去を感心した時でした。
そういう運動不足の社員を心配してか、当時としては新しい流行の社内フィットネス器具を地階懇談室に設置したのも同時期でした。社外への体裁を考えるのも総務部の仕事で、こんなもので誤魔化せるのかねと言っていた人もいました。
会社で営業職という言葉が出てきたのは私が本社に異動してから十年もしないうちだったと思います。販売1課とかいうのが当時の名称で、何処の会社でも販売という名称の部署があり、文科系学生の就職先みたいに思われていた時代でした。営業という風に言い方が変わったのは「販売」という言葉が「売るだけ」というイメージを顧客に与えるので、一時的に売るよりもその後の顧客との付き合いの方が大切なので、そこで営業というような呼ばれ方が出来てきたのだと思います。
私の仕事はコンピュータの進化と共に歩み且つ弱小事業部だった事もあり、基本的には大手外資系の会社が繰り出すキャッチコピーに踊らされ追随するだけでした。今どきの「AI」と全く同じことが何十年も以前から繰り返し行われて、顧客に新しいコンピュータやソフトウエアを売りつけていたのは今も昔も変わりません。そういう言葉に踊らされているマスコミとかコンサルタントを見ていると、作られたブームに乗ることで自分自身を売り込んでいるだけとしか見えないのも今も昔も変わっていないと思います。

仕事は大きく3つの期間に区分が出来るのですが、急に仕事が変わるという様なことは無く、仕事の内容がⅠ期からⅢ期に増えて行ったという事です。仕事がこなせるというのを見透かされて何でもやらされたという印象ですが、この時に事業部とは何をするのかという別の意味での勉強が出来て転職後の新しい会社への移植が出来たと振り返ることが出来ます。そう思うと、毎日があくせく疲労をしながら過ごしていた時間が後には役に立ったという時期であったとも思えます。
当時のコンピュータは図体が大きい事もあって、旧機種のパネルを塗りなおしOSを新しくして再度販売するという弱小事業部ならではの信じられないような事が行われていました。こういう変な事業はいずれ終息するというように思っていましたが、私が転職して数年後位には実際にそのようになり、他社のコンピュータを売ることになったと知りました。こういう発想は自己中心的で客観的ではないので潰れるのですが、転職後にも同じような事態を引き起こした人がいました。サラリーマンも地位と能力がバランスが全く取れていないというのが何処の企業にもあるということを見聞し、サラリーマン生態学の研究材料にはもってこいの事例かなと思っています。
仕事の実務では手書きや和文タイプライターの時代からワープロに切り替わる時代を経験しました。本社タイプ室のおばさんタイピストが作成した契約を、顧客の要望追記や間違い指摘で差し替える時は大変でした。糊付けされた袋とじを水で濡らして解体して、本文を差し替えて再び袋とじをするという作業でした。何時も事務担当の女性に任せていましたが、定年間際には何時も自分自身で袋とじをしていたのは、当時の女性に差し替えをさせすぎた因縁があるのかと思う事がありました。
この時はパソコンで文書作成をする時代ではなく、ワープロの普及期でした。まだまだワープロが高価な時でもあり、職場に数台しか置いてありませんでした。A3で資料を作成するときは下手な手書き文字で書いて上司に説明するというようなことをしていたのですが、文字が元々下手だったせいで体調によって文字がえらく乱れたりするときもあり、つくづく毛筆練習をしていればよかったと反省していた時でもありました。
私のサラリーマン人生が始まったのは東京丸の内の本社異動になってから始まったと言っても過言ではありません。工場から要員リストラのために異動させられたという負の側面に加えて、配属先の事業部の内情が分かるとうんざりという心境になったのでした。当時は未だ情報産業が新人扱いで経済界でも軽く見られて時代という背景から、社長が一度は情報産業に参入を決めたものの数年で撤退して、暫くして再び参入したという経緯がありました。社長は新聞にも出て名前は売れていましたが、その実は闇行灯という事が分かる事実でした。この情報産業に再度参入の時に、子会社出向者だけでなく子会社採用の年配者が本社の事業部に異動になったのでした。
工場勤務の時の通勤は独身寮から歩いて15分の田圃道で人の多い街中を歩くことは無く、通勤は安全靴に作業着姿で通すことが出来ました。しかし、東京丸の内という日本でも有数のサラリーマン集合地域に出勤するというので背広にワイシャツや靴を新調しなければなりませんでした。最初は地元のスーパーで適当に安物を選んでは着ていたものの、職場の先輩から「センスがおかしい」とか「色が合ってない」「ネクタイが派手だ」というような事を指摘されて、仕方なく勤務地の近くの百貨店で全ての衣料品を購入するようになりました。こういう経費は自分の給料で賄わなければならいので、本社勤務とはえらく損をするものだという風に思えました。しかし営業という職種柄、顧客の前ではパリッとした清潔な服装は相手に与える印象が違うので、いい背広を着ることは必要だということは営業経験を積むほどに実感しました。しかし、何十年と同じメーカーの靴を履いたせいかどうか不明ですが、営業職で歩きすぎたせいか足は見事に外反母趾になりました。
最初、通勤も工場近くに住んでいたこともあり、住居は変えず1時間30分程をかけて通勤していました。鎌倉と言うある魅力ある地域に住んでいたこともあり、東京へ転居することは直ぐには考えませんでした。土日の鎌倉散策が日課みたいになっていて、それが仕事に対するストレス解消になっていました。
通勤電車に乗って毎日通勤していると、私同様にくたびれたサラリーマンも大勢いましたが、中には高価そうな背広を着て結婚し既にマイホームを持っていることが判る人も何人もいて、会社格差というのは大きいものだというのを感じました。
会社格差を感じたのは通勤電車車中だけでなく、自分の勤務する会社の周りの会社でも十分に感じることが出来ました。私の勤務していた会社では本社にも関わらず食堂が無く、昼飯は工場と同じ仕出し弁当でした。値段は200円くらいで格安なのですが、当然ながら味について文句は言えないというものでした。目の前の会社では社員食堂があり、何かの機会に食べてみると格安で質素というものでしたが、弁当よりはましだろうと思えましたし、メニューも色々あったので、食堂を維持できる会社を羨ましく思いました。またある時近くの商社に行った時、会話を何気なく聞いていると課長が事務職の女性たちに向かって「今日は何処へ食べに行こうか」などという話が聞こえてきて、毎日1000円も使って昼食を食べられる人たちがいると驚いたものでした。何十年も以前、現在のデフレ昼食と違い外食の昼飯は1000円が相場でした。
元々運動が好きでもないのに「営業ではゴルフが必要だ」と言われて丸ビルのゴルフショップでハーフセットを購入させられて以来、嫌々数十年も下手なゴルフをせざるをえないということも経験しました。接待ゴルフなら相手が満足するように準備をすればよいのですが、嫌々参加せざるを得ない職場のゴルフ大会は長い間続いて、50歳代になって漸く行かなくても済むようになったのでした。ゴルフの練習用品やゴルフ関連用具を纏めて捨てた時は本当に晴れ晴れという気分がふさわしい気分でした。
 
複数工場がある会社の本社機能は、工場の管理部門が全て仕切っているので割合小さくて、本社機能の大半は製品毎の事業部の販売(営業)部門で構成されていました、それは今でも変わらないと思います。
社内では、事業部間格差が大きくあって、儲かる事業部と儲からない事業部があり、私は儲からない事業部にいたのも不幸を感じました。同じ会社に入社してもサラリーマン人生をのんびりと暮らせる人と、毎日あくせくして走り回る人というのは随分と違いました。事業部間の人事交流とて殆ど無く、余程の失態をやらかした人が儲からない事業部に島流しで来るくらいのものでした。
全国に営業所なるものがあり、本社の販売部門の出先機関でした。営業所は基本的には地元居住を望む人で構成されているのですが、本社からの異動組もいました。本社からの異動組は実質島流しという体裁で異動するケースが多かったように思います。本社から地方営業所に異動しても、その後本社の事業部長にでも抜擢されないと本社に帰れないので、一度地方営業所に転出すると定年まで異動先で勤務している人もいましたし、私の先輩も博多に異動になり定年前に死亡しました。まるで菅原道真の遠投と同じことが現代でも行われているのかなと思いますし、多分現在も社風が変わらない限り変わっていないと想像しています。
儲からない事業部だけに目立ちたちがり屋とかごますり屋が横行していて、あからさまであったというのもありました。今どきは無いとは思いますが、上司に中元歳暮を贈っている人がいたというのを聞いて驚いたことがありましたが、厳しい職場だっただけに少しでも自分に対するノルマを減らして貰おうと思っていたのかと思いました。そういうごますりをしていた人が定年前に関連会社に栄転して、その関連会社で部下に裏切りにあったなどという話を聞くと、つくづく因縁というものを感じさせられます。
私自身のサラリーマン生活48年が長く感じられた理由を色々考えてみました。長くと言っても、その長さはとても長かったという風に感じております、それだけに現在の仕事をしない毎日は背中から重い荷物が無くなって軽くなったと同時に色々なしがらみや拘束から抜け出して解放されたという気分で爽快に感じております。
サラリーマン人生も十人十色と思いますが、私の場合は職場の場所を3回変えて、段々と成長をしていったように思います。先日新聞の某社社長の交遊録の記事があって読んでいると、社長職という名前だけで会社で自分が何をしてきたのか書いてありませんでした。年功序列で社長になると、仕事はさておきという事で、学生の頃のことばかりに花が咲くということにならざるを得ないという印象でした。それに引き換えると、私の場合はずっと仕事漬けの毎日だったので、一つの仕事を思い出すと芋弦のように次から次へと記憶が呼び覚まされて止まらないということになります。
 
Ⅰ期 工場勤務(サラリーマン基礎習得期間)    5年
Ⅱ期 本社勤務(情報システム営業職の実務経験期間)  13年
Ⅲ期 転職(情報システム営業職として成果を出した時期) 27年
Ⅳ期 派遣社員                             3年
 
工場勤務でサラリーマンの基本習得期間といえども、普通に仕事はしていたので非常に疲れました。監獄同様の一日中拘束された環境での定型的な仕事でした。部内は私の様にラインで仕事をしている人だけでなく、偏差値の高い人ばかりを集めた隣の課では英語文献を一日中読んでいる人が何人もいたのが印象的で羨ましくも見えました。そういう人達は一様に度の強い眼鏡をかけていて、机の上には学生の頃から使っているらしい擦り切れた岩波の英和辞典がおいてあったのを覚えています。数年後、そういう人達を養う財源が無くなると、聞いたことの無いような小さな財団に異動になったので、会社ではラインで仕事をするのが王道だと自覚させられた時でした。技術者集団の冷たい雰囲気の職場でしたので、他人の失敗を聞いて内心笑ったり、毎日遊んでいるように思えた人たちの異動を喜んだりするような雰囲気がありました。
工場勤務ではひたすら図面や仕様書を毎日書き続けてとうとう指が腱鞘炎になるとか、異常に肩がこるので鍼灸院に通うというようなこともありました。工場の仕事は個人分担されていて、自分の仕事は自分一人ですべてこなすというやり方だったので、その個人に割り当てられた作業量が適正かどうかよりも納期重視で行われたので、右も左もわからない新人にはひたすら走るしか無いという状態だったと思います。そういう非常に多忙な職場環境が、ブログでも紹介しましたが隣の課の私の一つ下の後輩社員が突然失踪した理由であったかもしれないと考えることがあります。私の仕様書の書き間違いで費用損失も出し、年末の社員が殆どが帰省している中で私だけが居残りして機器障害の原因究明テストをしたという様な事件を経て、手書きの乱雑な文字の操作説明書と一緒に製品は納期通りに顧客に納入出来た時の達成感は忘れられません。
しかし、考え直してみれば安い給料であれやれこれやれと言われて素直に仕事をするのが普通と思っていたのですが、同じ部内の別の課には図面を前にして一日中ぷかりぷかりと煙草ばかりを吸っている人がいて、私と違い随分と暇だと感じていました。多分、この人の仕事の仕方が正道で、自分のペースでしか仕事はしないのだというのを貫いていたと思いました。こういう人を見習うべきであったとは随分と後になって理解が出来たのでした。
部員の親睦を目的とした慰安旅行で伊豆に行ったこともありましたが、所詮そういう表面的な懇親会をしても部の中での人間関係が改善されることはなく、会社の上下関係がそのまま旅行中も維持されるだけのつまらないものでした。そういう環境に本当に嫌気がさしていたころに、業績が悪化して出向している社員を本社に戻そうという事が発生したので真っ先に手を挙げました。元々技術採用の人が販売(当時は営業とは呼称していませんでした)というような部署に異動するのは余程の覚悟が必要と思われました。技術主体の製造業だった会社のせいもありますが、販売部門が軽く見られていた時代でした。この時に異動した人たちは私を除いて皆自らの希望ではなく会社からの指名で、言ってみれば不要要員の整理ということでした。
私の人生では、異動とか転職というきっかけは、周りの環境が悪化した時に起こり、それが何時も上司から命令されるのではなく自分の意志で動こうとした時、目に見えない運命の糸に導かれていたかの如く、渡りに船のように新しい職場が現れたのではないかと感じています。
工場勤務では、日本でも最先端の製品開発プロジェクトの最初から最後までを一貫して担当したのが後々の仕事に非常に役立ち、顧客の情報システムのコンサルや業務改善の提案は言うに及ばず、膨大な量の仕様書を書いていたこともあって資料作りはお手の物ということになりました。営業マンと言いながら何時も一緒に仕事をするシステムエンジニアからは皮肉を込めて「あなたはシステムエンジニアですなあ」と言われていて、私の仕事ぶりがシステムエンジニアの癇に障っていたようでした。
長いサラリーマン生活を送り、果たしてその期間が長かったのか短かったのかということが話題になることがあります。テレビなどで時々見受けられるコメントは「あっという間でしたね」というのが多いように思います。
私自身、学校を卒業してから48年間の出来事をこのブログで書いてきたのですが、仕事をしている時から書き始めたこともありますが約500の出来事を書くのに8年間もかかったこともあり、この48年間というのは非常に長く感じております。「あっという間でしたね」という感想を出す人の頭の中は、多分思い出すことが少なすぎて短く感じているとしか思えません。この私のブログの500項目の話題についても、48年の日数で割ると約1カ月ごとに起きた出来事しか書けていないという事を考えると、この500項目の間にはまだまだ語りつくせないことがあると思っています。
 
新入社員研修一カ月後、鎌倉の子会社に出向となり配属されました。配属された設計部の歓迎会が鎌倉の有名なフレンチレストランで行われたのですが、その店の大広間は広い和室に四角く机が置かれていて、その上に白いテーブルクロスが置いてあるという光景だったと思います。座布団に座りながらフレンチを食べるというスタイルだったわけです。40年も以前の話なので、田舎のフレンチと称する店はそれでも通用した時代だったかも知れません。
フレンチのフルコースというので沢山のスプーンやフォークが並べてあるのですが、貧乏人の小倅ゆえにそういう料理なんかは食ったこともないので戸惑いましたが、私が「ナイフやスプーンをどうやって使うのでしょうか」と横に座っていた係長に聞くと「外からとればいいんだよ」と言われて自らの無知をさらしたということもありました。その時、人生初めてオニオンスープなるものを飲んだ感想は、味は分かりましたが金を大枚払って食うものではないなと思いました。
学生の頃は会社の学生寮住まいというので料金は安い代わりに、住み込みのお姉さんが作るご飯は食い放題でしたが、おかずは非常に質素でした。そんな生活を4年間も送っていたせいか、入社直後に200名弱の集団研修というのが名古屋の工場であり、その研修の時に朝晩食べた飯が学生の時とは大いに違って、サラリーマンになっただけで随分とうまい飯を食えるようになったものだと感じました。当然ながら、この時に体重は自然に5キロほど増加しました。
工場勤務開始後、宴会が何度かあったのですが、上司の次長から「何か歌でも」と指名された時には大いに困り何も浮かばず、とうとう歌えませんでした。学生寮で生活していた時、時々は食堂で100人が集まって宴会があったりすると大声で歌うということはありましたが、まともな歌を歌うということはなく、たまたま隣接する役員邸宅に大声で卑猥な歌を歌うのが聞こえて謝罪に行くほどのことがあるくらいでした。
工場勤務は塀に囲まれて簡単には外出できない生活なので、電話も外からかかってくる電話は取れましたが、自分から電話する時は会社の玄関の外にある公衆電話を使わなくてはいけないという事もありました。私用で休むときや一時外出する時も、いちいち申請書に理由を書いて係長から課長部長の承認印をもらわなくていけないというシステムでまるで囚人のようだと感じたことは何度もありました。
第三者から見るとすごく難しい仕事をしているように見えるのは、今も昔も変わらないと思います。そんな仕事も新人のうちは新鮮ですが、仕事に慣れてくるとものすごい倦怠感が感じられるように思いました。技術的な仕事なので少しは勉強しなくてはといけないと思って、独身寮で過ごす休日も専門書を読むという事はしました。
 
こういう具合にひょいと何気なく思い出しても、結構色々な場面が次から次へと思い出されるのですが、サラリーマン生活で何が一番の面白かったことかというと、サラリーマンをしている人間の生態という事だと思いました。社長と役員、役員と管理職、管理職と担当者という上下関係からと個人の持つ価値観がサラリーマンの行動を決めていたと思います。
このブログでは自身の長いサラリーマン生活の出来事や事件を思いつくままに書いたのですが、この先はサラリーマンの生態というものを色々な事例で紹介するのが面白いなかと思います。出来事ではなく、その時のサラリーマンの行動を決めたものはなんであったかというのを順次紹介したいと思います。
サラリーマンの行動を決めるのは、私利私欲や事なかれ主義がベースになるのは当然ですが、そういう状況でも妥協をせざるを得ない状況ではどうして起こったのかというのが興味のあるところだと思っています。
小学校や中学校内の教室の様子というのは父兄でもほんの一瞬しか立ち入れない場所なので、そういう意味では世間の中のブラックボックスとでも言える状態ではないかという事を、普段は公立の学校に全く縁の無い者がたまたま作業者として入校して強く感じさせられました。時々テレビでいじめが露見して謝罪している教育委員会の面々が発する言葉は何時も、事実を把握していませんでしたとか、調査しますとかを連発していて、当事者なのに他人事の様子は学校内情報を遮断されている一般市民から見たら驚きを通り越して呆れるしかない事態だと思えます。
一般市民が学校に入れないのをいいことにして、学校内では本当の教育に役に立っているかどうかも分からないくらいにパソコンを導入しているのではないかとも思えました。多くの小学校や中学校にはコンピュータ室と呼ばれる教室や場所があって、何十台というパソコンが設置されていました。そういう状況だけを見ると、このパソコンを使ってキーボードの操作練習でもしているのかなと思えるのですが、本当にそういう教育が行われているかどうか不明だと思われる学校がありました。
その理由は、部屋の中の匂いでした。部屋に入るなり強烈な黴の匂いがあり、冷房装置を入れても強烈な黴の匂いは取れませんでした。普通ならば匂いというものは、同じ匂いを嗅いで暫くすると鈍感になり感じなくなるものですが、何校かのコンピュータ室内の匂いは強烈で一日中強烈な黴の匂いで体調が悪くなるのではないかと思われるほどでした。たまたま職員室で先生とコンピュータ室の匂いについて話をすると、先生自身が顔をしかめて「匂いが強烈でして」と言っていました。そんな状況を見ていると、成長途上の子供たちに体に悪そうな強烈な悪臭の環境でパソコン教育をしていると考えるには疑問があると思えました。空調機も定期的に作動させていれば黴なんかが発生するはずも無いので、黴の匂いが強烈に充満するコンピュータ室は殆ど使われていないと推測するのが自然のようにも感じました。
教育委員会がこういうパソコン教育をするためにパソコン設置をさせたのだとは思いますが、小学校の教室の後ろや横の壁に貼ってある生徒の書いた自己紹介とか観察日記等を見ていると、そういう書き物にサインをしている自分の名前がまともに書けない生徒もいるというのが分かるので、パソコン教育以前で問題があり、パソコン教育どころではない事態であるという状況に見えたのですが、いじめ問題で知らぬ存ぜぬを連発する、現場の実態を把握しようとしない教育委員会が、誰かにそそのかされてパソコンを小学校に設置したとしか思えないと感じました。役所が普通によく行う箱もの行政と同じ発想でパソコンが設置されているとも感じました。
又、各学校の教室にはパソコン画面を大スクリーンに投影する電子黒板がありました。全教室に設置してある電子黒板が正常に動作するかどうかを確認したのですが、画面がずれて居たり、故障していたものや、そもそも電源コードが外してあったりする状況を見ると、全部が全部十分に活用されているとは思い難い状況と思えました。これも役人の発想で、利用の有無に関係なくすべての教室に設置したという意図が見え見えの状況でした。こういう機器を導入しようと目論む者、それをうまく理由を付ける者が仕組んだ結果とも推察されるのでした。
学校に導入される情報システムそのものが確固たる教育思想や方針によってものではなく、場当たり的に世間の情報に踊らされたり、議員や業者にそそのかされて設置されているのではないかという風に疑念を持たざるを得ないと思いました。学校に設置する情報機器の情報や導入効果などと言うものは世人には理解不能と考えて役所も情報を出さないことと相まって議員や教育委員会の無知が、現場の実態とはかけ離れたことをしている事例となっているのかとも思えました。
今回のパソコン設定アルバイトで公立小学校6校と中学校2校を訪問して、学校内を見学できたという貴重な機会となりました。
私自身はサラリーマン時代には全く縁の無い世界で、学校内の様子も全くうかがい知れないと白紙の状態で小学校や中学校を訪問しました。例えば小学校1校だけを訪問していれば、小学校はこんなものかと理解したのですが、何校も訪問すると自然に比較するということになり、その差が小さければ驚きに値しないのですが、私が見たのはその格差たるや驚くべきものであったという事でした。丁度夏休みで生徒はいませんでしたが、教室内の様子や雰囲気で生徒の様子はうかがい知ることが出来ました。同時に、学校は学区があり地域密着という事情から、住んでいる地域の環境に依存しているというのを感じました。
 
最初に一番差があると見えたのは学校内の清潔度の差が余りにも大きいと感じたことでした。学校自体は何処も鉄筋コンクリート造なのですが、飾りっけもない質素な外観の学校があるし、一方風格を感じさせるような造りの外観の学校があり、同じ公立とはいえ見栄えの差があるのは不思議だと思えたのですが、学校内部はもっと差がありました。
私のイメージでは公立の学校なので当然ながら廊下はコンクリート打ちっぱなしの状態であろうと想像していたのですが、中には廊下から教室まで全室床が木製フローリングになっている学校もありました。木製の校舎なら自然に廊下や教室は木製ですが、コンクリート造なのでわざわざ木製のフローリングを工事したと思いました。その学校は、たまたまパソコン利用でもモデル校というので生徒にも多数のパソコンが支給されていました。モデル校になる位なので、区としても外部の関係者が来校した時に自慢として見せる必要もあり、木製フローリングにして見栄えをよくしているのかしれないとも想像はできました。
しかし、その見栄えの差は外見ばかりではありませんでした。何処の学校にも掃除用の雑巾が廊下や教室に置いてあるのですが、外観が素っ気なくて内部も薄汚い小学校の廊下に置いてある雑巾はきちんと整理整頓されて干していないし、雑巾の大きさもまちまちで見た目にも汚らしいという風に見えましたが、校内の床が木製フローリングの学校では雑巾もきれいに整頓されていて、その清潔度の差は歴然としていました。又、教室の後ろの壁に貼ってある生徒達の制作物の出来を見ていると、その出来栄えの小学校間格差も大きいという事に気づきました。
ある小学校の入口には「子供食堂あります」というような案内もあったので、その地区には貧困家庭が存在しているのを想像できました。家庭の貧困が小学校にもそのまま表れているのではないかと薄々感じざるを得ませんでした。その薄汚れた感じのする小学校のある教室では、生徒一人に対して先生が一生懸命に教えている場面にも出くわして、私はその生徒に「夏休み中なのに大変だね。貴重な時間だからしっかり勉強してね」と言うとにやりと笑っていました。多分、普段の授業についていけず補習の個人指導が行われているのではないかと思えました。
家庭の貧困というものは当然ながら生徒の偏差値にも影響があるとは普通に想像できるのですが、それが学校内の雰囲気にまで影響をしているのかなと想像してしまいました。薄汚れた感じのする小学校の先生と少し会話をしたときの印象は怖そうだなという風に感じたので、普段の生徒への接し方もそうしないと授業ができないという状況なのかと、どんどんと妄想が広がるばかりでした。
たまたま小学6年生のクラスでパソコンを設定していた時の休憩時間に、教室の後ろの壁に貼ってある生徒の制作物を見る機会がありました。それで感じたのは、同じクラス内の偏差値の差がものすごく大きいと分かりました。それは、製作物の出来栄えでも分かりますが、自分の名前をきれいに自筆で書けていない子が何人かいたのが驚きでした。自筆サインを練習させなければいけないのではないかと感じましたが、当然先生もそんなことは百も承知で困っているのだろうなと感じ、教育現場の困難さを薄々感じとることができました。

訪問した中学校は2校だけでしたが、その内の1校の内部の作りには驚愕しました。内部は全てフローリングでむくの板張りでマンションの中でもいるのかと間違うくらいにきれいな状態でした。人知れず、こういう場所に自分の納入した税金が投入されていると思うと、少しばかり怒りがわくというのが普通の人間の感情だろうと思いました。国内木材の有効利用で補助金が出るのでというのを建前として、業者と議員がつるんでいるのではないかと想像させるには十分なほど綺麗すぎました。
又、何処の学校内でも教室に冷暖房装置があって、夏場で暑いので冷房を利用させてもらいましたが、ある中学校では人気のない廊下まで冷房を入れていたのには驚きました。無駄遣いなどというのとは無縁の世界かなと思いました、何せ学校には一般人は立入禁止で誰も咎める人はいませんから。