本社での13年にわたる仕事は当然ながら変遷の歴史がありました。弱小事業部だけに一人であれこれこなすことが求められたのですが、根が正直だけに何の疑問も持たずどんどんと受け入れてしまうところが自身の弱点であったと最近になり気づいたところです。
Ⅰ期 顧客フォローと営業基本取得 5年
Ⅱ期 営業企画と宣伝広告 5年
Ⅲ期 技術システム営業統括(CAD/CAM)8年
本社に配属されて右も左も分からず、初心に帰り学生時代に一番の苦手であったコンピュータの勉強を始めると同時に何社かの既存契約先顧客の担当を任されました。その中で色々な事件が起きたのですが、それは以前のブログで紹介しました。この時は毎日手書きの報告書を書いて国語の勉強をし、顧客からは親切心から営業のイロハをご指導賜ったというような時でした。
「営業としてはこうしなきゃ駄目さ」と顧客の課長から指導されて、会社に戻ってから上司の課長に報告すると「そんな事はありまへん」と関西弁で反論されて顧客と会社の上司との板挟みになっていた様な時期でした。早い話が、顧客の要望が弱小事業部のわずかな利益に反する時にはのめませんと課長は器量の小ささを示していただけの事でした。私の直属上司として係長がいましたが、内々は私の味方でしたが建前としては課長に従わざるをえないという立場は理解ができました。年を経る程にストレスが増えて行ったのも当然と思います。
自然に仕事量も増えたこともありましたが、夜8時が定時という職場で、部長が帰宅すると課長が帰るという流れがあり、平社員は課長が帰った後に帰るので夜8時から9時が退社時間でした。部課長が悪い業績の言い訳文書を作成していて、帰宅時間が9時も過ぎて遅くなりそうな時には、係長や隣の課員から「ちょっと打ち合わせでもしませんか」と声が掛かってぞろぞろと何人か連れだって会議室に行って上司の悪口を言いあうということもありました。
毎日が夜遅くなるので、夕飯を丸ビルのギンセイという食堂で食ってから職場に戻り、夜10時から12時過ぎまで何かを書いているという状態が7・8年は続いたと記憶しています。当時は未だ30歳代だったので元気がありましたが、後に考えてみればよく体力が持ったものだと自らの過去を感心した時でした。
そういう運動不足の社員を心配してか、当時としては新しい流行の社内フィットネス器具を地階懇談室に設置したのも同時期でした。社外への体裁を考えるのも総務部の仕事で、こんなもので誤魔化せるのかねと言っていた人もいました。
会社で営業職という言葉が出てきたのは私が本社に異動してから十年もしないうちだったと思います。販売1課とかいうのが当時の名称で、何処の会社でも販売という名称の部署があり、文科系学生の就職先みたいに思われていた時代でした。営業という風に言い方が変わったのは「販売」という言葉が「売るだけ」というイメージを顧客に与えるので、一時的に売るよりもその後の顧客との付き合いの方が大切なので、そこで営業というような呼ばれ方が出来てきたのだと思います。
私の仕事はコンピュータの進化と共に歩み且つ弱小事業部だった事もあり、基本的には大手外資系の会社が繰り出すキャッチコピーに踊らされ追随するだけでした。今どきの「AI」と全く同じことが何十年も以前から繰り返し行われて、顧客に新しいコンピュータやソフトウエアを売りつけていたのは今も昔も変わりません。そういう言葉に踊らされているマスコミとかコンサルタントを見ていると、作られたブームに乗ることで自分自身を売り込んでいるだけとしか見えないのも今も昔も変わっていないと思います。
仕事は大きく3つの期間に区分が出来るのですが、急に仕事が変わるという様なことは無く、仕事の内容がⅠ期からⅢ期に増えて行ったという事です。仕事がこなせるというのを見透かされて何でもやらされたという印象ですが、この時に事業部とは何をするのかという別の意味での勉強が出来て転職後の新しい会社への移植が出来たと振り返ることが出来ます。そう思うと、毎日があくせく疲労をしながら過ごしていた時間が後には役に立ったという時期であったとも思えます。
当時のコンピュータは図体が大きい事もあって、旧機種のパネルを塗りなおしOSを新しくして再度販売するという弱小事業部ならではの信じられないような事が行われていました。こういう変な事業はいずれ終息するというように思っていましたが、私が転職して数年後位には実際にそのようになり、他社のコンピュータを売ることになったと知りました。こういう発想は自己中心的で客観的ではないので潰れるのですが、転職後にも同じような事態を引き起こした人がいました。サラリーマンも地位と能力がバランスが全く取れていないというのが何処の企業にもあるということを見聞し、サラリーマン生態学の研究材料にはもってこいの事例かなと思っています。
仕事の実務では手書きや和文タイプライターの時代からワープロに切り替わる時代を経験しました。本社タイプ室のおばさんタイピストが作成した契約を、顧客の要望追記や間違い指摘で差し替える時は大変でした。糊付けされた袋とじを水で濡らして解体して、本文を差し替えて再び袋とじをするという作業でした。何時も事務担当の女性に任せていましたが、定年間際には何時も自分自身で袋とじをしていたのは、当時の女性に差し替えをさせすぎた因縁があるのかと思う事がありました。
この時はパソコンで文書作成をする時代ではなく、ワープロの普及期でした。まだまだワープロが高価な時でもあり、職場に数台しか置いてありませんでした。A3で資料を作成するときは下手な手書き文字で書いて上司に説明するというようなことをしていたのですが、文字が元々下手だったせいで体調によって文字がえらく乱れたりするときもあり、つくづく毛筆練習をしていればよかったと反省していた時でもありました。