小学校や中学校のパソコン導入等の臨時作業のために集められた派遣社員の年齢は私を除き、皆50歳を超えたように見えました。2人の女性は以前何処かでコンピュータに絡む仕事をしていたというだけで特にパソコンが得意というわけでもなく、派遣会社の営業マンが勧誘の時に言った「操作手順書に従って操作するだけです」と言われたというのを何度も主張していました。
男性6人は50歳代といえば普通のサラリーマンであれば未だ現役の筈ですが、何故派遣社員として仕事をしているのか理由を知りたくて、昼休み時間に話を聞きました。同時に、将来の年金問題もあり会社の正社員に応募した方がいいのではないかという、ごく当たり前の話をしたのですが、反応は「自分のしたいような仕事が無い」とか「とっくに諦めています」とかいうような回答が返って来ました。
50歳を過ぎても、意欲さえあれば一般社員として採用の可能性はあるように思えるのですが、今回集まった人たちにはそういうチャレンジするという意欲は感じられないし、派遣社員の生活に慣れてしまっているとも思えました。派遣社員の仕事は一時の人手不足の時の穴埋めの仕事しかないのではないかと思えるのですが、皆一様にこういう仕事で食いつないでいるようにも見えました。
 
同時に、能力的に問題と分かったのはサーバーやパソコンの設定作業をしていて、作業の発注先である請負会社のエンジニアから毎日のように仕事の不備を指摘されていたことでした。不慣れという部分はあるにせよ、基本的な操作誤りに全く気付かず、請負会社のエンジニアに指摘されて初めて気づいたというような話を、請負会社のエンジニアから注意喚起という意味で何度も聞かされました。中には口先だけがうるさい人もいましたが、口うるさいだけでこの程度の作業は新入社員でもやるような事であるというのを理解していないようでした。
今回の各学校の作業では必ず請負会社の社員が同席するのですが、同時に数校一緒に作業をする時には派遣会社の3名にだけ任さざるを得ない時もありました。その時に、途中経過を確認するために請負会社のエンジニアが来校して作業を確認すると「全て中途半端な状態で終わっています」という話や、「操作が出来ないと言われましたが、私が操作すると何の問題もありません」というような事をチームリーダーは指摘されました。
又、チームメンバーが小学校の職員室からソフトウエアのバージョンアップをするのでパソコン持ってきましたと言われて現物を見ると、何台か数量が不足しパソコンの電源ユニットが足りないという事があった時、どうするかなと思って見ていても何も行動しないので、仕方なく私が職員室に行ってたまたま部屋にいた副校長を捕まえて不足しているパソコンと電源ユニットを探してもらい何とか作業にこぎつけたという事がありました。
基本的に仕事をするうえで作業の確認が出来ず、他人との会話が出来ないというような人達だというのも分かってきました。中には「人に会いたくないので・・・」というような人もいるくらいで、普通のサラリーマンとしての基本的な動作が出来ないのではないかと想像されたのでした。
昼休みに、そういう彼らを見て「将来は大丈夫ですかね」と言うような質問をしても「何とかなるでしょう」とか「これで駄目なら、最後は生活保護を申請しますから」と先々の不安を解決するという意気込みはなく、流れに任せるという風にしか自覚していないというのには驚きました。
話を聞くと以前は普通のサラリーマンとか個人的な請負仕事とかをやっていたらしいと聞いたのですが、そういう道を一度外れてしまうと中々元の道に戻れないという現実を見たような気がしました。

私と一緒に働いていた50歳代の派遣社員を見ていて、何故正社員へのチャレンジをしないとかというのが不思議に思えたのですが、サリーマンとして基本ができていないのではないかと思った時がありました。
パソコンの操作練習を兼ねた設定作業を始めたばかりの最初の週の出来事でしたが、生憎割合強い雨が降っている朝に小学校の門の前に来た時、私は小学校との契約を受けている請負会社のエンジニアが現れるまでは入校してはいけないと思い、傘をさしたまま小学校の門の前で待っていました。しかし、その他の8人の派遣社員は正々堂々と小学校の門を入り、校舎の軒下で雨宿りをして一列に並んでしまいました。強い雨が降っているので雨宿りの為に当然のことですとも思えるようでしたが、私だけは門の外で請負会社のエンジニアが現れるまで待って、そのエンジニアと一緒に小学校の門を入ったという事がありました。
この時に思ったのは、公立の小学校で守衛もいない門なので誰にとがめられる事も無く入れたのですが、
どうしても入りたい時には門にはインターホンがあり普通であれば入っていいかどうかを確認すべきだと思いました。
自分達が請負会社の作業員であり、小学校から仕事を請け負っている請負会社の下でしか動けないという思考が出来ていないと思われて、社員教育を受けているいないという以前の常識が無いと思えたのでした。後に3人体制で小学校を訪問した時も、9時に近くなっても待ち合わせている請負会社のエンジニアが現れないのを気にする様子も見せず「入りましょう」と言うので、私が「請負会社のエンジニアに電話連絡して確認してからの方がいいのでは・・・」と言っても聞く耳を持たないという様に見受けられました。
 こうして50歳代を超えた派遣社員を観察していると、本人たちの正社員へのチャレンジ意欲云々の前に、そもそも一般常識に欠けるのではないかと思えて、正社員になれない理由の一つではないかと感じました。
7月の第三週、カルチャーセンターの受講の為に山手線に乗車している時、スマホに派遣会社から電話が掛かって来ました。電車を降りて人通りの少ない場所で返信をすると、唐突に「パソコンが操作できますか」という質問があったので「出来ますよ」と応えると、続けて「来週から働けますか」という質問があったので「暇なので何時からでも働けますが」と答えると「それでは決まりです」と言われた時は何のことか意味不明なので唖然としました。私は心配口調で「一体どういう仕事なんですか」と質問すると「都内の小学校のパソコンの導入作業です」と言われたので過去の経験から作業上必要のある「操作手順書」あるのかという質問をした時、電話の相手が女性から営業担当者に変わって「最初に手順書を作りながらの期間がありますので心配無用です」と言わたのでした。その解説を聞いて「危ない仕事になりますね」と不安を言うと「操作を勉強しながらの期間があるので大丈夫です」と営業トークを聞かされましたが、経験上はあまり好ましくない仕事だとは理解が出来ましたが、私の様な暇人にまで電話をかけてくるとは相当人集めに苦労しているのかなと想像出来たので、不安を感じながら同情心から「了解しました」と返事をしました。
 
7月第4週の月曜の朝9時に指定された地下鉄の改札口に集合と言われて行くと、男6人に女2人がいました。全員が50歳はとうに超えている様に思える人たちで、私だけが定年後のような人見えました。派遣会社の面接もしないで決まったので営業マンの顔も初めて見ましたが、若いだけでなく少し頼りないのかなとも感じる男でした。派遣会社の営業マンは服装はサラリーマン風のワイシャツにズボン姿を指定していましたが、本人は会社のロゴ入りのポロシャツを着ていたので何か変だなと思いながら小学校へ行きました。
作業の概要が分かったのは、小学校に行って作業発注先の担当者から概要を聞いて初めて分かりました。
たまたま私の住んでいる区内の小学校に導入済のパソコンに対する作業で、ソフトウエアバージョンアップとか追加ソフトの導入に新規のパソコンのセットアップ作業でした。それに加えて、各学校の部門サーバの交換とかバージョンアップ作業を行うというものでした。聞いていた話と違ったのは、小学校だけでなく中学校も対象になりますということでした。派遣会社の営業マンが何処まで正確に作業情報を聞いていたのかと不思議にも思えました。同時に、8月中作業というのは丁度学校が夏休み中なので、生徒が休みで教室内に昼間でも作業で立ち入れるという期間であるという事も分かりました。
 
派遣社員を発注した会社も元請会社からの下請けなので、派遣会社は三次下請けとなる構造でした。それに派遣社員は9人で、3人一組となり各小学校を回るということもこの時知りました。チームリーダーは派遣会社で決めた一応経験豊富という人物のようでしたが、実際はたいした作業も出来ない人達でした。私は3組の中の一組のメンバーで、パソコンをセットアップする作業を担当しました。
この集合したメンバーの作業能力が、派遣社員を発注した下請け会社のエンジニアから「期待外れだ」と言われたのは作業開始2日目でした。教育期間の初日にサーバーの設定をお願いしますと言われた時に、派遣会社のメンバーは誰も手を上げないので仕方なく一番の年配者である私が「操作は不慣れですがやりましょう」と言ってサーバーコンソールで指示された内容を操作しました。作業の請負会社のエンジニアは操作方法を教えてくれるわけでもなく、この設定をお願いしますと言うだけなので、メニューを探しながら操作すると直ぐに数時間が経過してしまいました。その時、作業の請負会社のエンジニアと私が設定に対する質疑応答をしていたのですが、周りにいた派遣会社の人たちは「内容がちんぷんかんぷん」と言っていたので、この人たちが果たしてパソコンにとどまらず情報システムに対して知識があるのかどうか非常に怪しいと感じました。
翌日も教育を兼ねてパソコンの操作をして設定作業なるものをしましたが、そもそも学校システムの概要さえ理解が出来ていない中で操作だけを覚えるのは少々無理があるのかなと感じました。
2日目に入り作業の請負会社のエンジニアから「これじゃあ役に立たんね、パソコンのベテランが来るという話だったんですがね」と派遣社員一同に向かって言うと「我々は手順書に従って操作するだけと聞いて応募しました。文句があるのなら、派遣会社の営業マンに言って下さい。」と年配者ばかりなので言いたい放題を述べたのでした。
同時に派遣社員の居住先はてっきり区内在住者を選んだものと思い込んでいましたが、実際は違っていて遠くから通う人もいました。私を含む2人だけが同じ区に住んでいる人で、その他7人は都内どころか他府県に住んでいる人もいると聞いて驚きました。
二日目夜遅くまで残ったのは徒歩通勤の私一人だけだったこともあり、帰り際に作業の請負会社のエンジニアから「チームリーダーもレベルが低いね、他社よりも1.5倍も高い時給をはらっているのに」という苦情を私に向かって言いったので、帰宅後に派遣会社の営業マンに、内々ですがとコメントをつけて、発注者の苦情を伝えたということもありました。
 
話を聞くうちに作業の請負会社の事情も分かってくると段々と手順書が無いというのも理解が出来て、作業は聞いて覚えるしか無いのかと思いました。それは、集合初日に元請会社のエンジニアも小学校にいたのですが、作業の下請け会社のエンジニアも「この人が全ての情報を握っています」と言って「我々も本日が初日なので何も資料はありませんが」と言って白板に作業の概要を過去の記憶をたどりながら書いているので、作業内容が不明確で大変だと感じました。翌週には整理した資料を渡されたので少しは理解が進みましたが、実際は色々な組み合わせパターンがあって当日作業を確認しないといけないという事が暫くしてから理解出来ました。
作業の請負会社のエンジニアは、年配の派遣社員から手順書が無いと作業出来ない、というのを散々言われたので、研修期間週の途中から全員に作業を指示しながら手順書を作るという作業を始めました。当然ながら完全なものは出来上がらず、文字だけで作業の流れをかくという事で三週目以降には一応できたという形にはなりました。
作業の下請会社のエンジニアはこの作業を何年も担当しているので、種類毎のパソコンに対して何をすべきか即座にわかるのですが、初心者には混乱するばかりでした。作業はコマンドを入力してバッチファイルをたたくのが主でしたが、バッチから時々出るアイコンの中に選択肢があるのが状況を惑わせました、私は間違い選択が多くてやり直しが多発しました。しかし、三週間もすれば慣れるのですが、第四週目で作業終了となるので、覚えた頃に派遣期間が終わるということになったのでした。
4月に入ると、長いサラリーマン生活で仕事に対する精神的圧迫とか限定された休みしかなかったことで、何事においても中途半端な事しか出来なかったことを大いに反省をすることにもなりました。
 
一つは4月に三つ峠山の日帰り登山ツアー参加して反省させられました。元々体力が普通の人より落ちるにも拘わらず、数年間も事務所に座るだけの生活をしていて益々体力が落ちているのを感じつつも、標高が1700mと低そうで私の体力でも可能と想像したことと、気分転換にもなるだろうと思ってツアー日の3日前になって急遽申し込んで参加しました。登山を始めると、登山口から見えるだらだら坂を上る道を見て心配がありましたが、少し登ってから直ぐに遅れだし、急坂では添乗員に付き添われて登りました。山頂の少し手前では、一番先頭に立ってガイドさんと一緒に登ることになりました。体力が無いだけでなく、派遣社員勤務の座るだけの毎日で無用な体重増加があったのも、上り坂が苦しくなった理由のひとつだったと思います。下山してから温泉で汗を流した時、裸になって同行の人たちの腹を見ると出ていないのに、私の腹だけがぽっこり出ているが分かり、大いに反省をする機会になりました。年齢も70歳を過ぎると登山ツアーも制限が出て簡単には参加できないというだけでなく、これから健康な毎日を過ごすためにも体重を落とすことは必要だと思い立って筋力トレーニングに真剣に取り組もうと思ったのでした。
体育館のトレーニング室で筋力トレーニングは5月から始めたのですが、8月には急なアルバイト要請があって中断する7月末までは特別な用事が無い日は毎日体育館に通って筋肉トレーニングをしました。
公共の体育館で安価という事もあって朝7時30分の開館時には必ず同じ顔の年配者10人程の行列ができています。朝の8時頃には毎日同じ顔の老人たちが大勢集まってきて、筋肉トレーニング機械に群がっています。中には時間が有り余るので、プールで泳いでからこのトレーニング室に来る人や、のろのろと杖を使って歩きながら来る人もいるので驚くばかりでした。当然ながら、そういう連中は体力を鍛えるというような利用をせず、筋肉トレーニング機械で体を動かしているだけなので、私が通っている間中、体形は何も変わらないのでした。目的や方法も分からず体を動かしているだけでは効果が無いというのを自覚できていないのだろうと思えるのですが、「体重が減らない」などという会話が聞こえてくると、対処不能な老人達なのかなと感じてしまいました。
トレーニング室に来る常連らしい連中の話を聞いていると、午前中くらいはこの場所でうろうろしているらしく、この体育館のトレーニング室は暇で行き場のない老人たちの遊び場とか社交場になっていると分かりました。
そんな中でも私一人だけが汗をたらたらと流してエアロバイクをこぐ姿は少し可笑しく思われている雰囲気を感じましたが、減量のためにと思い3カ月ほど続けたら4Kg位は体重が落ちて筋肉トレーニングの効果が出てきました。
 
二つ目は元々読書が好きでサラリーマン時代には大量の本を購入して定年後に読むつもりでいましたが40歳代に色々な事情があってすべて売り払ってしまいました。そういう過去があり、同時に自分の興味は歴史とか文学にあるとサラリーマンをしている時に自覚したので、私が理科系の学校に行ったのも、その後そういう関連の会社に入社したのも間違いだったという事が、サラリーマンを辞めてから判明しました。
そういう理由から、4月からカルチャーセンターで日本の中世史と哲学に古典読解のコースを試しに受講しました。申し込みをするために窓口に行ったとき、このカルチャーセンターは老人向けビジネスの模範モデルだというのが理解できました。
カルチャーセンターの講座は平時日中に開催されるので、当然ながら普通のサラリーマンでは講座に興味があっても受講できません。自然と受講者は時間を持て余す老人ばかりになると見えました。その盛況ぶりを感じたのは、4・5年前に私がピアノやバイオリンの独奏会を聞きに来た時のオフィスとは見違えるように変わって綺麗なオフィスになっていたからでした。受講する老人も多くなったとは直ぐに想像出来ました。そういう老人の中には弁当持参で来ている人もいたので、この場所も暇を持て余す老人の居場所になっているのかと思い知らされたのでした。
老人の受講者達は講師の話を受け流しているだけの様でした。老人ホームでボランティアが面白い話題の講演をしているのと大差ないのかなとも感じました。
カルチャーセンターの講師は全員が年配の大学の先生なので私とたいして年齢差は無いのではないかと見えて、学校の授業等の無い暇な時間にアルバイトで講師をしているらしいと思いました。そういう講師にも講座内容に差があって、非常に真面目な講師とそうでもない講師がいました。真面目な講師は資料を事前に配布して懇切丁寧に説明をしてくれました。
私の受講した日本の中世史の講師は年齢が50歳代で他の講師よりは少しは若く見えました。毎度、年号と出来事が書いてあるらしい紙切れ一枚を持参して、登場人物の姻戚関係とか出来事を説明してくれるのですが、白板に年号とか人物名と出来事を羅列するばかりで受講後に整理するのが大変でした。最初は日本の中世史を受講する以前の基礎知識もないような状態だったので、毎度受講した後で律令制の徴税とか66ケ国とかを調べるので大変でした。たまたま伊勢・尾張の中世史で自分の生まれた場所に近いというので興味を惹かれましたが、この講師の話に慣れてくると次の講座の話題が見えるようになりました。そうすると、事前に登場人物を調べたり合戦内容を調べるという事になり、受講する当日は自分で調べた内容に間違いがないかという復習の時間にしかならないのでした。当然ながら、こういう内容では受講する意味がないので7月以降の講座には申し込みは継続をしませんでした。
この先生は講座を始める前に、講座終了後に蕎麦屋を予約してありますのでよければ同席をお願いしますと言っていて、講座なんかよりの自分好みの蕎麦を食いに来るために講師をしているのかなと思ってしまいました。帰り際に蕎麦屋に行く連中を見ると、お婆さん連中が相手をしているらしいと分かりました。
哲学の講師は私と同じ位に見える年配の講師で、たまたま西田哲学を研究していますというのを聞いて、若いころに西田の本を読んだ記憶があり、何か縁があったのかなと感じました。
古典は方丈記の読解で、この講師はものすごく仏教に詳しいので驚き同時に色々な知識を与えてくれるので面白く聞いています。学校で学ぶ方丈記とは全く違い異色なのがとても面白く興味深いと思って、一文字一文字の解説を楽しく聞いています。
非常にユニークに感じた講座があって、学校で教えている世界史は日本独自のもので、そういう歴史を教えている国は世界中どこにもないという、日本の世界史学習の問題を提起したものでした。非常に興味を惹かれましたが、8月にアルバイトをしたので受講が途切れたのを残念に感じています。
3月の派遣社員の最終日を迎えるにあたり、その一か月程以前に引続き働けるものならと思い派遣会社に照会をしたところ某印刷会社の仕事があるとの事で面談をしましたが、一緒に仕事をする社員の人が若い人という事もあり断られました。私も一応は自分の目標とする70歳までは紆余曲折はありながらも働き通せたという達成感があり、以後自らは職探しをするという事は辞めることにしました。望まれれば働いてもいいという事にしました。
最終日3月31日、パソコンも出社時点で全てのデータ消去も終了しており、派遣社員の管理者からは早々に帰宅してもいいですと言われたものの、朝8時に出社して9時に退社するというのも変だなと思って、少し暇つぶしをして10時になってから退社をしました。
帰宅時に買い物をしようと思い、勤務先の近くにある銀行支払機のある場所に行ってカードを入れてもうまく作動せず、31日というので利用者の行列ができている状態だったので、もたもた出来ないので出金を諦めて、歩いて10分ほどの場所にある支店の窓口に行ってカードで出金が出来ないという説明をしました。
銀行窓口で対応した女性から「ちゃんと読み取れますよ、たまたま機械の具合が悪かっただけではないでしょうか」という説明を受けたので、その支店の支払機では問題なく出金をすることができて一安心しました。サラリーマンとしての最終日にこういうトラブルがあったので、いよいよ銀行カードも私同様に定年になり作り直しをしなくてはならないのかと思えて、銀行の支店に向かう道筋では気落ちしてしまいました。私の銀行カードは私が30歳代に勤務先の近くにあった銀行で作ったもので、今どきの銀行の窓口で見せると皆一様に「このカードは見たことがない」と言われるのが慣例となるほどの骨董カードですが、今でも現役で利用しています。
サラリーマンを辞するにあたり、最初にしたいと思ったのでは、働いた時に使用していた背広やカバンや定期入れを捨てるという事でした。毎日利用していた定期入れは汗が染みて黒色が鼠色に変色していたこともあり、31日の帰宅する帰り道にデパートで新しい定期入れを購入して、直ぐに中身を新しい定期入れに入れ替えてから地下鉄の改札を利用しました。
自宅に帰ってから、仕事で利用していた、くたびれた鞄、変色した定期入れ、古びた背広、かかとのちびた靴を纏めてビニール袋にどっさり詰めてゴミとして出しました。ゴミ捨て場に燃えるゴミとして置くという作業を終えると、サラリーマンとしての全てもしがらみから解放されたように思われて晴れ晴れした気分になりました。
 
4月1日からは手探りで今後なにをするかというのを考えましたが、サラリーマンとして働いていた時には精神的な余裕がなくて室内の整理が出来ていない事に気づき、不要なものを粗大ごみとして捨てる事から始めました。
更に、サラリーマンの時にはやりたいと思いながらも出来なかったのは、興味のある分野の勉強という事を思いついて、日本の歴史とか文学とか哲学とかいうものを学びたいと思い調べて見ました。大学の公開講座には私の興味を満足させてくれるものはなく、カルチャーセンターの講座を受講することを思いつきました。
このカルチャーセンターは4・5年以前にピアノとかヴァイオリンの演奏を私好みの演奏家が聴かせてくれるという講座があり、私は何度も通ったことがあったので思いつた場所でした。沢山の講座の中から、日本の中世史、哲学、古典の読解という3つのコースを試しに受講してみました。その感想は次回にしたいと思います。
もう一つの悩みは派遣社員として働いていた最後の数年は、基本的に一日中座って過ごしていたこともあり、体重が数キロ増えたので減量をしたいと思いました。これも何処のジムへ行けばいいのやらと思ってインターネットで調べて見ると、自分の住んでいる区に体育館があって筋トレの器具が揃っているというのが分かったので、地下鉄を利用するのが難ですが利用料が安価なので利用を始めました。朝7時30分開場なので、毎日朝7時前には自宅を出て、体育館で約1時半筋トレをして汗を流すという生活スタイルに変わりました。
カルチャーセンターで講座がある時は、この体育館からそのまま地下鉄で移動するのですが、1時間半の筋トレで疲れがあるのですが、緊張感からかカルチャーセンターの講座では眠くなったりしないのが不思議です。普通は、筋トレが終わってからは疲労で眠たくなり寝る時間があるからです。
更に定年後の食生活も改善したいという思いから、毎月料理教室にも通うようになり、サラリーマンを辞めてから年間スケジュール表を作りましたが、結構忙しいものだと思うこの頃です。
40年という長いサラリーマンの生活を送ってきて四季というものは単なる季節の変わり目というサインで、冬になれば背広を薄手から厚手に変えるくらいのものでしか無かったような気がします。
社会人として会社に入社した頃は鎌倉の工場勤務で、2階の執務席から窓越しに見える小高い山に薄いピンク色の桜が咲いたとか、真夏の青空に銀色の飛行船が江の島上空に出ているのを見て季節感を感じたものでした。
しかし、その後営業という職種に転じてからは、生活の中の仕事というものの比重がものすごく高まったこともあり、東京都内のあちこちに勤務地はありましたが、果たして四季折々の様子はどんなものであったとかいう事は殆ど記憶に残ることはありませんでした。営業マンとして新規取引を苦労して達成した時でも、その時の季節が秋だったのか冬だったのかというのは問われても答えることができません。営業活動で苦労しただけに顧客の顔はおぼろげにでも覚えているのですが、周りの状況というのは急がしすぎて記憶にとどめることが出来なかったということかも知れないと思います。そんな環境では、丸の内の仲通りには銀杏並木があったとかのおぼろげなる記憶しかなく、以前のブログでも紹介したように、冬の東京で大雪が降った時の夜12時過ぎに、帰宅のタクシーが捕まらなくて駐車して寝ている運転手をたたき起こして乗せてもらったというようなものでしかありませんでした。
サラリーマンとしての最後の期間は、派遣社員という決められたことしかしないという職種になり精神的な圧迫がなくなったような気がしました。そういう開放感が通勤途上の季節を感じる感度を上げたものと思います。
 
3月から始まり3月末までの13カ月間、毎日通勤ルートを少しは変えましたが、殆ど同じ方向に歩いたので都会の四季とはこんなにも新鮮で美しいものであったのかというのを発見して、植物の美しさとうのは山や海に行かなくても存在するものだというのを知らされました。
都会の季節を感じさせる樹木は色々ありましたが、少ないながらビルの谷間にある大きなケヤキが秋には紅葉して、早朝の朝日に輝くのを見た時の驚きは忘れられませんでした。昼間はビルの陰となるので紅葉は輝きませんが、早朝の少ない時間だけビルの谷間から差し込む朝日がスポットライトとなることも都会ならではの光景かも知れません。又、賑やかな通りに面して並ぶ紅葉したケヤキは、夜になると周りのビルの夜の明るい照明できれいに見えるのも感動をしました。同様に街路樹にハナミズキを植えてある通りでは、初冬の朝に紅葉が進んで朝日で紅葉が真っ赤に燃えるように見えるものもあり紅葉が始まり終わるまでの数週間は、毎朝の天候が晴れであればいいと思っていました。
都会の中の景色という意味では、ビルの壁が石でできている場所があり、その前に落葉樹一本だけがある場所がありました。モノクロの背景にこんもりと繁った木があるという単純な構図ですが、この木にも朝だけ少しの朝日が当たり、暗い背景に日の当たった木の存在感がまして、木が生きているという事を改めて知らしめるような感じがして少しだけは感動していました。
毎日二本の大通りを渡るのですが、そのうちの一本の大通りには街路樹として銀杏が植えてあり、夏には日よけの木としか見ていませんでしたが、初冬に紅葉してから改めて銀杏であったのかと知りました。この街路樹は立派なもので冬の青空に映える紅葉も綺麗でしたが、都会だけに夜の都会の照明で見る紅葉も綺麗なものだと感じました。
紅葉しないプラタナスの街路樹は夏の初めに剪定されて丸坊主にされて葉が無くなるので、歩道を歩くのに強い太陽の日よけが無くなるので困ったものだと思いましたが、思いのほか早く葉が茂るのを見て、早い成長速度を知って驚きました。
狭い都会の裏通りには、ビルオーナーのお婆さんが置いた小さな鉢植えが小さなビルの周りに置いてあり、小さな花が咲いている時もありました。その同じ裏通りに洋風の作りのレストランがあって、窓の外側にはゼラニウムの長方形の鉢が3個置いてありました。御多分に漏れず、この場所も太陽の陽が何時も当たるわけでもないので果たして花は咲くのかと一年間毎朝見ていましたが、夏は当然ながら沢山の赤い花がついていましたが、冬でも鉢に一つ二つの花がついていたのが感動ものでした。
この場所とは少し離れた場所の裏通りの住宅街に、初夏の季節にびわの実が沢山なっている大きな木があって、古びた住宅とびわの実のなる木が風景画として面白いと思って、びわの実が無くなるまでの一か月ほどは毎日楽しめた風景でした。
一見無味乾燥に見える都会の景色には実は色々な花や植物が沢山あり、短い数十分の通勤途上にも多く発見できるものだと思い知らされました。しかし、桜だけは特別で、この新しい派遣先に勤務を始めた時から暫くして桜並木が満開になり、そういう満開の桜の下を歩くとつついつい桜の花に見とれてしまう事もありました。1年後にも同じ桜並木に花が咲くのかなと思いながら3月末の勤務最終日を迎えましたが、桜並木の花はつぼみのままであったのが残念でならなかったと思っています。仕事どころか桜の方が大切に思えたのは、長年のサラリーマン生活という重荷を下ろしたからかも知れないと思いました。
今月24日で夏休中のアルバイトが終わってブログを書いています。公立小学校や中学校に入校するという体験をして、肝心の仕事なんかよりも学校や先生の実態の一部が垣間見れたことの方が余程面白かったという感想を持ちましたので後ほど書くことになると思います。
 
毎日をパソコンで資料を作るという作業ばかりをしていた1年間、朝の通勤時の記憶を紐解いているのですが、裏通りの通路に居並ぶ店の様子が人生模様を見ているような気になって面白いと思いました。長いサラリーマン生活しか経験の無い私にとっては、そういう異人種の様な生活を送る人々に対する興味だったかもしれません。
地下鉄の改札を出て大きなビル街を抜けて二つの大通りを渡った先の地区には、表通りのビルの裏側に小さな個人所有らしい古びたビルが並んで、そういうビルの一階は殆どが何らかの商売をしている店舗や飲食店になっていて、私は歩道のある通りを歩かず、そういう裏通りに生活感を感じて自然と毎日誘われるようにふらっと入りました。
裏通りのビルだけに貸主が決まらず私が1年間通勤している間の最後の数か月になって漸く店が開店したというようなビルもありました。そういう小さな古びたビルで住宅兼店舗という蕎麦屋の一階を通ると毎日少しばかり開けた厨房のドアから見えるのは蕎麦を茹でている店主の姿でした。昼には近くのビルに勤務するサラリーマンが大勢来店するので蕎麦を茹でているとは想像できるものの、時間が早すぎるなという風に感じ不思議に思いながら店先を歩いていました。このビルは暫く後には解体されるという事態になるという事になると、解体の現場には日本語が流暢な色の黒い外国人が全てを仕切っていたので、ご時世かなという感想を持ちました。
私が通勤を始めて割合に早くに開店したのが、若い女性が経営する宝飾店でした。通りから見える店の窓際には殆ど商品は置いてなく、店主らしい女性が店の中でパソコンを操作していました。小さな店とは言え毎月のビルの賃料も必要だろうし、経営は大丈夫かなと他人事ながら心配をしながら、客のいない店の前を朝晩見ていましたが、私が通勤をしている間に閉店するというような事にはならなかったので、どうして稼げるのか不思議だなという風に思えたのでした。
朝方には年配のビルの持ち主らしいお婆さんが道の掃除をしている光景とか、ビルの前に積まれたごみの山とか、朝日がビルの谷間に細くしか入らず薄暗い雑然とした印象を与えるのですが、夕方陽も落ちて雑居ビルの1階にある飲食店の灯が入ると、通りの印象が一変するので面白いと思いました。暗闇は余計なものを見えなくするので、朝にはごみごみした裏長屋に見える場所にある店が明るい照明で洒落た店に変貌していました。街路灯よりも飲食店のこうこうとした光で歩道が照らされて歩きやすい道になっていました。朝方の何の変哲もない無機質のしもた屋風情の通りがあたかも感情のある人間に生まれ変わったのかと思えて、歩いていても心が高揚するように感じました。
裏通りを歩く途中にイタリアンの居酒屋があって、店の半分がオープンスタイルのヨーロッパで普通にある道路にパラソルを出して机と椅子を並べた洒落た店構えなので、その店の作りが面白いと思って見ると店主が何時もにこにこして会釈をされるので困ってしまいました。酒をたしなめれば一杯ひっかけてもいいかなと思えたのですが、下戸だけにこちらも笑って通りすぎてしまうだけという毎日でした。
 
そういう通りに昔懐かしいSPレコードや蓄音機販売店がありました。随分と昔に一二度分かりにくい道を尋ねながら、蓄音機の音を聞きたいという興味から来店した記憶がある店でしたが、毎日の通勤途上に現れたので縁を感じざるを得ませんでした。それに加えて、こういう特殊なものを販売していて十数年も経営がよく続くものだというのも驚きでした。ある日、通勤の帰り道に店に入って若い店員と雑談をした時、、折角だからというので蓄音機でSP盤の音を聞かせてくれました。どんな音かと期待をしたのですが、私の好みからは外れた音だったのでよかったと思いました。サラリーマンとして会社に入社した直後、当時はSP盤に随分と惹かれていて、わざわざ会社を休んでSP盤を販売しているデパートに行くくらいの熱情を持っていた過去があり、この店でSP盤の音に惹かれたら、高価な蓄音機は欲しくなるだろうし、SP盤も買いたくなるという恐れがあったからでした。この店の前を通る最終週の帰宅時、SP盤を再生して収録したCDを買って心の区切りをつけたような気になったのでした。
地下鉄の改札を出て繁華街のビル群を抜けた先の大通りを渡ると、表通りの大きなビルの裏手には昔からの住民が住む低層のビルが続き、それが地下を走る高速道路の上にある公園を見ながら高速道路に掛かる橋を渡ると、古いビルや昭和風情を残すしもたやが続く街になっていました。大通りからの内側にある街並みは、普通に地下鉄を利用して通勤をしていると気づかない区域で、夜には酒飲みが好みそうな店が点在しているのでテレビなどでも紹介されていると思いました。
 
その古い街並みに入る場所の一角に警察署があり、毎日交代で警察官が長い棒を持って玄関に立っていました。毎日の担当する警察官が変わり、通勤するサラリーマンがその前を通っても挨拶などはしませんでしたが、小学生が「お早うございます」という声をかけた時だけは挨拶を返していました。季節が12月にもなると寒風が吹きすさぶ中でも交代で玄関前に立つのは寒くて大変だなと感じていた頃、相当に強い北風が吹いていた日にピカピカ光る丸坊主頭の30代に見える男が立っていたので、何で帽子をかぶらないのか不思議に見えました。その男の前まで来た時に「それじゃあ寒くありませんか」と質問をすると「いやあ寒くてたまらんですよ、ええ」と小太りの体を揺らせて笑いながら返答をしたので、同情者された気分になったのだろうと想像すると同時に、本人は意地で帽子をかぶらないだけなのかと思ったことがありました。
その警察署の横で主婦がランドセルを自転車に乗せて誰かを待っているという光景を度々目にしたので何だろうと不思議に思っていました。これも気づいてから数ケ月後に、警察署から小学生の女の子が竹刀を手にして出てきたので疑問が氷解したということもありました。

警察署の前を歩いて少しの所には鶏肉を販売する卸店があって、毎朝5・6人の長靴に白衣を着た姿の年配から中年男性の調理人が、店内の中央に置かれた台の上に山と積まれた丸ごとの鳥をさばく風景が見られました。午前中に焼き鳥屋のような飲食店に配達をすると思われるワゴン車が何台も店の前に停車していて、配達をするらしい中年の男女がどうでもいいような会話をしながら、氷を詰めたビニール袋に入れられた鶏肉を車に積み込むという作業をしていました。この店も夏休みと正月に5日程を休んだだけで、あとは1年中毎朝こういう大量の鶏肉をさばきそれを積み込むと作業をしていたのを見て、商売を維持する従業員を確保するのも大変だろうという店主の気持ちがわかるような気がしたのでした。飲み屋に明かりがつく帰宅時には、この鶏肉販売店の店先はすっかり片付いてひっそりとしていていました。そのひっそりさというのは、この店がえらく古びていて家の壁は昭和初期らしい緑青の出ている銅板で出来ていたという姿が、街路灯に照らされて暗さを一層際立たせているように感じたのでした。

鶏肉の卸問屋を過ぎると、大通りの手前に自家製パン屋と米屋がありました。パン屋は早朝から通勤するサラリーマン向けにパンを販売していて、その量がコンビニで買うパンよりも大ぶりなのを売りにしている老舗でした。老舗だと分かるのは、店先が古いというだけでなく、横にある3階建ての建物が古びて壁のトタンも錆びて放置されるがままのような状態なのが、パンの安さを売りにしているだけに修理もできないのかなと見えるのでした。
このパン屋に並ぶ横が米屋で立派なビルに建て替えられて、朝だけおにぎり販売をしていました。以前の二階建ての古びた昭和を感じさせるどっしりした瓦屋根の店の時には、私が以前勤務していた会社の取引先が残業や夜間作業をすると聞いた時は、差入用に大量におにぎりを購入していました。
歩道に面する店頭から見える、店内のおにぎりを作っている様子が、ビルの建て替え前と後では違っていました。以前の古い木造家屋の時には、もうもうと上がるご飯の湯気が上がるなかでおにぎりを一生懸命に作っているのが見えて、そういう雰囲気だけでも如何にも美味しそうに感じることが出来た店でした。この店のおにぎりは当時でも少々高めの値段でしたが、夜に冷めたおにぎりを食べても美味しいと感じたので差入用に何度も利用していました。
余りにおにぎりが美味しいので、時々「米の種類は」という質問をしたことがありますが、特段に名の知れた銘柄の米を使っていない事も教えてもらいました。
そういう昔の記憶があったので、この店の前を通った時に何度か試しに昼飯用おにぎりを買ってみました。ビルに建て替えた後も、歩道の店頭から店内でおにぎりをつくっている姿が見えるのですが、すごく清潔な雰囲気に見えると同時に昔のような湯気がむんむんという風情はありませんでした。店が改装された後のおにぎりは、普通のもので特段美味しいと感じなかったのは、年齢が進んで舌の味が落ちたのかなと不可解に感じましたが、改装してから商売の幅を広げて味も落ちたのかと自分なりの理屈を考えてしまいました。ビルに改装前はおにぎりしか売っていなかったのですが、改装後は弁当とか総菜も販売していて種類が増えすぎたのが味が落ちた理由ではないかと勝手な想像をしながら、毎日店頭のショーケースに並ぶおにぎりを見て歩いていました。
 
早朝には、この街で生活している通学する小学生の姿があって、小さいながらも既に人格は形成されているのだという事を想像させられました。交差点で信号待ちをしている時、何時も交差点前ではなくほんの少し離れたビルの入口で信号を変わるのを見ている子、鶏肉卸問屋で荷物を運んでいる従業員に毎朝決められた行事の如く感情の無い挨拶をする子、歩いている姿が人生を達観したが如く悠然と歩く子が記憶に残っています。
3月から新しい勤務先への通勤時のちょっとした変化が楽しみみたいな毎日を1年間も過ごすことになったのも、サラリーマン生活を締めくくる最終年と自分では決めていたと心構えでいた事も踏まえて考えると、サラリーマンの現役時代には仕事の成り行きばかり気を使いすぎて毎日の子細な変化に気を留めなかったような過ごし方をしていたのだというのを改めて思い知らされるような気がしたのでした。
写真撮影が趣味というので、小型カメラは鞄に中に忍ばせて毎日通勤途上や顧客に出向く時にも持ち歩いていたので、歩く途上での季節の移り変わりとか気をひかれた風景とか、特に桜の写真は数え切れぬほど撮影をしていたものの、そういう写真は殆どを一度だけ見ては捨ててしまっているので残されているものは数少なく、過去に小型カメラで撮影した写真を改めて見直してみると意気揚々と撮影した筈のものがたいしたものではないという事が分かりました。振り返ってみると、小型カメラでの写真撮影という行為は毎日のストレスからの解放という意味合いがあったのかも知れないとも思えるのでした。そういう通勤途上で撮影した写真を雑誌社に送付して何度か入選したものもあったので、全くの見当はずれの写真ばかりではなかったのだろうというのが唯一の救いとも感じています。
 
早朝、新しい勤務先への通勤で地下鉄を下車してから勤務先のあるビルまでの20分程の歩きで感じたのは、早朝には日中ビル街を多くの人々がせわしく動き回っているのは隔絶された違う世界があるように思えました。ビル街の歩道を通勤途上に歩く人も少なく、自分の存在が大きなビル群に対しても大きく感じられたのでした。早朝にブランドショップのショーウィンドウを見ても沈黙した静寂さを見せているだけで、ショーウィンドウにビルの隙間から射す朝日が当たってきても驚きの感情が湧き出ることはありませんでした。通勤の帰り道では様相が一変して、ビル街に人があふれ出て自分も蟻のような群れの一粒になり、ブランドショップのショーウィンドウも照明がつき始めると見栄えのする景色に変化に驚くのでした。
このビル街を抜けて大通りを渡ると、夜には賑やかになるらしい飲み屋街の裏通りの路地を抜けてから、少しばかり狭い道の歩道を歩き途中の公園を見ながら、再び大通りを抜けて公園の中を経由して、先にある小学校の横を歩き勤務先のビルに至るという経路を歩きました。
前回に紹介した「ママがいい」という嬌声を発していた子供いた場所は、小学校の横にある交差点での出来事でした。

毎日の仕事がデスクワークと言いながらパソコンで何らかの操作をするばかりの作業でしたので、口さみしくなるのを感じて毎日コンビニで少しのお菓子を買っていくという風になりました。毎日体を動かさないので、これが体重の増える原因ともなったのかもしれません。
都会のコンビニでは日本人ではなくて外国人が多いというのも知らされて、毎日通っていると気づきのよい中国人らしい若い女性からは「袋はいらないですね」という風に先に言われたりするのでした。その店ではレジ係の5人ほどが全員外国人で中国人ばかりか、色黒のアジア系らしい若い男性もいました。その若い男がお釣りを時々間違えるので、注意をしてお釣りを確認しなくてはいけないという事に気づきました。この若いアジア系の色黒の男のレジでお釣りをもらう時は金額確認をすることにしていました。レジの横では店のオーナーさんらしい小太りの年配男性がうろうろしていましたが、こういう事が起こっていても客が流れる水の如く次々と来るので構っていられないという風情に見受けられました。
少し急いでいた或る時、レジ係のアジア系の色黒の男が渡したお釣りを確認しないまま握りしめて、大通りの横断歩道を渡ってから手の中を見るとお釣りが全然足りないので愕然としました。この一件があってからは、このコンビニを利用するのは辞めて別の店を利用するようにしたのですが、繁盛店では人で不足からこういう事も起きるのかなという貴重な体験をすることができました。以後、別のコンビニを利用しましたが、お釣りが足りないというようなことは二度と経験することはありませんでした。
大繁盛しているコンビニがある大きな通りを挟んだ反対側のコンビニは割合人が少なく、通勤途上の人の流れからほんの少しでの離れると随分と人の入りが違うものだというのも分かって、小売り商売の場所柄の重要性というのも認識することができました。
今年7月中旬カルチャーセンターに行く電車の中で派遣会社から電話が掛かり、何のことかと思ったら急募の連絡がありました。パソコンが操作出来れば良いという条件ですと言われて「出来ますよ」と返事をすると「土曜日、残業は可能ですか」と追加で質問があり「暇ですから問題ありません」と回答すると「それでは決定です、お願いします」という会話を派遣会社の営業マンとしました。面接もなしの派遣の仕事が突然決まりました。この顛末は後ほどに書くとして、突然の派遣の仕事は8月中と9月は未定ながらも月曜日から土曜日まで終日作業なのでブログも暫く休止です。たまたま今日は作業が途切れたのでこうしてブログを書くことが出来ました。サラリーマン現役の時には付き合った事のない会社の社員との仕事は興味深いものがあり、30代の若い人たちとの精力的な仕事は年齢を忘れさせてくれる効果があるのかと感じているところです。
 
話は戻り、3月から1年間の予定で新しい派遣先のシステム会社に勤務することになり、一日中座ってエネルギーを消耗しない生活に入り体重が増えて困ったので、通勤は地下鉄2駅約1.2Kmを歩く毎日を始めることにしました。
毎日同じ時間に家を出て、同じ時刻の地下鉄の同じ車両に乗り込み、到着した駅でも同じ場所から改札口に上がり、改札口も同じ場所を通るという通勤になりました。駅から会社までは色々なルートがあるので、これも毎日の気分で変えましたが、暫くすると段々と歩く道も変えるルートと変えないルートというのが出来ました。改札から出てビル街を歩くのはルートを変えてブランドショップのショーウインドが変わるのを楽しみにしていました。派遣された会社の近くまで来ると、夏の日差しを考えて陰のある裏道とか木陰がある公園を通るという固定されたルートを歩くことにしました。
こういう規則正しい通勤をしていると、当然ながら電車の中でも同じ顔の人がいるし、歩いていても同じ人とすれ違うことがありました。毎日毎日交差点で出会う女性がいて、どういう訳か反対側に歩く帰宅の時にも出会ってしまうという事があり、そういう事が一度ならずもう何回も続くと相手の女性から軽く会釈されたりすると何か縁があるのかなとも感じてしまう事もありました。
しかし、一番面白かったのは幼稚園に通っている女の子のことが一番印象に残っています。毎日マンションから親子連れで交差点まで歩いてくるのですが、交差点で父親が幼稚園まで連れて行く段になると、この女の子が騒ぎ出して「ママがいい、ママがいい」と周りの大人を気にすることなく大声で毎日叫ぶのでした。父親は仕方なく女の子を抱き上げて母親と別れるという毎日を目にしました。そして女の子が父親の進行方向とは反対向きに抱きかかえられているので、その後ろ歩きながら私がにやにやしながら女の子を見ていると、女の子は声を失くして大人しくなっていました。
こうなると、私もこの大声で騒ぐ特異な女の子が交差点に現れるのが楽しみになっていて、毎日ほぼ同じ時間に交差点には到着するのですが、一週間に一二度で会うというくらいのものでした。暫くすると、交差点での母親との別れ際に女の子は大声で「ママがいい」と大声で騒ぐという事はなくなり、今度は自宅で説教されたのかどうか不明ですが別れ際にハイタッチをするという風に変わりました。この時も、時々は母親がハイタッチして別れようとすると、女の子は大声で「もう一度」と叫び母親を呼び戻していました。
そういう交差点での毎日を過ごしていると、女の子は私が何時もにやにやしながら様子を見られているのを感じるようになったと思いました。それが分かったのは、交差点で母親と別れて父親と一緒に歩き出した時、私が父親と女の子を追い越して先に進んで次の交差点で立っていると、女の子が走って私の後を追いかけてきた時でした。私は他人の子供に深入りはしてはいけないだろうと思って、それ以降交差点で女の子と出会ってもにやにやする事は辞めました。
こういう出来事を体験しながら毎日を過ごしていると、派遣された会社で机に座っているばかりの日常には少しの彩画が出来て、薄墨色の絵にほんの少しばかり彩色がされているような気分になると感じました。
毎日の通勤の途上でも時々は鞄に入れたスマホが「ブッ、ブッ」と鳴動する時があり、相手の名前も不明でどうする事もできないので困ったなと思いながら歩くこともありました。
私が在籍中にシステム開発を受注した会社に派遣社員として1年半勤務して9月で離職した後、12月から2月までは大手システム会社に派遣されて大部屋で薄暗くざわざわした巨大な端末室に閉じ込められて資料を作成していましたが、3月に入り派遣社員として新しいシステム会社に勤務を始めると今度は以前とは真逆を感じる程に静寂なオフィスで一日中座ってパソコンを操作するという生活に入りました。
勤務時間は9時始まりでしたが、私は元々朝早出勤という習慣があって8時過ぎにはオフィスに到着してパソコンを立ち上げるのが8時30分くらいで、1年も経過した頃には30分位は早く出勤していました。以前に勤務していた会社では毎日7時に出社していたという身に着けた時間感覚から自然にそうなったものと思いました。普段日中でも働いている人数に対して明らかに広すぎるフロアでは早朝オフィスは益々静寂さが感じられるというもので、契約上からか朝早くから出社しているらしい外資系コンピュータ会社のアプリケーション開発担当のシステムエンジニアが電話している声だけがフロア中に響いていました。
そういう日常の静寂な勤務先の机の上に置いてあるスマホが、毎朝8時30分位になると「ブッブッ」と2・3回鳴動するのが鮮明に響いてきました。これは、基本的には月~金の早朝でしたが、場合によっては昼休み時間や、稀には午後6時位の帰宅中の地下鉄の中でも鳴動することがありました。そしてこれがとうとう1年間近くも続いていたのでした。スマホが鳴動してから電話の着信を見ても発信先が出ていないので、短時間の鳴動しないのでスマホには記録されないのかなと思いました。
 
これには理由があって、私が長年勤務していた会社を退職してから、その会社在籍中に受注したシステム開発を発注した会社に1年半派遣社員として勤務した時や、次の大手システム会社に派遣社員で3カ月間勤務していた時、外線で私がその会社で勤務していることを確認するような電話が掛かってきたことがありました。私はそういう経緯があるのを知った上で、3月から新しい派遣先に行った後に、私が以前に勤務していた会社の在籍中に受注したシステム開発を発注した会社の情報システム部を訪問して、3月から派遣社員として勤務していた会社名とか私の携帯電話を伝えるということをしたのでした。これは私の新しい派遣先が長年勤務した会社に漏れ伝わるという事を想像していました。

同時に、私が以前に勤務していた会社に在籍している時に受注したシステム開発については、事後談として発注先である会社の某役員が出鱈目なシステム開発をしていた事に気づき「騙された」と言って怒り心頭という状況を聞きました。そういう事情が背景にあって、私の以前に勤務していた会社でこの会社を担当する営業マンやシステムエンジニアの担当替えがあったという理由を知りました。流石に、この会社のシステム開発を発注した主管部所である情報システム部では、いい加減なシステム開発をしていた事業部に騙されていたとは言い難い雰囲気で、情報システム部員は一様に口ごもるのでした。当時の営業担当の私の非力を反省することにもなりました。今時、世間で話題の加計学園獣医学部新設事件の前次官前川さんの心境と同じようなものかなと感じているところです。
というような事で、私の新しい勤務先を間接的に元勤務していた会社に伝えたつもりでした。1年近くスマホが鳴動して、毎朝鳴動があると何だか安心するような気持ちにもなる時がありましたが、さてこの発信主は誰であろうかというのは全く知りえませんでした。この職場にも代表電話から時々発信主不明の様な電話があったり、私の方をみてにやにやする人たちがいるところを見ると、誰だか不明なるも私と連絡を取りたい人がいるのだろうとは想像できました。新しい派遣先に勤務してから1年も後には元の勤務先の私も面識のある人事取締役から、私の所在確認みたいな連絡が派遣先の会社にあったので、何か動きがあるのかとかは想像しましたが、とうとう直接私に連絡は無かったのでその理由は知る由もありませんでした。
私はスマホを鳴動させている相手が何となく想像は出来ても、名前も知らないので不思議なことが起きているとしか思えない事が毎日起きていると思っていました。