50歳代のサラリーマン生活は、営業マンという仕事と会社の風土というはざまで息苦しくも、新興企業の課長から次ぐから次へと繰り出される難題の対応に明け暮れたという事は忘れることは出来ない思い出になりました。当時は自腹接待が何時まで続くのかとため息をつきながら思案をしていたら、事件が起きてそういう心配は解消されました。この新興企業で100億円プロジェクトが始まり、契約金額や利益が一挙に倍増するような勢いだったのが、このプロジェクトの終焉と共に自腹接待が無くなったのはよかったものの、今度は件の課長から1千万円の返金申し入れが出てきて一苦労どことろか何苦労もしました。
この時も社内の支援は絶無で全て私一人でストーリーを考えて対抗してねばり、最後には相手の部長から止めましょうという話で終わったのでした。この時は相手の事情や経緯は私が一番理解しているので、私が対応するのは当然だったかも知れませんが、私の上司は多分管理者や役員には深刻な話はしていなかっただろうと思います。波風を立てるのが嫌な社風が出ていたと思います。
半年近くも、ああでもない、こうでもない、というような理屈をつけて顧客に説明する時には形を付けるために営業部長や技術の責任者を同行していました。ある時、そういう説明に顧客を訪問した時、説明時間が掛かり夜も遅くなり、技術部門のエンジニアが飯でも食いたいというので駅中にある居酒屋に行ったのですが、帰り際に営業部長は支払いがしたくないというのが態度に出ていて私が飲み代を支払ったということがありました。仕事は全て部下任せ、帰りの飲み代も部下任せという態度に非常に違和感がありました。店から一番遅れて出てきた営業部長から「幾らだったのか」という問いがあったのも非常識の追い打ちをかけられたように感じて、こういう切羽詰まった顧客との折衝中も他人事の寝言しか言えないのかなという風に感じて、退職後も忘れられない光景の一つです。そういう感覚は営業部長だけでなく、管理者とか役員にもあり、私が一千万円返還訴訟を乗り切ったという一件は社内では何事も無かったかのように考えられていたのは、そういう管理者とか役員が私の顔を見ても無表情だったのでよく理解が出来ました。
圧倒的な業績向上だけに留まらず、実質損害の阻止をしたという仕事についても、礼を言われたり感謝をされることが無かったのは、前回も書いた通り私の仕事がボランティアではなく、会社の中で知らん人が勝手に店を開いてやっていることなので、というようなとらえ方しかされていなかったという事が証明されたとも思います。

それでは、もう一つの私が担当していた規模は小さいものの役所体質の会社からは何もなかったのかと言えば、そんな事はなく、懇意にしていた課長からは色々な宿題が定期的に電話やメールで飛んでくるので、これも私が一人で対応していました。この会社で入手できる情報はシステムを独占していたベンダーに偏っていたのは分かっていたので、私はできるだけ客観的な情報を出すという方針で臨んでいました。この時も私の勤務していた会社では到底調べられないような事を求められることもあり、自腹で調査会社の報告書を購入して提示することもありました。
50歳代、こうしてサラリーマンとして生活のために会社に勤務していたのですが、その会社の中には独立した商店があって何もかも一人でやりくりをしていたと改めて思い知らされました。
私が社会人として会社に入社3年後に原油価格の高騰によりオイルショックという現象で日本経済が混乱しました。当時、私は工事勤務で仕事は公共事業のみという状態であったことから、政府予算削減の影響を受けて業績が落ち込むという事態になりました。工場という性格もあり、間接作業撲滅というスローガンが挙げられてやり玉に挙がったのが会議の削減でした。会議時間だけでなく無駄な会議を削減し、社員は生産に関わる直接作業時間を増やして生産性をあげようというものでした。その時に会議予約システムが導入されたように記憶しています、もう50年も以前の話です。何故、このことを書きだしたのかというと、40歳の転職後に勤務した会社は役所体質ということもあり、会議が多くて管理職や役員の中には会議が仕事みたいに考えている人たちが多くて実務をしないという事を思い出したからでした。

会議というのが、意思決定ではなく形だけの報告会という内容の会議が多いので、会議資料を作る社員も必要だとなり、ケインズ理論を実践して実質的に社内失業社員を救済するというような事をするので自然と間接部門が肥大化していました。そういう肥大化した費用は、契約している顧客に対価として請求すればいいという安易な考え方なので、コスト管理に厳しい顧客からは当然値引きも厳しく要求されるか、契約を解除するかという事になっていると思いました。
実務が出来ない役員や管理職は、自然と建前ばかりが重要としか見えていないのではないかと思えました。会社としての体裁を繕う様な仕事はきりがないのを、場合によっては部署まで作ってしまうという常識外れのことをするので間接費用は増大していくばかりだったと思えました。
私が50歳でパワハラを受けた後に、社内の支援も無く自分の努力だけで新規顧客と契約し、そのうちの新興企業に対しては、自腹接待で驚くほど業績を伸ばし、殆ど個人と言っても言い過ぎではない仕事ぶりで稼ぎ出した、数字を書くのもいら立つほどの高額な利益は、社内会議で似非評論家ぶった発言しか出来ない役員や管理職の高い給料に消えてしまったという事も事実として残ったのかなと思っています。
私の50歳代の仕事ぶりは、先回ブログではボランティア精神で仕事をしていたと書いたのですが、ボランティアならば仕事が終わってから礼を言われたり感謝をされる作業だと思うのですが、私の場合は全くそういうことが無かったのでボランティアという表現は当たらず、会社という組織に所属はしているものの形だけで、個人商店主が勝手に店を開いただけという状況であったと思えて、商店が閉店してもシャッターが下りたので店が無くなったくらいにしか会社では認識はなかったのだろうと思います。
禅に「多の一」という思想があります、この世界は個人個人の集まりであるが、それは一つのものとして見ることができるというものです。私の勤務していた会社は「多の多」という社風で、社員はバラバラに仕事をしていて、上司は部下の仕事を助けないのではなく能力不足の故に助けにならずというのを認識できず、役員や管理職は実務が理解不能なので管理不足を業績未達としか理解していないという、社員全体がばらばらでまとまらないという社風に思えていました。
サラリーマンというものは毎日を決められた通りに仕事と称する定型業務をするのがルールですという社風の会社に在って、私の居場所はあったのかというのは甚だ疑問でした。特に50歳頃に事業部長からパワハラを受けたのがきっかけとなり何処となく社内にいるのが嫌になり、自分の居場所というのは営業という仕事柄から顧客の事務所に一部はあったのかなとも感じています。
新規に契約した新興企業の癖のある課長からあらゆる難題を持ち掛けられても、部内どころか社内の誰かの手助けを得ることは無く全て自分で対応していたのは、まるで社内の個人商店でも営んでいるような気持ちでした。
振り返ると難題を持ちかけられるだけの信用を得ていたという事が裏側にはあるのですが、一番の苦労は外資系コンピュータ会社が大枚の裏金を渡している事を説明されて、私にも裏金調達を求めてきた事でした。私の勤務している会社には損害を与えないのでという前提で、買いたいものでもあるように説明をされて、お願いしますと言われると断れずに策を考えざるを得ませんでした。そういう事は何度も繰り返されるので、慣習のようになっていましたが、その裏金を渡す度に新しい契約はどんどんと積み上がる状態となったのでした。
そういう並々ならぬ苦労を何も知らない管理者や役員から見ていると、投資とか努力もしないで自然に契約が増えているという風にしか見えていなかったと思います。高齢の安い給料を貰っている人が、何の支援も無い環境で高い利益を上げている構図は、今どきのブラック企業そのものではなかったかとも感じています。本当にボランティア精神がなければ出来なかったという事だと思います。そういう意味でも、本筋のサラリーマン道を歩いていなかったのだとの思いがありました。
苦労しながら裏金対策をした後には、イベントで集客を求められて100人程を集めて欲しいと言われて、何の仕事をしているかと疑問に思いながらも八方手を尽くして終わった時には、達成感というようなものではなく疲労感だけが残りました。こういう仕事とも言えないような顧客の要望に応えるというような事は、私の勤務していた会社の社風から言えば、阿保かと言われて一蹴されてしまうような事で何も対応しないで終わるような内容だと思います。尤も、こういう事を要求されるような関係を築き上げることもできないで、普通の付き合いしかしなくても結構です、と言い切るのが私の勤務していた会社の社風なので、そういう面でも全く違うことをしていたと思います。しかしながら、こういう仕事の仕方をした裏側にはパワハラ受けたというマイナスの感情があり、何としても顧客との関係を重視したという気持ちの表れでもあったのだと思います。
こういう裏方稼業の成果で、この新興企業との契約は最初の年から10年も経過しないうちに30倍くらいまでに増加したので、社内でも無視できない位の契約規模の顧客になったのも皮肉な出来事だったと思います。
パワハラを受けた後、新規に契約したのは何でもありの新興企業とお堅い役所風情の会社でした。この役所みたいな会社は仕事の性格上成長しない事業であり、決まった範囲での仕事しかありませんでした。
一定のサイクルで小規模の契約を貰うという形でしたが、規模が小さいだけに利益については配慮が必要だと感じていました。この会社とは新規契約を貰うまでに10年通い、その後10年で少しづつ契約を増やしていったのですが、それでも他社契約から切り替えてもらって小さいながら契約は増やすことができました。そういう地道な努力の結果契約できた、最後の新システム開発契約では社内やくざみたいな部署に委任したことで大いなる過失を起して事件となったのは、私のサラリーマン人生にとっても大きな汚点として残るものになったのでした。
こうしてサラリーマンとして50歳代を書いていると、私のサラリーマン人生のある法則を見つけたような気がします。給料の対価として長年仕事をしてきたのですが、会社という組織の中では色々な職種があるものの、職種を超えるところではいつも新しい事にチャレンジし続けたと仕事のありようであったとも思います。
20歳代、新入社員の頃は日本初のジェット輸送機の航法装置を日本で初めて開発するというプロジェクトに参画して、右も左も分からぬ内に何とか自分の設計した機材を飛行機に搭載することが出来ました。異動した本社の電子計算機営業部では、見習いで既存契約企業から営業マン教育をしてもらい、30歳代の頃、日本最下位メーカーとして某外資系大手コンピュータメーカーに競り勝った事もありました。その後、新規事業としてCAD事業担当をしました。
転職した40歳代には、CAD関連機材を自動車メーカー、機械メーカー、印刷会社、百貨店という大手企業に新規に契約をしました。異動した子会社のデータセンター営業では、食品会社、広告会社、通信会社という大手企業と新規契約をすることが出来ました。50歳代にはパワハラを受けて担当顧客を全て失ったのですが、その後自らの行動とチャンスを生かして新たな企業と契約をすることが出来たのでした。
こうして振り返ると、サラリーマン人生を通して何時も新しい事ばかりにチャレンジをさせられていたという、スピノザ的な神の存在を信じざるを得ないという事かなとも感じています。
転職後の会社は新たな事にチャレンジをする気合など全く無い気の小さい保守的な風土の会社なのに、一人だけ異物の様な存在として勤務していたという事かも知れないと思います。サラリーマンとしては何時も傍流に置かれて、相当に普通のサラリーマンに比べて変わった道を歩いたというよりも、歩くために自ら道を作らざるを得ない状況に何時も置かれ、孤立無援の中を一人で道を歩んできたのかなと感じています。
 
50歳代の会社の社内環境は、まさに孤立無援で黙々と業績を上げるという事を考えながら仕事をしていても、誰にも感謝もされないし、まして礼なども言われないという環境であったので、自然と新たに契約をした顧客との関係を重要視したのは当然の帰結ともいえるかも知れません。そういう顧客重視の仕事の仕方が、自分が意図しないのにも関わらず、仕事に対する使命感も重なり合ったどうかは不明ですが、業績向上という事実が成り立っていったというのも大いなる皮肉であったのかなと思います。
特に新興企業の顧客から信頼できる営業マンというレッテルを張られると、何事につけても相談されるという様な形に陥って頻繁に呼び出されては、夜になるのを待っては酒飲みに連れ出されるという事になり、自腹を切ってでも接待を継続した理由の一つには社内における自身の疎外感と言うものもあったのではないかと思います。
この自腹接待が毎週1回どころか2回ともなると気分も優れず、それに加えて相手が部下を呼んだり、2次会も同行させられたりとして、毎月のカード支払いが不安になる事が10年近くも続いたのは、サラリーマン人生が終点近くになって破れかぶれの心境でもあったのかなとも振り返っています。
50歳代のサラリーマンとしての生活実態は、仕事も大変、接待も大変、というストレスに満ちたもので、何時になったら少しは楽になれるのかねというのを時々は考える日々でもあったと思っています。
サラリーマン人生の最終段という場面でえらくひどい目にあったのですが、運目の糸は切れることなく再び私に裸一貫で切りなおして仕事をさせるように仕向けたのだと思いました。事業部長によるパワハラで私の担当していた顧客を全て取り上げられるまでは、私の契約は多分小さな会社が出来る程の規模だったと思いますが、それが全て無くなりゼロとなったのですが、割合に早く新しい契約が新興企業の顧客と出来て毎年契約を増加させていったのは、私の努力というよりも顧客の成長が早くて投資が進んだという幸運にも恵まれたこともあったし、相手を取り込むことに成功したこともあったのだと思います。
一時は全ての顧客を取り上げられて毎日が暇でどうなるのかなと思っていたら、今度は新しい顧客が出来ると毎日が多忙になる日が続くという何とも皮肉な結果になったのは、私自身がワーカホリックという傾向があったから自然とそういう方向にむかったのかなと思います。私の勤務していた会社では極めて特異なケースでもあったし、割合に普通の会社でも希少な事例ではないかという風に感じています。

私に対してパワハラをした事業部部長がいなくなると、次々に新しい事業部長が異動してくるのですが、私から見たら年功序列で順番に座っていたのかなという風にしか見えませんでした。中には明らかにゴマすりで事業部長になったと想像される輩もいて、当然の如くそういう連中は交際費だけ使って業績は伸びないという結果に終わっても、特段に叱責されることもなく次の異動先に移るという事もあって、何処かで読んだ小説を地で行く何とも素晴らしい会社だなと思わせる時が多々ありました。
私の勤務していた会社では、基本的に自身でビジネスをしたことが無い人が事業部長とか役員になるので、人からの噂とかマスコミの話とかというのを自身のフィルターも無くそのまま信じて、やるべき事業をたいして調べたり自らの企業の実力も推し量ることも出来ないままに、自身で妄想を描き起こして部下に指示したりして新規事業を始めるので、当然の結果として企業は成長するどころか横ばいをつづけるのが精一杯という結果になるのは当然の事だろうと見えていました。一旦始めた事業でも先行きが危ういのはどんどんと切り捨てることもしないので、はたから見るとツケがどんどんたまっていくという風にしか見えず、先代からのものなので大切にするという江戸時代以来の風習が残っているのかという、一種独特の文化のある会社だと思えました。

50歳代の私の立場は、中年のやる気があるのか無いのか分からない様な大勢の平々凡々の社員の間では、一人で仕事を完結させるので誰も口出しが出来ないような状況になっていったのは自然の成り行きだったと思います。50歳も後半になると、私自身の毎年の業績はパワハラを受けた以前よりは落ちるものの、圧倒的な額の利益を稼ぎ出していて、社員としては年齢からして毎年給料が下がるのは仕方が無いにしても、業績は毎年上がるという奇妙な構図が出来て行きました。50歳始めに売上ゼロから出発して60歳の時には、社員として決して劣ることのないレベルまで社内の誰の援助も無しに築き得たのは、ひとえに転職前の会社の社員教育の成果ではなかったかと感じることがありました。実のところ当時の私の心境としては、誰の協力も得ずに(会社としては何の投資もしていない状態)、これほどに業績に寄与しているのに対して、会社からは手数料として億単位で私に支払ってもらっても何の文句も無い筈だというくらいに思っていました。
私の仕事ぶりについては、こういう事態なっても、社内の役員とか事業部長とかからは何の感謝の事が無かったのも社風というべきものかと思いました。年末年始の挨拶でも一言「有難う御座います」という言葉が言えないのか、それとも社員だから当たり前だろうと思っているのか、どちらかだとしか思えないと推測していました。こういう社員が打ちそろっている会社に勤務していたのは運命とは言え、何処かに欠陥があるような会社であったのかとも思っています。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」が出来ない会社ともいえるのかなとも感じました。
こうして書いていると50歳代は悪因縁でもあったのかと思えるような時間を過ごしたのですが、同じ営業部の社員は入れ替わり立ち代わりに異動で動いていくのですが、部署名は変わりましたが、私はずっと退職までを同じ部署に居続けることになったのも、この時の色々な事件の影響があったからだと思います。
この時、私が新規に契約した顧客は、事業部長が以前に私が契約した顧客をパワハラで全て外したという経緯があったので、事業部長や営業部長には口出しをさせたくないという方針を明確にしました。それで最低限の年末年始の挨拶にしか連れて行かないという事にしていました。私の契約した顧客は、元々役員を始めとして事業部長とか営業部長という社員は、契約が決定後の最終的な場面にしか連れていかなかった事もあり、そのような運営をしていても何も困ることはありませんでした。
自分本位に考えて顧客にも堂々と語る社員が多い会社なので、余りに常識の無い役職のある社員を頻繁に顧客に面会させると、かえって顧客から不信感を持たれる可能性が高くなるので、そういう意味でも役員以下の管理職を顧客に連れていかない事で、仕事がスムーズに進んでいたというメリットは大きかったと思います。

そういう意味では顧客にとってあまりメリットの無い私の勤務していた会社を、私個人の仕事のやり方で仮面を被せて、顧客のあらゆるニーズに対応して実行するという仕事のスタイルが極端なほどに推し進められることになりました。私の勤務している会社から見れば、社員として毎年相応の売上や利益が出れば良いという刹那主義を標榜するような体質だったので、顧客からのニーズを断ることもなく実現できるように工夫しながら考えて契約すれば社員としての体裁が整うようなことになり、こういうやり方が10年以上も続いたのでした。
これは顧客からの要望を社員としての立場で普通で対応しているだけでは実現するのが難しいので、どういう風にしたら自分が勤務する会社の流儀で実現可能なのかを、自分で考えるだけでなく顧客を巻き込んで策を練るという仕事の仕方が進化していくような毎日だったと思います。
退職までの十数年は、ある意味でも非常に高度な仕事をしていたのかと思いますが、そういう毎日は常に頭の中に考え事があって、社内の職場ストレスに加えて仕事推進上のストレスも高かったというのは日常生活にも影響を与えていたと思います。
50歳半ば過ぎに大型自動二輪の運転免許を取得して、大型バイクで高速道路を走ったり、急峻な山道を走る爽快感を味わったりしたのも丁度この時期と重なります。60歳代になると、海外旅行にも出かけて会社生活を忘れて世界の大自然を楽しんでいたのも、普通の人では考えられない程の仕事の質と量に対するストレスの代償であったのかなとも感じています。
私が50歳代の頃、循環取引で粉飾決算を続けていた事業部長から、私は担当顧客を全て外されるというパワハラを受けた後に待ち受けていたのは、驚くべきことに新しい顧客との契約が出来たことでした。
当然ながら、私自身は事業部長のパワハラに対してすごく気分を害していましたが、毎日やることも無くなる方が性格からすると嫌だったという事もあり、かってデータセンター顧客開拓で訪問したことのある顧客を何件か回るうちに、ある顧客から小さなシステム開発案件の見積依頼を貰い、事業部としてはメニュー外の仕事でしたが私にとっては手の内の仕事だったのでさっさと顧客との価格調整をして契約に至ったという事でした。この顧客は以前データセンター提案したものの他社に決まったという過去がありました。しかしながら、担当部署としては私の勤務する会社の提案を推してくれたという経緯もあり、その後毎年年始挨拶だけ7・8年も通っていました。お互いに気心が通じるような顧客であったと思います。小さなシステム開発の契約が成立した時、捨てる神あれば拾う神ありという故事をそのまま地でいっているような物語だと感じました。
この新しいシステム開発案件に加えて、たまたま別の営業マンが新規顧客の引合いを担当しているうちに自分の手に負えないというような事になり、私にお鉢が回ってきました。私が引き受けて後は、一気に契約をまとめあげたというような一件があり、新しいデータセンターの顧客を契約するということができました。
こうなると事業部長は内心ますます私が嫌な奴に見えたというのは、廊下で顔を合わせた時やすれ違う時の表情でよく分かりました。事業部長が担当部長に降格するまでの長い長い間、サラリーマンなので仕方ないという風に思ってはいましたが、かなりのストレスを感じながら毎日を過ごしていました。

こうして新しく契約した二つの顧客を私は退職するまで10年以上も最後まで担当しました。どういう訳か一方の顧客で仕事ができると、もう一方の顧客は暇になるというようなサイクルが毎年続いたので、一年中仕事が絶えないという状況がつづくことになり、これはこれで面白い現象であると思っていました。
又、この二つの顧客の体質が真逆で、一方は真面目一筋という堅い体質なのに対して、もう一方の顧客は急成長しているという事もあってハチャメチャな側面がありましたが、両方の顧客とも私の長年の営業経験を存分に活かす事ができて、当然の如く毎年契約を増加させるという努力をするという日々を過ごすということになりました。同時に、職場の社員よりも顧客との信頼関係が深くなり、事業部長からのいじめに対するストレスを顧客との会話で解消できていたのではないかとも思っていました。
こういう立場になると、一匹狼的な存在に思われるのですが、業績寄与は他の社員を圧倒するものがあったと思いますので、泥沼のような社員が打ちそろっている体質の企業の中にあっても、ちゃんと花を咲かせる事が出来る存在であるとは誰も見てはいなかったというのは認識ができていたので、そういう心情を持たせることになったことは不幸であるなという風に感じていました。
50歳から60歳までの殆どを、私に対してパワハラをし循環取引による粉飾決算を延々と続けていた事業部長と一緒の職場で過ごすことになったのも何かの因縁だったかも知れないと思います。
この事業部長とは当然ながら口もきかないし、話をするのは最低限度の必要に迫られた稟議書にはんこを貰いに行くだけで、廊下で会っても当の事業部長は私からの視線を逸らすという日々になりました。そういう意味ではパワハラを受けた後は今流の言葉で言えばいじめにあっていたということだと思います。それでも精神的に何とか持ちこたえて我慢しながらの通勤を続けて会社を辞めるということには至りませんでした。

この事業部長が連れてきた、事業部長の低能より更に程度の落ちる酒を飲むことが営業だと思い込んでいた営業部長が出鱈目な仕事ぶりを正々堂々としていたので、私が過去に担当していた顧客からは契約見直しで大幅値引きを迫られたり、逃げ出す顧客も出たのは当然の事だろうと思いました。
私はこういう悪い精神状態の職場環境の中では何もする意欲がなくなり体調も悪くなりましたが、意地でも会社を休まずにいました。丁度男の更年期と重なる時期でもあったのだろうと思いますが、休んでも体がだるいという症状も出た時期もありました。営業部の中では他部署から異動で配属された毎日何をしているんだか不明な社員と同じ仕事レベルになり、毎日を過去の資料整理とかをして過ごしていました。
当然ながら、私が過去に契約した顧客を全て取り上げられたので意地でも新しい顧客を探そうとする気はさらさらなかったのですが、暇に任せて過去に訪問した顧客の中で何社かを訪問をしました。その中の一社でシステム開発の引き合いを貰ったのが縁となり、その時に最初に見積もりを依頼したのが、私がサラリーマンとして最後の仕事かと思って仕事をした事業部の前身だったのも何かの因縁だったかも知れません。この時、見積依頼した事業部からは変に高い見積金額を提示されて顧客からもダメ出しをくらったので、私が過去に仕事をお願いしたことのある別の部署に見積依頼をして何とか受注をしたという事がありました。
そうする内に、役員から新しいデータセンターを探して来いという指示があって事業部長があたふたするという事がありました。以前のブログでも紹介した通り、事業部長は探すことも出来ないので、私が新しいデータセンターを見つけて契約までをして立ち上げたという事がありました。

顧客から弁護士付で契約更改を迫られた事件を処理したり、役員から指示された新しいデータセンター立上げをしたりと仕事をしたのですが、その結果は感謝されるどころか、何も出来なかった上司である事業部長から嫌がらせみたいなパワハラを受けたりいじめをされたりとされて、散々に嫌な時期を過ごしたのですが、こういう酷い職場環境でも持ちこたえることが出来たのは、転職前の会社で軍隊式の訓練をしてきたからだと感じていました。
データセンターについて言えば、この後に某役員があいつにできるなら俺でもと思ったらしく、新しいデータセンターと契約したのを意気揚々として社内に宣伝していましたが、その建物が当時業界の誰も相手にしなかったような問題のあるデータセンターでした。役員が自身の能力不足を認識できない事象で引き起こされたものであったというのも社風のなせる業だろうと思っていました。

先回のブログを書いた後で続きがあったのを思いつき書き足すことにしました。
私に対してパワハラを行った事業部長は、循環取引で粉飾決算を続けて7・8年もの長い間事業部長を続けたられたのには会社の体質が関係していると思いました。この事業部長の無能ぶりは以前のブログの個別事象紹介で紹介しているので割愛しますが、それほど事業に対して何の手も打てなくて成り行き任せにしていて業績が達成出来るという事を不思議に感じない役員や社長は、目先の数字さえ達成できていれば中身は聞いても分からないので、分かったふりをしてやりすごしていたという事であったと思います。こういう業績処理を指摘できると思われていた社外監査会社は東芝事件で無能ぶりが明らかになったように、当然ながらこの時も監査会社から何も指摘されなかったは当然でした。
循環取引が社外の業者を使っているうちは目立たなかったのが、社内で循環取引をした時には咎められたというのも変な話であると思っていました、何れの方法にしても粉飾決算には変わりないわけで、そういう処理を許していたのが社風というか土壌というべきものだったと思います。長年の粉飾操作を降格と言う事だけで済ました企業の倫理観が問われる事態で、こういう過去があったにもかかわらず世間がコンプライアンスと言い始めると、急に姿勢を変えて循環取引の制限には乗り出したものの、業績悪化を頭に思い浮かべると全てを無くすことは出来ないと想像しています。
突き詰めると、暖を取る薪を探すにしても、社員の能力があたかも流木を拾うがごときしか出来ないという体質なので、自ら火を燃やす木を山に探すとか、更に難しい植林を行うなどというのは考えさえつかない事だと思われるのでした。顧客そのものが得体のしれない何処かから流れ着いた朽ちた木ばかりなので、質の落ちる流木でも薪にせざるを得ないので、それは自然と相手の言いなりになる企業しか顧客となりえないという事であって、まともな顧客には対応が出来ないという体質があると思っていました。企業としての目標を定めたところで、企業幹部の能力が底抜けにあかるい青天井では何も結果がでないのは自明の理というふうに感じていました。こういう企業体質が、顧客を顧客をとも思わないという社内の風潮に転じていると感じていたのは私一人だろうと感じていました。
この循環取引で思い出したのは、外資系コンピュータ会社の社員がベンチャー企業を作り膨大な金額の循環取引をして倒産したという事件があり、一時は新聞紙上をにぎわせたことがありました。そのベンチャー企業の一部のシステムエンジニアを丸ごと採用したということがあり、会社としては循環取引というキーワードと縁が切れないということかという感を持ったのでした。当然ながら、このシステムエンジニアの集団転職組がものすごく活躍して業績を上げたという話は一度も聞いた事がなく、枯葉の集団に紛れていつの間にか周りの枯葉に腐らされて無くなったのではないかと想像をしています。
50歳を過ぎて事業部長からパワハラを受け、私は担当していた全ての顧客を取り上げられ、私を子会社に異動させようとしたのが失敗した、というのを以前のブログで紹介しました。以前のブログは各事象を個別に記載しただけなので改めて当時の事情を振り返ると、事業部という小さな組織のほんの少しの職責も果たせない人間が事業部長として配属されていたというのが会社の本質を表していたのかなという風に感じることが出来ます。それほどに管理能力にとどまらず仕事の処理能力が無い人たちの集団ともいえる会社であったかもしれないとも思え、多分現在でも体質は変わっていないのだろうと想像しています。

パワハラをした事業部長は私が仕事をバリバリとこなすのが余程嫌な奴に見えていたのだろうと推測しています、と言うのは、この事業部長は自分から仕事ができると周りに豪語する目立ちたちがり屋で、以前の職場でも上司にそれを認めさせていたという話を聞いていました。
その事業部長が某顧客からデータセンターの賃料値下げの申し出が来ても為すすべも無く、顧客の担当営業として私が弁慶如く鋭い矢が飛んでくる前面に立って対応しました。弁護士を同伴した相手に私がありとあらゆる考えられる屁理屈を考えては並べ立てて約1年間も対抗し、最後には顧客も呆れて折れたところで、事業部長は自分が何もしていないのを気付いて自分一人で顧客に出向いて、形ばかりに自分が決着を図ったという図式に作り上げたのでした。
私自身は心の中では顧客の主張に何の疑問も無く賛同をしていたのですが、サラリーマンという職責上自らの勤務する会社の利益のために行動していたというだけで、そこには社会の倫理観からは外れているという認識はありつつも仕事をしなければならないという悲哀もあるのだなと感じていました。こういう仕事の仕方をしていたのは私の勤務していた会社でも多分私一人だけだったと推測していたので、とうてい他の社員には理解不能な事だろうとも思っていました。
この事件後、顧客からの脅しの様な言動に対して私は危機感を持って要対策という発言していたのも、事業部長が私を煙たく思ってパワハラに走ったのだろうと推測しています。私の危機感は10年も経過しないうちに現実となって、歴代事業部長も無為無策で誰も何も出来ないうちに契約は解除されたと知りました。この契約解除の布石を打ったのは当時の事業部長であったと思えると同時に、先見の明があったのは全社中私一人であったという証明にもなったのかと思っていました。
又、この事業部長は目立ちたちがり屋なので業績も右肩上がりを社内で主張したいと思っていたらしく、事業部長就任当初から循環取引をして業績の水増しをしていました。当初は出入りの業者を手名付けて期末になると取引案件を持ってこさせるのが恒例となっていました。しかし、業者も余程無理をしても、この事業部長からの何の恩恵が無いと分かると案件紹介も自然と無くなり、最後には社内での循環取引を企んで露見したという事件がありました。その後に事業部長は降格となりましたが、事件を引き起こした事業部長に事業部の仕事を委嘱した役員とか社長には何のお咎めも無かったというのは、事件を内々で処理して幕引きを図ったという事だなと理解しています。普通常識ある会社ならば、こういう粉飾事件を引き起こした場合は懲戒解雇とかが普通だと思っていましたが、そういう適正な人事処理も出来ない程に腑抜けで、上場会社でありながら何事の無かったかのように社長以下役員が知らん顔する体質も社風であるのかなとも感じていました。