50歳代のサラリーマン生活は、営業マンという仕事と会社の風土というはざまで息苦しくも、新興企業の課長から次ぐから次へと繰り出される難題の対応に明け暮れたという事は忘れることは出来ない思い出になりました。当時は自腹接待が何時まで続くのかとため息をつきながら思案をしていたら、事件が起きてそういう心配は解消されました。この新興企業で100億円プロジェクトが始まり、契約金額や利益が一挙に倍増するような勢いだったのが、このプロジェクトの終焉と共に自腹接待が無くなったのはよかったものの、今度は件の課長から1千万円の返金申し入れが出てきて一苦労どことろか何苦労もしました。
この時も社内の支援は絶無で全て私一人でストーリーを考えて対抗してねばり、最後には相手の部長から止めましょうという話で終わったのでした。この時は相手の事情や経緯は私が一番理解しているので、私が対応するのは当然だったかも知れませんが、私の上司は多分管理者や役員には深刻な話はしていなかっただろうと思います。波風を立てるのが嫌な社風が出ていたと思います。
半年近くも、ああでもない、こうでもない、というような理屈をつけて顧客に説明する時には形を付けるために営業部長や技術の責任者を同行していました。ある時、そういう説明に顧客を訪問した時、説明時間が掛かり夜も遅くなり、技術部門のエンジニアが飯でも食いたいというので駅中にある居酒屋に行ったのですが、帰り際に営業部長は支払いがしたくないというのが態度に出ていて私が飲み代を支払ったということがありました。仕事は全て部下任せ、帰りの飲み代も部下任せという態度に非常に違和感がありました。店から一番遅れて出てきた営業部長から「幾らだったのか」という問いがあったのも非常識の追い打ちをかけられたように感じて、こういう切羽詰まった顧客との折衝中も他人事の寝言しか言えないのかなという風に感じて、退職後も忘れられない光景の一つです。そういう感覚は営業部長だけでなく、管理者とか役員にもあり、私が一千万円返還訴訟を乗り切ったという一件は、社内では何事も無かったかのように考えられていたのは、そういう管理者とか役員が私の顔を見ても無表情だったのでよく理解が出来ました。
圧倒的な業績向上だけに留まらず、実質損害の阻止をしたという仕事についても、礼を言われたり感謝をされることが無かったのは、前回も書いた通り私の仕事がボランティアではなく、会社の中で知らん人が勝手に店を開いてやっていることなので、というようなとらえ方しかされていなかったという事が証明されたとも思います。
それでは、もう一つの私が担当していた規模は小さいものの役所体質の会社からは何もなかったのかと言えば、そんな事はなく、懇意にしていた課長からは色々な宿題が定期的に電話やメールで飛んでくるので、これも私が一人で対応していました。この会社で入手できる情報はシステムを独占していたベンダーに偏っていたのは分かっていたので、私はできるだけ客観的な情報を出すという方針で臨んでいました。この時も私の勤務していた会社では到底調べられないような事を求められることもあり、自腹で調査会社の報告書を購入して提示することもありました。
50歳代、こうしてサラリーマンとして生活のために会社に勤務していたのですが、その会社の中には独立した商店があって何もかも一人でやりくりをしていたと改めて思い知らされました。