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4:ブータン王国の熱狂

「郵政民営化は本当に必要ないのか。国民にはっきりと問いたい」

 郵政解散と言われた2005年の開催総選挙の際、そう毅然と答える小泉首相を支持したのは、無党派層と言われる20代~30代の若者だったと言われています。小泉政権誕生以降、確実に格差は広がったと言われていますが、その格差を直撃しているのが20代~30代であることを考えると―例えば日雇い労働者の増加、正社員から非正規雇用者への以降と増加や規制緩和における所得の減少など―皮肉な結果だと思わざる得ません。そもそも郵政解散の際、あるPR会社は郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略と題して主にターゲットとすべきはA層とB層とし、A層は構造改革によって恩恵を受けた財界や都市部ホワイトカラー、B層は具体的なことは解らないが小泉総理のキャラクターを支持する層としています。最も面白いのは、A層はIQの高い人間、B層はIQの低い人間と位置付け、B層にフォーカスした戦略が必要と結んでいることは、特筆すべきだと思います。知っているのです、何も考えずキャラクターだけで小泉内閣を支持する人間はIQの低い人間だと。この分析で面白いのは、既に小泉改革によって痛みを受けた人間はIQが低く反構造改革、そして構造改革に反対する守旧派はIQが高いそうです。痛みだけを受け、何ら抵抗を示さずとりあえず構造改革反対と言う人間もまた、IQが低いそうです。

 そんな、PR会社からすればIQの低い人々が支持した小泉内閣、そして小泉政権で景気は回復したと言われています。そして都市と地方、上流と下層、恩恵を受けた者とそうで無い者に別れて格差は拡大し、皮肉にも痛みはIQの低い層が受けたと言われています。しかしよく考えてみれば、冒頭に説明したように資本主義社会とは神の見えざる手によってケーキが分配される不平等社会ですから、格差が存在し、恩恵を受けるはずだったケーキの分量が減って痛みを蒙るのは、ある意味で当然とも言えます。資本主義と言えば事在るごとにライブドアの社長だった堀江氏や「物言う株主」として名を馳せた村上氏、或いはベンチャーの雄と言われたグッドウィルの折口氏、フルキャストの平野氏など、悪巧みをして逮捕されたり或いは有名になった人ばかり取り上げられますが、彼らは神の手で切るはずのケーキを自らの手で切ろうとしただけで、資本主義が悪いのではなく、彼らに経営者・リーダーとしての資質が無かったことが問題なのだと思います。

 資本主義というのはあくまで国を発展させるための手段に過ぎず、ブータン王国は計画経済という点で資本主義とは程遠く、どちらかと言えば社会主義経済に近いと言えます。実際、ワンチュク国王が就任してから退位するまでの30年近くは環境に配慮した経済活動―すなわち今で言う持続可能な開発を手段としていましたから、国内体制も過当な競争も存在せず、国王があらゆる物事を決めていったとさえ言われています(そしてそれが、国民が脳味噌を国王に預けた原因とも言われています)。一方の小泉首相は資本主義経済を強化し、市場原理主義者(市場を解り易く言えば、ケーキのこと)とも言われた竹中平蔵氏を懐刀として重宝し続けました。どちらのリーダーも理由はともあれ、国民から熱狂的な支持を受けていた訳ですから、資本主義でも社会主義でも国民が納得しているから別に良いやん、で済みそうですがそういう訳にもいきません。中国の毛沢民による文化大革命、ソ連のスターリンによる粛清政治、北朝鮮の金一族の主体思想と熱狂的な支持によって幾度と無く悲劇は繰り返されました。皆さんもそれを学んで、今の視点だけで自分の人生を決めないことです。旅行が好き、金融知識を身に付けたい、本が好き、ITスキルで将来起業したい、全ては仕事の合間に出来ることだからです。旅行が好きなら仕事の合間に有給休暇で旅に出れば良いですし、金融知識を身に付けたいなら会社に行くまでの電車の中で資格勉強をすれば良いですし、本が好きなら会社の昼休みで読めば良いですし、ITスキルを身に付けたいなら日曜プログラマから始めれば良いと思いませんか? 引退が60歳と考えれば、それまでに社会も世界も世間も身の回りも変わっているはずで、今だけ幸せになりたいと思っても残りの59年不幸せではどうしようもありません。いったい何のために仕事をするのか、それを考えると自分の趣味だけで働く内容を決めることが如何に不幸か―もっとも何のために仕事をするか考えた時に趣味と一致することを、日本のサラリーマンは幸せな奴だと羨ましがりますが。

 話がかなり大きく逸れたので、本題に戻します。

 皆さんにとって身近な問題であるはずの日雇い・派遣・ネットカフェ難民―最近はマクド難民まで出たそうですが―なぜ彼らがマズローの欲求で言う最底辺の欲求さえ満足に叶えられないかを考えなければいけません。もう何度も出ましたが、資本主義はケーキの奪い合いです。そして奪い合いのための喧嘩が終わった時、神の手が既にケーキを切り終えていると言われていました。しかし日雇い・派遣・ネットカフェ難民にとって、ケーキを奪い合う術を知らない―これが問題となっているのです。

 それは即ち、何度も私が口を酸っぱくしている情報。彼らは横や縦の繋がりが殆ど無いと言われています。地方から出てきた若者にその傾向は特に強く、映画「ALWAYS」で描かれていたような地域社会のコミュニティも無ければ、堤真一が堀北真希に教えていたような技術の継承も無く、結果として何にも属さない浮浪となり、やがて日雇いや派遣になっていくというケースが非常に多いと言われています。フリーターやニートなどを負け組と世間ではいつしか呼ぶようになり、そしてまたそう呼ばれる彼らもそれを受け入れているようですが、本当は戦わない組です。本当の負け組は資本主義という土俵で負けてしまい、しかもそれが固定化して現状から抜け出せない日雇い・派遣の労働者です。

 ここまで喋って、まだ自分は関係ない! と思っているのなら、お目出度いとしか言えません。良いですか? 現実を見てみましょう。どうして日本は年間で3万人もの自殺者がいるのですか? 出発点は同じはずなのに、どうして電車で見るサラリーマンの顔はあんなに輝いていないのでしょう? 少し上の先輩から毀れる言葉は会社への愚痴と、不満なのはどうしてですか? そして皆さんは、そうならない自信がありますか?

 今までブータン王国の国民のように、自分で考えることもせず脳味噌を預けてきた皆さんに、いきなり戦うことが出来るのですか。従業員は家族ですと言ってくれる会社はまだ良くて、会社を形成するための兵隊か駒のように扱う会社だって存在します。先ほど私が言った某証券会社の友達もまさにそうで、戦う準備が出来ていないのにいきなり戦えと言われて体調を崩し、会社を辞めてしまいました。皆さんもまた、彼と同じような道を歩かないとも言えないわけです。そして、堕落してしまったが最後、一生を派遣・日雇いとして過ごさなければいけないかもしれません。

 私が皆さんに、なぜ働くのか? これを問うていたのは、ある意味において資本主義の日本において戦う覚悟をしているかと聞いています。死ねば良いと言ったのは、戦う覚悟も無いのに戦場へ行こうとするからです。死ぬよりも生きる方が苦しく、辛い世の中で皆さんは暮らす覚悟がありますか?

 その意味で、考えることを知らなかったブータン王国の国民は、これから様々な苦痛を味わうと思います。常識と既成概念の依存症だった国民にとって、ワンチュク国王という最大の依存相手がいなくなったおかげで、色々考えなければいけません。民意を反映するために国会が誕生し選挙が始まり、国を繁栄させるために内閣や閣僚が増えました。それでも私は間違いなくブータン王国は堕落し腐敗していくと思いますし、今のところそうなりつつあるようです。国民総幸福量を追い求めて、確かに国民の幸福量はどの先進諸国よりも高かったのですが、それは資本主義が齎すあらゆる市場での競争が原因で、土俵が違うことを失念したと言えないでしょうか。狂信的な宗教家が信者に向かって「最高ですかー?」と問いかけ、魔法のように「最高でーす」と返していたあの光景。円天で幸せになれると興奮し何千万という資産を預けていた中高年は、テレビカメラに向かって「最高!」という言葉を何度も繰り返し言っていました。ブータン王国の国民がワンチュク国王の洗脳に掛かっていたとは思いませんが、幸福を測る測量に不公平があったと私は思います。ワンチュク国王を追い求め追い続けるブータン王国の国民は、坂口安吾に言わせれば「堕落するしかない」かもしれません。かつて彼は「堕落論」という著を記し、その中で「生きよ堕ちよ。その正当な手順の他に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と闊歩しました。この言葉は戦争に敗れた日本国民が、あれほど嫌っていた米国に迎合していく様を「皆が縋っていた天皇や日本の神が負けた」「堕落して自分自身の天皇を生み出すしかない」と見破った際に出た言葉です。とことん堕ちて、依存する相手を見付けていく。ブータン王国の国民がそうなっていないか私は心配です。

 ワンチュク国王が見破ったように、開発が人を幸せにするとは限りません。開発によって自然が破壊され、大地が崩壊し、人々が苦しむ可能性だって有り得るのです。しかし開発によって齎される利益―すなわちマズローの欲求にあるように、底辺から上へと駆け上がる欲求が満たされる場合―に人々が堕落した瞬間、ブータン王国の国民は「生きよ堕ちよ」となるかもしれないのです。それが、資本主義の怖さなのです。

 そして、それは就職活動をしていく皆さんが学ばなければいけないことです。既に皆さんは坂口安吾が闊歩したように、堕落の限りを尽くしていませんか? 堕落していないと言えるのなら、皆さんはいったい何を信じ、これからどうやって生きていくのですか? そもそも、自分自身がなぜ働くか答えられない人間が、果たして本当に堕落していないと言えるのか。それは働かないことを堕落しているというのではなく、働くことを当たり前のように受け入れているから堕落していると私は思います。私は共産主義者ではありませんから、働けど働けど楽にならずと蟹工船の世界を謳っている訳でも野麦峠を目指せとも思っていません。むしろ労働という行為を通じてコミュニティを形成し、社会を形成してきた日本の歴史を鑑みて、働くということは良いことだと思っています。ただ、働くことを当たり前のように受け入れている理由を、堕落だと私は思います。

恐ろしいのは、成長のために働くと言う学生です。成長とは手段であり、目的無き成長はベンチャー企業によくある理念無き拡大と何ら変わりありません。ライブドアの堀江氏や楽天の三木谷氏がニッポン放送を買収する際、何を聞かれても「放送と通信の融合」とオウム返しのように答えて、マーケットから「あぁ、理念が無いからビジョンが描けないんだな」と判断されたことを決して忘れてはいけないはずです。就職活動をする学生には成長を語る前に、ビジョンを語って欲しいと思います。そういう意味で、私は今の会社の「Impact On The World」というビジョンに惚れていますし、学生に対して「一緒に成長しよう」と促す、下らないベンチャー企業は一線を画すと思っています。

そして、もっと恐ろしいのは何度も言いますが衣食住のために働くと言う学生です。生きるためには金がいる、金を稼ぐためには働く。それはある意味で正しいことですが、では何のために生きるのか考えたことがあるのでしょうか。生きるために働くのなら、なぜ死なないのか。沖縄では、さかんに「命どぅ宝」という言葉が流行っていますが「生きてさえいれば」「生きさえすりゃあ何とか……」と言っている、その姿はまさに『堕落』でしかありません。もう、そうなればトコトン堕ちるしかありません。

今回は少し話が複雑で、資本主義学と言いながら資本主義についてあまり話せていませんでしたね。すいません。話の内容が、どちらかと言えば絶望的な話題を中心にしていましたが、しかし真実でもあります。皆さんは今、遠くが見えない眼鏡を掛けていると思って下さい。首相が安倍さんから福田さんに代わって何とかなる、北朝鮮問題はアメリカが解決してくれるから何とかなる、年金問題もマスゾエさんが頑張っているし何とかなる、景気だって回復してきたと言われているし就職活動だって松本が言っているほど厳しく無いはずできっと何とかなる、そんなことより今日の服装、髪型が大切、異性に好かれる方が大切、友達と遊ぶことが大切、遊ぶ金を稼ぐ方が大切……そうして人生を過ごすうちに、嫌でも皆さんは眼鏡を取らなければいけません。その時、皆さんの視界には何が映っているでしょうか? その眼鏡は資本主義国でも社会主義国でも売っています。ただ社会主義国では眼鏡の性能に文句を言った人間は殺され、資本主義国では眼鏡の性能を高めたりお洒落にした人間は喝采を浴びます。

ブータン王国では、強制的に眼鏡を外されました。

皆さんは、いつ眼鏡を外しますか?

3:ブータン王国の幸福

 情報から隔離された世界だったからこそ、ブータン国民は幸福だったのかもしれません。オウム真理教などのカルト教団と違うのは、上に立つリーダーが真の意味で優秀か否か。その程度の違いだった可能性すらあります。

 もっとも、これらは皆さんにも言えることです。大学という世間から隔離された世界で、皆さんはどれ程の努力をもってして世間の荒波を体感してきましたか? 皆さんはブータン王国の国民と一緒で、脳味噌を誰かに預けて、将来のことも考えず遊び呆けていましたよね。いざ就職活動の時期になったらブータン王国の国民と一緒で、ワンチュク国王に「退位しないで下さい」と下げるかのように「どんな企業でも良いので内定下さい」と今まで舐めて来た社会に向かって低姿勢。皆さんの将来に、いったいその先に何が待ち構えているというのですか? 私の友人で、某証券会社に入社した人がいます。彼の仕事はひたすら外周りをして名刺を集めることでした。1100枚です。出来て当たり前、100枚獲得出来なかったら、上司に怒鳴られバカにされ苛められ、彼は体調を崩してしまい、ついに10月に退社してしまいました。去り際、上司から別れの挨拶は無かったそうです。しかし考えてみれば、その証券会社は外回り営業が非常に厳しいことは有名でした。そうなることは予見出来たはずなんです。しかし彼は同志社大学という優秀な大学にいながら、そんなことすら知らず―もっとも知っていて、嫌な情報は聞きたくないと耳を塞いでいたのかもしれませんが―、人生を自ら破滅へと追い遣ってしまいました。彼は今、無職です。つまり同志社だろうと龍谷だろうと優秀な奴は優秀、バカはバカ、だから皆さん安心して下さい。今時、大学名だけで優秀か否かを決める人事担当者はいません。脳味噌を見知らぬ大海に預けた人間、そして自らで考えている人間、そんな見分けぐらい人事担当者に付きます。今までこうして喋っていますが、ポカンと口を空け、メモすら取っていない人はもはや考えるのを辞めたか、下らない話と思って聞いているかのどちらかですよね。

 下らないと思って聞いているなら部屋から出た方が良いです。ただ物事に反発している人は、自分を尾崎豊のように思い込んでいるのかもしれませんが、反発しただけで何が変わるというのでしょうか。何に反発し、どう改善すれば良くなると考えたことはありませんか? 反発が許されるのは22歳の大学生まで、会社に入って何でもかんでも反発し、だからと言って対案を示さないようであれば、単なる子供と一緒です。

世間に溢れている既成概念や常識に反発を持つ。そしてさらに、どうすれば変えることが出来るか。そこまで考えることで、ようやく脳味噌が皆さんの頭に戻って来るのです。

少し前、私は「働く理由」を問うた時に「生きていくためには仕方が無い」と答えた人に対して「じゃあ死ねば良い」と答えました。私の「死ねば良い」という答えにどれほどの人が反発しましたか? 教授の推薦で月に1回講演をしてくれている人の発言だから、何も考えずに素直に受け止めていた人。人に対して死ねば良い、なんて言うなんて最低だと思った人。様々なようですが、じゃあなぜ私が「死ねば良い」と言ったか、皆さん理解出来ましたか。私は言いました、死ねば良いと言われて反発するなら今まで必死になって生きてきたのか、と。皆さんにとって生きることは既に常識であり、あたかも当たり前の既成事実のようですが、アフリカや東南アジアでは今日生きることで精一杯という人たちが大勢います。彼らは働くことすら間々ならず、ましてや生きることの意味すら理解していないかもしれません。その一方で生きることを前提に、仕方ないから労働しなければいけないと思うなら、私はじゃあその前提を無くしてみよう―そう提案しました。

私たちが生きていられるのは、日本に生まれたからです。資本主義国として高度経済成長を体験し、先進諸国として世界経済をリードしている国に生まれたからです。先ほど出たマズローの欲求で言えば、発展途上国より確実に底辺の欲望は直ぐ達成出来るはずですし、現に皆さんは少しアルバイトをするだけで衣食住を得られるはずです。それなのに発展途上国の住民のように、底辺の欲求を追及するために働くと言うのは恥以外の何物でもありません。資本主義国家では無いブータン王国ですら底辺の欲求を克服し、幸福という自己実現に向かって各人が努力しようとしているのです。

皆さんは隔離された社会―大学生という肩書きだけで誉められる偏屈な世界―から、脱出しなければいけません。隔離された、制限された社会において幸福であることはブータン王国の場合は国家として成り立っていたから良かったものの、皆さんは日本という国にいながら偏屈な世界に閉じ篭っているから始末が悪いのです。しかも日本は資本主義国家であり、パイは平等ではありません。闘い、奪い合い、そうでないと生き残れない社会ということに、皆さんは薄々気付いているのではありませんか?

隔離された社会から出るのが怖ければ、まずは現状に疑問を抱くことです。そして質問することです。質問は、疑問があるから質問出来るのですから。既成概念や常識を疑わず、それを受け入れている限りは隔離された社会から出ることなんて不可能です。そしてそれはブータン王国も同様で、ワンチュク国王に退位しないで下さいと頭を下げる人も、そして情報の快楽に溺れモラルハザードを起こす人も、ケツの穴は同根で、今までに疑問を抱かずまるで既成概念の依存症に懸かっているかのようです。

そして、それは皆さんの大学生活と一緒です。

なぜもっと外に目を向けないのですか? どんなに目を背けても、皆はその背け続けた世界に飛び込まなければなりません。関係無いと思っていた吸収合併も、関係無いと思っていた人員整理も、関係無いと思っていた正社員から派遣社員への強制転換も、世の中では当たり前のように平然と行なわれているのです。

伊勢を参拝するお陰参りに向かった民衆が、江戸幕藩体制に愛想を付かして「えぇじゃないか!」と言いながら躍り狂ったのは1868年頃だそうですから、約140年の時を越えてサンミュージックの小島よしおが「でも、そんなの関係ねぇ!」と言いながら躍り狂っているのは、あながち歴史は繰り返しているのかもしれません。派遣社員から抜け出せない派遣地獄、日雇い労働の日々から抜け出せない日雇い地獄、そして地獄から抜け出せずネットカフェを住処とせざるネットカフェ難民……そんな地獄が日本に迫っていることをしながら、小島よしおを筆頭に日本全国の国民が「でも、そんなの関係ねぇ!」と躍り狂っている。身近に危険が迫っていながら、自分だけは大丈夫と思い込みたいがために、皆さんは「でも、そんなの関係ねぇ!」と踊り狂っていませんか?

危機は、すぐ傍にまで近付いているのです。私は先ほど、底辺の欲求を追及するために働くと言うのは恥だと言いましたが、派遣地獄や日雇い地獄に陥っている人々は、その日暮らしすら間々ならない人々であり、底辺の欲求すら叶わないことが多いのですから。自分はそうはならない、問題、そんなの関係ねぇ! と躍り狂っていられるだけ幸せです。今日は最後に、資本主義の怖さを皆さんと一緒に考えて行きましょう。そして、それを考えることこそブータン王国が堕落してしまう原因、しいては就職活動をするにあたって何も考えないことの怖さを証明することになると思います。

 

3のまとめ

 

「世間に溢れている既成概念や常識に反発を持つ」

=>どうすれば変えることが出来るか。そこまで考えること。

 

「大学生という肩書きだけで誉められる偏屈な世界から、脱出しなければいけない」

 =>底辺の欲求を追及するために働く、と言うことの恥を知ること。

2:ブータン王国の悲劇

 実はブータン王国には最近までテレビがありませんでした。そしてインターネットもありませんでした。見方を変えれば、恐ろしいまでの情報遮断国家だったという見方も出来ます。また世界では始めて、2004年に環境保護及び仏教教義的な背景から禁煙国家となりました。国外からの持込は可能ですが、100%の関税が課せられます。タバコを吸う人にとっては、とても幸福でいられない国家です。我々のような日本人が、朝から晩まで畑を耕し、家に帰れば裸電球1つで暮らし、テレビもパソコンもましてや携帯電話も無い状態で暮らしたとして、果たして何日耐えられるのか。日本人からすれば、ブータン王国で暮らすとなればとても幸福になれないかもしれません。それは高度に発達した文明が齎す全ての快楽―テレビやインターネット、タバコや携帯電話、クラブなど―に日本人は麻痺してしまい、それが無ければ禁断症状を起こすからだ、なんて冗談があるくらいです。

 ブータン王国は2000年代前半にテレビやインターネットを限定的に解禁し、外界からの情報を受け入れ始めました。その理由をワンチュク国王は「いつまでも君主制が良いとは思わない。議会制などで民意を取り入れ、国民を成長させるべき」と発言したとされています。

皆さんは、国民を成長させる―この言葉の真意が、解りますか。外界の情報から一切遮断されたせいで、誰からも見ても貧しい暮らしなのに、情報が無いばかりに「貧しい=当たり前」となり、現状に全く疑問を抱かない状態になっている。ワンチュク国王はそれを憂いた、と言われています。現状に疑問を抱かないということは、自分の頭で考えないということと一緒です。自分の頭で考えない国民に、悪意ある国家元首が登場したらどうなるか―それはナチス・ドイツが民衆の圧倒的な支持で登場し、ユダヤ人を虐殺したことからも明らかです。ワンチュク国王はブータン王国をより良くするために、06年に自ら王位を退いてまで国民を成長させようとしました。ブータン国民に「どうすれば国がもっともっと良くなるか、世界で最も国民総幸福量が多い国になるか」を考えて貰うために、海外の情報を取り入れ始めました。

しかし、ブータンにワンチュク国王ありとまで言われた名宰相でありながら、最後の最後で誤算があったようです。それは、海外からの溢れんばかりの情報に国民は慣れておらず、どちらかと言うと上辺だけの情報を信用し、無用の混乱を来たしていること―すなわちアメリカは自由の国だ、とか(自由だからこそ究極の格差がある)―が挙げられます。今ではブータン王国の都心部には今まで無かったクラブがあり、そこではタバコを吸いながら海外に行くことばかりを考える若者で溢れているそうです。インターネットカフェには大人ばかりでなく子供が通い、アダルトサイトに大人たちは興奮し、無料で簡単に出来る人殺しゲームに子供たちは熱中しているそうです。全ては今までのブータンには無かった刺激であり、そしてその刺激は今まで何も考えたことの無かった、全てはブータン王国のワンチュク国王に自らの脳味噌を任せていた国民には、余りにも強過ぎたと言えるでしょう。

 ブータン王国は現在、議会制への以降や国民における選挙など、様々な試みによって民主主義を確立しようとしています。それはワンチュク国王が「自分ばかりに頼るのではなく、国民11人が自立していけるよう……」という切なる願いであり、ひいては国民が幸福であるためには、国民が幸福とは何かを考えていかなければいけない、そして国民にワンチュク国王は含まれるが、ワンチュク国王だけが国民では無い、だから国民が政治に参加するために民主主義へ移行する、という苦悩の判断があったと思います。しかし、英国の宰相・ウィンストン=チャーチルは「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」と語っているように、民主主義はまた国家の根幹を成す様々な制度において完成度が高いとも言えないのです。ワンチュク国王は国民を信じ、国民のために政治を行なってきたからこそ、国民のためを思い民主主義制度という「国民の声が反映され易い制度」を選択したのだと思います。ただ、ブータン王国の現状を見る限りでは、最後の最後にワンチュク国王は国民に裏切られる可能性も出てきたことは残念でなりません。

歴史を紐解けば、第2次世界大戦の主要国は全て民主主義制度を土台に議会制が採用されていました。あのナチスでさえ、選挙の洗礼を受けていました。後の歴史から見れば愚かな行為―戦争や虐殺など―も、熱狂した国民によって支えられる民主主義という魔法の杖が最高の政治に変えてしまう。それが民主主義の怖さでもあります。今はただ、歴史が繰り返されないことを祈るのみです。

ここまでの話を聞いて、皆さんは何を思いましたか? 自分自身に置き換えることは出来ましたか。『ブータン王国のワンチュク国王に自らの脳味噌を任せていた国民』というのは、皆さんを指すのではありませんか?

インターネットに溢れる情報は、果たして本当ですか。就職活動をしている皆さんは、リクナビだとかマイナビだとかナビ系で会社情報を検索しているようですが、あそこに書かれた真実が本当だと、誰が証明してくれるのでしょう。会社情報は全て会社側からの提出であり、そしてその真偽を確かめる人間は誰もいません。派遣問題で訴えられたフルキャストがマイナビで『「すべての人をいちばん輝ける場所へ」これが永遠のテーマです』と語っているのは何よりも滑稽であり、介護問題で世間を騒がせたグッドウィル・グループが『絶えず新しい事に貪欲にチャレンジし、拡大発展をしてきました。』と語っているのはもはやギャグとしか思えません。いつだって企業の外面は良いカッコしいであり、それが悲劇を生みます。アメリカで破綻した大企業・エンロンは誰もが就職したいと思っていたそうですし、ライブドアは企業を目指す学生にとって一種の羨望すら浴びていました。しかし玉ねぎのように皮を向いて行けば、どちらも会計操作を行い、皮を剥けば剥くほど腐っていたことは記憶に新しいはずです。

 情報ほど大切なものはありません。しかし、情報ほど怖いものはありません。関東大震災が起きたとき、朝鮮人が井戸に毒を盛ったという誤報が世間に流布したことは余りにも有名です。情報に惑わされた人々は暴動を起こし、保護下にあった朝鮮人を虐殺しようとさえしましたが、暴徒と化した民衆に向かって「朝鮮人が井戸に毒を入れたというのはデマである」と言い切り、4合ビンに入れられた井戸水を飲み干して見せ、民衆を追い返した川崎警察署長・太田淸太郎警部の逸話もまた、あまりにも有名です。

 皆さんは太田淸太郎警部にならなければいけません。情報に惑わされず、何が正しいか見極める人間にならなければいけません。インターネットの情報が本当かどうか街に出たことはありますか? 新聞に書かれている情報が真実かどうか納得するまで確かめたことはありますか? 皆さんの脳はインターネットの検索という海に漂流したままですか?

 今からでも、遅くはありません。情報に気を付ければ良いだけの話です。これはブータン王国の国民にも、そして皆さんにも通じる話です。

 

2のまとめ

 

「現状に疑問を抱かないということは、自分の頭で考えないということと一緒」

 =>ブータン王国の国民は、ワンチュク国王に自らの脳味噌を任せていた

 =>突然、脳味噌を返された国民は身近な堕落に走り、モラルハザードを起こした!

 

「インターネットに溢れる情報は、果たして本当ですか」

 =>情報ほど大切なものは無し、情報ほど怖いものは無し

1:ブータン王国の神秘

1:ブータン王国の神秘

 皆さんはブータン王国をご存知ですか。

中国やインドの国交に接し、アジアに位置する小さな国です。面積は九州とほぼ一緒ぐらい、人口は92万人で山梨県の人口よりも少し多いぐらいです。九州に住む人口が合計で1300万人ですから、かなり広大な大地で自然と共に暮らすブータン王国の人々の姿が思い浮かびませんか。そのブータン王国の人々は半数がチベット系、20%程度がネパール系で、そもそも17世紀にチベットの高僧ガワン・ナムゲルが現在のブータン王国一体を制圧したのが、この国の始まりだと言われています。当初は各郡の豪族が群雄割拠している、言わば日本の歴史で言うところの大和時代のようなものだったと言えるでしょう。しかし1907年に東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクがラマ僧や住民に推され初代の世襲藩王に就任、現王国の基礎を確立。政治体制として君主制を確立し、現在は第5代国王が王位を継承されています。

主要な産業は農業や林業ですが、広大な土地を活かした電力発電もまた主要な産業の1つです。地理的に言えばブータン王国はヒマラヤ山脈南麓に位置しており、その勾配を活かした水力発電をインドなどに輸出しているのです。と言っても発展途上国であることには変わりなく、ブータン王国は様々な援助によって成り立っています。ちなみに主要援助国で言えば、日本はインドに継ぐ第2位です。

もしブータンに興味を持った人は、この国をもっと調べてみても良いでしょう。地政学的に中国よりインドの影響が強く、仏教的色彩が街中に溢れていますが、モンスーン気候と呼ばれる照葉樹林地帯に属しているおかげで、日本のような四季に溢れ、そのせいか日本文化に相通じる文化的特徴が多く見られます。広大な田園に切立った山々、大空を羽ばたく鳥達に沈んでいく大きな太陽、風が吹けば大地と森林の匂いが立ち込める―昔の日本を彷彿とさせる景色が未だブータンには残されており、そのせいなのか西岡京治という海外技術協力事業団から派遣された農業技術者はブータン王国の農業を劇的に改善し、GDP30%以上を占める成果を示してなおブータンに残り続け、ブータンで亡くなられました。

さて、今回はなぜそのブータンを取り上げているかと言えば、この国の歩んだ歴史が私を含めた皆さんに、大いなる教訓を与えてくれたからです。それは第4代ワンチュク国王が提唱した国民総幸福量(GNH)という考え方です。これは国民の幸福とは何かを考えたワンチュク国王が1970年代に提唱し、今ではスローライフなどの機運と重なって大きく注目を浴びています。そもそも、なぜ国民総幸福量をワンチュク国王が考えたかと言えば、1960年代のブータン王国は貧困から逃れるために先進諸国をモデルケースに、様々な開発に明け暮れたのですが、経済成長の代わりに南北対立、貧困問題、環境破壊、文化喪失という課題に直面し、成長することが必ずしも幸福に繋がるとは限らないという現実を体験したからだそうです。人々が幸せに生きるために経済成長、総所得を物差しに考えるのではなく、暮らしやすさや文化・歴史に重きを成していこう―これが国民総幸福量の出発点だと言われています。

 実際、ブータンにはホームレスや乞食がいません。大家族制というネットワークが存在しており、昔の日本で言う「長屋三軒両隣、ご近所親戚大家族」みたいなもので、家族の絆が崩壊し、身寄りの無い人間がまず出ないそうです。また学校教育は隅々まで行き渡っていて、文化や歴史を重点的に教えているだけでなく発展途上国によくある問題のHIVやエイズなどの「教育が無いばかりに起きる悲劇」も、ブータン王国ではありえません。つい最近までテレビやインターネットも無く、海外からの情報やネットワークからブーン王国の国民は一切遮断されていましたが、口を揃えて皆、国民は「幸せだ」と言います。政治体制としてはワンチュク国王の君主制―言わば独裁体制と言っても過言ではありませんが、ワンチュク国王が退位を決意し報道された頃は、国民が次々に「退位しないで欲しい」という声を挙げました。どこかの北の独裁国家とは大違いです。

国民総幸福量を考案したワンチュク国王は言います。

「経済成長で国民が豊かになったとしても、それが幸福であるとは限らない」

 この言葉を聞いて就職活動生は2つのことを考えなければいけません。1つは良い会社に入ってたくさんの給料を貰ったとしても、それが幸福に繋がるとは限らない、ということです。そしてもう1つは、何のために成長するのかという目標を置かなければ、人を不幸にしてしまう可能性がある、ということです。

 そもそも考えてみれば、皆さんはなぜ就職活動するのでしょうか。

 働かないと生きていけない? そんなことはありません。日本にいる大勢のホームレスや乞食は働かず、コンビニ弁当や残飯でその日暮らしをしています。それが嫌なら日本から脱出して東南アジアか、それこそブータンで暮らすのはどうでしょうか? ブータン王国では12ドル以下で、十分に暮らせるそうですから。それが嫌なら、皆さんはもっと突き詰めて物事を考えなければいけません。なぜ自分は働くのか、について。

 デイトレードで生計を立て何十億という資産を形成した人だっています。親の七光りで資産を食い潰して生きている人だっています。世間に出るのが嫌だと言って引きこもりになる人だっています。そういう生き方があるにも関わらず、働く理由は何でしょうか。

 今まで育ててくれた親に感謝・孝行? だったら高い大学の授業料を今からでも遅くありません、自分で払うべきです。今日来ている学生の中で、大学の授業料が半期で幾らか知っている人はいますか? 親の金でノウノウと暮らしながら、授業が面白くない下らないと言っているのが皆さんの姿です。今、親に感謝や孝行出来ない人間が、これから親に感謝や孝行すると言って誰が信じてくれますか。

 生きるためには仕方が無い? だったら死ねば良いじゃないですか。今まで必死になって生きてきましたか? この中で一人でも良いです、胸を張って自分自身は必死になって生きてきたと言えますか? マズローの欲求というのがあり、人間には5段階の欲求階層が存在していて、それは下から「生理的欲求」「安全の欲求」「親和の欲求」「自我の欲求」「自己実現の欲求」と呼ばれており、人間の欲求は底辺から始まり優秀な人ほどこの階層を駆け上がっていくそうです。この話が本当であれば皆さんは「優秀では無い」ということです。なぜなら「生理的欲求」とは基本的に衣食住であり、生きる上で最低限の欲求だからです。皆さんは欲望の底辺で「生きるために仕方なく」と自分に言い訳しながら、これから40年間仕事をするつもりでしょうか? それじゃあ、奴隷と変わりません。最近、ブータンで長井健司さんという戦場記者がクーデターに巻き込まれた最中、軍によって殺害されました。至近距離から銃で発砲され後ろのめりになって倒れながらも、手に握り締めたビデオテープだけは手放さなかった姿を、大勢の国民は知っているでしょう。その長井さんでさえ、前日に「オレはイラクにもアフガニスタンにも言ったんだ! だから心配無い」と言い、クーデターに参加する群衆の撮影に自信を覗かせました(日テレが、長井さんが亡くなる前日のビデオテープを独自に入手、報道した)。この根拠の無い、死への距離感と生への自信―戦争地帯と全く関係無い日本においても同じです。明日、交通事故で死ぬかもしれない、余命3ヶ月のガンが発見されるかもしれない、大地震が起きるかもしれない、身近にが潜んでいるのに、皆さんは本気で「生きるために仕方が無い」と自分に言い訳しながら、就職しようと考えているのですか。

 なぜ働くのか。確かに生きるためにお金が必要です。全てに対価として、金銭が発生してしまいます。しかし、それが日本という国が経済成長を遂げていくために必要な経済政策―すなわち資本主義国家としての宿命です。

 仮に1つのケーキがあったとして、そのケーキを分担に切り分けて人々に配るのが社会主義です。労働の対価としてケーキを与える場合、どんなに頑張った人も、手を抜いた人も、与えられるケーキの量は一緒だから社会主義は崩壊したと言われていますが、真偽は定かではありません。一方、資本主義では仮に1つのケーキがあったとして、ケーキの分量を決めるために人々が争い、競い、勝負が決まった頃には経済学の父・アダム=スミスが言うところの「神の手」がケーキをそれぞれのための分量を切り終わっている、とされています。社会主義はケーキを増やすことは難しいが分配することは出来る、そして平等であるがために人々は愚痴をこぼし、資本主義はケーキを増やすことは出来るが分配することが難しい、そして不平等であるがために人々は血を流す訳です。

 少し話が膨らみ過ぎましたが、今回は皆さんとブータン王国のことを考えながら、働くこととはどういうことか、そして資本主義経済の日本で働くとはどういうことかを考えたいと思います。

 

1のまとめ

「経済成長で国民が豊かになったとしても、それが幸福であるとは限らない」

=>良い会社に入ってたくさんの給料を貰っても、それが幸福に繋がるとは限らない。

=>成長の目標を置かなければ、人を不幸にしてしまう可能性がある。

 

なぜ就職活動するのでしょうか。

=>人はなぜ働くのでしょう?

むすびとして

 今回はイチローと落合博満を題材にプロフェッショナルとは何か、について学びました。プロフェッショナルとは何か、という本は世間に数多くあれど、私にとってはどれも正解のような気がします。イチローの作文を読んで、プロフェッショナルとなると決めた時からプロフェッショナルであり、落合監督の言葉を聞いて、ただプロフェッショナルでい続けることが難しいと知る―それが、プロフェッショナルなのだと思います。

 ですから、どうぞ今日から皆さんもプロフェッショナルの意識を持って下さい。まだプロ野球のように生き残るかクビか、だけでないだけマシじゃないですか。ましてや、武田勝頼のように見限られ死を迎えることもありません。野村克也氏はかつて「意識が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば人生が変わる」と言いました。人が変わるのに、大層なことをする必要は無いのです。物の見方や捉え方、考え方を少し変えるだけで、行動は変わるものです。プロフェッショナルになろうと意識を変えた瞬間から、意識は変わるものなのです。イチローはかつて自分で無意識にやっていることを、もっと意識をしなければならない」と言いました。意識するということは単純に思えて、これほど難しいことは無いと思います。例えば今日朝起きてから、この会場に来るまでの時間に皆さん自身がした行動は、全て意識したものでしたか? しかし、そういう所から意識を変えていかないと、行動は変わらないと思いますし、習慣は変わらないと思います。

 ピーター・ドラッガーは言いました。「未来を語る前に、今の現実を知らなければならない。現実からしかスタートできないからである」と。皆さんがどれだけ崇高な自分自身の未来を語ったとしても、今の僕が判断出来るのは皆さん自身が歩んできた過去と現在ですし、また面接で語れるのは過去と現在です。未来は、会社=組織と皆さん自身で、一緒に語っていく問題です。未来を創造するのは、今からです。今から始めるのです。その今を見つめないで、どうするのですか。龍谷大学という中堅以下の大学で、何もせず何も考えず3年半過ごして掌に残っているのは一体何だと言うのですか。就職活動は楽だと、最近の世論は言います。しかし、就職活動が楽だから一体何だと言うのですか。その先30年間、皆さんは働き続けなければいけません。組織に絶望するかもしれない、人間が解らなくなるかもしれない。そうなったら、どうするのですか。就職活動に楽も苦もありません。問題は、その先で皆さんがどのように働き、どのように人生を生きるかです。

 先に話した人間学、組織学も、皆さんがどのように働き、生きるかの手助けになるようにとお話しました。そしてこのプロ学も、プロフェッショナルの意識の持ち方を学んで、いかに仕事を生きるかについて話をしたつもりです。しかし肝心の皆さんが、意識を変えないと何も始まりません。だからこそ、あえてプロ学を最後に話しました。

 大学生であっても、就職活動生であっても、内定者であっても、新卒であっても、その瞬間にしか出来ないことは山のようにあります。それをやらずに、自分の将来に現を抜かすのは止めた方が良いです。そんなことをしていたら、いつまで経っても意識の変わらない平凡な人間のままです。

 確かに変わるということは怖いことです。今までの自分を変える時ほど、恐怖に苛まれることはありません。しかし、変わらないといつか誰かに抜かれます。抜かれたら最後、誰も振り向いてくれない可能性だってあります。最後にプロ野球選手で、大リーグに挑戦した桑田真澄選手の言葉をもって締めたいと思います。

やるか、やらないかですよ、人生は。
やればそれだけのものが返ってくるし、やらなければそのままですよ。

落合博満から学ぶ『プロフェッショナルとは何か』

 落合博満と聞いて「オレ流」「我が侭」という言葉が思い浮かぶかもしれませんが、選手として監督として素晴らしい成績を納めており、野球人として素晴らしい人物であるという点については、あまり異論は無いかと思います。

 今回はプロ野球選手・落合ではなくプロ野球監督・落合に焦点を充ててプロフェッショナルとは何か、についてお話をしたいと思います。

 さて、イチローに焦点を充てた時に『プロフェッショナルになるのは簡単だが、プロフェッショナルでい続けることは難しい』と言いました。このプロフェッショナルという部分を、いろんな地位、役職に変えれば違った意味が出てくると思います。プロ野球選手、リーダー、代表取締役社長、母親……あらゆる立ち位置が、この言葉の奥深さを証明しているような気がします。では、落合監督に焦点を充てる時に参考になる言葉とは何でしょうか。私は就任1年目に言った公約に、全てが集約されていると思います。

「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一をとる」

 この言葉こそ、落合監督の考える「プロフェッショナル」の真骨頂であり、リーダーの言葉として痺れるものがあると思います。

 例えば、あなたが中日ドラゴンズの選手だったとして下さい。新しく赴任してきた監督が就任早々「今の戦力では優勝は出来ない」と言ったとしたら、あなたは何と思いますか。自分自身の力量不足を嘆くでしょうか? それよりも、自分の能力を否定されたような気がして、腐るか阿呆らしくなるか馬鹿馬鹿しくなるか、どれかではないでしょうか。

 もっと解り易い例で言いましょう。皆さんが例えばサラリーマンだったとして、とある部署に所属していたとします。その部署に新しく部長が就任されたとして、開口一番「この部署は売上が悪い。そのために、外部から人を雇った」と言われて、果たしてモチベーションが上がると言えるでしょうか。決して上がりません。しかし、それが今までの野球の「常識」でした。落合監督は、まずこの「常識」を打ち崩したのです。

「この部署は売上が悪い。しかし、外部から助っ人を頼むようなことをしない。皆の持っている力を10%増やせば、自然と売上は伸びる」

どうでしょうか? こう言われると、頑張ろうと思いませんか。

この例として、根底に流れるものが一緒なのは02年度に阪神タイガースに就任した星野仙一と言えるでしょう。徹底して外部の血を輸血し続け、星野氏が就任した時と辞任した時ではたった2年間しか就任していないのにも関わらず3分の1の30人以上が入れ替わりました。これを先ほどの例で言えば「この部署は売上が悪い。出来の悪い奴は徹底してクビにしていく」と宣言し、それを実行していくようなものでしょう。

落合監督にしろ、星野監督にしろ、両方とも「チームを強くする」ことを念頭に、チーム作りしています。そして両者とも「プロフェッショナルなんだから」という点でも共通していると言えるのではないでしょうか。星野監督の場合は「プロフェッショナルなんだから、優勝しなければいけない。優勝を夢だとか、出来ないと思っている奴はいらない」ということでしょうし、落合監督の場合は「プロフェッショナルなんだから、優勝するために君達の能力をもっと活用しないといけない。だからあえて補強は止めて、みんなの力がもっと伸びるような練習をしよう」ということでしょう。つまり落合監督が言いたいのは「プロフェッショナルは、上を目指さなければいけない」ということではないでしょうか。上を目指すために何をすれば良いかと考えた時に、あの発言が出たのだと思います。

実際、彼はプロ野球選手として上を目指すために、その生涯を捧げたと言っても過言ではありません。大好物だった刺身は、お腹を下すといけないからという理由でプロ入り後は一切食べなくなりました。また彼は自分のフォームが悪いと気付くと先輩後輩関係無く修正を続け、それは巨人から日本ハムに移籍した晩年でも変わらなかったと言われています。また落合監督の息子が、夜中にバットスィングの音で目が覚めて窓から庭を覗いて見るとスィングしている落合監督だったなど、逸話は多数存在しています。

では、なぜプロフェッショナルは上を目指さなければいけないのでしょう。答えは簡単で、プロフェッショナルでい続けることが難しいからです。プロ野球の場合、毎年定期的にチーム内にプロフェッショナルが7~8人入団してきます。助っ人外人も入団するでしょうし、FAでも入団してくるでしょう。それらに打ち克ち、今いるポジションを維持するためには自然と上を目指さざるを得なくなるのです。

良い例として、01年に入団した阪神の赤星選手の例が挙げられます。02年オフに広島から金本選手が入団し、星野監督は何度も「外野は金本、桧山、濱中。赤星は4番手」とマスコミを通じて公言していました。実際、赤星は走れても打てる選手というイメージは薄く、優勝を狙うためには已む無しと見られていましたが、蓋を開けて見れば03年度は打率3割を超え、盗塁も61盗塁を記録し、4番手どころか不動のセンターとして定着しました。外野は「金本・赤星」が定着したのです。07年現在、阪神在籍選手史上最も早いか3番目に早いかで1000本安打を達成しました。平成の福本豊と呼ばれる日も近いのではないでしょうか。

どれほど凄い選手と言え、いつまでもポジションが安泰では無いというのは海を渡ったプロ野球選手―伊良部、井川、松井稼頭央、新庄らが証明しているではないでしょうか。また同時に、郷に入れば郷に従えと言わんばかりに、どれほど凄い選手でも1から名声を勝ち取らなければいけないというのも証明しているでしょう。

ダイエー再建を期待された林会長ですら失格の烙印を押されて、現在では取締役副会長に降格しています。BMWの初代女性社長を務めた人間ですら、畑違いお門違いと罵倒されるのです。それほど成功し続けること、成果を収め続けることは難しいのです。

落合監督の言葉は、だからこそ教えてくれるのです。プロ野球選手で、プロ球団に所属している以上は優勝することは当然。優勝するために戦力を補強するのは簡単。しかし、それでいいのか? と。どの球団も凌ぎを削って優勝を狙ってくる。それを迎え撃つために、補強だけで十分か? と。決してそうではなく、上を目指すためには自分自身がもっともっと上のレベルに行かなければいけない訳です。組織のレベルが上に行くためには、その組織に所属している人間が上を目指さないといけない。それはつまり、プロフェッショナルでい続けるための「難しさ」の証明でもあるわけです。

皆さん自身、ここまで自分自身を追い込んだことはありますか? もっと言ってしまえば、皆さん自身の力は今現在どれくらいあって、それを10%伸ばすことは可能ですか。可能ならば、なぜ普段から伸ばそうとしないのか。不可能なら、その原因は何か。それを考えてこそ、壁は越えられ、プロフェッショナルでい続けることが出来るのだと私は思います。

イチローの作文から学ぶ「プロフェッショナルとは何か」

 まずは、イチローが鈴木一朗だった頃の作文を読んで頂きます。

「僕の夢は一流のプロ野球選手になることです。そのためには、中学、高校と全国大会に出て活躍しなければなりません。活躍できるようになるためには練習が必要です。僕は3歳の時から練習を始めていま す。3歳から7歳までは半年くらいやっていましたが、3年生の時から今までは365日中360日は激しい練習をやっています。だから、1週間で友達と遊べる時間は5,6時間です。そんなに練習をやっているのだから、必ずプロ野球の選手になれると思います。そして、その球団は中日ドラゴンズか西部ライオンズです。ドラフト入団で契約金は一億円以上が目標です。ぼくが自信があるのは投手か打撃です。去年の夏、僕達は全国大会に行きました。そして、ほとんどの投手を見てきましたが自分が大会ナンバーワン選手と確信でき、打撃では県大会4試合のうちホームラン3本を打ちました。そして、全体を通した打率は5割8分3厘でした。このように自分でも納得のいく成績でした。そして、僕たちは1年間負け知らずで 野球ができました。だから、この調子でこれからもがんばります。そして、僕が一流の選手になって試合に出られるようになったら、お世話になった人に招待券を配って応援してもらうのも夢の一つです。とにかく一番大きな夢は野球選手になることです」

 この作文を読んで、驚くべき点は「明確な目標を持っている点」「何のための練習か解っている点」「結果を数字で明確に述べている点」にあります。目標はプロになること、プロになるために辛い練習をしている、辛い練習のお陰で成績も残せているからプロに絶対になれる、だから辛い練習も乗り越えられる。この「成功へのサイクル」を簡潔に短い文章で纏め上げ、かつ小学6年生のうちから理解出来ているのは、天才だと思います。

 そこまで練習を積み重ねてきた結果、既に高校時代には監督に「言ってくれればいつでもセンター返しは出来ます」と答え、実際にそれが出来たのだから、監督は家に帰って「今度新しく入ってきた奴は、火星人だ」と答えています。

 では、高校時代のイチローは既にプロフェッショナルと言えたでしょうか。答えはイエスだと思います。1つは明確にプロ野球を目指して努力をし続けたこと、もう1つはその努力の結果として有限実行出来ていることを挙げます。プロ野球にいる人間ばかりがプロでしょうか? プロかアマかで分ければプロ野球こそ「プロフェッショナル」かもしれませんが、野球に関する意識は「プロフェッショナル」だと言えます。例えば『専門的知識・技術を有している』からこそ、簡単にセンター返しが出来たのでしょう。

 私の身近な例で言えば、こんな話があります。私の知り合いで、大阪府教員採用試験に合格した人がいます。そして彼は「プロの教師を目指す」ことを目標にしました。しかし、プロの教師とは何ですか? という質問に、彼は明確に答えられませんでした。人に教えるプロフェッショナルなら教師じゃなくても良いわけです。そして何より、彼はサークルのリーダーとして活躍していましたが、そのサークルが活気に溢れた目覚しい成績を残したサークルかと言えば、決してそうではありませんでした。彼の指導力不足が目立つサークルであり、そんな彼が「プロの教師になる」と宣言しても「よし、頑張れ!」と心から言う気持ちになれませんでした。「プロの教師になるのは解った、じゃあ君は今、プロになる意識を持って毎日を過ごしているか?」と聞いた瞬間、彼は耳を真っ赤にして「していませんでした」と言っただけ、プロに近付いたと言えるかもしれませんが……。

 誰だって自分の能力に自惚れがちです。自分は凄いと思いたいものです。しかし、いくら凄いと思っても歳月を重ねれば殆どの能力は衰えていくもので、人はそれを「老害」と呼びます。老とは何も年齢だけを指すのではなく、経験、能力も指すでしょう。意識を研ぎ澄まし、自分の限界を超えるまで練習をすることで闘いに勝っていく。勝った証の分だけ自信になると思います。しかし、その自信は脆く、儚いものです。868本のホームランを打った王貞治でさえ、試合前と試合後の素振りは欠かさなかったと言います。その理由として、王貞治は次のように述べています。

「いくらホームランを打ったとしても、もしかしたら明日になるとホームランを打てなくなるんじゃないかと思うと不安になって、だから練習をする」

 自信と弱気。弱気になるから自信を付けるのだと思います。皆さんは、どうでしょうか。挫けそうな時、恐怖に押し潰されそうな時、自分自身に何と言いますか。そこで押し潰されているようでは本当の意味でプロフェッショナルとは言えないでしょう。なぜなら今まで自分がしてきた「練習=専門領域への造詣を深くすること」に、自信が持てていないのですから。

 イチローに話を戻せば、かの有名な振り子打法ですが、入団から仰木監督が入団する93年秋まで失意の底にいたと言っても過言ではありません。当時、監督だった土井正三氏や1軍ヘッドコーチ兼打撃コーチの山内一弘氏が振り子打法を否定的に捉え(振り子打法は内角の球に弱いとされ、かつ山内氏は内角打ちの名人・シュート打ちの名人だったことから、振り子打法では内角は打てないと言ったとされる)、振り子打法を止める様に散々要請したにも関わらず、イチローはこれを固辞したというのは有名な話です。そして2軍で調整を続けながら、いつか日の目を浴びることを待ち続けたそうです。自分が積み上げてきた技術には自信を持っているから、絶対に曲げることは無い―これは前回の講義で踊る大捜査線のワンシーンで室井管理官が「正しいことが出来ないんだ、自分の信念も貫けない」と似た光景を映し出しています。室井管理官は自分の自説を曲げて上層部に追従せざるを得ませんでしたが、イチローは「自分は正しい」と信じて道を究めようとしました。イチローにとっては、今までの練習の積み重ねが「振り子打法」に集約されていましたから、それを変えずに振り子打法でいることが「正しいこと」だったのだと思います。もっともイチローのした行為は「組織的において問題行為ではないのか?」と皆さんは思ったかもしれませんが「自分は振り子打法で打てる」という的確な情報を会議室に持っていきながら(事実、イチローは初ホームランを野茂英雄から打っている)、その情報をもって2軍に落とした会議室の方が、分が悪いと思えます。また自分の思い通りにいかないからといって排除すると言うのは「器」が小さいとは言えないでしょうか。

 イチローの話を聞いていると、プロフェッショナルというのは、何も「専門的知識・技術を有して、且つそれら専門的分野においてご飯を食べている人」を限定的にプロフェッショナルと言うのとは違うように思えてきました。イチローの場合、プロフェッショナルとなると決めた時からプロフェッショナルであり、プロという意識の無い人間はプロであってもプロでないような気がします。目標を持ち、その目標のために練習し続けること。その姿勢こそが、プロフェッショナルなのかもしれません。

 皆さんは専門領域を勉学する学生です。これから就職活動に勤しむかと思うのですが、もう一度自省してみた時、皆さん自身が高卒と一体何が違うのか考えて見て下さい。企業が欲しがるのが若さだけなら、高卒に比べて4歳も皆さんは老けているのです。何のための大学かを考えたときに、皆さんは本来なら大学でプロフェッショナルに成り得たはずです。しかし、今日集まった学生にそういった学生はいないようですから、皆さんはそのチャンスをフイにしている訳です。もう一度、自分の大学人生を振り返って、残りの学生生活に何をするべきなのか考えた方が良いでしょう。私が思うにイチローの作文を読めば解るように、プロフェッショナルになることは簡単だと思います。宣言1つ、意気1つでプロフェッショナルです。しかし、プロフェッショナルでい続けることは難しい。イチロー自身が『1週間で友達と遊べる時間は5,6時間です。』と語っているように、何かを犠牲にしないとプロフェッショナルでい続けることが出来ないのですから

 独立して社長になりたい、有名になりたい、お金持ちになりたい。大いに結構だと思います。目の標を自分の肉眼で見えない場所に置くということは、貶される事ではありません。しかし心眼で捉えようと努力し、練習することほど辛いことはないのではないでしょうか。それでも自分は頑張れる、という人こそプロフェッショナルでい続けることが出来るのかもしれません。

はじめに

 プロフェッショナルという言葉をよく耳にしますが、そもそもどういう意味なのでしょうか。辞書などによれば、ある分野について専門的知識・技術を有していること、あるいは専門家のことを指すとされています。もしくは、何らかの専門分野か広範囲の人々によって行われる分野において、それを職業としている人を指すとも言われています。

つまりは専門的知識・技術を有して、且つそれら専門的分野においてご飯を食べている人をプロフェッショナルと言うのでしょう。

しかし、こんなエピソードがあります。私はあるベンチャー企業でSEとして仕事をしているのですが、そこにプロフェッショナルと言っても過言では無い人がいます。専門的技術を持ち、その技術をして仕事に取り組まれています。ある日のことです。私の同期が、どういう話だったか忘れましたが、メールで「~もう、諦めそう」と言いました。そうすると、前述の方がこう反論されました。

「プロは諦めたらあかん」

 と。確かに、そうだと思いました。諦めたら、そこで終わりです。しかし、ふと思いました。僕にしろ、その同期にしろ、プロフェッショナルとは程遠い能力しか持っていません。プロフェッショナルとは「専門的技術を有す」筈なのに僕たちはプロフェッショナルを名乗って良いのでしょうか? 皆さんも今、大学で経済、経営、法律、政治、宗教、教育と専門性のある領域で勉強をされています。大学院生ともなれば、専門領域の極みです。では皆さん、この中で自分自身はプロフェッショナルだと思える人はいますか?

 今回は最終の講義としてプロフェッショナルとは何かを学ぶ、プロ学を勉強したいと思います。そして、今回はプロ野球選手のイチローと現・中日監督の落合博満を中心に、プロフェッショナルとは何かを探求したいと思います。

結びとして

 ここまで話したところで、今度は皆さん自身に話を置き換えてみましょう。日頃、恐らく皆さんは愚痴のように「あの人がリーダーじゃあね」「あの人の下では働けない」と友達と漏らしていませんか。もし上に立つリーダーが尊敬出来ないリーダーであれば、皆さんに出来ることは一体何でしょうか。それは皆さん自身が「尊敬されるリーダーになるように努めること」ではないでしょうか。「あの人がリーダーじゃあね」と後輩と一緒になって言っていませんか。その後輩からしたら「じゃあ、お前が何とかしろよ」と思われても仕方がありません。文句を言う前に、まずは自分が今出来る最善のことを尽くす。それが先ほど私が言った「立ち位置」の話です。そして文句ばっかり言ったとしても、リーダーにはリーダーの目に見えない苦労などがあるはずです。相手の立場をわきまえず文句を言うのは「心得」違いで、リーダーが度重なる失敗をしていて刻一刻と変化する状況に耐えられず「正しい判断を下せない」と思ってから批判すべきでしょう。しかし、批判する前に自分自身は「正しい情報を報告したか」と振り返らなければいけません。自らを振り返って正しく判断出来た時に、ようやく「あなたは間違っている」と言えるのだと思いますし、これらの経緯を略して「あなたは間違っている」と言ったとしても、それは単なる愚痴でしかありません。

 では逆に、皆さん自身がリーダーだったらどうしましょうか。サークルのリーダー、バイトのリーダー、リーダーの形式は様々あれど、大抵よく「あいつはなっていない」「あいつがいると組織の士気が落ちる」と愚痴を零しがちです。しかし、それは「尊敬されるリーダーになるように努めること」を怠っているから、と言えなくはないでしょうか? 皆さんは室井管理官のように胸を張って「責任を取る。それが私の仕事だ」と言えるでしょうか。それほどまでに部下を信頼し、現場を信頼したことがありますか。この言葉が言える人間こそ「器」の大きい人間だと思いませんか。

 社会人になる以上は、組織から切っても切り離せません。また皆さんが組織に長く勤めるならば、リーダーとしての期待は好むとも好まざるとも背負わなければいけないと思いませんか。今回は「踊る大捜査線」という映像を通じて、皆さんに組織とは何か、組織で働くとはどういう意味か、について考えて貰いました。これで少しでも組織=歯車、組織の一員=歯車になるか、歯車を動かす人にはるか、という穿った見方を変えることになれば幸いです。また、今回も組織論ではなく組織学としたのは、組織を学び実践して欲しいと思ったからです。組織論と言うと経営学が大きく関わりそうですが、決してそんなことはありません。経済学の観点から、それこそマクロ・ミクロを応用して組織論に当て嵌めてみるのも面白いですし、法学の観点から、企業不祥事の責任分岐点を組織論と絡めて見るのも面白いでしょう。漫画にしか興味が無い人も、サッカーにしか興味が無い人も、自分の持っているスキル、技能がマッチしないからと言って諦めるのは間違っています。どうせ漫画にしか、サッカーにしか興味が無いのなら、その道を究めれば良いのです。道を究める過程で漫画だけサッカーだけではどうしようもない時に、他の学問は役に立つのです。

『リーダーが優秀なら、組織も悪くない』

さて、いよいよ最後のセリフです。今までは主に組織論を展開してきましたが、今度は「なぜ、働くのか?」なども織り交ぜながら、お話したいと思います。

このセリフは映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』のクライマックスで青島刑事が犯人に浴びせる有名なセリフですが、まずこのセリフが生まれる背景を説明したいと思います。

沖田管理官が更迭され、その後釜に就任した室井管理官は現場の捜査員に語りかけます。

「犯人はこの辺の地理に詳しい。地図に載っていない場所に隠れているはずだ。地図に無い場所を教えてくれ。マンション、空き家、どこでも良い……捜査員に関わらず!」

 この言葉に現場の人間は一念発起し、犯人が隠れていそうな場所を次々に室井管理官に報告します。そして、その場所へと全捜査員が急行するのです。青島もまた、犯人が隠れていそうな場所へ向かい、見事犯人がいた痕跡のある部屋を発見します。

「レインボーブリッジに急行します!」と叫ぶ青島。

 レインボーブリッジは再三の警察からの要請にも関わらず、封鎖されていません。そこへ犯人らしき人物が載ったトラックが1台通過します。青島はそれを追いかけます。暫くトラックが走るとやがて止まり、そこから3人組の男たちが降ります。

「お前達の組織には、リーダーがいるんだってなぁ!」

「あぁ……リーダーが優秀なら、組織も悪くない」

 青島は、そう自信満々に答えますが、3人組の男たちは薄ら笑いました。

「リーダーなんかいると、俺たちの個性が奪われちまうんだぁ!」

「俺たちの組織にはリーダーがいない! 最強の組織だぁ!」

 そう叫ぶと男たちは車に乗り、走り去っていきました。それを見つめる青島。すると突然、閃光弾が爆発してあっという間に男たちは確保されてしまいました。

「俺たちも、自分の判断で来た」

 そう答えるのは、SATの隊長です。

 一方、捜査本部では犯人逮捕の知らせを聞き入れ、全員が狂喜乱舞します。しかし浮かない顔をしているのは警視庁―会議室の人間です。

「これからが大変だな。勝手に橋を封鎖して―」

「責任を取る。それが私の仕事だ」

 そう断言する室井管理官。そして渋い顔で、彼を見つめる会議室のメンバ。

 どうでしょうか? この『リーダーが優秀なら、組織も悪くない』というセリフに込められた背景には、室井管理官の「捜査は現場の人間に任せる」という強いリーダーシップに支えられた現場の人間からの、強烈なまでの「室井支持」を訴える熱いメッセージです。

 皆さんはよく、だらけたサークルの会議で「もっとリーダーシップ出せば良いのに」とか、上の人間にオベンチャラばかり言うチェーン店の店長に「リーダーシップは無いのか」と影で悪口を言ったり、或いは安倍首相に「所詮、坊ちゃんにリーダーシップなんて無理だ」と思ったり、そんな経験はありませんか?

 まず言っておかなければいけないのは、リーダーシップに明確な定義などありません。組織論として、リーダーシップに関する定義は今を持ってなおされていないのです。それはつまり様々な形でのリーダーシップが存在し、一概に言えないことを意味しています。皆さんが思い浮かべるリーダーシップのある人間とは、どんな人でしょうか? 自分をグイグイと引っ張ってくれる人、働く易い環境を提供してくれる人、この人について行けば間違いないと思わせてくれる人―ほら、ここにいる人だけでもバラバラでしょう。

 皆さんは、この組織学を勉強するまで「組織というのは悪いものだ」「組織は人を歯車にさせてしまうものだ」と思い込んでいたと思います。しかし、リーダーさえ違えば組織は歯車から人が働く最適な環境へと様変わりすると思いませんか。全ては上に立つ人間、人間学で言うところの「器」次第だとも言えます。最も、リーダーが優れていなくても組織で働く中間層が頑張っている例なんかもありますけどね。

 そこで、皆さんにお聞きしたいことがあります。就職活動中の方が沢山おられると思うのですが、皆さんが会社を選ぶ基準って何ですか? やりたい仕事が出来る、自分を成長させることが出来る、色々ありますね。では、反論します。やりたい仕事が出来る部署に就けなかったら? 成長出来なかったら? 今まで、一度でも考えたことはありますか。

 就職活動をした人達は、あたかも偉い人達で凄い人達のように皆さんは捉えてがちですが、どうしてそんな凄い人達は会社を直ぐ辞めてしまうのでしょう。第2新卒なんて言葉が持て囃され、未だに金融・証券・旅行業界の離職率は驚くほど高いです。

 答えは簡単ですね。会社=組織をブランド名で決めているからじゃないですか。社名出してみましょうか。株式会社ドリコムという、京都発で今は東京にオフィスを構えるベンチャー企業があります。上場当時は、株価は600万円ぐらいでしたが、今では20万円を推移しています。単純に言ってしまえば、この中に経済学の人がいるから後で確認して欲しいのですが、第3者割当増資や株式分割などをしていなければ会社としての価値は30分の1になっているんです。30分の1ですよ。皆さんが今まで歩んできた20年間の人生を株式会社だったとして、その価値を株に換算した時に、このドリコムという会社はたった数年で「30分の1の価値しかない」と断言されたんです。僕なら自殺していますね、倒産です。しかし、この会社はベンチャーを志向する学生に人気があります。なぜかと言えば、ドリコムビジネスプランコンテストという独立を志望する学生に向けた大会を催していて、もっと言えば2006年に竹中平蔵総務大臣から総務大臣賞を戴いているからです。しかし、もう今までの講義で解ったかと思いますが会社=組織にとって大切なことは何でしょうか。外面? 箔? 株価? 社名? 違いますよね。その組織で働く人間がどういう人間で、何を思って(=目の標)働いているか、ではないでしょうか。だから株式会社ドリコムという組織に、どういった人間が働いているか知らないので何とも言えません。株価が下落しているから危ない、というのは経営学的に危ないのであって、組織学の観点からすれば危ないかどうかの判断は付けようがありません。ということは、どういう人物が何を思って働いているか解らないわけで、そういう組織に就職するということは大変なリスクであるということを、この際は知って貰えたらな、と思います。

 もう1つ、具体的な例を挙げましょう。私の友人で、ベンチャー志向の高い人間がインテリジェンスという会社の内定を貰いました。そこで自分を高めて、いずれは独立したいと考えていたようです。そこで私は聞きました。今のインテリジェンスの社長は誰でしょうか? と。彼は一瞬詰まって、解りませんと答えました。可笑しな話です。インテリジェンスという巨大組織の長です。彼を組織のリーダーとして、それに付随して取締役、専務、常務などの巨大会議室の人間がいて、インテリジェンスという組織が成り立っているのですから。さらに私は聞きました。その組織に所属することで、あなたは自分の何をどんな風に成長したいと思い、またインテリジェンスという組織であればどんな部分を成長させることが可能なのか。これも答えられません。本当に可笑しな話です。新卒採用とはプロ野球で言ってしまえばドラフト会議のようなもので、彼の取っている行動とは、ドラフト目玉候補の中田翔君が「自分を成長させたい!」と言って、巨人に行くようなものです。誰からもツッコミが行くでしょう。巨人にはサードに小笠原、ファーストに李がいて2~3年は絶対に出番が無い。だからオリックスに行け、と。巨人に行くより比べ物にならないくらい試合に出られるぞ、と。でも、彼はインテリジェンスに内定を貰ったまま、今を過ごしています。なぜか? プロ野球のように情報が公表されていないからですよね。この組織にはこういう人がいて、こういう特徴があって、こんな風に自分を成長させてくれる。この組織にはこういう人がて、こういう特徴があって、絶対にこの人の下では仕事が出来ない。そういう見方が出来ないのです。だから苦労する。就職活動に苦労するのではなくて、入社してから苦労するのです。

 組織に所属するとは、そういうことだと思います。自分の能力を伸ばしてくれる人なら歯車でも良いかと思ってしまうでしょうし、自分の能力を押し殺してしまう人なら自由闊達な風土でも最悪に思えてしまう。映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の中で、沖田管理官が青島に「組織に感情は必要無いの」と断言しましたが、この「リーダーが優秀なら、組織も悪くない」というセリフには室井管理官に対する絶大な信頼が込められています。まさに「組織には感情が必要」なのです。