1:ブータン王国の神秘 | ITベンチャーで働く社員から、就職活動に勤しむ学生へ

1:ブータン王国の神秘

1:ブータン王国の神秘

 皆さんはブータン王国をご存知ですか。

中国やインドの国交に接し、アジアに位置する小さな国です。面積は九州とほぼ一緒ぐらい、人口は92万人で山梨県の人口よりも少し多いぐらいです。九州に住む人口が合計で1300万人ですから、かなり広大な大地で自然と共に暮らすブータン王国の人々の姿が思い浮かびませんか。そのブータン王国の人々は半数がチベット系、20%程度がネパール系で、そもそも17世紀にチベットの高僧ガワン・ナムゲルが現在のブータン王国一体を制圧したのが、この国の始まりだと言われています。当初は各郡の豪族が群雄割拠している、言わば日本の歴史で言うところの大和時代のようなものだったと言えるでしょう。しかし1907年に東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクがラマ僧や住民に推され初代の世襲藩王に就任、現王国の基礎を確立。政治体制として君主制を確立し、現在は第5代国王が王位を継承されています。

主要な産業は農業や林業ですが、広大な土地を活かした電力発電もまた主要な産業の1つです。地理的に言えばブータン王国はヒマラヤ山脈南麓に位置しており、その勾配を活かした水力発電をインドなどに輸出しているのです。と言っても発展途上国であることには変わりなく、ブータン王国は様々な援助によって成り立っています。ちなみに主要援助国で言えば、日本はインドに継ぐ第2位です。

もしブータンに興味を持った人は、この国をもっと調べてみても良いでしょう。地政学的に中国よりインドの影響が強く、仏教的色彩が街中に溢れていますが、モンスーン気候と呼ばれる照葉樹林地帯に属しているおかげで、日本のような四季に溢れ、そのせいか日本文化に相通じる文化的特徴が多く見られます。広大な田園に切立った山々、大空を羽ばたく鳥達に沈んでいく大きな太陽、風が吹けば大地と森林の匂いが立ち込める―昔の日本を彷彿とさせる景色が未だブータンには残されており、そのせいなのか西岡京治という海外技術協力事業団から派遣された農業技術者はブータン王国の農業を劇的に改善し、GDP30%以上を占める成果を示してなおブータンに残り続け、ブータンで亡くなられました。

さて、今回はなぜそのブータンを取り上げているかと言えば、この国の歩んだ歴史が私を含めた皆さんに、大いなる教訓を与えてくれたからです。それは第4代ワンチュク国王が提唱した国民総幸福量(GNH)という考え方です。これは国民の幸福とは何かを考えたワンチュク国王が1970年代に提唱し、今ではスローライフなどの機運と重なって大きく注目を浴びています。そもそも、なぜ国民総幸福量をワンチュク国王が考えたかと言えば、1960年代のブータン王国は貧困から逃れるために先進諸国をモデルケースに、様々な開発に明け暮れたのですが、経済成長の代わりに南北対立、貧困問題、環境破壊、文化喪失という課題に直面し、成長することが必ずしも幸福に繋がるとは限らないという現実を体験したからだそうです。人々が幸せに生きるために経済成長、総所得を物差しに考えるのではなく、暮らしやすさや文化・歴史に重きを成していこう―これが国民総幸福量の出発点だと言われています。

 実際、ブータンにはホームレスや乞食がいません。大家族制というネットワークが存在しており、昔の日本で言う「長屋三軒両隣、ご近所親戚大家族」みたいなもので、家族の絆が崩壊し、身寄りの無い人間がまず出ないそうです。また学校教育は隅々まで行き渡っていて、文化や歴史を重点的に教えているだけでなく発展途上国によくある問題のHIVやエイズなどの「教育が無いばかりに起きる悲劇」も、ブータン王国ではありえません。つい最近までテレビやインターネットも無く、海外からの情報やネットワークからブーン王国の国民は一切遮断されていましたが、口を揃えて皆、国民は「幸せだ」と言います。政治体制としてはワンチュク国王の君主制―言わば独裁体制と言っても過言ではありませんが、ワンチュク国王が退位を決意し報道された頃は、国民が次々に「退位しないで欲しい」という声を挙げました。どこかの北の独裁国家とは大違いです。

国民総幸福量を考案したワンチュク国王は言います。

「経済成長で国民が豊かになったとしても、それが幸福であるとは限らない」

 この言葉を聞いて就職活動生は2つのことを考えなければいけません。1つは良い会社に入ってたくさんの給料を貰ったとしても、それが幸福に繋がるとは限らない、ということです。そしてもう1つは、何のために成長するのかという目標を置かなければ、人を不幸にしてしまう可能性がある、ということです。

 そもそも考えてみれば、皆さんはなぜ就職活動するのでしょうか。

 働かないと生きていけない? そんなことはありません。日本にいる大勢のホームレスや乞食は働かず、コンビニ弁当や残飯でその日暮らしをしています。それが嫌なら日本から脱出して東南アジアか、それこそブータンで暮らすのはどうでしょうか? ブータン王国では12ドル以下で、十分に暮らせるそうですから。それが嫌なら、皆さんはもっと突き詰めて物事を考えなければいけません。なぜ自分は働くのか、について。

 デイトレードで生計を立て何十億という資産を形成した人だっています。親の七光りで資産を食い潰して生きている人だっています。世間に出るのが嫌だと言って引きこもりになる人だっています。そういう生き方があるにも関わらず、働く理由は何でしょうか。

 今まで育ててくれた親に感謝・孝行? だったら高い大学の授業料を今からでも遅くありません、自分で払うべきです。今日来ている学生の中で、大学の授業料が半期で幾らか知っている人はいますか? 親の金でノウノウと暮らしながら、授業が面白くない下らないと言っているのが皆さんの姿です。今、親に感謝や孝行出来ない人間が、これから親に感謝や孝行すると言って誰が信じてくれますか。

 生きるためには仕方が無い? だったら死ねば良いじゃないですか。今まで必死になって生きてきましたか? この中で一人でも良いです、胸を張って自分自身は必死になって生きてきたと言えますか? マズローの欲求というのがあり、人間には5段階の欲求階層が存在していて、それは下から「生理的欲求」「安全の欲求」「親和の欲求」「自我の欲求」「自己実現の欲求」と呼ばれており、人間の欲求は底辺から始まり優秀な人ほどこの階層を駆け上がっていくそうです。この話が本当であれば皆さんは「優秀では無い」ということです。なぜなら「生理的欲求」とは基本的に衣食住であり、生きる上で最低限の欲求だからです。皆さんは欲望の底辺で「生きるために仕方なく」と自分に言い訳しながら、これから40年間仕事をするつもりでしょうか? それじゃあ、奴隷と変わりません。最近、ブータンで長井健司さんという戦場記者がクーデターに巻き込まれた最中、軍によって殺害されました。至近距離から銃で発砲され後ろのめりになって倒れながらも、手に握り締めたビデオテープだけは手放さなかった姿を、大勢の国民は知っているでしょう。その長井さんでさえ、前日に「オレはイラクにもアフガニスタンにも言ったんだ! だから心配無い」と言い、クーデターに参加する群衆の撮影に自信を覗かせました(日テレが、長井さんが亡くなる前日のビデオテープを独自に入手、報道した)。この根拠の無い、死への距離感と生への自信―戦争地帯と全く関係無い日本においても同じです。明日、交通事故で死ぬかもしれない、余命3ヶ月のガンが発見されるかもしれない、大地震が起きるかもしれない、身近にが潜んでいるのに、皆さんは本気で「生きるために仕方が無い」と自分に言い訳しながら、就職しようと考えているのですか。

 なぜ働くのか。確かに生きるためにお金が必要です。全てに対価として、金銭が発生してしまいます。しかし、それが日本という国が経済成長を遂げていくために必要な経済政策―すなわち資本主義国家としての宿命です。

 仮に1つのケーキがあったとして、そのケーキを分担に切り分けて人々に配るのが社会主義です。労働の対価としてケーキを与える場合、どんなに頑張った人も、手を抜いた人も、与えられるケーキの量は一緒だから社会主義は崩壊したと言われていますが、真偽は定かではありません。一方、資本主義では仮に1つのケーキがあったとして、ケーキの分量を決めるために人々が争い、競い、勝負が決まった頃には経済学の父・アダム=スミスが言うところの「神の手」がケーキをそれぞれのための分量を切り終わっている、とされています。社会主義はケーキを増やすことは難しいが分配することは出来る、そして平等であるがために人々は愚痴をこぼし、資本主義はケーキを増やすことは出来るが分配することが難しい、そして不平等であるがために人々は血を流す訳です。

 少し話が膨らみ過ぎましたが、今回は皆さんとブータン王国のことを考えながら、働くこととはどういうことか、そして資本主義経済の日本で働くとはどういうことかを考えたいと思います。

 

1のまとめ

「経済成長で国民が豊かになったとしても、それが幸福であるとは限らない」

=>良い会社に入ってたくさんの給料を貰っても、それが幸福に繋がるとは限らない。

=>成長の目標を置かなければ、人を不幸にしてしまう可能性がある。

 

なぜ就職活動するのでしょうか。

=>人はなぜ働くのでしょう?