2023年7月31日から8月4日にかけての4泊5日の長崎旅行記をお届けしていますウインク前回はこちら👇

(2023年8月3日)

長崎旅4日めのこの日、は体温にも迫りくるような気温を記録している猛暑にもめげず(ホントはめげてましたがニヤニヤ)朝から精力的(「グラバー園」そして「出島」)に動いています。で、次の出向き先は「平和公園」へ走る人走る人走る人…って、クソ暑い中、歩いていくわけはなく爆笑“一日乗車券”を購入しましたのでその威力をいかんなく発揮しますビックリマーク長崎電気軌道「出島」電停からひとまず「長崎駅前」電停へ。今回の旅では活動を優先させていましたので実はお土産はまだほとんど買っていません。例えば「グラバー園」前から電停の「大浦天主堂」駅までの坂道であるグラバー通りの両脇には、“いかにも長崎”って感じのお土産屋さんが並んでいましたが、そこを訪れたのは初日でしたので店内をチラ見しただけでお買い上げしたものはなく、2日目の福江島では少しだけ買い物をしたものの、3日目の軍艦島ツアーでは当然ながら買う場所がなく爆  笑その後、めがね橋から新地中華街までをそぞろ歩いた時には何点か買い物をしましたが、大き目なお土産屋さんを探していたところ、長崎駅の東側にあります長崎県営バスターミナルがあるビルの上層階にまとまったお土産を販売しているコーナーがあることを知り訪問しましたニコニコ

その前に、電停長崎駅前からの眺めなど。電停長崎駅からJRの長崎駅や、あるいはバスターミナルのあるビルに向かうには跨線橋を使って行き来しなければならず、跨線橋の上から撮影したもので、こちらの写真は長崎駅の北側の様子です。

こちらは南側。電停の構造は相対式2面2線となっています。

こちらは駅の西側で、正面に見えている山は夜景が有名な稲佐山です。なお、稲佐山展望台のところでも触れましたが、長崎市内と同展望台を結ぶロープウェイ乗り場とのアクセスはすこぶる悪く、そのため南山手地区と同ロープウェイ乗り場とを連絡している無料の循環バスを利用したのですが、自分が乗車できる往復のバスの時間(一日5便ありますが、往路で一便を利用した人は復路も一便しか利用出来ない(>_<))が厳格に定められていたため、山頂に居られた時間がごく僅かになってしまったのは既報の通りえーんしかし長崎駅前から二つ北に向かった電停・宝町からロープウェイ乗り場までは徒歩圏内(800mほどの距離)であったことが帰宅後に判明叫びですのでもしこのblogを御覧頂きました皆さま方の中で稲佐山に行かれる方は、往路はともかくとして復路は宝町まで歩かれることをお勧めします走る人走る人走る人そうすれば帰りのバス時間を気にすることなく夜景を存分に楽しめますからねウインク

こちらがバスターミナルがあるビルの中にありましたお土産屋さん。種類は豊富にありましてそこそこの数を買い求めました照れ

“文明堂総本店”と書かれた暖簾が架けられていますがここは駅前店ニヤリつまり“文明堂総本店”が屋号なのですグラサン

さて、お土産を買い求めた後は再び長崎電気軌道に乗ります。この電車は2両連結の車両ですニコニコ

そして「平和公園」駅に到着ビックリマーク御案内の通り、長崎市は広島市に続き原子爆弾を投じられた地。わが国は世界で唯一の被爆国。地球規模を俯瞰すれば今でも地球上のどこかで紛争が生じていますが、核兵器廃絶は世界中の人々の願いであることは間違いないと信じたいです。しかし核兵器を保有することで“持ち駒”として戦略的に駆け引きされている事実は現存しますしこの先もこうした構図に変化はないでしょう。本来であれば“唯一の被爆国”である日本国が核兵器廃絶に向けてリーダーシップを取らなければならぬところ、その動きは鈍く「核兵器禁止条約」を批准していません。しかしこれは何時の時代でも混迷が続くと推察できる国際関係の下、米国の“核の傘”に頼らざるを得ない現実もあり致し方ないことなのでしょう真顔

長崎電気軌道の線路の直ぐ脇にある高架線はJR長崎本線。JR線には平和公園に行くための最寄り駅はありませんので長崎駅から長崎電気軌道の利用一択ですねウインク(浦上駅での乗り換えも可能ですがJR線の本数が少ないのでお勧めできません)

電停を出て東に歩くと国道を横断する大きな交差点がありまして、その先が「平和公園」の入り口です。なお実際に原爆が投下された爆心地はここから南に100m程の地点ですニコニコ

「平和公園」は小高い丘の上に位置しているのですが国道交差点からの公園入り口からはエスカレーターが設置されていますウインク

“のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました”-あの日のある少女の手記から

長崎市への原子爆弾投下とは

「長崎市への原子爆弾投下」太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月9日(木曜日)午前11時02分に、アメリカが日本の長崎に対して原子爆弾「ファットマン」(TNT火薬換算で22,000トン、22キロトン)を投下した。長崎市の推定人口24万人のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊。目標は第一目標が小倉市(現・北九州市)、第二目標が長崎市であったが当日の小倉上空を漂っていた霞もしくは煙のため、第二目標である長崎県長崎市に変更。午前10時58分、高度9,000メートルからファットマンを手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約4分後の午前11時2分、市街中心部から北へ約3キロメートルそれた松山町171番地の別荘のテニスコート上空で起こった。(爆心地公園の上空)。

長崎平和祈念式典

毎年、松山町平和公園の平和祈念像前で原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典である「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」通称「長崎平和祈念式典」が8月9日に行われる。長崎市では8月9日を「県民祈りの日」と定め、原爆犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、恒久平和への誓いを新たにするため、原爆が投下された8月9日の午前11時2分に全県民が一斉に1分間の黙祷を捧げる。

 

こちらが有名な長崎市民の平和への願いを象徴する平和祈念像。高さは9.7m 重さは30tの青銅製の像です。chu一行が「平和公園」を訪れたのは8月3日でしたが、その6日後の8月9日が長崎市に原爆が投下された日。広島市も長崎市も、原爆が投下された日は、“原爆の日”として「平和祈念式典」を開催し犠牲になられた方々に哀悼の意を示すと共に、二度とこのような悲惨な兵器が使われることないよう祈りを捧げる記念日とされています。そこには総理大臣を始め各国の駐日大使など、多数が列席されるのが常でして、今回はその式典準備の真っ最中でした。ところが…2023年8月9日の長崎の「平和祈念式典」はおりからの台風6号接近中のため、岸田総理の参加は見送られるなど規模が大幅に縮小され、かつ屋内での式典となりました。式典開催に向け準備をされていた皆さま、残念に思われたことと思われます。本当にお疲れさまでした。

こちらの記念像は神との愛人慈悲を象徴されたものだそうです。高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を意味し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っているのだそうです。長崎市を訪れたのであれば、ここは観光スポットではないのですが、やはり是非とも訪れたいところでしたので心の中で事区切りをつけることが出来ました照れ

以上、念願の「平和公園」訪問をし祈祷を済ませた後は、少々早い時間帯でしたが早めの夕食を摂るため「新地中華街」へウインク中華街には前日も訪れていましたがこの日は純粋に食事のための再訪です。なんつったって“長崎の夜は早い”滝汗(多くの飲食店の営業時間は20時過ぎには終わっちゃいますから、夜景観賞などを終えた後だと食事をする場所がありません。てか、21時過ぎちゃうと下手すりゃ居酒屋でも食べるものが極端に少なくなるのは前日の“刺身の盛り合わせ”が食べられなかったことでも証明されていますグラサン)

で、長崎の中華街は横浜の中華街と比べて規模が極端に小さいのは昨日の訪問でわかっていました。例えば横浜の中華街の場合、オーダーバイキング方式のお店があったり、手頃な価格帯で美味しい中華料理を腹いっぱい食べられるお店が多かったり、と“chu華料理には眼のないchuにとりまして、”高級店”には行けない行かないchuですが、どのお店に入ろうかとウキウキしながら探したりしていましたがウインク長崎の中華街の場合、オーダーバイキング方式のお店は皆無であり、そのためどのお店に入っても大差はないかキョロキョロ一応、前夜には中華街のホームページを見てどんなお店があるかの下調べはしていましたが…

お値段とメニューはどの店のショーウィンドーを見ても似たり寄ったりでした口笛

で、結局選んだのがこちらのお店👇

オープンと同時に入店で一番乗りですクラッカー合格チュー

そしてこの日も暑かったあせるあせるあせる「グラバー園」、「出島」そして「平和公園」と、いろいろと歩き回りました走る人走る人走る人ので超疲れましてゲロー疲れた体と喉を潤すには生ビール一択!!しかしこの時にはつい先ほど訪れていた、「平和公園」に刻まれていました石碑の言葉のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました”は、この瞬間には全く頭の中に思い浮かぶこともなく、申し訳なかったパンチ!プンプンえーん

生ビールのお供に前菜として頂きましたニコニコチャーシュー、鳥のむね肉などの盛り合わせウインク

こちらは言わずもがなのちゃんぽんですウインク

これも生ビールのお供 肉団子の餡掛けですねウインク

そしてこちらも言わずもがなの皿うどん 適当にシェアしながら食べるは呑むは爆  笑

生ビールは…この日の疲れを癒すために飲むわ呑むわで5~6杯は飲みましたから、“飲み放題”ぢゃありませんでしたから、結構なお金になりました爆  笑

この後は早めにホテルに戻り、早めに休みましたニコニコあ、この日は「一日乗車券」(600円)を購入しての行動となりまして、長崎電気軌道の路線図でこの日の乗車実績を検証してみましょうかウインク👇

大浦海岸通→石橋、石橋→出島、出島→長崎駅前、長崎駅前→平和公園、平和公園→新地中華街、新地中華街→大浦海岸通、の6回の乗り降りでしたから140×6=840円でしたのでなんとか元は取りました爆笑ですが折角の、乗り放題の一日乗車券だったのですが残念ながら全ての路線は乗り切れませんでしたニヤニヤさて、次回はいよいよ旅最終日。“大河ドラマVersion”と銘打って始まりました長崎旅行記もあと数回を残すのみとなりそうですウインク

 

 

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(2023年8月3日)

「出島」の全体像を見渡せる1/15スケールのミニ出島を見終えたchu一行、今度は「旧出島神学校」の建物に入り休憩勉強します(^^ゞ兎に角、外の世界は猛暑あせるあせるあせる自分の体温以上の気温ですからそうそう表には出ていられず、「出島」内にある建物と言う建物、一つ一つに入り説明を読み勉強休憩します爆笑そしてこちらは神学校なのですが建てられたのは明治になってから。明治11年に英学校として建設され明治16年に出島聖公会神学校になった建物だそうです。その後も宣教師の宿舎としてや、明治後期からは医院として利用されていたようなのですが、昭和の50年代に入ってから、長崎市は建物保存のためこの建物を買い取った上で「出島」に移築し補修工事を施したのだとか。ですので江戸時代期の「出島」にはなかった建物でしたニヤニヤ

工事中でしたが、建物内は涼しかった👈これが一番重要爆  笑

猛暑の中、“次の休憩場所”を求め「出島」島内を歩き回ります走る人走る人走る人

「出島」が“日本にあったヨーロッパ”や“ヨーロッパに一番近かった日本”の所以などが説明されていますニコニコ

こちらは日本各地に点在している「出島」とゆかりのある場所を示したパネル。とっても多くて全部は見きれませんでしたので、chuの地元の千葉県における関係都市を探してみると佐倉市がありましたニコニコその説明には“わが国最初の私立病院「順天堂」を開設した佐倉泰然は高野長英に師事、長崎に遊学し(その際に)オランダ商館長のニーマンに学んだ”のだそうです。元々佐倉は江戸末期、老中首座も務めた佐倉藩主の堀田正睦が積極的にオランダの学問を取り入れており、オランダとの関係が強固の地。令和の今でも「佐倉日蘭協会」がありオランダとの関係がとても深いのですが、鎖国が行われていた江戸時代、外国に窓を開いていました「出島」が日本国内に数々の影響を及ぼしていたことが窺われますウインク

“日本とつながる「出島」”のパネル👇ここには出島に運び込まれた世界各地の文物は長崎会所での落札を経て日本各地に広められ、これとは逆に国内各地から日本の産物や美術品が出島からオランダ船を通じて世界各地に輸出され、それらを受け入れた地域では生活や文化に日本の影響を与えていたのだそうですびっくりまた向学心と好奇心に富む江戸時代の知識人たちは出島に出向きオランダ商館長や商館医らと交流を重ね先進的なヨーロッパの学術や文明にに触れることで鎖国中の日本に新たな風を送り込む拠点となったのでしたウインクただそれは、幕府が認める範囲内であったことに限定されていたのは言うまでもありませんがグラサン

こちらの建物にはオランダ人の首席事務員が住まわれていたのだそうです。

以下、展示内容の説明ですがたくさんありすぎちゃいますので“以下省略”ニヤニヤもう一度、「出島」のオフィシャルWebサイトをリンクしますのでこちらを熟読くださいませ爆  笑

こちらは「出島」に運び込まれた砂糖と、ここから外国に輸出されていく銅の様子。砂糖と銅は「出島」を語る上では絶対に外せない物品なのだそうです。例えば砂糖は、長崎は元々はポルトガルとの交易が行われていたのですが、その際にはポルトガルから南蛮菓子が輸入されました。当時の名称ではかすていら、かるめいら、ぼうる、びすこうとetc(今ではカステラ、カルメラ、ボウル、ビスケットと呼ばれている洋菓子です)。ポルトガル人を退去させた後、わが国ではポルトガルとの交易は断絶していたのですが、最初にポルトガルより運び込まれた南蛮菓子は以後、オランダを通じても輸入され続け“異国渡りの菓子”として人気を集めていたそうです。またその後、オランダから輸入された砂糖は幕府が一括購入した後に大坂の問屋に卸し、そこから国内各地に広められたのだそうです。しかし長崎にはそのルートとは別にこぼれ砂糖、もらい砂糖など、今でいうバッタ品が出回っていたそうでして、長崎には他の国内地域よりも多くの砂糖が出回り、それが現在の長崎カステラなどのお菓子のルーツとなったそうでして、“砂糖は長崎の代名詞”と呼ばれるまで結びつきが深いのだそうです口笛また銅は、連合東インド会社に多大な収益を儲けさせたもので何でも“ダンスのパートナー”と称賛され大切にされていたのだとか。日本から輸出された銅は海外では銅貨はもちろんの事、家庭用品や建材など、様々な形に姿を変えオランダが植民地支配をしていた南アジアや、銅価格の相場によっては本国にも運ばれ欧州にて儲けのツールとされていたそうです。なるほど、だからいなくてはならない“ダンスのパートナー”なのですね爆  笑

そしてちょいとびっくりしたのは伊万里焼ビックリマーク日本初の国産磁器と言われる伊万里焼(有田焼とほぼ同じ)ですが日用品としてだけでなはなく、装飾品としても欧州では人気があったそうですニコニコ

磁器の周りを、器は傷つけぬよう細心の注意を払った梱包…は現在の運搬方法と相通じるところがありますね爆  笑

こちらは“よみがえるる出島” 復元事業の経緯を伝えているパネルです。国の指定史跡であります「出島和蘭商館跡」を復元させる事業は19世紀の「出島」の姿を取り戻すことにあります。ですがその頃は既に港湾改良工事により「出島」南側の海は埋め立てが進められており、陸続きとなった「出島」の復元が目指されました。ですので江戸時代の鎖国中、唯一、外国との窓口となっていた「出島」の復元ではありません。もし、“当時の出島”を人工的に再現するのであれば長崎港のどこかの場所に扇形の島を造成し、築島から始めなければなりませんからニヤニヤですが復元事業として進められてきましたこの事業は、周囲は埋め立てられてしまったものの、その昔、長崎港に浮かんでいました「出島」の敷地はそのまま使われているところ、と、当時「出島」にありました各種建築物を移築して「出島」を蘇らせたとこころに意義があるのですウインク復元作業がスタートしたのは日蘭交流400周年にあたる2000年(平成12年)。その後16年の歳月をかけ、計16棟からなる19世紀初頭の街並みが200年の時を超え再現されたのですニコニコこのように復元を完了した16棟は「出島」でも最も重要な位置とされていました水門近くに建ち並び、そこは長崎電気軌道の電停「出島」駅の近くです(前回blogにて説明済み)。「出島」の歴史は1636年(寛永13年)の築島から始まりました。長い鎖国の後、「出島」の景観は歴史の教科書に広く採用され、そのため多くの日本人は「出島」と言えば扇型の人工島を思い浮かべることが出来ます。その「出島」に関しましては価値ある資料が数多く残されていたこともあり、今回の復元事業では19世紀初頭の姿に戻すことが出来たのですが、この「出島」では、歴史的価値を見直すと共に復元に至る過程も後世に伝えていきたい、という思いが強いのでした照れ

こちらはオランダ船の乗員の部屋を再現したものです。オランダからやって来る…と言ってもアムステルダムがあるオランダではなく、欧州列強各国が植民地政策を進めた今のインドを支配…インド亜大陸の東側に設立されました「東インド会社」と「出島」との間をオランダ船籍の船は往復していたのですが、気象や海流の関係で航海できる時期が限られていたそうで、一度、来日すると「出島」には最低でも数か月は滞在しないとならなかったそうです。しかし鎖国中の幕府が唯一、海外との窓口を認めていたのはあくまでも「出島」のみでありましたので、来日したオランダ商船の船員たちは「出島」からは出られない、言わば禁足令を課されていて、島内で悶々とした暮らしをしていたようですドクロしかしかような状況でも、船員さんたちよりも長い期間、日本に留まる商館長や、船長など役付きの船員らはある程度の自由が効いたそうでして、「出島」から外界には出られないものの、遊女らを自室に招き入れることは可能だったようですからいつの時代も権力を持ったものが強いのですねニヤリ

こちらは比較的質素な船員らの滞在部屋 なお一般の平船員は船内に滞在していたそうですからどんなに凪が続いていても多少は揺れますから、往復の行程と滞在期間中、ずっと海の上に居るわけですから身体がおかしくなっちゃうんぢゃないでしょうかえー

そしてここからは船長の部屋 

調度品も、一般室のものよりも豪華なものになっています

こちらはオランダ商館長の住居でありました「カビタン部屋」。ここにはプライベートな自室と、迎賓館としての機能を持った公的な部屋があったそうですニコニコ

 

 

以上、2時間以上にもわたり19世紀初頭の姿に復元されました「出島」の内部をじっくりと休憩しながら観察させて頂きましたウインクそれまで教科書での知識くらいしか持ち合わせていなかったchuですが、なるほど、幕府の鎖国令が続いていた江戸時代、ここでは細々とではありましたが今に繋がる交易が繰り広げらていたことを知ることが出来ましたニコニコ「出島」を通じて砂糖や西洋文明が運び込まれ、「出島」を通じて銅や伊万里焼が運び出され…そひから日本は世界と接点を持ったのだと思うと「出島」の果たした役割は教科書の挿絵を見ていただけの時以上に、その存在価値の大きさを知ることが出来ましたチュー

と言うことで、「国指定史跡 出島和蘭商館跡」は、長崎を訪れたならば外すことは出来ないスポットでありますウインク

再び電停「出島」に戻りぃのニコニコ何せこの日は一日乗車券を買い求めましたから、是が非でも元を取らなきゃです爆  笑

「グラバー園」訪問から続く8月3日の様子は…クアソツイノデスガあせるあせるあせる叫びドクロまだまだ次なるスポットへと続きますウインク

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(2023年8月3日)

朝から猛暑のこの日、「グラバー園」見学を終えたchu一行が次に向かいましたのが「出島(でじま)」ですニコニコ「出島」と言えば江戸時代の幕府によるの鎖国中、唯一、外国(オランダ)との交易が許されていた場所で日本初の人工島と言われている島。日本史の教科書には「出島」の絵👇が載っていたことから覚えている方もいらっしゃると思いますウインク

そして今回も掲載予定の写真が多数、ありますので前・後編の2回に分けてのお届けにウインクですが写真、一枚一枚の解説をしていきますととんでもないことになっちゃいますので滝汗“安心して下さい、説明少なめ”で行きますのでどうぞご安心ください爆笑まずは長崎電気軌道にのり電停「出島」で下車しますニコニコ

電停「出島」は「出島」の西端にあり、出入口は中央部の出島表門橋まで歩かなくてはいけません。ですので乗り換え駅でありました電停「新地中華街」から歩いた方が早かったかもですニヤニヤ

こちらは水門。「出島」に運び込まれる荷物はここから陸揚げされたのですが、荷下ろしの際は役人による厳重なチェックをうけたそうです。またここでは西洋と日本の文化・学術・貿易品が最初に出入りした象徴的な建物ですので今風に言えば“流行の最先端”なんて言うことが出来るのではウインク

そして先の説明で「出島」は江戸幕府の鎖国中、外国との交易を許された唯一の場所、と説明しましたが実は出島が造られた最初の目的はキリスト教が国内に広がるのを防ぐためのものだったのです。と言うのは、「出島」が造成される前の、現在の長崎市中心部にはキリスト教徒のポルトガル人が色々な場所に居住していました。そのポルトガル人とは鉄砲伝来以降、細々と日本とポルトガルの交易を担う商人であり、キリスト教を布教しに来る宣教師ではなかったのですが、それでも敬虔なクリスチャンですから周囲への影響を及ぼすことがあります(ただ“敬虔なクリスチャン”の方がお金¥設けのための商売をする!?ことはないんぢゃないかなキョロキョロなので“敬虔”ではないかも知れませんがニヤニヤ)。「島原の乱」によりキリスト教が普及することの恐ろしさを学んだ徳川幕府はそのためポルトガル人を一か所に集めて居住させるために造られたのが「出島」だったのです。そして以後の鎖国政策によりポルトガル人は退去(本国に追放)されたのですが、その後、平戸にありましたオランダ商館が「出島」に移され、以後、安政時代に開国するまでの218年間、日本が唯一、西洋に向けて開かれた窓となり海外から新しい学術や文化が伝えられたのです。「出島」についての解説はやはりwiki様の方が詳しいのでそちらに譲りたく思いますウインク

オランダ商館が移転して来て以降、「出島」にはオランダ商館員の住まいや交易に使う倉庫が建ち並び“人口密度”はとても高かったようです。そして、「出島」は日本初の人工島であったのですが、江戸末期から明治期にかけての周辺の港湾改良工事により周囲が埋め立てられたため、海に浮かぶ扇型の島の原型(冒頭に掲載しました「絵」です)は失ってしまいましたショボーンしかし「出島」の、日本の近代化に向けての大きな貢献は史実でもあり、その歴史的貢献を称えるために1922年(大正11年)に国の史跡に指定されたのですニコニコ

電停「出島」から出島表門橋まで歩きます走る人走る人走る人表門橋の北側は、「出島」を監視するために幕府から派遣された長崎奉行所の役人が居住する江戸町で、福江島から戻った一昨日に立ち寄らせて頂きました「隠れ居坂屋 魚たつ」さんがあるところですウインク

現在の「出島」付近の市街地地図ですウインクですがこの地図は…右側が北なので地図としては甚だ宜しくないなぁえーchuは地図が“読める”人間ですから、地図は真上が北、が大原則ビックリマークその地図を見て全容を掴みますから、天地逆転したような地図は、地図を理解している人には逆に混乱を与えるのですパンチ!プンプン

と言うことで、地図上、上が北の「出島」付近の地図を転載させて頂きまして、橙色で塗りつぶしたところが「出島」です。そして「出島」の南側は海だったのですが江戸末期から明治期にかけての港湾改良工事を受け、「出島」は現在の様な陸地になったのでしたニコニコ

出島の北側を流れる中島川も、昔は長崎港内に停泊した外国船から荷揚げされた荷物が小舟に乗せ換えられ、先ほど説明しました水門に至るまでの水路でした。が、今では長崎市中心部を東から西に流れる河川として流域には昨日訪れた「めがね橋」も架けられるなど、“市街地中心を流れる母なる川”と市民に親しまれている河川になっていますニコニコ

陸続きになる前の「出島」と護岸の位置とがガラス板を通じて確認出来ますウインク

またこの辺りは「オランダ街道」とも呼ばれているようでして、オランダと日本の交流400年を記念して2000年(平成12年)に命名されたようですニコニコ

これら👆👇は江戸時代の護岸線、江戸町の様子、出島に入るための出島橋などの解説ですニコニコ

「出島」側の護岸部は当時のままで陸地から離れていたのです。なお背後に見えているビル群は当時にはありませんでしたよ爆笑

そしてこちらが「出島」の出入口にあたる表門へと至る出島表門橋

さぁ、いよいよ「出島」訪問ですビックリマークドキドキしますね照れ開館時間は8時から21時までとなと13時間のロング営業びっくりそして年中無休ですニコニコさらに入場料は520円(大人)と、とてもリーズナブルウインク貴重な史跡をこのようにお手軽に見学出来るのは嬉しいですねチューこちらが「出島」のオフィシャルWebサイトです。今回の拙blogでは諸所の解説は大幅に端折っていますから“展示施設”としての「出島」の見学ポイント等につきましてはこちらのサイトを御参照下さい👇ウインク

出島表門橋を渡る入場者さんウインク

そして表門前から眺めた視界の先が江戸町ですニコニコ

こちらが表門ですニコニコ四方を海に囲まれた人工島である「出島」への出入りは当時はこちらの門のみが使われていました。また現在でも観光客はこちらの門のみが利用可能です。但し港湾改良工事により「出島」の北側を除く全てのエリアは埋め立てにより陸続きとなったためスタッフさんらが使う、或いは非常時における非常口ともなるべく通用門は数か所、確認出来ましたニコニコなおチケット売り場の横には、江戸時代に「出島」の監視にあたっていたであろう長崎奉行所のお侍さんの格好をしたスタッフさんもいましたよウインク

島内に足を踏み入れましたビックリマーク「出島」は東西(幅)に長く南北(奥行)は短いのが特徴で、東西約250m、南北約70mとそれ程大きな面積ではありません。しかしこのように島内にはびっしりと建物や倉庫、オランダ商館員の宿舎などが建ち並んでいますニコニコ

電停「出島」から徒歩で出島表門橋まで来たのですが暑い、とにかく熱い叫び涼しい所に行きたいダッシュダッシュダッシュと、一つ一つの建物内に入ると、どの建物もエアコンがありとても快適チューそしてこうした建物内には豊富な展示物と、音声や映像で当時の様子を再現してくれる音声&視聴ガイドの類も多く、兎に角、室内に留まっていたいchu一行は一つ一つつぶさに観察していくのでありました。ただ単に“外を歩きたくないあせるあせるあせる”という意思もとても強かったのでした爆  笑こちらは、当時、日本からの一番値打ちのある輸出品でした銅の重さを計る計量計。

栃木県日光市の足尾銅山や愛媛県新居浜市にありました別子銅山、茨城県日立市の日立銅山などから採掘された銅は、ここ長崎に運び込まれ、「出島」から交易船に積み込まれ世界に向けて輸出されていきました。中でもヨーロッパでは日本から輸出される銅がとても重宝されていたのだそうですニコニコ

ぎっしりと銅が詰め込まれた桐の箱が、ちゃんと数がわかるよう、きちんと段重ねされて置かれていました。手前のパネルにて音声&映像で解説してくれます。暑さ凌ぎと当時の知識が合わさりますので「出島」は真夏には最適な見学コースと言えそうです爆笑

こちらが、銅が百斤(ひゃっきん)入った桐製の箱。斤(きん) 斤(きん)とは、尺貫法の質量の単位で、現在の日本ではパンの計量単位としてのみに使用されていますが、当時の日本では1斤は16両と定義されていたそうです。また桐箱に書かれている住友吉次郎、とは既に閉坑してしまいましたが、“日本三大銅山”の一つに数えられていた愛媛県新居浜市にありました別子銅山を経営していた住友家のこと。別子銅山は閉坑時まで、長らく「住友金属鉱山」により企業活動がなされていましたが、その別子銅山を営んでいた住友家は、後の住友財閥と同財閥からの流れを受け継ぐ現在の住友グループの礎を築いた功労者。1691年(元禄4年)に掘削が始められており、その実力は「出島」からの貿易展開により日本の名前を海外に轟かせていたのでした照れ

しかしこうしてずっと室内で涼をとっている訳にも参りませんニヤニヤ思い切って外に出てみましょうかあせるあせるあせるしかし暑い、熱すぎる叫びここは藤棚。季節が異なっているため花こそ咲いてはいませんが、オランダ商館の医師として来日したシーボルトは本国に260種もの草花の種子を送ったそうでオランダ本国でもすくすくと成長し、その後継となる植物は200年の時を経てなお、ライデン国立大学付属植物園で花を咲かせているそうでして、その中から5種類の種子を日蘭交友400年を記念して長崎市に寄贈されたそうです。それがこちのの藤棚(アケビフジ)で、これらの植物はシーボルトの“里帰り植物”と名付けられていますニコニコ

こちらはオランダ商館長のヘルマンさんが滞在時に作成し「出島」の花壇に設置されていた日時計の複製品です。日光の影により6時から18時までの時間の計測が出来たのだそうですニコニコ

そしてこちらは“ミニ出島” 「出島」の東端にある、出島の1/15のスケールだそうです。ちこっとした小上がり出来る台もあり、そこから撮影しましたウインクそしてここは「出島」の東端に接した一般道からも眺めることが出来ちゃいます爆笑

前日に「めがね橋」などの観光スポットを巡った後に新地中華街に行く際に、「出島」東端の道路に接している出島橋を渡った際には「出島」の敷地外からも見えていましてニヤニヤ記念に1枚、カメラしましたっけ爆  笑(「あぁ長崎は今日も暑かった」その16参照)

~「出島」(※見学には入場料金が必要です)には入っていないのに、直ぐ脇の道路を歩いているだけなのですが、「出島」の何分の一かのスケールの「ミニ出島」、全容が見えてしまいましたグラサンまぁ見えてしまったものは仕方ありません。ですので記念にカメラニヤニヤ

現在「出島」には48の復元された建物やモニュメントがあり、これらは長崎市が2000年(平成12年)から本格的にスタートさせた出島復元事業により現在の「出島」があるのですウインク

次回、後編に続きますウインク

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(2023年8月3日)

いやはや、本日は2024年の8月4日ですので今続ています旅記録はちょうど一年前のものとなってしまいました(^^ゞ今回の長崎旅行記、タイトルに“【大河ドラマVersion】”と銘打ったものの、まさか本当に一年間も連載がかかる続くとは思ってはいませんでした爆  笑しかもまだ最終日まで辿り着けていませんからあと何回続くのでしょうかニヤニヤ(作者自身も連載の終わりが見通せないなんて滝汗)ま、気を取り直して「グラバー園」の後編をちゃちゃっと仕上げてしまいましょうかニヤリ洋館が並ぶ「グラバー園」園内にはそれぞれの特徴があり、館内ではなにがしかの物が展示されています。こちらは「ホテルナガサキ」とフレデリック・リンガーさんとの関わりについての説明など。日清戦争に勝利したことで日本は東アジアエリアでのプレゼンスを高めていくこととなり、また地理的にも中国大陸や台湾と近いことから長崎港を拠点とする現在の長崎市中心部は貿易の中継基地として、国際航路を往く艦船や軍艦の中継&休息地として益々反映していきました。その結果、ホテルの需要が高まり居留区には複数の西洋式ホテルが建てられたのです。こちらは英国の投資家、フレデリック・リンガーが建てた「ホテルナガサキ」

 

 

数々のこうした調度品には当時の凄腕のシェフにより作られた絢爛華麗な料理が並んでいたのです照れ

西洋流のテーブルマナーなど、ずっと鎖国をしていましたから日本の指導者層でも知る由もなく…

そして実はこれらの華麗なる調度品は、長崎市から離れた奈良県で見つかりました。と言うのは日清戦争直後には東アジアにおける拠点港として栄えていた長崎港ですが、日露戦争が終結すると国際貿易港としての長崎港は急速に衰退していくのですガーン数棟ありました西洋式のホテルは廃業に追い込まれ調度品の数々はオークションに出され売却されました。また「ホテルナガサキ」を造ったフレデリック・リンガーは英国で亡くなり、その後、ホテルそのものも解体されることになりましたショボーン

その頃、日露戦争終了後の関西には多くの外国人が行き交うようになり、関西における迎賓館として「奈良ホテル」が建設されていくのですが、同ホテルの調度品には「ホテルナガサキ」で売却されたものが多数含まれていたのです。「ホテルナガサキ」で使用されていたこれらの調度品は当時、世界を席巻していた英王室御用達の「マッピン&ウエップ社」製のもの。そしてこうした史実が判明したのは2010年代になってからの事ですが、長崎市と奈良市との相互友好の証などの意も含め、「奈良ホテル」から長崎市内で西洋館を数多く残している「グラバー園」へと寄贈されたのでしたニコニコ

以下、園内を散策していきますが、暑くて熱くて頭がぼーっとしていて、ただひたすらシャッターだけを切っていた始末ニヤニヤですので撮影した写真を羅列しまして説明は公式ホームページにお願いいたします爆笑(グラバー園を代表する洋館の一つである「旧ポーンオルト邸」は、入館は可能でしたが修復中でした)

コースの途中にビールを飲ませてくれるガーデンバーがありました。喉が“ゴクッ”と鳴るのがわかましたが、ここで生ビールを飲んだらもうここから先は歩けなくなっちゃうのは自分自身が一番わかっていますので、ここはグッと我慢(>_<)ところでキリンビールのこのデザイン、は古代中国における想像上の霊獣である麒麟が使用されているのですが、日本でビール市場が確立したのは明治半ばの事。そしてこの時グラバーさんは明治初頭には在留外国人向けに細々と営業されていたビールを、一般の市民に広く浸透させるよう様々な試みをしていたんだそうです。御存知の通り現在の麒麟ホールディングスは三菱財閥から発していますから、ここにも岩崎弥太郎氏との繋がりを見て取ることが出来るのですが、最初にキリンビールとして売り出す際、瓶のラベルを麒麟にするよう提案したのがグラバーさんなのだそうですニコニコキリンビールって歴史があるんですね照れで、chuの学生時代のゼミコンパ等で嫌々飲んだビールはキリンしかなくて、ただ苦いだけで全く旨いと感じなかったのですが社会人になってからしばらくして颯爽と登場しました「アサヒスーパードライ」は今までの、ただ苦いだけで旨味などは全く感じなかったビールに対する既成概念を180度転換させ、以降の37年間、chuはスーパードライ一筋で生きているのですウインク

こちらは長崎が“西洋料理発祥の地”であることが説明されているモニュメント。16世紀にポルトガルから渡って来たのが最初なんですって。“以後よく来る宣教師”の、1549年の事ですねウインク

ところで「グラバー園」の園内をコース順に歩いていると走る人走る人走る人何故か突然、“安田”と書かれた表札を掲げた、ごく普通の民家が一軒ポーンはて、これは…!?

その理由はこちらから👇ウインク安田さんと関係があり、お訪ねになる場合は「グラバー園」に入場するに際して入園料はかからないらしいのです爆  笑ですので安田さんに用事がある訪問者は“安田さんのお宅にお伺いしたいのですが”とエントランスで申告するのでしょうニヤニヤ何れにせよお客さんは勿論のこと、郵便や新聞配達の方、宅配便の方、その他大勢いると思われますが、飛び込み営業の方が来ることはないでしょうから一般の住宅に住む我々より煩わしさはないのかも知れません爆笑

そしていよいよ「旧グラバー邸」へビックリマーク

いよいよ邸宅内に入ります。ここでも撮影しました写真を羅列させて頂きます。「旧グラバー邸」を訪れた気持ちになりどうぞご一緒にお部屋を巡ってみてくださいウインク

そして1908年(明治41年)、グラバーさんはその功績を称えられ「勲二等旭日重光章」の叙勲を受けています。そして叙勲から3年後の1911年(明治44年)12月16日、東京の自宅で73歳の生涯を閉じたのですが、21歳で来日し50年強、日本の近代化に向けて大きな関与があったのは確かな事なのでしょう、ただ前回blogの冒頭でも記しましたように彼は薩摩・長州と手を組み、そのため穏健なる共和国制へと日本国をシフトさせようとしていた徳川慶喜公を潰した史実を私は忘れません。グラバーさんの叙勲を推薦したのは伊藤博文と井上薫、と説明されていました。維新後に反逆者となり制圧された西郷隆盛も、紀尾井坂で襲撃された大久保利通も既にこの世にはなく、「帝」(天皇陛下)の住む京都御所に火を放ち、「朝敵」として京を追われたものの、グラバーさんの助けを借りて徳川幕府を倒し、新政府の中で実権を握り歴代の首相を輩出し続けた長州藩、が推薦した上での叙勲ですので私は認めたくありませんねニヤリ

「旧グラバー邸」の前庭から見下ろす長崎港。風光明媚で素敵な景観でしたが戦艦が建造されたり補修を受けるドッグは丸見えですから国防上、ここを厳重警戒するのは当然のことでしたねニヤリしかし今では長崎市のみならず長崎観光を代表する景観と言えると思います照れ合格クラッカー

「旧グラバー邸」住居を後にします。グラバーさんの功績と、彼が行った“武器商人”への反発心が入り混じった訪問でしたが、「グラバー園」への訪問は全体としては肯定的に捉えたく思うchuでありましたニヤリ

さて、「グラバー園」の最上部にありました第2ゲートから入園したchu一行ですが、コース順路に沿い傾斜地にあります各洋館などを巡り、最後に「旧グラバー邸」の見学を終えると後は「長崎くんち」祭りで使われる祭り具などが展示されているブースを抜け、正門の出入り口から園外に出るようになります。しかしまだ「グラバー園」園内にあります“動く歩道”には乗っていなかったニヤニヤそのため「旧グラバー邸」の脇を通りこちらに“乗車”爆笑“動く歩道”と言ってもこれは段差のないエスカレーターでして、ショッピングカートを載せたまま移動できる、大型のショッピングモールにあるような、あれですよウインク

この“動く歩道”を乗り継いで、グラバースカイロードと垂直エレベーター分で稼いだ高度を上がっていきます。そして御紹介してきました先ほど歩いてきた順路ですが、もちろん下から上へと徒歩で移動することは可能ですが、この暑さと、そこそこの傾斜がありますから確実にバテます爆  笑ですので「グラバー園」の正面(第1ゲート)から入られたら皆さん、この“動く歩道”に乗り「旧三菱造船所第2ドッグハウス」の場所に移動してから園内を散策するのでしたウインク

この“動く歩道”、傾斜こそ急ではないのですが距離が長いあせるあせるあせるこれを徒歩で上ったらと思うとゾッとしますよニヤニヤ

「旧三菱造船所第2ドッグハウス」に戻って来ましたが、御覧のように園内ガイドツアーは終日中止と貼り出されていましたショボーンそこそこ広い園内と、幾つかに分散して建っている洋館。また一つ一つの洋館では異なる展示がなされていますからこうした施設ではガイドツアーの方の説明を聞きながら巡った方が確実に知識として残るのですが…たくさん掲載ました写真の一つ一つに詳しい説明が付けられずおもさげありませんショボーンてか、長永しい説明などない方がかえっていがったビックリマークという方が殆どだとは思われますが爆笑

と言うことで、最後に今一度「グラバー園」のオフィシャルWebサイトをリンクさせて頂きますので気になった個所がございましたなら、こちらを御覧頂きたく宜しくお願い申し上げますウインク👉https://glover-garden.jp/

 

さて「グラバー園」を後にしましたchu一行は次なる目的地へと向かいます。なお、入場した時と同様、第2ゲートから退出しましたので再び垂直エレベーターとグラバースカイロードを乗り継ぎ石橋駅へと向かいます。そして今回の長崎旅ではこのグラバースカイロードと垂直エレベーターには本当にお世話になりました照れ“これが最後”と思うと涙も出て来るようでしたが泣えーん、しっかりと瞼に焼き付けましたチュー

グラバースカイロードに沿っての螺旋状の通路もあります。急傾斜地の中間部分にお住まいの方たちが利用されるんだと思います。なおスカイロードには“途中駅”もあるんですよウインク

旅の初日と4日目の今日、南山手を巡らせて頂きまして、長崎の街は本当に、想像以上に素敵な町でした照れ

“地上部”へと降りてきましてグラバースカイロードを後にします。本当に有難うございました照れ合格クラッカー

石橋駅に到着ビックリマーク「グラバー園」に行かれる方、こちらのアクセスがホントに便利ですウインクただこのルートだと途中にお土産屋さんは皆無絶無ですので、「グラバー園」からの帰りに第1ゲートから出て、大浦天主堂前から続くグラバー通りを下っていくといいと思います。このそしてグラバー通りは「大浦天主堂下」駅方面に続いていますが、傾斜はきつくはないものの、大浦天主堂下から来るとこのダラダラ坂を上ってくることになりますので、「グラバー園」に行くのであれば終点の石橋駅まで行き、グラバースカイロードと垂直エレベーターを利用し第2ゲートからの入場が絶対にお勧めですウインク

長崎電気軌道の電車、まだ来ませんあせるあせるあせる何せ9分間隔と、昼間帯においては最も運行間隔が空くのが石橋~蛍茶屋を結ぶこの路線でした。ですが日陰で待ってられますので、いい休憩になりました口笛

長崎電気軌道ではこのようなお得きっぷも販売されていました。なんと8月1日から10月31日までの3か月間、10時から17時の時間帯ではありますが乗り放題で3500円ポーン何とも太っ腹な超お得なきっぷですが、これは長崎電気軌道という、いち民間会社だけでの企画ではないでしょうニヤニヤ長崎市とタイアップした、中心市街地への人の呼び込みを企図したものであると思われますウインク前日に長崎市内随一の繁華街である思案橋や観光通り付近を歩いた時はそこそこの人出を感じましたし、また大浦天主堂付近は東&南山手の観光スポットですから観光客も多くそれなりの賑わいを見せてはいましたが、ひょっとしたらそれ以外の長崎市の中心市街地は他の地方都市同様、ドーナツ化現象が起こっているのかも知れません。わずか数日の滞在ですので長崎市が抱える問題点迄には、「気ままなお出かけblog」では立ち入ることはできなかったのですが、このようなチラシを見るとどうしても国内各地に見られる地方都市が抱える問題を想起してしまうのでした真顔

石橋駅は始発でして、ここから乗車される方は多くはなく車内の写真が撮れましたウインク

出発後には、車両後方にへばりつき“撮り鉄魂”を発揮爆  笑通り過ぎ往く景色を激写して参りますウインクこちらは大浦天主堂下駅を過ぎたところ

大浦海岸通駅に到着する手前の、単線から複線へと変わるポイントを通過したとみろですニコニコ

ここは…多分、新地中華街駅手前の長崎駅方面から来る路線と交わった所。路面電車の線路の平面交差など、今では中々みられるsceneではないので貴重なShotと自負しております照れ

で、新地中華街駅で乗り換えて、この日二つ目のスポットに向かいますウインク以下次号ビックリマーク

2024年7月22日、立憲民主党所属の千葉県松戸市市議会議員・関根ジローさんが企画してく下さました、「東京電力廃炉資料館」を訪ねる日帰りバスツアーに参加させて頂きました。しかし驚くなかれそのツアーでは、同資料館だけでなく、原子炉の建屋は水素爆発で吹っ飛び、事故直後には原子炉が剝き出しになり高濃度の放射能をばらまきかねなかったメルトダウンを起した原子炉の真ん前まで視察に訪れ、原子炉の底に溜まったまま、未だ取り出せていない燃料デブリに触れることで汚染された地下水などの除染を行ったアルプス処理水の海洋放出(投棄)を行うなどの、廃炉に向けての行程を実際にこの目で確認させて頂く現場へと誘えて貰えたのでした。その時の様子を綴ったのが前回アップさせて頂きましたこちらのblog👇

そして今回は何時もの“お出かけ”風記録編です。今回のblogでは小難しいことは綴らず単純にお出かけ気分で…福島県はchuの第二の故郷でもありますのでウインクですがしかし、福島県の面積は北海道、岩手県に次ぐ日本で三番目に大きな面積を有する自治体ですが、その広大な面積は大きく分けて三つのエリアから構成されており、今回訪れました太平洋岸に面したエリアを「浜通り地方」、chuが住んでいました福島市~郡山市~白河市など、東北新幹線に沿って開けた平野(盆地)部分を「中通り地方」、そして安達太良山系を分水嶺として、安達太良山系西側斜面を水源とする河川は全て日本海へと注がれるエリアを「会津地方」と言うのですが、実はchuの故郷である千葉県松戸市ともJR常磐線の線路一本で繋がっている浜通り地方は実は意外と馴染みが少ない滝汗福島市在住時にも専ら会津方面へと足を延ばすことはありましたが、松戸駅を走っている同じ車両の常磐線が通っている浜通り地方は気分的に馴染みがある分、実際に訪れることは少なかったような気がしますニヤニヤ今回はかような「浜通り地方」の中でもサッカーの強化合宿地としても知られています「Jヴレッジ」にて食事とお買い物休憩をしましたのでその辺りの御紹介をさせて頂きますウインクまずその前に、今回のツアーの案内パンフです。自宅にポスティングされていたことで興味を抱き、それと6月のとある日曜日に松戸駅前で関根ジローさんがビラ撒きと街宣活動をされていましたのを見て参加を決意致しましたビックリマークそれがこちらのビラです👇

7月22日午前7時45分に集合場所に到着しました。この日の天気は晴れ晴れそして朝から気温はぐんぐん上昇中滝汗早くも30℃越えは確実です。松戸駅から集合場所の「松戸市民劇場」までは徒歩5分と至近な距離ですが…

照り付ける太陽の熱がハンパないゲローあと、今回のツアーは平日であることと、ツアーの目的場所が原子炉前まで行く計画であったことから参加者は18歳以上が原則とされていたため、ファミリー層での参加者は見込めないこともありましたので、“チャーターされるバスはひょっとしたらマイクロバスではえー”なんて懸念もあったのですが集合時間よりも前にやってきましたそのバスは、千葉県の松戸市と習志野市津田沼とを結んでいる準大手私鉄「新京成電鉄」の子会社である「松戸新京成バス」の豪華バスでした合格クラッカーこのバス車両は、普段は松戸駅とTDRや羽田空港とを結ぶ高速路線バスとしても使用されているものですから、そりゃ立派なものでしたウインク

早めに到着していた方から順に会計を済ませてバス車内に入ります。既にエアコンが効いていてとっても涼しいですチュー

ちなみに余談ですが、親会社の「新京成電鉄」は国内でも数少ない“準大手私鉄”の枠組みだったのですが、系列親会社の「京成電鉄」が英国の機関投資家から京成が保有している系列子会社であるあの「TDR」の株を一部売却するよう迫られ、それに対抗する意味も含め資本強化を測るために「新京成電鉄」を自社に吸収合併することとなり、2025年4月1日に「新京成電鉄」は消滅し、現在の松戸~京成津田沼間は“京成松戸線”としてリ・スタートすることになりました。なお運行ダイヤや運賃に変更はありません。

前述しました通り、TDRや羽田空港とを結んでいる高速バス路線対応の車両ですのでなんと🚻も付いていましたびっくり今まで夜行バスも含めて何度かバス旅をしたことがありましたが、トイレ付きのバスは🔰です照れどんだけ豪華なバスなのラブと嬉しくなりました爆  笑

そして車内には無料のWi-Fiが飛んでいますので利用させて頂かないパーはありません口笛(但し一定時間を経過すると再ログインが求められるのはややめんどい所でしたがえー)

予定を10分ほど遅れて出発したバスは江戸川を渡り「東京外環自動車道」の三郷南ICから福島に向けて出発します。chuは常磐道の福島方面、「いわきJC」までは通い慣れていますのでこのルートは熟知していますが普段は流山ICから乗りますから、東京外環、常磐道、そして首都高速6号線が交わる「三郷JC」から常磐道方面に行くことはありません。バスの車窓は乗用車よりもずっと高い位置にありますから車窓からの眺めもいいですしとっても気持ちがいいです照れ

動き出した車内から、今回のツアーを企画して下さいました松戸市市議会議員の関根ジローさんと、もうお一人、やはり立憲民主党所属の松戸市議・戸張智子さんから御挨拶がありました拍手拍手拍手その後車内では、福島原子力発電所の事故を描いた映画「Fukishima50」が上映されました。これは何でも東京電力のほうから“現地に到着するまでの車内で、是非、御覧下さい”と言伝られて車内上映したものです。映画の概要につきましてはこちらから👇

chuもこの映画は封切り直後…はコロナ禍真っ盛りの頃でしたので直ぐに映画館に行くことには躊躇もあり暫くしてからの視聴となりました。とても評判の良い映画ではありましたが、原子炉の暴走を食い止めるために最前線に留まり必死に食い止めた東京電力のスタッフの方がいて、その方たちが“50人の英雄”とされていることは承知しています。ですがこの映画は当時の総理の行動などにつきあまりにも批判的に過ぎる描き方がされており、確かに当時の菅総理は“イラ菅”のあだ名がその大昔からあったように、あたりかまわずいらだちをぶつけ、必ずしも原子力の専門家ではない研究者などをを急遽、総理官邸に呼び込み場当たり的に会議を立ち上げたことは事実です。前回のblogでも末尾に記しましたがメルトダウン後の放射能漏れの恐れの危機にあって、最大に政治的力を発揮し困難を納めたのは当時の枝野幸男・福山哲郎正副官房長官の力が極めて大きかったのです。菅総理の空回り感があったことは否めません。ですが東京電力側から直ぐの実行を約束してきたベント(原子炉建屋内に溜まった空気を抜く作業)は何時になっても実行されず、“福島第一原発から撤退する”による菅総理による東電本社への乗り込みなど、後の事故調の見解では東電側が福島第一原発から撤退すると言ったことはない、とされていますが事故時には官邸に居た、警視総監から当時の内閣危機管理監の職にありました伊藤哲郎氏も東電側から福島第一原発からの撤退を考えている旨の発言があったと、明確に証言されています。また水素爆発した後に菅総理の下を訪ねていた連合の鷲尾会長は、総理執務室を出てきた後に官邸内で記者団に取り囲まれ、その際に“このままでは東日本に人は住めなくなると総理がおっしゃった”と語りすぐさまその情報は全国に発信されたのですが、原子力の専門家ではない鷲尾氏に迂闊にそのようなことを話す菅総理の脇が甘すぎたのは事実です(枝野・福山ラインはそのようなミスは絶対にしませんでした)。こうした事実があったにも関わらず「Fukishima50」は当時の民主党政権の事故対応につき悪意を持ち描いた映画だ、と言わざるを得ません。この映画は事故直後の東京電力の対応についても“官邸がごちゃごちゃうるさいことを言っている”として自らの不手際を全て官邸の責任としているところで、東京電力側から見てもこの映画は評価出来るのかも知れませんニヤリですが現実とかなり乖離がある(繰り返しますが原子炉に向かい果敢に作業をされた東電スタッフがいることは存じ上げています)この映画は、民主党政権の福島原発事故対応を意図的に貶めようとする構成と言わざるを得ません。そしてこの映画はジャーナリストとも言われている作家の門田隆将氏が記した原作を基に映画化された作品です。chuは門田氏の記した書籍は何冊かは読み、中には感銘を受けた書もあるにはあるのですが、その後の氏の言動などをつぶさに観察してみるといかにも胡散臭いことも多く、とてもジャーナリストとは言えないのでは…と感じざるを得ない方。その方の原稿を基に作成されたこの映画は言わずもがな、というのがchuの率直な感想ですニヤリですのでchuはこの映画を評価していません真顔

 

少し“お出かけ編”から離れて小難しい話になってしまいましたので旅を続けましょうニコニコ最初の休憩場所は「関本PA」。茨城県北茨城市にあり、あと少し走ると一般道であれば「勿来の関」を超えます。するとそこは福島県ビックリマーク“これよりみちのく”の看板が出迎えてくれて、“あぁ、ふぐすまに戻って来たんだなぁ”と照れ

そして最初の目的地に到着ビックリマーク“サッカーの聖地”として知られています「Jヴレッジふくしま」チュー所在地は双葉郡の楢葉(ならは)町。chuはサッカーは門外漢グラサン例えば日本国民の皆さまが時差も躊躇わずに夜中でも視聴されていますワールドカップ、の実況中継はただの一度も見たことがありませんニヤニヤですが福島市に在住時、楢葉町にサッカーのナショナルトレーニングセンターが出来るという話題で持ちきりになったことを覚えていますよウインクそしてこの施設の正式名称は「ナショナルトレーニングセンター」ビックリマークサッカー以外の各種競技でもスポーツ合宿が盛ん(但し野球はありませんのでchuが深い関心を示さなかったのは頷けます爆笑)ところでこの施設、実は東京電力が原子力発電所立地地域の地域振興事業の一つとして総工費130億円を投じて建設し、福島県に寄付した施設なんですびっくりま、原発施設と言う“迷惑施設”を造ったことで、地域に対する御礼的な意味合いを込めて寄贈されたもの。ただ2011年の「東日本大震災」を受けての福島第1原発のメルトダウン事故を受け自衛隊、警察、海上保安庁、消防他からなる大規模な救援援助隊が組織されましたが、そのチームの拠点としてここ「Jヴレッジ」が使用されたのは記憶に新しいところです。

主に原子力事故の復旧支援のための拠点として永らく使用されていました「Jヴレッジ」でしたが2018年9月にはナショナルトレーニングセンターとしての機能が晴れて再開ビックリマークそして再開通したJR常磐線でしたが、これも災害復興の記念の一つとして交通アクセスを改善すべく「Jヴィレッジ」駅が完成しました照れ

「Jヴィレッジ」の全容はこちら 地図が👆で航空写真で見るとこんな感じ👇いったい何面のサッカーグランドが取れるのびっくりと言う程広大な面積を誇りますチューここでは「2020東京五輪」のサッカー日本代表の合宿地としても使用されたほか、東京五輪の聖火は日本国内ではここから全国各地に運ばれていったのでした照れ

こちらがホテルなどを含む司令塔的な役割を果たすセンターハウスですニコニコ

平成11年には当時の天皇・皇后両陛下(現上皇・上皇后陛下)が行幸啓をされているようです。御訪問された時はこの施設は原子力事故の対応拠点になっていた頃ですから、天皇・皇后両陛下は事故対応にあたっているスタッフの慰労に訪れられていたのでした照れ

さて、この日のツアーでは「福島廃炉資料館」に行く前に先ずは腹ごしらえの算段です爆  笑松戸出発が8時10分、途中に関本PAでの小休止を挟み「Jヴィレッジ」着は11時30分でしたからたっぷり3時間近くを要しました。距離にして220㎞くらいありますが、高速を利用していますので少々時間がかかったかなキョロキョロこれは松戸(拙宅)~福島市間280㎞の距離がありましたが3時間弱で行き来していた当時の記憶から比べてみたものです。やはり🚌と車とでは出せるスピードが異なりますからねウインク

こちらは「Jヴィレッジ」のスローガン👇“一瞬の感動を、一生の思い出に”ビックリマークスポーツは、観るほうも感動を覚えますが全力でプレーをされた選手御自身が一番感じ入ることでしよう照れ

センターハウスの前にありましたバス停👇東京行きと仙台行きの2路線ですが、東京駅行きは早朝6時6分発の1本のみ爆  笑これは前夜までトレーニングに励み、敷地内ホテルに宿泊し翌朝、ここからバスに乗り出勤される方のための便でしょう。両方面ともども、細々とした運行ですが多分一定の利用者がいるため廃止はされていないのでしようウインク

ダイヤはこんな感じです👇ですが東京駅着は10時10分ですから会社の始業には間に合いませんねぇニヤニヤきっとその方は午前中は休暇を取られるのでしょうねウインク

センターハウス那須にありました双葉郡各町村の観光スポットを案内しているパネルです。ですがこのエリア内にはまだ多くの機関困難地域(立ち入り制限区域)が存在しているのでしたドクロ

こちらは「Jヴィレッジ」各施設から発電されています総発電量の案内パネル。さすが、東京電力が寄贈した施設だけありますウインク

こちらはホテルのロビー&ラウンジ

ラウンジの一部にはサッカーボールが置かれたオブジェがありましたニコニコ

そしてランチを頂きますウインク

福島県産の食材を使用したJヴィレッジの松花堂弁当ですニコニコうん、普通に美味しかったですよウインク

さて、食事を終えた後はセンターハウス内にありますお土産コーナーを回られたりロビーのソファに身を委ねるなど、皆さま、思い思いの過ごし方をされ食後の休憩をされていました。バスの出発は12時20分ですので十分な余裕があります。で、“余裕がある”と言うことでお出かけ魂の塊でもありますchuは早速館内を探索ウインクするとセンターハウス最上階には展望ホールがあり、その横には室内神社があるぢゃないですかポーン👇「蹴球神社」とあります。読み方は、“けるたまじんじゃ”ではなく「しゅうきゅうじんじゃ」ビックリマークそしてこちらの社、ただの飾り物ではなく本物の神社ですびっくり“施設創設(1997年)の翌年からJヴィレッジに鎮座する蹴球神社は、楢葉町の木戸八幡神社から分祀された御神体を祭ってます。サッカー上達、必勝祈願、合格祈願、恋愛成就、商売繫盛などの幅広い参拝を受け、Jヴィレッジの“名所”となっていきました。3.11以降、福島第一原発事故の収束拠点となってからもJヴィレッジに鎮座していた蹴球神社は、復活の日を信じて前を向いていたスタッフたちの心の拠り所となっていました。蹴球神社には、スタッフたちのJヴィレッジ復活にかける思いが念じこまれおり、今では、「Jヴィレッジ復活」にあやかり、勝負事での“逆転・勝利”にも御利益があるとされています”と説明されていますニコニコ

こちらが展望ホールから眺めた「Jヴィレッジ」内にあります各コート。前述しましたように、サッカーのみならずラグビー、アメフト、ラクロスなどフィールドを使った競技の練習がここで行われているのですニコニコなおこの日の気温は30℃を超える真夏日でしたが、この時、まだ福島県浜通り地方を始めとする南東北エリアの梅雨は明けしてはいませんでした口笛

右奥に見えています高い煙突は旧「東京電力広野火力発電所」。元々は沖合の太平洋(磐城沖)には天然ガスが埋蔵されており、そのガスを用いての火力発電所として運転されていましたが天然ガスの産出が終了したためその後は石油を用いて発電しています。「東日本大震災」では被災しましたが原発ではないため周辺地域に放射能をばらまくことはなく、その後東京電力は、福島復興大型石炭ガス化複合発電設備実証計画として、当発電所構内に世界最新鋭の大型石油ガス化複合発電(IGCC)設備を建設する計画を発表、東電を中心として三菱商事、三菱重工、三菱電機からの出資を受けて「広野IGCCパワー合同会社」を設立し、現在では同社がこの火力発電所を運用しています。

センターハウス内に掲示されていましたポスターなどニコニコ 夏の宴会プランなども催されているようでして、「Jヴィレッジ」はスポーツ施設としだけではなく、地域にとっても貴重な集客施設としての性格も併せ持つようです。そしてこの施設のスタッフの方は恐らく地元の方が多いと思われますので雇用の受け皿にもなっているのでしょう、とても素晴らしい施設だと感じました照れ

さて、展望ロビーでこの施設の広大さを実感した後、今度は定番のお土産品めぐりと参りましょうウインク多くの方がロビー&ラウンジの、フカフカのソファで休憩を取られている中、所狭し…と言ってもセンターハウス内の宿泊エリアまでは足を踏み入れていませんが爆笑Souvenirショップへと突入⚽ビックリマーク

入り口脇の、一番目につくスペースにはサッカー関連のグッズが盛りだくさんビックリマークですがサッカーは門外漢のchuにはまるで興味はなくてニヤニヤ

福島県内で製造されていますお菓子などを購入ビックリマーク日帰りツアーとは言え福島県に来たのですから、少しでも福島県の経済が回るよう、貢献したいのです照れ

で、こちらを見つけましたチュー福島市飯坂で製造されています「福島の桃ぱい」ビックリマークは、福島市発祥の、福島県を代表する銘菓ですクラッカー合格

中身はこちら👇カスタードクリームがぎっしりと入った逸品です照れ

こちらが今回のツアーで購入したお土産👇「福島の桃のパイ」、B級グルメグランプリを獲得しています「浪江焼きそば」そしてこれまた福島県を代表する銘菓であります三万石の「エキソンパイ」チュー

そして12時20分、「福島廃炉資料館」に向けてバスは出発🚌ダッシュダッシュダッシュ途中、車窓から見つけた豚丼屋さんビックリマーク!?福島県で豚丼びっくりって、chuが福島県内に在住している時はなかったなぁ…と思って帰宅してから調べてみましたウインクちゃんとホームページもありました。福島市などの中通りに行く機会は多いchuですが、中々、浜通り地方を訪れる機会はないのですが、今度、調整して立ち寄ってみたくなるお店でしたウインク

「Jヴィレッジ」から「東京電力廃炉資料館」までは約15分、ここから先は前回、Upさせて頂きましたblogの通りです。以上、2024年7月22日、日帰りで福島県を訪れました様子を2回に分けてお届け致しました。そして今回のお出かけは“大人の社会科見学”と言ったならば楽しいツアーだったのですが、現実を真剣に突き詰めるとこの先の世の中の動き、特に政治に関してですが、無関心でい続けることはとても危険なことだと再認識した一日でした。そしてまたまた最後になりますが、今回のツアーを企画して下さいました松戸市市議会議員の関根ジローさん(立憲民主党)に御礼の気持ちをお伝えし〆させて頂きます。