2023年7月31日から8月4日にかけての4泊5日の長崎旅行記をお届けしています前回はこちら👇
(2023年8月3日)
旅4日目の朝を迎えましたがホテルの窓から外を眺めると今朝も早朝から暑そうだ疲労も溜まってきましたが何クソと歯を食いしばり今日も頑張っていきましょう💪で、今日のプログラムは長崎市中心部を巡るのですが、今日最初の訪問先は、旅の初日にゲートの前まで行っていました「グラバー園」長崎港のパノラマを見下ろす南山手の丘に位置する洋館群で、国指定重要文化財の旧グラバー住宅、リンガー住宅、オルト住宅をメインにそれまで市内の各所に点在していた6つの明治期の洋館を移築し復元されています
その園内には居留地時代の面影を残す石畳や石段が異国情緒と文化の香りを引き立てており、今では長崎市を訪れる旅行者を魅了してやまない長崎市を代表する観光スポットになっています「グラバー園」はそのトーマス・グラバーの居宅を中心とし、それ以外にもやはり長崎市内に残っていましたイギリス人商人であるリンガー邸、オルト邸などの洋館を移築した、いわば“屋外博物館”形式の様相を呈しており、実際にグラバーが住んでいた家は「グラバー邸(又はグラバー住宅)」と呼ばれ現存している木造の洋館としては日本最古の建物です。グラバーは1911年(明治44年)に没し、その後、幾ばくかの変遷がありましたが1939年(昭和14年)には三菱重工長崎造船所が同建物を取得。しかし太平洋戦争終戦後には進駐軍の宿舎として一時接収された経緯もあります。やがて迎えた1957年(昭和32年)、三菱重工長崎造船所の創業100周年を記念して同建物は長崎市に寄贈され、寄贈を受けた長崎市では複数の洋館を移築、修復し園内も整備し「グラバー園」として開園、以後、ロケーションの良さも相まって長崎市を代表する観光スポットとなったのでしたこちらが「グラバー園」の全体図👇(グラバー園公式HPから転載させて頂きました)
そしてこのグラバー園では一日のうちに3回程、ガイドさんが同行して園内を案内してくれる無料のツアーがあるのですが、ガイドツアーが開催されない要件に“熱中症警戒情報”が発出されていない事、がありますしかしこの日も早朝から30℃を軽く超える真夏日でして当然のことながら熱中症警戒情報が出されるのは確実(>_<)ですのでツアーガイドは諦めて粛々と「グラバー園」に向かうことにします(-.-)そしてこの日の行動計画では、長崎市内のスポットを幾つか回る予定ですので長崎電気軌道をたくさん乗ることになりそうですから今回の長崎旅で初めて「一日乗車券」をホテルで購入しました
ところで「グラバー園」には二か所の出入口があり、一番近い正門は大浦天主堂の隣ですからホテルから歩いて10分もかからずに着いちゃいます。ですがせっかく購入した一日乗車券ですから元を取らなきゃ有効に使いたいで、わざわざホテル最寄りの「大浦海岸通」から「石橋」に向かいました。ご覧のように真夏のクソ暑い青空が広がっています。
電車に乗ること2分もかからずに終点の「石橋」に到着(9分間隔で運行されている電車を待っている時間の方が長かった)
「石橋」電停は2面1線の構造。折り返しの「蛍茶屋」行きになります。ホームは下車と乗車用に区別されていました。
旅初日にも体験しましたグラバースカイロードに再び“乗車”
“病みつき”になりそうなスカイロードです
垂直エレベーターに乗り換え、辿り着いたところが夜景がきれいな場所
正面が稲佐山。そしてここは街中にありますから夜景がとっても近いんです
左手背後のこんもりとした山のてっぺんが「鍋冠山展望台」。初日に訪れていましたね夜景がとっても綺麗でしたワタクシ的には昨夜訪れました「稲佐山山頂展望台」からの夜景よりも鍋冠山から眺める長崎港と市内中心部の夜景は優れていると断言します
そしてこちらが「グラバー園」の第2ゲート「グラバー園」には第1と第2、二つの出入口があるのですが、そこは急な傾斜が広がる長崎市。園内には高低差があり、即ちスカイロードと垂直エレベーター分がそのまま標高差として現れています。そして「グラバー園」散策の順路は第2ゲート脇にあります「旧三菱第2ドックハウス」がスタート地点ですから、第1ゲートから入場した場合でも、園内にある動く歩道(エスカレーター)に乗り、園のてっぺん部まで昇って来ることになります。であるならば、最初っから第2ゲートまで来てここから入る方が効率的ですよね
こちらが「旧三菱造船所第2ドッグハウス」。旧三菱第2ドックハウスは1896年(明治29)、三菱造船所(現三菱重工業株式会社長崎造船所)の第2ドックの建設時に建てられた外国人乗組員用の宿舎です。建築当初は「第2ドック」に隣接していたため「第2ドックハウス」という名称でしたが、1965年(昭和40)に新しく第1ドックと第2ドックが建設されたのを機に、これまでの「第2ドック」の名称を「第4ドック」とし、隣接していた建物も「第4ドックハウス」と改称、しかし1972年(昭和47年)に第4ドックが閉鎖されると建物の名称を「第2ドックハウス」に戻し「グラバー園」に移築されたのでしたそして前述しましたように「グラバー園」は高低差のある傾斜地。この「旧三菱造船所第2ドッグハウス」は園内で一番高い場所にありますので眺めがいいちなみに三菱重工長崎造船所がグラバー邸を購入したのは1939年(昭和14年)ですが、それは正に開戦前夜そして長崎造船所のドックでは、日本国帝国海軍が誇る数々の戦艦を建造していることから、グラバー邸の敷地からだとドックが丸見えになっていたため、秘密保全のためにこの敷地一帯を購入したとされています。そのことはここからの景観を眺めることで俄然、納得できました
ほれ、眼下にはドックが丸見えでございますかつてはここは軍港であれば、ここに敵方が潜んでいたとすれば軍事機密は丸裸にされたも当然ですから三菱造船所の動きには納得ですですがそーいう事って、一民間企業にさせるのではなく、国としてするんぢゃないかなぁ日本国帝国海軍の流れを汲む今の海上自衛隊ですがつい先日には、「特定秘密保護法」により情報保全が厳密に守られているはずの情報(特定秘密)が、同法律が定めたクリアランスを受けた、アクセスが許されている隊員以外の隊員も恒常的に特定秘密に触れる等の運用がなされていたことが発覚し、海上自衛隊のトップである海上幕僚長が引責辞任に追い込まれたほか大量の処分者を出しましたが、海上自衛隊の杜撰さは軍港である長崎港の秘密保全を、一民間企業に丸投げしていたころからの“伝統”なのかも知れませんね同じく防衛関連の特定秘密を保有する陸・航空の自衛隊からはこうした問題が生じていないのは、特定秘密の運用が厳格に守られているからなのか、それとも露見していないだけなのかは分かりませんがねただ、同法律の制定にあっては喧々囂々、賛否両論がまじりあい施行されたわけですから、運用側は厳に戒め事にあたってもらいたいものです
こちらが園内に掲示されていました「クラバー邸」のポスター👇「世界文化遺産」にも登録されています
ところで園の名称にもなっている“グラバーって誰”についてchuの思いを少しだけ伝えさせて頂きたく思います。個人的な感情が入っていますので、このチャプターは読み飛ばして頂いても構いません。即ちグラバーとは「トーマス・グラバー」というイギリスの商人。安政6年(1859年)の長崎開港直後に来日し造船と採炭の技術を日本にもたらした、ま、江戸時代の末期に暗躍した貿易商です。そして“造船と採炭の技術を日本にもたらした”と記しましたがそれは彼の“功績”を後の為政者が評価したためであり、chuがグラバーに対して抱く印象はこの評価とは少々、異にしますと言うのは21歳で来日したグラバーは「グラバー商会」を設立し、茶や絹の輸出と船舶・武器の輸入に従事し、薩摩藩、長州藩や後の明治政府の要人らと深く交わります。そしてトーマス・グラバ―を“日本が発展する礎を築いた”と評しているのは薩摩、長州藩を中心とする、明治政府を造った人間たちですが史実を正視すると当時の長州藩と言えば帝(天皇陛下)が住む京都御所に直接攻撃(禁門の変)を仕掛けた許されざるテロ行為を惹起させた「藩」。しかし京都を守護する會津藩、後に寝返ったものの当時は幕府側についていた薩摩藩らの堅守に遭い西に向かって壊走し名実ともに「朝敵」となりました。その後、2回にわたる“長州征伐”を受け死屍累々の様相を呈していたものの、外様大名でありながら幕府を支え、日本の近代化に幕府と共に手を携えていた薩摩藩主・島津斉彬公が突然の病で急逝すると、斉彬公の後を継いだ藩主が幼少であったことからその父で斉彬公の異母弟である久光が“藩主の父”として薩摩藩を牛耳ることになります。その後、薩摩は、久光の功名心もあったのですが下級藩士の西郷や大久保らの画策に同調し反徳川に転ずると共に倒幕を企図し長州に接近、しかし長州は「朝敵」であるため迂闊には近づけません。そしてその仲介役を担ったのが土佐藩を脱藩した坂本龍馬だったのです。“ニッポンの夜明けぜよ”などを提唱した先見の明がある幕末の英雄、などと評されている龍馬ですがこれも明治似非政府の面々が作り上げたもの。そして倒幕を諦めない「朝敵」の長州が、自藩を前面に出して最新式の武器を調達することは出来ず、坂本龍馬と、龍馬が作った日本最初の“総合商社”と言われている「亀山社中」、を通じで薩摩が買い付けた武器を長州に回すという行為、これに積極的に応じたのがトーマス・グラバーだったのです。開国を余儀なくされたばかりの幕府は、米国やロシア、欧州各国など海外からの様々な圧力に耐えることに腐心しており、幕府はフランス人軍師らの指導を受ける中、開国後の日本国に生じる数々の権益をフランスに独り占めされたくないとする英国本国の思惑も透けて見えるわけでして、グラバー一人が悪いわけではないのですが、徳川贔屓のchuからしてみれば、あらゆる悪計、奸計、謀略、計謀、詭謀、謀計、姦詐の限りを尽くして幕府を倒さんとする特に薩摩と、「朝敵」の長州に手を貸したのがトーマス・グラバーであり言わば“死の商人”長崎市を訪れていながら、グラバーや「亀山社中」が設立されたスポットなど、には本当は行きたくはないのですが今回は観光旅行と言うこともあり“グラバー園だけは行っておこうか”とこの日の行動だったのです(亀山社中や、昨春訪れた高知県でも、坂本龍馬の旧跡には殆ど興味を示しませんでした)
では、建物内に入ってみましょう建物一つ一つについてもパネル展示などで詳しく説明がなされており例えばグラバーさん(以下、敬称を付けますね)の功績などについても詳述されています
ここでは、建物内部の壁をスクリーンに見立てたプロジェクションマッピングが投影されていて、グラバーさん本人が来園者に対し色々な説明をしてくれますので展示されているパネルと併せてグラバーさんにつき詳しく知ることが出来ますプロジェクションマッピングはこんな感じ👇一つ一つの説明は紙面の都合上、割愛しちゃいますがイメージを抱きながら御覧頂ければ幸いです
それでは皆さん、この後もどうぞゆっくりと園内を御覧下さいでプロジェクションマッピングは終了します
園の中腹にありました壁泉。これは「祈りの泉」と題された作品で江戸時代のキリシタン迫害による隠れキリシタン(潜伏キリシタンとも呼ばれていたそうですが、“隠れキリシタン”と“潜伏キリシタン”とでは少々意味合いが異なるようです)の苦悩と救いを描いたものだそうです。
「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」との違いはWikipediaに記載されていますので御関心のある方はこちらを御覧下さい👇
グラバー園後編に続きます