2023年7月31日から8月4日にかけての4泊5日の長崎旅行記をお届けしています前回はこちら👇
(2023年8月3日)
朝から猛暑のこの日、「グラバー園」見学を終えたchu一行が次に向かいましたのが「出島(でじま)」です「出島」と言えば江戸時代の幕府によるの鎖国中、唯一、外国(オランダ)との交易が許されていた場所で日本初の人工島と言われている島。日本史の教科書には「出島」の絵👇が載っていたことから覚えている方もいらっしゃると思います
そして今回も掲載予定の写真が多数、ありますので前・後編の2回に分けてのお届けにですが写真、一枚一枚の解説をしていきますととんでもないことになっちゃいますので
“安心して下さい、説明少なめ”で行きますのでどうぞご安心ください
まずは長崎電気軌道にのり電停「出島」で下車します
電停「出島」は「出島」の西端にあり、出入口は中央部の出島表門橋まで歩かなくてはいけません。ですので乗り換え駅でありました電停「新地中華街」から歩いた方が早かったかもです
こちらは水門。「出島」に運び込まれる荷物はここから陸揚げされたのですが、荷下ろしの際は役人による厳重なチェックをうけたそうです。またここでは西洋と日本の文化・学術・貿易品が最初に出入りした象徴的な建物ですので今風に言えば“流行の最先端”なんて言うことが出来るのでは
そして先の説明で「出島」は江戸幕府の鎖国中、外国との交易を許された唯一の場所、と説明しましたが実は出島が造られた最初の目的はキリスト教が国内に広がるのを防ぐためのものだったのです。と言うのは、「出島」が造成される前の、現在の長崎市中心部にはキリスト教徒のポルトガル人が色々な場所に居住していました。そのポルトガル人とは鉄砲伝来以降、細々と日本とポルトガルの交易を担う商人であり、キリスト教を布教しに来る宣教師ではなかったのですが、それでも敬虔なクリスチャンですから周囲への影響を及ぼすことがあります(ただ“敬虔なクリスチャン”の方が設けのための商売をする
ことはないんぢゃないかな
なので“敬虔”ではないかも知れませんが
)。「島原の乱」によりキリスト教が普及することの恐ろしさを学んだ徳川幕府はそのためポルトガル人を一か所に集めて居住させるために造られたのが「出島」だったのです。そして以後の鎖国政策によりポルトガル人は退去(本国に追放)されたのですが、その後、平戸にありましたオランダ商館が「出島」に移され、以後、安政時代に開国するまでの218年間、日本が唯一、西洋に向けて開かれた窓となり海外から新しい学術や文化が伝えられたのです。「出島」についての解説はやはりwiki様の方が詳しいのでそちらに譲りたく思います
オランダ商館が移転して来て以降、「出島」にはオランダ商館員の住まいや交易に使う倉庫が建ち並び“人口密度”はとても高かったようです。そして、「出島」は日本初の人工島であったのですが、江戸末期から明治期にかけての周辺の港湾改良工事により周囲が埋め立てられたため、海に浮かぶ扇型の島の原型(冒頭に掲載しました「絵」です)は失ってしまいましたしかし「出島」の、日本の近代化に向けての大きな貢献は史実でもあり、その歴史的貢献を称えるために1922年(大正11年)に国の史跡に指定されたのです
電停「出島」から出島表門橋まで歩きます表門橋の北側は、「出島」を監視するために幕府から派遣された長崎奉行所の役人が居住する江戸町で、福江島から戻った一昨日に立ち寄らせて頂きました「隠れ居坂屋 魚たつ」さんがあるところです
現在の「出島」付近の市街地地図ですですがこの地図は…右側が北なので地図としては甚だ宜しくないなぁ
chuは地図が“読める”人間ですから、地図は真上が北、が大原則
その地図を見て全容を掴みますから、天地逆転したような地図は、地図を理解している人には逆に混乱を与えるのです
と言うことで、地図上、上が北の「出島」付近の地図を転載させて頂きまして、橙色で塗りつぶしたところが「出島」です。そして「出島」の南側は海だったのですが江戸末期から明治期にかけての港湾改良工事を受け、「出島」は現在の様な陸地になったのでした
出島の北側を流れる中島川も、昔は長崎港内に停泊した外国船から荷揚げされた荷物が小舟に乗せ換えられ、先ほど説明しました水門に至るまでの水路でした。が、今では長崎市中心部を東から西に流れる河川として流域には昨日訪れた「めがね橋」も架けられるなど、“市街地中心を流れる母なる川”と市民に親しまれている河川になっています
陸続きになる前の「出島」と護岸の位置とがガラス板を通じて確認出来ます
またこの辺りは「オランダ街道」とも呼ばれているようでして、オランダと日本の交流400年を記念して2000年(平成12年)に命名されたようです
これら👆👇は江戸時代の護岸線、江戸町の様子、出島に入るための出島橋などの解説です
「出島」側の護岸部は当時のままで陸地から離れていたのです。なお背後に見えているビル群は当時にはありませんでしたよ
そしてこちらが「出島」の出入口にあたる表門へと至る出島表門橋
さぁ、いよいよ「出島」訪問ですドキドキしますね
開館時間は8時から21時までとなと13時間のロング営業
そして年中無休です
さらに入場料は520円(大人)と、とてもリーズナブル
貴重な史跡をこのようにお手軽に見学出来るのは嬉しいですね
こちらが「出島」のオフィシャルWebサイトです。今回の拙blogでは諸所の解説は大幅に端折っていますから“展示施設”としての「出島」の見学ポイント等につきましてはこちらのサイトを御参照下さい👇
出島表門橋を渡る入場者さん
そして表門前から眺めた視界の先が江戸町です
こちらが表門です四方を海に囲まれた人工島である「出島」への出入りは当時はこちらの門のみが使われていました。また現在でも観光客はこちらの門のみが利用可能です。但し港湾改良工事により「出島」の北側を除く全てのエリアは埋め立てにより陸続きとなったためスタッフさんらが使う、或いは非常時における非常口ともなるべく通用門は数か所、確認出来ました
なおチケット売り場の横には、江戸時代に「出島」の監視にあたっていたであろう長崎奉行所のお侍さんの格好をしたスタッフさんもいましたよ
島内に足を踏み入れました「出島」は東西(幅)に長く南北(奥行)は短いのが特徴で、東西約250m、南北約70mとそれ程大きな面積ではありません。しかしこのように島内にはびっしりと建物や倉庫、オランダ商館員の宿舎などが建ち並んでいます
電停「出島」から徒歩で出島表門橋まで来たのですが暑い、とにかく熱い涼しい所に行きたい
と、一つ一つの建物内に入ると、どの建物もエアコンがありとても快適
そしてこうした建物内には豊富な展示物と、音声や映像で当時の様子を再現してくれる音声&視聴ガイドの類も多く、兎に角、室内に留まっていたいchu一行は一つ一つつぶさに観察していくのでありました。ただ単に“外を歩きたくない
”という意思もとても強かったのでした
こちらは、当時、日本からの一番値打ちのある輸出品でした銅の重さを計る計量計。
栃木県日光市の足尾銅山や愛媛県新居浜市にありました別子銅山、茨城県日立市の日立銅山などから採掘された銅は、ここ長崎に運び込まれ、「出島」から交易船に積み込まれ世界に向けて輸出されていきました。中でもヨーロッパでは日本から輸出される銅がとても重宝されていたのだそうです
ぎっしりと銅が詰め込まれた桐の箱が、ちゃんと数がわかるよう、きちんと段重ねされて置かれていました。手前のパネルにて音声&映像で解説してくれます。暑さ凌ぎと当時の知識が合わさりますので「出島」は真夏には最適な見学コースと言えそうです
こちらが、銅が百斤(ひゃっきん)入った桐製の箱。斤(きん) 斤(きん)とは、尺貫法の質量の単位で、現在の日本ではパンの計量単位としてのみに使用されていますが、当時の日本では1斤は16両と定義されていたそうです。また桐箱に書かれている住友吉次郎、とは既に閉坑してしまいましたが、“日本三大銅山”の一つに数えられていた愛媛県新居浜市にありました別子銅山を経営していた住友家のこと。別子銅山は閉坑時まで、長らく「住友金属鉱山」により企業活動がなされていましたが、その別子銅山を営んでいた住友家は、後の住友財閥と同財閥からの流れを受け継ぐ現在の住友グループの礎を築いた功労者。1691年(元禄4年)に掘削が始められており、その実力は「出島」からの貿易展開により日本の名前を海外に轟かせていたのでした
しかしこうしてずっと室内で涼をとっている訳にも参りません思い切って外に出てみましょうか
しかし暑い、熱すぎる
ここは藤棚。季節が異なっているため花こそ咲いてはいませんが、オランダ商館の医師として来日したシーボルトは本国に260種もの草花の種子を送ったそうでオランダ本国でもすくすくと成長し、その後継となる植物は200年の時を経てなお、ライデン国立大学付属植物園で花を咲かせているそうでして、その中から5種類の種子を日蘭交友400年を記念して長崎市に寄贈されたそうです。それがこちのの藤棚(アケビフジ)で、これらの植物はシーボルトの“里帰り植物”と名付けられています
こちらはオランダ商館長のヘルマンさんが滞在時に作成し「出島」の花壇に設置されていた日時計の複製品です。日光の影により6時から18時までの時間の計測が出来たのだそうです
そしてこちらは“ミニ出島” 「出島」の東端にある、出島の1/15のスケールだそうです。ちこっとした小上がり出来る台もあり、そこから撮影しましたそしてここは「出島」の東端に接した一般道からも眺めることが出来ちゃいます
前日に「めがね橋」などの観光スポットを巡った後に新地中華街に行く際に、「出島」東端の道路に接している出島橋を渡った際には「出島」の敷地外からも見えていまして記念に1枚、
しましたっけ
(「あぁ長崎は今日も暑かった」その16参照)
~「出島」(※見学には入場料金が必要です)には入っていないのに、直ぐ脇の道路を歩いているだけなのですが、「出島」の何分の一かのスケールの「ミニ出島」、全容が見えてしまいましたまぁ見えてしまったものは仕方ありません。ですので記念に
~
現在「出島」には48の復元された建物やモニュメントがあり、これらは長崎市が2000年(平成12年)から本格的にスタートさせた出島復元事業により現在の「出島」があるのです
次回、後編に続きます