遡る事今から13年4カ月前の2011年3月11日14時46分、宮城県牡鹿半島の東南東沖130㎞の地点を震源としたマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。後に「東日本大震災」と名付けられました同巨大地震では、発生直後に発令された大津波警報どおり、地震発生後から早い所では15分後に、遅い所では1時間以上が経過してから岩手県から千葉県の太平洋岸まで巨大な津波が押し寄せ多大な人命を奪う大災害となりました。同地震による人的被害は2024年3月1日時点で28、567人(死者は12都道府県で約16、000人、行方不明者は2550人に上ります)。またこの地震でお亡くなりになりました方の死因で圧倒的に多かったのが津波災害による溺死で、実にお亡くなりになられた方の90%以上を占めています。この地震が発生時、貴方は何をされていましたでしょうか。私は当時のことを鮮明に覚えています。ところで大津波を主として甚大な被害を与えた同地震でしたが今では被災地での土地改良や防潮堤の建造など、復興に向けての槌音も高く、震災の爪痕を残しつつも新しい生活が徐々に始まっています。ところが震災から13年を経過して今なお、時計の針が止まったままにあるエリアがあることを皆さまは御存知でしょうか。そうです、今日に至るまでは勿論、この先の後世にまでも続く甚大な被害を及ぼしている「東日本大震災」の中での最大の災害とは建物倒壊でも火災でもなく、死者の90%を占める津波災害でもありません。今なお故郷を追われ、何時になったら自宅に戻れるのかの見通しすら立たないエリアがあるのです。それが今回のblogタイトルにもなっている原子力の事故。“絶対に安全”と信じられていました“原子力神話”があっけなく崩れた未曽有の大惨事とは東日本大震災の際に発生しました「東京電力福島第一発電所」の炉心溶融(メルトダウン)だったのでした。今回私はとある機会を戴き、標記致しました日帰りのバスツアーに参加しました。その時の様子をごくかいつまんでですがお伝えさせて頂きます。

この日のきっかけはポスティングされていました松戸市議会議員、関根ジローさんのチラシから始まりました。立憲民主党所属の地方議員であります関根議員、とは昨年から御縁を戴いており、昨年はこちらの“青空討論会”なるイベント(青空の下ではない、ホール内での質疑応答と映画の上映会でした)に参加させて頂きましたのがそのきっかけです👇

折に触れまして拙blogにて何度も触れさせて頂いておりますが福島県は私の第二の故郷。“脂が乗り切っている”30歳半ばから40代前半にかけて福島市に居住し仕事をしまくった記憶が懐かしい。仕事には全神経を集中さてせ尽力していましたが、それと同時に「平成の大合併」が終わる前の、当時は90市町村ありました、日本で三番目の自治体面積を誇る福島県内をくまなく回り仕事のみならずプライベートでも福島県の素晴らしさに心を惹かれ、以後、故郷の千葉県松戸市に戻った後も福島を訪れ現在に至っております。その中で、仕事の一環として「東京電力福島第一発電所」にも訪れており、かつては町中にありました“原子力 明るい未来のエネルギー”の標語にもありましたように資源の少ない日本にとり原子力の技術が確立されていくことで、常に地政学リスクにさらされている中東諸国からの輸入原油のみに頼ることがなく、安定した電力供給が出来る原子力発電は資源小国のわが国にとり必要やむなしと考えていた原子力発電の容認派でした。最も当時から“トイレのないマンション”と揶揄されていたのは現在とは変わらず、また青森県下北半島で計画されていました核燃料サイクル施設の運用見通しがつかない中、使用済みの核燃料を、その技術を有するフランスに持ち込み再処理し、再び日本に戻し核燃料として使用する「プルサーマル計画」というものが進められており、国内では原子力発電所が数ある中、ここ「東京電力福島第一原子力発電所」での活用が現実的な兆しが垣間見えて来たのです。当時は福島市民として福島県に居住していました私はその技術に大きな期待を抱いていた一人。ですがその「プルサーマル計画」が直ぐに日の目を見ることはありませんでした。それは後に明らかにされましたが事業主体である東京電力によるデータ改ざんなど(※データ隠し、改ざんが行われていたのは東京電力だけに限らず原子力発電所を持つ各地の電力各社が行っていたことが後に確認されています)が原因でした。しかしその後の変遷を受け、漸く福島原発でもプルサーマル発電が始まろうかという直後の「東日本大震災」の発災。絶対に安全と思われていました原子力発電所に大津波が押し寄せ海沿いに設置されていた1号機~4号機を大津波が襲いその際に非常用電源をも消失、これはSBO(STATION BLACKOUTと呼ばれる全電源喪失を意味します)とも呼ばれる、原子力発電所では従来、想定だにしていなかった事象。原子力発電所では燃料となるウランに中性子を吸収させることで連鎖的な核分裂を起させ巨大なエネルギーを発生させ、そこから発出される蒸気を用いてタービンを回し電気を作のですが、この燃料は放射性を帯びており放置することは許されず絶えず最適状態下にコントロールされている必要があります。通常、各原子力発電所にある複数の原子炉全ては常に稼働されていることはなく、それぞれの原子炉ではの保守点検の定期検査を行いながら常に運用には万全を期した状態に保たれています。そのため停止中の原子炉にあっても冷水注入と冷却水循環ポンプを停止することはなく“絶対に停電させない”構造になっています。そのため原子力発電所では一般の商用電源とは別に、「外部電源」と呼ばれる独立した電源を確保できるシステムになっています。さらに万々が一の場合にそに備えて「内部電源」と呼ばれる自家発電装置とバッテリーによる複数の予備電源を備えているのですが、大津波を受けた直後の福島第一発電所では外部・内部とも電源が供給されない“全電源喪失”というSBOが発生したのでした。原子炉内の核燃料棒を密閉するための電力が津波の浸水により非常用発電設備も故障し電力の供給が出来ず、そのため露出状態にあった核燃料を冷やせないという重篤な事態となったのです。高熱を発し続ける核燃料はやがて自分が発し続ける熱で溶け落ち、炉心溶融と呼ばれるメルトダウンが発生。原子炉容器の下に溜った核燃料は
そのままでは超高濃度の放射能をまき散らしかねない、壊滅的な事態へと発展しました。原子力発電所では万万が一にも事故が発生した際の準備は用意されており、事故発生時の三原則として核分裂の反応を止める、燃料を冷やす、放射性物質を閉じ込めるの「止める」「冷やす」「閉じ込める」が絶対に譲れない生命線であったにも関わらず、全電源を失った当時の「福島第一原子力発電所」ではこれが出来なかったのです。結果、どうなったか…は当時は日本国内の方はもちろんの事、後に史上最大の原子力事故と認定されました。福島第一原子力発電所の1、3、4号機は水素爆発により原子炉を覆っていました建屋が吹き飛ばされ周辺に放射能をまき散らす事故へと展開したのでした。発災直後には発電所周辺住民の避難は検定的な距離内にお住まいの方への避難指示だったものの、その範囲はどんどんと広がり最終的には半径20㎞圏内にお住まいの方への避難指示が発令され、以後最大、この範囲内を特別警戒区域として原則、立ち入りが禁止されたのです。ですので福島第一原子力発電所が立地している福島県大熊町(1~4号機までの所在が大熊町で、ほんの僅か高台にあったことで非常用電源の消失を免れたため冷却に成功した5~6号機はお隣の浪江町に位置しています)から半径20㎞圏内にお住まいでした方は皆さん、着の身着のまま御自宅を後にされ長い間、自宅に戻ることはできなかったのです。しかしその後、除染が進んだことで立ち入り禁止区域は徐々に少なくなっては来たものの、しかし原発立地自治体である大熊町を始めとする7市町村(大熊町、南相馬市、富岡町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村)の一部エリアには未だに帰還困難区域が存在しています。それがこちらのエリア図👇メルトダウンを起こした第1、3、4号機のある大熊町から北西方向のエリアに広がっている帰還困難区域ですが、これは事故直後に吹いていた風が太平洋から吹き込む海風で、その風向きが北西方向に吹いていたから。超高濃度の放射能はその風に乗り北西方向にあるこれらのエリアに特に多くまき散らされ、これらのエリアにある構造物である住戸や農地などに付着してしまい、それらの除染が未だに出来ていないのです。
ちなみに事故前の大熊町の人口は約15、000人。発災直後には町の全域に避難指示が出されましたが除染が進むと共にこうした制限は徐々に縮小され、やがて2019年4月には町内の居住制限区域と避難指示解除準備区域については解除されています。しかしこの間の数年~8年の間に生活拠点を別の地域に築かれた方も多く居住制限が解除されたからと言って、直ぐに故郷に戻れた方ばかりではありません。大熊町の例で言えば現在、同町に住民票を登録されている方は10、000人との事ですが、実際に町に居住されている方は驚くなかれ、僅か800人とのこと。旧町民の多くの方は故郷を後にされ、未だに戻っては来られていないのです。今回のツアーでは富岡町にあります「東京電力廃炉資料館」に立ち寄り東京電力のスタッフの方から事前の説明を戴きました後に東京電力が用して下さいましたバスに乗り換え旧福島第一発電所に向かったのですが、そのコースは国道6号線を北上します。すると事故前にはそこそこの方がお住まいでした福島県浜通り地方の、その中でも人口が集中している国道6号線やJR常磐線の線路沿いには東京近郊の都市部でも見かける電気量販店や外食チェーン店、自動車ディーラーなど多数のロードサイド型の店舗や大型パチンコ・スロット店などの遊戯施設があるのですが何れも廃屋状態で撤去すらままならぬ様子です。2019年4月にごく一部を除き居住制限などは解除されているにも関わらず5年を経過してものこの状態。「東日本大震災」による被害の復興は、放射能汚染のなかったエリアでは、津波による大きな犠牲者を出した岩手、宮城の両県などでは順調に復旧・復興が進んでいるものの、福島第一原子力発電所が立地していた双葉郡のこのエリアでは、未だ復旧は途上と言わざるを得ないようです。こちらは「福島第一原子力発電所」に向かう前に立ち寄りました「東京電力廃炉資料館」👇

こちらへの入館は予約不要。東京電力スタッフの方による事故時の状況や廃炉に向けての現況などを途中、上映フィルムなどを使い分かりやすく説明して下さいます。入館は無料で予約も不要ですので訪れるハードルとはしては低く、福島第一原子力発電所の事故を知り、復旧の過程や将来の可能性などを学ぶにはとても有意義な施設であると思われます。映像で御覧頂くとこちらの資料館の様子がとても分かりやすく説明されています。6分少々の映像ですので宜しかったら御覧になってみてください。

この日、私たちがここに到着しましたのが12時45分頃の事でした。なお館内の展示物には一部、撮影が制限されているものもありますのでスタッフの方の案内に従って下さいますようお願いいたします。

こちらで10分間の映像を視聴した後、いよいよ旧福島第1原子力発電所に向かうのですが同所は現在、廃炉に向けての作業が粛々と行われている場所。旧福島第1原発の大きさは南北3.5㎞、東西1㎞の350万㎢、東京ドーム75個分の大きさです。この資料館から東京電力のバスに乗り向かうとその道すがらには先ほど触れました、廃屋と化したロード型郊外店が建ち並ぶ国道6号線となります。その国道6号線を5分ほど北上した後に右折した場所にあるのが旧福島第一原子力発電所。地図でお示ししますとここです👇(オレンジ色で示した場所に旧福島第1原子力発電所、下の赤で〇囲みしたところに廃炉資料館、一例として緑枠で囲んだところが今なお残る帰還困難地域)。

旧福島第1原発に向かうにあたり、ここで事前に申告していました本人確認用の書類をスタッフの方に提出します。本人確認用書類ですが顔写真付きのもの、との条件があり自動車運転免許証、写真付きのマイナンバーカード(個人番号は非表示で提出)、パスポート、運転経歴証明書(但し発行日から10回目の誕生日までのものに限る)、写真付き住民票基本台帳カード、在留カード(特別永住者証明書を含む)の6種類のみです。ですので住民票や戸籍謄本+健康保険証+自宅に届いた郵便物などではこの先には進めません。“提出頂きました本人確認資料はコピーを取らせて頂きます”との説明の後に渡されたのがこちらの証票👇

そして旧福島第1原発の敷地内に到着です。この敷地内には東京電力本体の事務棟と協力企業の各社が入居している協力企業棟、そして爆破したままの姿を見せている旧原子炉前と、事務エリアとを行き来する人間を厳重に管理する入退域管理棟、また構内で作業している作業スタッフらが休憩する大型休憩所棟があります。2024年現在、旧福島第1原発の敷地内で働くスタッフの数は1日当たり4300人。そして作業スタッフは勿論のこと、廃炉過程を視察しに来る訪問者に放射能の害が及ばぬようエリア内の除染は完璧との事。しかしここに来るまでに長い道のりと多大な御苦労があったのは言うまでもありません。旧福島第1原発の敷地内に到着した我々一行は協力企業棟の会議室に入室。ここでさらに廃炉に向けての詳細な説明と資料の提供を受けました。なお以降の撮影は禁止されているため私が撮影した写真はありませんので御了承ください。カメラ、スマホの類は施錠された会議室に残したまま、その部屋を退出します。この後いよいよ事故を起こした原子炉近くにまで訪れるのですが、エリア内の除染は済んでいるとはいってもそこは旧原子炉の至近の場所。また当該原子炉には依然として高濃度の放射能を放出する核燃料が溶け落ちたデブリと呼ばれる核汚染物が閉じ込められています。もちろん現段階では構造物により閉じ込められているため放射能をまき散らしてこそいませんが、それでもそこが自然界における放射能濃度ではないことは確かなのです。ですので視察者にもそれなりの準備が求められました。まず一つは靴。これは底が平らなもの限定、そして足首が隠れる長さの靴下を必ず着用、さらに長袖着用と肌の露出が厳に禁じられます。ですが着用する服装につき注意があるのはここまでで防護服や防護マスクまでは着用の必要はありません。あとはこの先に進むための新たな証票とは線量計が貸与されます。これは基準値を超える放射能を浴びた場合には直ちにその場を離れさせるためのアラートと、視察時には旧原子炉前に短時間であっても滞在するため、協力企業棟を出てからゲートに戻るまでにどれくらいの放射線量を浴びたのかを測るための機器、を胸ポケットに入れます。なお旧原子炉近くまで行く際にはポケットが幾つか付いたジャケットを貸与されるのですが、線量計はそのポケットに入れて行動します。またその線量計の装着場所は男女間で異なっており、男性の場合は左胸に付いているポケットに入れたのですが女性の場合はそれより下に位置しているお腹の左脇についているポケットに入れるよう指示されました。協力企業棟を出発すると最終チェックゲートまでは徒歩で移動します。そしてここで視察参加者全員の顔の点検。それは廃炉資料館で提出していた本人確認証、をコピーしたものを検査官たるガードマンさんが持ち、一人一人名前が呼ばれ、警備員さんが本人確認資料の写真と目の前に居る人との顔を見比べ、予め訪問を予定していた者と、今まさに旧原子炉前まで行かんとしている人物とが間違いなく本当に当人か、の確認が行われました。その後、その検査をクリアすると2枚目の手交された証票を、ゲート内にあるICチップにタッチし、次に予め個別に教えられています6桁の暗証番号を入力するとここで晴れて旧原子炉前まで行く準備が整いました。ここからは東京電力が用意してくれている別のバスに乗り込み旧福島第1原発の敷地内を周るのですが写真はありませんので東京電力が用意してくれました資料により説明させて頂きます👇

赤線で図示されたルートでバス移動しました。なお左下に無断転載・転用を禁ずる胸の記載がありますが以下に転載させて頂きました資料に関しましてはご了承を戴いておりますので念のため申し添えます。

こちらの地図では左側が北、上が東で太平洋が広がります。大津波はこの東側から旧福島第1原発部、真ん中から右側にかけての第1~4号機の原子炉を襲い、非常用電源を喪失させ炉心溶融を起こさせたのです。各原子炉、ですがこの時4号機は定期点点検中のため稼働していませんでしたので後の大きな被害は免れます。また2号機は、隣で爆発した1号機の影響を受けて建屋に穴が開いたため、その穴から充満していた水素が逃れたために1、3、4号機で発生した水素爆発を逃れることが出来ました。スタート地点は右下にある入退域管理棟になり、ここで先ほどの二重三重のチェックを受けた後にバスに乗り込みいよいよ旧原子炉前他まで進むのです。エリア内を走るバスは赤線で記されています。このうちバスから降りて車外にて出て見学出来るのは「ブルーデッキ」と呼ばれる4つの旧原子炉が建ち並ぶ👆の地図上で①と記されている箇所と、汚染水を徹底的に除染したのち最後の最後まで残ったトリチウム(原子力発電所から海洋放出される水にはトリチウムは常に含まれているのだそうです)を、基準の700倍にまで薄めて放出している場所が見下ろせる「グリーンデッキ」と呼ばれている👆地図では⑥と記されている箇所の二ヵ所のみで、あとはバス車内から移動しながらの見学となります。なお巡回ルートは見学エリア内に複数の視察団がいる場合には互いのグループがバッティングしないような調整が図られています。そして福島第1原発において今、喫緊の課題となっていたのが汚染水の処理問題。福島原発における汚染水とは1~3号機の原子炉の底に溜まっているデブリ(核燃料が溶け落ちて冷え固まったもの)を冷やすための水と、核燃料容器に流れ込んでくる地下水がデブリに触れることにより放流された水のことを言うのですが、この水には高濃度の放射能が浸潤しているためそのまま垂れ流すことは出来ません。そのため今までは旧福島第1原発の敷地内に汚染水を貯めおくタンクを作りただひたすら溜めていたのですがそれももう限界に。その打開策として、タンクに溜めていた汚染水から高濃度の放射性物質を取り除き、自然界に存在しているトリチウムを除く62種類の核要素を含むものを取り除いたのがALPS処理水と言われているもの。もちろんそこに行くまでにはもっと複雑な工程があります。では現況の各原子炉の様子を御覧下さい👇1~4号機までの現況です。水素爆発により原子炉建屋が吹き飛び原子炉が丸だしとなったのが1、3、4号機の原子炉。ですが4号機に関しては定期点検中のため核燃料が溶け落ちることはなく、また2024年7月現在で3、4号機の核燃料の搬出は全て終えています。残るのは、原子炉容器の底に溜まっている核燃料が溶け落ちたデブリと呼ばれる放射性物質の撤去。これが旧福島第1原子力発電所の廃炉工程の全てです。燃料デブリは、第1~3の各原子炉の底に溜まっています。そしてここには人はなんぴとたりとも近づけない。現在、ロボットアームを使いデブリの除去作業の準備をしており、早ければ今年(2024年)の8月にも2号機のデブリ除去に動くとのお話もいただきしました。ただこれはあくまでも未知数なことと、残存しているデブリを除去し旧福島第1原発の原子炉を完全に閉じ込める=廃炉、にするにはあと40~50年を要する見込みですからきょうびの高校生、大学生の皆さんであれば“東京電力旧福島第1発電所の廃炉が無事、終了した”なるニュースが出たとして、2011年3月11日の惨事を覚えている人は限りなく少なくっていますから、世界史上類を見ない未曽有の原子力事故があったことを後世に伝えるのは今を生きている私たちの務めだと思います。

こちらは原子炉底部に雨水や地下水が流れ込むことで発生する汚染水、をセシウム吸着装置などを用い淡水化を図りストロンチウム処理水とてし貯蔵タンクに溜めおきます。なおこの時の汚染水はアルプス水処理される前の状態です。その後に多核種除去装置(ALPS)によりトリチウムを除く62核種の大部分を除去し、アルプス処理水となり、先ほどとは別の貯水タンクに保管され海洋放出(投棄)に備えます。

汚染水が発生する理由はに原子炉程底部に溜まっている燃料デブリを冷やすための水が燃料デブリに触れその水が放射性を帯びてしまう事、また原子炉底部への地下水の流入と雨水の浸水が燃料デブリに触れてしまうことから発生しています。そのため現段階では汚染水を無くすことは出来ないのですが、流入する地下水を原子炉底部に近づけないようにするため、遮水壁を設けたり建屋近くにサブドレインと呼ばれる井戸を設け地下水をくみ上げる等の対策を行っています。

このように重層的な汚染水対策を施したことで汚染水の発生量は確実に減少しています。

しかし減ったとはいえこれは放射性物質を含んだ汚染水です。注水タンクに保管されている汚染水は「キュリオン」「サリー」「サリーⅡ」などのセシウム吸着装置を用いてストロンチウムなどの放射性物質を除去します。

その後、保管されているストロンチウム処理水から更なる除染を進めトリチウムを除く62核種の大部分を取り除いたものが「アルプス処理水」となり貯蔵タンクに保存され、海洋放出に備えられるのです。

そしてこちらが中長期のロードマップ。ですが順調に、予定通りに行くかどうかは誰もわかりません。

廃炉に向けての東京電力が公表している廃炉プロジェクトの概要はこちらです👇

旧福島第1原子力発電所 グーグルマップによる衛星写真。アルプス処理水として海洋放出(投棄)される水は赤線で示した海底のトンネルを通り陸地から1㎞離れた地点で太平洋の海水と混ざり合います。なおここで放出(投棄)される汚染濃度は国が定める基準よりも厳しい基準をクリアしている、との説明を受けました。

以上、今回の視察での一部をかいつまんだ雑駁とした説明になりました。またこの日、東京電力から頂きました紙ベースの資料は色々な資料も含めとても多く、今回のblogで全てを御紹介出来ませんでしたことを申し添えます。ただ東京電力が、事故後13年を経過しても今なお残る爪痕を一般の視察者レベルにまで公開していることは評価出来ると共に、実際に廃炉工程が完了するまでの40~50年にも及ぶ長期間の東京電力の尽力には一定の敬意は払わなければなりません。そもそもの今回の事故では津波の高さが原子炉まで届くはずはない、という見通しの下、準備を怠っていたと言われても仕方がないのです。と言うのは、日本共産党元衆議院派議員の吉井英勝氏は2006年12月13日(東日本大震災」が発生する4年3か月前の事です)に「巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など、原発機器からの国民の安全を守ることに関する質問主意書」を提出し、原発の安全対策について安倍内閣に見解をただしています。しかしこれに対して第一期政権時の安倍晋三総理は“そのような事態は起き得ないから対策の必要はない”との対応をしています。これは法律用語で言う「認識の錯誤」にあたる行為であり、“そんなことは起こりうるはずはない”の論理はもちろん責任性を阻却する要因にはなりません。私は、今回の事故が発生する前までは原子力発電には一定の理解(消極的な肯定派)を示しており2010年に新築した戸建ての住宅はオール電化仕様の住宅。エコキュートを設置して普段は余剰気味の、深夜の時間帯に電力を作り溜めおく“電化上手”なる契約を東京電力と結んでいます。安定した、かつ安価な電力の供給を受けられることはややもするとそれが当然、と思われがちで“水と安全はタダ”と多くの日本人が無意識で感じていることは実は当然ではない、ということが一般の生活をしていく上では必要不可欠な電力供給に関して思いを新たにしている今日この頃です。東京電力では、今回の廃炉工程をより多くの方に示すことにより、いまでは停止中の原子力発電所の再稼働への理解を高めたい、とした思いがあることに間違いはないようです。しかし考えてみてください。「東日本対震災」が発生し、多数の死者・行方不明者を出しましたがその殆どは大津波による被害であり旧福島第1原子力発電所が爆発したこと、メルトダウンを起こしたことでの直接の死者は出していません。ただ、長期の避難を余儀なくされたことにより避難先などでお亡くなりになる震災関連死される方は数多くの報告を受けています。こうした情勢を勘案し、事故前には消極的ながらも原子力発電を肯定的に捉えていました私ですがこの事故を機に原子力発電否定へと考えを改めました。ただ事故前には国内の発電比率では25%の原子力発電を即時廃止するのはあまりにも非現実的です。また事故直後には当時政権党でありました民主党と、野党第一党でありました自民党との間では将来に向けた脱原発に合意。即ち事故以前には原子炉の運用期間についての特別な制限はなかったのですが、事故を受け法律を改正したことで運用を開始した原子炉の最長運用期間を40年としたことで、どんなに遅くとも40年後には日本国内から原子力発電所はなくなることが政治的に合意されたのでした。ところが自民党が政権に復帰するとこの流れが変わってきます。当初、原発廃止を決めていたはずの安倍政権は、停止中の各地にある原子力発電所の再稼働に向け容認する姿勢を示すと同時に、未曽有の原発事故を起こし瀕死の東京電力を救う挙に出ました。御存知の通り東京電力は日本を代表する巨大企業、そして国内大企業を束ねると言っても過言ではない経団連(経済団体連合会、現在は日本経済団体連合会)にも会長を輩出させるほど会社としての地位を保っています。経団連所属のかような巨大企業は、互いに会社間の株を保有し合っていますから(政策保有株)東京電力が国有化されてしまうと保有している株券はただの紙切れになってしまいます。この時、瀕死の東京電力は自ら動くことはできなかったのですが経団連に所属している各企業は“東電の国有化はなんとしても避けたい”の思いで気持ちを一つにします。そしてこの時、東京電力の国有化阻止に向け大きな力を発揮したのがメインバンクの一つでもありました某フィナンシャルグループ。一時は国有化もやむなし=その場合に生じる不良債権化する東京電力株の損失を特別計上、までしていたのですが、とある時の方針で“東京電力再生”で一挙に方向転換、以後は自行の利益を護るための東京電力擁護にまわっていきました。そして現在があります。東京電力の国有化回避と共に国内で動き出した原子力発電所の再稼働のうねり。現在、国内電力各社で原子炉を再稼働させているのは関西電力、九州電力の一部の発電所のみで、国内最大の電力消費地である関東地方、首都圏への電力供給を担っている東京電力管内にある原子力発電所は、福島県内にありました福島第1原発は廃炉を進めており、同じく福島県内にありました福島第2原子力発電所も廃炉の方針は決まっており、そこに向けて今後の動きがあります。ところが東京電力管内にあるもう一つの大規模な原子力発電所として現在、定期点検中として稼働させていない新潟県柏崎刈羽原子力発電所があります。この原子力発電所の規模は福島県内にありました第1、第2発電所が持つ原子炉(10基)には及ばないものの、7基の原子炉を有しており東京電力としては是が非でも再稼働させたい原子炉群です。今回、旧福島第1原子力発電所の廃炉に向けたプロセスを“見える化”させ、より多くの理解者を造り出すことで柏崎刈羽原発の再稼働に向けての土壌作り、と見たのが今回、視察をさせて頂きました私の率直な感想です。ですが東京電力では過去にも柏崎刈羽発電所におきましても福島原子力発電所で起きましたことと同様、トラブル隠しやデータ改ざんなどが報告されています。昨今、責任を有するリーディングカンパニーにおきましてもこうした事象は露見してはいますが、こと原子力を扱う会社は周辺の住民の方々へ与える影響は自動車会社の試験データ改ざんや健康食品会社のデータ隠しと比べられるものではありません。前出しましたが、民主・自民で合意していました原発運転最長で40年後の原発廃止方針は安倍政権下では“原発は重要なベースロード電源”へと転換され、そして岸田政権下では“安全性が極めて高い新たな原子力発電所の建造”とまでに話が飛躍しています。それどころか原子力発電所を所掌している経済産業省内においては新規原発建設費ねん出のために現在の電気料金に必要経費分を上乗せする新制度を検討しているのだとか、なにおか言わんや…経済産業省と書きましたとこで今回の福島原発事故で思い出したのですが、かつて同省の外局である資源エネルギー庁に属していました原子力保安院から福島第1原子力発電所に派遣されていたスタッフは、本来であれば福島第1原子力発電所(当地の場合)の安全を監視し保安確保を担うべく派遣されていたにも関わらず事故直後に我先にとオフサイトセンターに避難、これは後に「東京電力福島第一原子力発電所の事 故調査・検証委員会」から甚だ問題であったとの指摘を受け言います。そして事故後、政権に返り咲いた自民党の、特に安倍晋三政権は経済産業省との距離が非常に近く、“経産省内閣”と揶揄されることもあったほどです。そう考えると岸田政権に引き継がれた現状を鑑みても今後の原子力政策が経産省の思惑通りに進められているのだろうと考えざるを得ません。本日視察してきました東京電力旧福島第1原子力発電所には朽ちた4機の原子炉がむき出しのまま残っています。原子炉内部に残っている高濃度の放射性物質である燃料デブリを取り出すのに現在の試算でも最長50年を要します。この期間は早まる可能性もありますが、今までの大規模プロジェクトの場合、目的達成までの時間は後ろに延ばされることの方が多い事例は枚挙にいとまがありません。せっかく、東京電力が包み隠さず福島原発の廃炉工程を見せて下さっている最中で、“別の東京電力”は柏崎刈羽原発の再稼働を目論み、はたまた経産省と一緒になり“新しい原発”造りの地ならしをし始めた。“いつか来た道”に戻ってはならないのではと私は強く感じているのです。福島県は私の第2の故郷です。自然豊かな福島県を踏みにじった東京電力の原子力発電所は、私が福島市に居住していた当時、“プルサーマル発電により(一時的ではありますが“トイレのないマンション状態をなんとか先延ばしできる”という意識)新しい原子力サイクルを確立させる”との方針の下、その方針に微力ながらも関与していましたことへの自責の念を捨てきれません。このところの円安もその要因として大きいのでしょうが、昨年(2023年)の冬からの電気代はうなぎ上り。例えば今年の春闘では大幅なベースアップが達成され、厚労省の中央最低賃金審議会では過去最高の時給50円アップを目指す等、確かに賃上げは進んでいるのかも知れません。しかしそれ以上の殆ど全てのものの値上がり幅は賃金の上昇分を超えていることから実質賃金ベースではマイナスとなっているのです。話を電気代に戻すと、わが家で使用する電気代は急上昇。電気は、極力節約はしているものの生活する上でなくてはならぬもの。日常生活をしている中で電気の使用から逃れることは出来ません。“電気代が上昇しているのは輸入燃料に頼り火力発電をしているからだ。だから一日も早く原子力発電所を再稼働させた方がいい”という経産省を始めとする各電力会社や大企業からの声が聞こえてきそうな今日この頃ですが、物価高は確かに困りますが、既存の原子力発電所の再稼働はもちろんのこと、新規建設などは絶対に許すべきではない、との考えを確固たるものにした今回の視察でした。最後に今回の視察の機会を与えて下さいました松戸市市議会議員の関根ジローさんへのお礼の言葉を添えて今回のblog、〆させて頂きます。ありがとうございました。

 

 

最後に、「東日本大震災」発生直後には、私は職務で福島原発爆発事故も含む震災後の諸々の諸対応に非常に強い繋がりを持つ場所で勤務していました。その後、震災や福島原発事故に関する数多の書籍が公開されたり販売されたりしましたが、福島県の現地にこそ出向けなかったのですが、この時の様子を一番正確かつ克明に記しているものが、震災発生直後から総理官邸内において不眠不休で事後処理にあたりました政治家、二人のうちの一人であります福山哲郎官房副長官が記された著がそれです👇

この時の様子を知っている方であれば、原発の再稼働など絶対に認めることはないはずです。あと当時、不眠不休で事にあたられていたもう一人の政治家とは枝野幸男官房長官でした。福島原発事故以降で、次に日本に本当の危機が訪れたのは特に2020年の3月から2022年にかけてのコロナ禍ですが、この時も日本国におきましても本物の未曽有の危機であったにも関わらず、まるで機能していなかった安倍政権(安倍晋三氏は途中で職務を放り出しました)と、枝野・福山正副官房長官の対応との違いは明らかでした。もちろん、枝野福山ラインの方がはるかに危機管理対応に優れていたのは言うまでもありません。

 

追伸

 「東京電力福島第一原子力発電所」廃炉処理工程を見に行く、に際しましては途中の立ち寄りスポットなどでの“お出かけ要素”もございました。次回は続編としてお出かけ旅を御案内致しますウインク