芹沢光治良と道院・紅卍字会 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

*大正時代から皇道大本と提携関係にあった中国の宗教団体、道院・紅卍字会については、度々このブログでも紹介させていただいておりますが、その道院・紅卍字会と「神シリーズ」で知られる作家の芹沢光治良先生との関係については、ほとんどの方がご存じないと思います。芹沢光治良先生といえば天理教との関係がよく知られていますが、実は彼は、天帝(至聖先天老祖)から『映光』という道名を授かった修方(道院メンバー)でもありました。彼の自伝的小説「人間の運命」に、そのあたりのことが記されており(登場人物の森次郎というのが芹沢光治良先生です)、道院・紅卍字会と関係するようになったのは、いわば成り行き上のことで、決してそれほど積極的に関わっておられたというわけではなかったようですが、儒・道・仏・基・回の五教を同源とし、『内に道を納め、外に慈を行なう』というその教義には賛同しておられたようです。

 

 

 “次郎がこの紅卍字会の運動を知ったのは、一郎と北京へ行った時だった。

 或る日、日本大使館の林一等書記官が一郎と次郎に会いたいという、同盟の記者に言伝があって、一等書記官を大使館に訪ねると、北京の紅卍字会が一週間も前から二人を探していたとのことであった。道院のフウチに

 「森一郎こと真一と森次郎こと映光が、北京に到着するが、この日本の兄弟は、天帝から真一、映光という道名を授けられたとおり、道士であるばかりでなく、平和の使者であるから、歓待し、あらゆる便宜をはかるように」

というようなことが出たが、北京の紅卍字会のなかには、森兄弟を知る人がないからとて、林書記官に連絡があったとのことだった。全く狐につままれたような話だが、林書記官も三年前に奉天の総領事館におった頃、奉天の道院のフウチで、天帝から雅春という道名を授けられて、道士扱いを受けたが、その後、紅卍字会の人々と親しくなり、その運動も知り、この新しい支那の信仰の真理であることを知って、自ら道士であることを誇りとしていると、話して、紅卍字会についていろいろ次郎達に説明した。

 道院の本部は山東省の済南の近郊にあるが、北京はじめ、満洲、北支、中支の大都市にはどこにもその支部があって、紅卍字会という形で信仰運動と社会運動をしている。信仰の本体は、天帝と呼ぶ創造神で、毎月、満月の夜に、本部や各支部で、道士の主だった人々が祭壇の前に集って、天帝から啓示を受けるが、それをフウチと言って、一種の自動書記のようなもので、砂の上に文字が書かれる。毎月各支部で示された啓示は、すべて直ちに本部に送られ、本部ではまた、本部のフウチで示された啓示とともに、それを印刷にして、各支部に配布するが、それがすべて信者にとっては、聖書のようなもので、そこに示されたことには、絶対に従う。その啓示集がすでに大部の書籍で十数巻にもなっているが、啓示は信仰に関する形而上の難問ばかりでなく、政治、経済、すべて信者の生活に関係ある形而下の問題についてもなされる。

 例えば、現在、北京で毎朝難民のために五千人の粥を給食しているが、その費用は誰がいくら、誰がいくらというような細かなことにまで、啓示がある。信者というのは、天帝がその人となりを見すまして、フウチで道名を授けた者だけであるから、天帝に選ばれたという、誇りを自然にもっているが、信者同士はまた、天帝のはからいで兄弟になったと、同胞愛にむすばれる。この信仰がはじまって、二十年にたたないのに拘わらず、満洲、中支那から北方の全土の大都市に、広くひろまったが、信者が大都市の資本家や知識人に限られているために、目立たないが、隠然たる勢力をなしている。この二年ばかり前から、フウチに時々、和平の日を待望せよとか、万邦善隣の喜びを迎える日が近いとか、啓示があって、激励するばかりでなく、日本軍に敵対すべからずとか、日本軍をして和平の使者たらしめよとか、啓示があるので、日本軍に協力的になったが、また、支那に於いて日本に協力する唯一の団体であるから、日本軍もこの信仰を弾圧しない――そう、林書記官は熱心に説明したあとで、二人を翌日北京の道院に案内したいと、言った。”(P49~P51)

 

 “これがフウチかと、次郎は好奇心で全身をこわばらせながら、注意を集中した。しばらくして、二人の道士の持った棒が突然そのリズミカルな動揺をとめた。すると、卓子の漢字を書きとどめていた道士の横にかけた道士が、それまで書かれた漢字を文章にして、これまた朗々と読み上げた。しかし、次郎は意味がわからなかった。林書記官が低い声で通訳した。

 「天帝老祖はみなが真一、映光をここに歓迎したことを嘉する。真一、映光の道友は天帝老祖が地上に送った平和の使者にして、この二道友が東方日本国より来たるは、この地に和平の来たる証として、みなも喜び祝すべし――と、まあこんな意味です」

 「天帝老祖というのは、天帝と老祖ということですか」

 「いいえ、機嫌のいい時は天帝老祖と自ら名のるらしいですよ」

 そう話しているうちに、砂の上に赤い毛氈がしかれて、その上に白紙がのべられた。そして、二人の道士が両方から持った棒の中央に、棒の代りに太い毛筆をつないで、たっぷり墨汁をふくませてから、二人の道士はフウチの場合のとおりに、棒の両方のはしを持って、目を閉じた。壁にそって立った数人の道士が、再び音楽的な斉唱をはじめたが、二分もたたないで、棒はするすると左右に動き出して、棒の中央にさがった毛筆が、白紙の上に一気に黒々と達筆に書きあげた。とたんに斉唱はたえたが、全道士が等しく歓声をあげた。

 「天帝の書です。めったに天帝の書は授からないので、みな歓喜しているのですよ」

 そう林書記官が次郎たちに話した。道士たちが三人の日本人に感謝の言葉を浴びせている間に、天帝の書が壁にはられた。余りにみごとで、達筆の余り、次郎は読めなかった。

 「遥かなる東方より陽光そそぎ、雪霜徐々にとけて、春光地にみつれば、万邦善隣の喜びを寿ぐべし――とでも読むのでしょうか」と林書記官が代って読んで聞かせた。

 次郎はその意味よりも、その書が、壁にはられた他の書と、その筆蹟、運筆の妙等、すべて同一で同一人によって書かれたようなのに注意を惹かれたが、林書記官は、他の道院で書かれた天帝の書もみな同一筆蹟であるから、天帝が唯一の創造神であることが信じられると、話した。

 次郎たちは院長や道士たちに送られて講堂を出たが、広い庭で、道士たちは幾度も次郎たちに握手して、再会を約束させては、別れをおしんだ。今日のフウチと書は、直ちに本部に通知するから、次郎たちが支那旅行中、何れの都市の道院も道士も、兄弟として迎えるので、遠慮なくわが家のように訪ねるようにと、最後に念を押して、門まで送って来た。

 林書記官は感動して、迷信だと軽蔑しないようにと、次郎に繰返し注意した。次郎は軽蔑しなかった。パリ大学で学んだシミアン教授が、民族を知るのに、習俗的な宗教でも、その信仰を社会的事実として尊重するように、注意したからでもあるが、それ以上に、その日見た行事のなかで、紅卍字会の人々がいかに強く和平を求めているかを知って、胸を打たれたからだ。それには天帝やフウチが、どんなまやかしであっても、関係ないことに感じられた――

 次郎はしかし、支那の旅行中、何れの地でも道院を訪ねなかったが、北京を去ってから、紅卍字会のことを忘れてしまった。ところが、前年の春、林書記官が本省に転勤になってから、一郎を通じて、再び紅卍字会のことを耳にするようになった。というのは、林書記官は東京に道院の支部をつくろうと企画して、道名を有する日本人に呼びかけた。映光である次郎は、呼びかけに応じなかったが、一郎はその後北京に滞在中に、支那の道士たちとの交友もあったようで、真一という道名どおりの道士として、林の招きに応じた。日本人で道名を持つ者も意外に多く、霊の科学的研究家の小川、東洋大学の大島教授、碁の呉名人、実業家の伊東氏、退役陸軍中将のM、その他、もとの大本教の信者の誰彼と、十数名集まって、林書記官を中心に道院の支部をもうけることに決まり、経済の負担は伊東氏が引受けて、道院の本部から、フウチを行える道士を、フウチに使う聖具とともに東京へ迎えた。その頃、時々支那の道士の客が一部の家にも現われたが、日支事変中のこととて、隣組の問題になったようだ。その後、東京の道院支部がどうなったか、次郎は一郎に聞いていなかった――”(P53~P56)

 

(芹沢光治良「人間の運命 第二部 第六巻・暗い日々」(新潮社)より) 

 

 

 

 

*道院・紅卍字会で読誦される経典や神咒は外部にはすべて非公開です。ただ、「鎮心経」だけは、ある修方によって、とある出版社より出版され、一般の方にも入手が可能となっています。この経典は1936年に、『世界の壊滅的な刼(ごう)の発生を未然に防ぐ為』に、扶乩(フーチ)を通じて伝授されたものですが、やはり他の経典と同じく修方以外の者には非公開とされていました。よって、この経典の出版は、その修方の独断によるもので、道院・紅卍字会が正式に出版を認めているわけではありません。

 

*もはや扶乩(フーチ)自体が終了してしまった現在においては、この「鎮心経」の一般公開の是非については各修方の判断に委ねるしかないのですが、私は「顕幽一致・霊肉一致」の法則からすれば、またイニシエーションの重要性から判断すれば、「鎮心経」に限らず、道院・紅卍字会のすべての経典や神咒は、正式に宣院の壇で求修し、四誓願を宣言した者が読誦してこそ、神霊の加護を得て本来の力を発揮するものだと思っています。現界での「型」がなければ、「想念」だけでは霊界は動かないのであり、多くの方は洗礼や潅頂などの宗教儀式の重要性をあまりにも軽視しておられます。一般の方が、たとえ正しい意図を持って読誦されるのであっても、正式な修方でないのであれば、その効果は限定的なものでしかありません。

 

 

・イニシエーションの重要性 〔ナーグ・マハサヤ(ラーマクリシュナの在家の高弟)〕

 

 “高度に進歩した求道者であれば、ラーガ・バクティ(Raga Bhakti)が自然ではあるが、ナーグ・マハサヤはヴァイディ・バクティ(Vaidhi Bhakti)の修行にも反対しなかった。彼自身、難しい修行をしてきたので、周りの人たちにも同じことをするように助言した。あるとき、彼はこの問題について、スレシュと長い議論をした。スレシュはナーグ・マハサヤと一緒にシュリー・ラーマクリシュナのもとに一〇日間ほど通った後、仕事でクエッタ(Quetta 現在のパキスタンの都市)に行く予定になっていた。「カルカッタを発つ前に、師からイニシエイションを受けて欲しい」と、ナーグ・マハサヤはスレシュに懇願した。けれどもスレシュは、マントラの効力に対して信仰を持っておらず、それまでに二人は幾度も議論を交わしてきた。結局、スレシュは、師のご意見に従うことに決め、翌日、ナーグ・マハサヤと共に、ダクシネシュワルを訪れた。彼らが席につくやいなや、ナーグ・マハサヤは、スレシュのイニシエイションに関する話題を持ち出した。シュリー・ラーマクリシュナは、

 「ナーグ・マハサヤが言っていることは、全く正しい。人はイニシエイションを受けてから、信仰の実践を開始するべきである。なぜ、彼の意見に同意しなかったのか」

と尋ねた。スレシュは答えた。「私はマントラに対する信仰を持っていません」。師は、ナーグ・マハサヤに向き直っておっしゃった。「お前の言うことは正しいが、今のスレシュは、まだそれを必要としていない。だが、心配しなくとも良い。彼はいずれイニシエイションを受けることになるよ」

 

 スレシュは、クエッタに滞在中、しばしばイニシエイションへの大きな渇望を感じた。そこで、カルカッタに戻り次第、師からイニシエイションを受けようと決意した。しかし彼が帰ったときには、なんということか、ダクシネシュワルの光は、まさに消え去らんとしていた。シュリー・ラーマクリシュナは、すでにイニシエイションを授けられる状態ではなかったのだ。スレシュは、ナーグ・マハサヤの「手遅れになるぞ」という言葉に耳を傾けなかったことを、ひどく後悔した。師がこの世を去ったときの、彼のこの悲しみは深く大きかった。彼は自らの運命を呪った。それから毎晩、ガンガーの岸辺で、神聖なる河の聖霊に、己の苦悩をため息まじりに語り続けた。ある晩、彼は岸辺で「一晩中微動だにせず座り続ける」という厳格な誓いをたてた。すると、驚くべきことが起きた!夜明け前のことだった。シュリー・ラーマクリシュナがガンガーから現われ、彼に向かって近づいて来たのである。師は、彼の傍らに寄ると、耳に神聖なマントラを唱えられた。スレシュは深々とおじぎをし、足下の塵を取ろうとした。しかし、聖なる姿はすでに消え去っていた。”

 

(「謙虚な心 シュリー・ラーマクリシュナの弟子ナーグ・マハサヤの生涯」(日本ヴェーダーンタ協会)より)

 

*ラーマクリシュナ・ミッションの僧院長であられた故・スワミ・ブテシャーナンダ師によると、『師から正式に伝授されたのと、単に本で読んで知ったのとでは、同じマントラを称えるのであっても、その効果には天と地の差がある』のだそうです。だいたい、イエス・キリストですら、バプテスマのヨハネによる洗礼を必要とされ、使徒達にも『行って人々に父と子と聖霊の名で洗礼を授けなさい』と命じておられるのに、洗礼(イニシエーション)は単なる儀式にすぎない、別に受けなくとも構わないなどと言っている連中もいるのには呆れます。

 

*ただし、出口王仁三郎聖師は『霊界物語は、現今の大本信徒のみのものではない』ということを言われておりますので、私は「霊界物語」については、たとえ信徒でなくとも、音読すれば、それがそのままある種のイニシエーションになると思っています。しかし、どの宗教であっても、洗礼式のようにイニシエーションの儀式が規則としてはっきりと定められているのであれば、それを受けた上でのマントラや聖典の読誦でなければ、その後の霊的な進歩は加速されません。

 

 

・イニシエーションとしての「霊界物語」の拝読

 

 “霊界物語は単なる人為の書物ではなく、真の神が出口聖師に聖霊をみたして述べられた、神伝直受の教典であります。霊界物語の神秘について先輩の故成瀬言彦先生から昭和四十五年頃に、次のように伺いました。

 先生が四国へ派遣されていた昭和初期の頃、大本の徳島分所で、五、六十人の信徒に、霊界物語拝読のすすめを内容とした講演をされた時に、話終わって壇を降りると、分所長が礼を述べに来て「徳島の信徒は、皆、熱心な方ばかりで、物語拝読も皆さんがなさっていると確信いたしております」と付け加えられました。先生は、そうですかと言って再び昇壇して、皆に、
 「今、分所長から、お聞きの通りのお言葉がありました。しかし、私の見るところ、皆さまの中で拝読なさっている方は三人しかいない。今から私がその三人を当てます」と言って指し示したそうです。
 そのあと言をついで「今示した三人以外に読んだことのある人は、遠慮なく手を挙げてください」というと、皆下を向いて、答える人はなかったそうです。
 先生はさらに、その三人が、それぞれ何巻まで読んだかを言い当て、皆を驚かせたそうです。 

 「真の神に祈り、心を込めて物語を拝読すれば、一巻を読み終えると額から蛍火のような霊光が、十五、六巻では懐中電灯のように、月の光を強くしたような霊光が出ている。さらに三十五巻以上ともなれば、さながらヘッドライトの如く強烈な霊光が発しているもので、自分はその顔を見ただけで、何巻の拝読をしているかがわかる」

と話しておられました。”
 

(「人類愛善新聞」昭和63年1月号 松平隆基『万民救済の神書』より)

 

*あと、今年は出口王仁三郎聖師の入蒙から丁度百年となります。出口聖師が大陸で行なわれた経綸が、今後どのように世界に実現してくるのか、エドガー・ケイシーも『あの憎まれた民族、モンゴリアの台頭』を予言していますが、これから世界に対して中共が何をしでかすのかが気になります。そして、道院・紅卍字会も世界平和の実現のために最近活動を活発化させております。修方として東亜の経綸に霊的物的両面において多少なりとも貢献できることは素晴らしい名誉だと思います。

 

・大本愛善苑二代苑主、出口すみ(聖師の妻)の言葉

 

 “先生の蒙古入りのことは、ずっとあとで詳しく述べますが、大へん深いお仕組みで、まだ先でないと、このことを言うても、だれにも通じないことでありまして、やがてこのお仕組みが実地にまわってくるのであります。”

 

 “蒙古というところは、神界からは理のあるところでありまして、大本にあることは不思議なことばっかりであります。”

 

            (出口すみこ「おさながたり」(天声社)より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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