イニシエイションの重要性 〔ラーマクリシュナ〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ナーグ・マハサヤ (ラーマクリシュナの在家の高弟)

 

 “高度に進歩した求道者であれば、*ラーガ・バクティ(Raga Bhakti)が自然ではあるが、ナーグ・マハサヤは*ヴァイディ・バクティ(Vaidhi Bhakti)の修行にも反対しなかった。彼自身、難しい修行をしてきたので、周りの人たちにも同じことをするように助言した。あるとき、彼はこの問題について、スレシュと長い議論をした。スレシュはナーグ・マハサヤと一緒にシュリー・ラーマクリシュナのもとに一〇日間ほど通った後、仕事でクエッタ(Quetta 現在のパキスタンの都市)に行く予定になっていた。「カルカッタを発つ前に、師からイニシエイションを受けて欲しい」と、ナーグ・マハサヤはスレシュに懇願した。けれどもスレシュは、マントラの効力に対して信仰を持っておらず、それまでに二人は幾度も議論を交わしてきた。結局、スレシュは、師のご意見に従うことに決め、翌日、ナーグ・マハサヤと共に、ダクシネシュワルを訪れた。彼らが席につくやいなや、ナーグ・マハサヤは、スレシュのイニシエイションに関する話題を持ち出した。シュリー・ラーマクリシュナは、「ナーグ・マハサヤが言っていることは、全く正しい。人はイニシエイションを受けてから、信仰の実践を開始するべきである。なぜ、彼の意見に同意しなかったのか」と尋ねた。スレシュは答えた。「私はマントラに対する信仰を持っていません」。師は、ナーグ・マハサヤに向き直っておっしゃった。「お前の言うことは正しいが、今のスレシュは、まだそれを必要としていない。だが、心配しなくとも良い。彼はいずれイニシエイションを受けることになるよ」

 

 スレシュは、クエッタに滞在中、しばしばイニシエイションへの大きな渇望を感じた。そこで、カルカッタに戻り次第、師からイニシエイションを受けようと決意した。しかし彼が帰ったときには、なんということか、ダクシネシュワルの光は、まさに消え去らんとしていた。シュリー・ラーマクリシュナは、すでにイニシエイションを授けられる状態ではなかったのだ。スレシュは、ナーグ・マハサヤの「手遅れになるぞ」という言葉に耳を傾けなかったことを、ひどく後悔した。師がこの世を去ったときの、彼のこの悲しみは深く大きかった。彼は自らの運命を呪った。それから毎晩、ガンガーの岸辺で、神聖なる河の聖霊に、己の苦悩をため息まじりに語り続けた。ある晩、彼は岸辺で「一晩中微動だにせず座り続ける」という厳格な誓いをたてた。すると、驚くべきことが起きた!夜明け前のことだった。シュリー・ラーマクリシュナがガンガーから現われ、彼に向かって近づいて来たのである。師は、彼の傍らに寄ると、耳に神聖なマントラを唱えられた。スレシュは深々とおじぎをし、足下の塵を取ろうとした。しかし、聖なる姿はすでに消え去っていた。”(P71~P73)

 

*ラーガ・バクティとは、礼拝の感情が信者にとって自然なものとなり、外部からの刺激や儀式の手助けがなくとも、心が常に主(Lord)に向かう状態である。それに対し、ヴァイディ・バクティは準備段階であり、心が厳密な外的儀式によって制御され、それが神に向かう手助けとなる。

 

 “ナーグ・マハサヤは、グルの役を引き受けることも、弟子にイニシエイションを与えることもなかった。彼は教典の教えに背くことはなかったし、他の人々が教えを破った場合はとても残念がり、ときには腹を立てることもあった。彼はシュードラの生まれだったので、教典の教えに従って、自分には弟子を入門させる(initiate)権利はないと信じ、一生涯この信念が変わることはなかった。だが、彼の恩寵によって、失意にある多くの人々が、真理と正義の炎をかき立てられた。彼の神聖な一触れによって、彼等の乱れた青年時代の行状は完全に変容したのである。しかし、師と弟子という関係は考えもしなかった。そんなことを思っただけで、ナーグ・マハサヤは身震いするのだった。彼は語っていた。「私はただの卑しいシュードラに過ぎません。私に何が理解できましょう。あなた方は、神聖な御足の塵を携えて私を祝福するためにここのやって来るのです。我が師の恩寵によって、ここであなた方にお会いできるとは何という祝福でしょう」

 

 あるとき、あるブラーミンの一信者が、彼にイニシエイションを与えるようにしつこくせがんだ。彼はこう言った。「あなたはブラーミンであり、教養ある青年です。あなたがこのような観念を抱いてはなりません。神聖な経典の神聖な命令を無視したために、これ程までに私たちは堕落し惨めになったのですよ。いずれにせよ、私は真の家住者の義務に厳しく従わなければなりません。それが我が師の指示であったのですから。私はそこから一寸たりとも外れる権利も力もないのです」しかし信者がいたく失望したのを見て、彼は祝福して語った。「私の息子よ、勇気を失わないでください。シヴァ神御自身があなたをイニシエイトするでしょう」と。しばらくして、ナーグ・マハサヤは、その青年がスワーミー・ヴィヴェーカーナンダからイニシエイションを受けたことを知って心底喜んだ。彼はそこで語った、「今のこの時代においては、師のサニャーシンの弟子たちだけが、人々にイニシエイションを与えることができるのです。彼らが現代のグルなのです。そして、このような賢者によってイニシエイトされた人々が、本当に祝福されるのです。なぜなら、彼らは確かに全能なる神の恩寵を受け取ったのですから」と。”(P142~P143)

 

(「謙虚な心 シュリー・ラーマクリシュナの弟子ナーグ・マハサヤの生涯」(日本ヴェーダーンタ協会)より)

*「ブラーミン」とは「バラモン」のことで、「足の塵を取る」とは「プラナーム」というのですが、聖者や僧侶に対して行われるインド式の挨拶です。

 

*ナーグ・マハサヤは、ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュと並ぶ、聖者ラーマクリシュナの偉大な在家の弟子の一人であり、彼を通じて様々な奇蹟が起こったことが伝えられています。彼の「今のこの時代においては、師のサニャーシンの弟子たちだけが、人々にイニシエイションを与えることができるのです。彼らが現代のグルなのです。そして、このような賢者によってイニシエイトされた人々が、本当に祝福されるのです。なぜなら、彼らは確かに全能なる神の恩寵を受け取ったのですから」という言葉からすると、誰にイニシエイションを授けられたのかが、何よりも重要なことのようです。

 

・ホーリー・マザー(聖女サーラダー・デービィー(ラーマクリシュナの妻))

 

 “マントラによるイニシエイションについて、私は彼女に申し上げた。「マザー、なぜ導師からマントラを受ける必要があるのでしょうか?マントラを唱えずに、ただ『マザー・カーリー、マザー・カーリー』と繰り返すだけではだめなのでしょうか?」

マザー「マントラは体を浄めます。人は神のマントラを唱えることによって浄らかになります。ひとつ話をお聞きなさい。ある日、ナーラダが主にお目にかかりにヴァイクンタへ行き、彼とながい間話をしました。その時、ナーラダはまだイニシエイションを受けていませんでした。ナーラダが宮殿を去った後で、主がラクシュミーにおっしゃいました。『牛糞でその場所を浄めなさい』『なぜですか、主よ?』とラクシュミーは尋ねました。『ナーラダはあなたの偉大な信者です。それなのにどうしてそうおっしゃるのですか?』主はおっしゃいました。『ナーラダはまだイニシエイションを受けていない。肉体はイニシエイションなしには純粋にはなれないのだ』

 人は、少なくとも肉体の浄化だけのためにも、グルからマントラを受けなければなりません。ヴァイシュナヴァは、信者にイニシエイションを与えた後で、彼に言うのです、『いまやすべてはおまえの心次第である』と。『人間としての導師は耳にマントラを唱えるが、神は魂に霊を吹き込む』と言われています。すべては人の心にかかっています。”(P18~P19)

 

“弟子 「彼らはマントラを受けます。しかしそれで彼らは何を得るのでしょうか?私たちには、彼らには何の変化も生じていないようにしか見えません

マザー「マントラを通じて力が伝授されるのです……グルの力が弟子へ、弟子の力がグルへと、だからイニシエイションの時に、グルは弟子の罪を我が身に引き受けて、病気になって苦しむのです。グルは弟子の罪の責任をとらなければなりません。もし弟子が罪を犯すなら、グルはその影響を受けます。しかし弟子が良いことをすれば、グルもその利益を受けます。ある弟子たちは急速に進歩し、他の者たちはゆっくりと進みます。それは人びとの過去の行為によって得られた心の傾向によるのです。だからラカール(スワーミー・ブラフマーナンダ)はイニシエイションを与えたがらなかったのです。彼は私に『お母さん、私は弟子にイニシエイションを与えるとすぐに病気にかかるのです。イニシエイションを与えることを考えただけで熱がでます』と言いましたよ」

 あるスワーミーが、イニシエイションを受けさせるためにひとりの少年をホーリー・マザーのもとに遣った。彼女は少年から詳しく話を聞いたあとで、『あなたには先祖代々のヴィシュヌ派のグルたちがいるのですから、彼らからイニシエイションを受けなさい』とおっしゃった。いかなる理由からか、マザーは彼にイニシエイションをお与えにならなかった。“(P110~P111)

 

(「ホーリー・マザーの福音」(日本ヴェーダーンタ協会)より)

 

*ナーラダとは、古代インドの聖者で七人の聖仙(リシ)たちの一人とされています。「チャーンドーギャ・ウパニシャッド」では、サナート・クマラの弟子となっており、楽器ヴィーナーの発明者でもあります。また、ここでマザーが言っておられる「主」とは、ヴィシュヌ神のことで、ヴァイシュナヴァはヴィシュヌ神の信徒のことです。

 

*ヒンドゥのイニシエイションにおいては、マントラの伝授が行われますが、重要なのはマントラだけでなく、マントラを通じて作用する力の伝授こそが、より重要であるようです。かつてラーマクリシュナ・ミッションの僧院長であられたスワミ・ブテシャーナンダ師は次のように言われました。「二人の修行者がいて、同じマントラを唱えていたとする。一人はそのマントラをイニシエイションとしてグルから授かり、もう一人は本でそのマントラを知ったのだった。まったく同じマントラを唱えていても、その効果は天と地ほどの差がある」。また、ポール・ブラントン著「秘められたインド」(日本ヴェーダーンタ協会)の中には、「もの言わぬ賢者」が、マントラを介さずに意識の集中によって、霊的な力をイニシエイションとしてブラントン氏に伝授した話が載っています。

 

*以前にも書かせていただきましたが、スウェーデンボルグは、洗礼を受けることで、たとえ本人には何の自覚がなくとも、霊魂にはある印がつき、それによって霊界では誰がキリスト教徒か容易に見分けることができると言っています。そして他の宗教の信徒にもそれぞれの印があるということですので、ヒンドゥや仏教のイニシエーション、灌頂の儀式もまた洗礼と同様のものであるとみなして良いと思います。そして「霊界物語」を拝読すると、額に霊的なしるし(光)が現われると言われておりますので、これもまた一種の洗礼=イニシエイションとみなしてよいように思います。

 

*洗礼や領聖などの秘跡(サクラメント)を、単なる儀式にすぎないとして軽視する人がいますが、そもそも、イエス・キリストご自身がバプテスマのヨハネの水の洗礼を受けられたのであり、弟子たちに「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ伝28章19とも命じられ、またペトロに対し、「あなたは岩(ペトロ)である。この岩の上に私の教会をたてよう。死の力もこれに勝つことはできない。わたしは天の国の鍵を授ける。あなたが地上で縛るものは天でも縛られ、あなたが地上で解くものは天でも解かれるだろう。」(マタイによる福音書16:18-19)と言われたように、顕幽一致の法則によって、霊的な次元で何かが起こる為には、それに対応する物質的次元での「型」を必要とするのであって、やはり洗礼=イニシエイションはどうしても必要です。もちろん、洗礼を受けることで救いが保証されるわけでも、洗礼を受けなければ救われないというわけでもないはずですが、より恩寵を受けやすくなる、ということは確かです。メジュゴリエの聖母マリアは、世界の各宗教は基本的には同じものだと言われる一方で、教会、そして秘跡の重要性について繰り返し述べられており、カトリック信徒に向けて「洗礼を受けたことを誇りに思いなさい」とまで言われています。またナーグ・マハサヤが言われている通り、各宗教の聖典や儀式、定められた規則は尊重されねばならず、安易に改変、簡略化されるべきではありません。

 

・霊界物語を拝読した者には霊的な「しるし」が現われる

 

 “霊界物語は単なる人為の書物ではなく、真の神が出口聖師に聖霊をみたして述べられた、神伝直受の教典であります。

 霊界物語の神秘について先輩の故成瀬言彦先生から昭和四十五年頃に、次のように伺いました。

 先生が四国へ派遣されていた昭和初期の頃、大本の徳島分所で、五、六十人の信徒に、霊界物語拝読のすすめを内容とした講演をされた時に、話終わって壇を降りると、分所長が礼を述べに来て「徳島の信徒は、皆、熱心な方ばかりで、物語拝読も皆さんがなさっていると確信いたしております」と付け加えられました。

 先生は、そうですかと言って再び昇壇して、皆に、

 「今、分所長から、お聞きの通りのお言葉がありました。しかし、私の見るところ、皆さまの中で拝読なさっている方は三人しかいない。今から私がその三人を当てます」と言って指し示したそうです。

 そのあと言をついで「今示した三人以外に読んだことのある人は、遠慮なく手を挙げてください」というと、皆下を向いて、答える人はなかったそうです。

 先生はさらに、その三人が、それぞれ何巻まで読んだかを言い当て、皆を驚かせたそうです。

 「真の神に祈り、心を込めて物語を拝読すれば、一巻を読み終えると額から蛍火のような霊光が、十五、六巻では懐中電灯のように、月の光を強くしたような霊光が出ている。さらに三十五巻以上ともなれば、さながらヘッドライトの如く強烈な霊光が発しているもので、自分はその顔を見ただけで、何巻の拝読をしているかがわかる」と話しておられました。”

 

(「人類愛善新聞」昭和63年1月号 松平隆基『万民救済の神書』)

 

*明後日10月18日は、「霊界物語」のご口述が開始されてから、ちょうど百年目にあたる記念すべき日です。残念ながら、大本三派のHPを見ると、大本信徒連合会が「霊界物語口述100年記念拝読研修会」を行うだけで、特に祭典などはないようですが、そもそも出口王仁三郎聖師ご自身が言っておられたように、この神書は大本信徒だけのものではありません。どうか一人でも多くの方に、「霊界物語」の価値を知っていただき、せめて一巻だけでも声に出して拝読していただきたいと思います。

 

 

 

 

 


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