宇賀神の不思議 (比叡山無動寺谷弁天堂) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “比叡山の南の端に無動寺谷という谷があり、そこには相応和尚(そうおうかしょう)の頃から祀られている弁天さまがあります。弁天さまは勿論観音さまのご化身でしょう。

 戦前、韓国から青雲の志に燃えて日本に渡ってきた一少年が居ました。今はひとかどの易者として活躍しています。

 彼は少年時代、差別と貧困に疲れ果て、何度も死を覚悟しました。実際に自殺を決行しましたが、その都度未然に助けられたのです。

 ある日、下宿のおばさんが、「比叡山の無動寺へ詣ってみなさい。きっと救われます。」と奨めてくれたのです。

 失意の少年は神仏を信ずる素直な子でしたから、早速道を尋ねて、その夜から日参を始めました。毎朝仕事に出るまでに比叡山まで歩いて登るのです。

 京都から往復一五キロの道のりですが、三時に下宿を出るのです。必死の覚悟ですから少しも恐ろしくなかったと言います。毎朝、毎朝、雨の日も風の日も少年は無動寺へ詣りました。般若心経を称えて、お堂の周囲を一心不乱にまわりました。

 ちょうど、百日ほどたったある朝、このお堂で大祭がありました。少年は参詣人たちと始めてこの山で顔を合わせたのです。人々はお堂の正面で何やら、くじ引きをしています。何ごとかと思いつつ、黙々とお堂のまわりを、お千度めぐりを始めました。

 すると背の高さ一メートルにも満たない子供が、この韓国少年の服の袖を引くのです。ぐんぐん無言で引っぱってお堂の正面に連れて行き、「この抽籤を引け、」と指さします。わからぬままにその子供の示す抽籤の玉を取って係員に渡しました。係員は黙ってその籤玉(くじだま)を開けてくれました。

 「金のお守りです」と、係員は大声で驚きつつ発表しました。金の小判のお守りは、当日の大祭では一個しか当たらないのです。

 少年は驚きつつ、袖を引いて連れて来てくれた子供を振り反りましたが何処にも居ません。狭い山の堂ですから探せばすぐわかる筈です。夢中で探しましたが、どうしても居ません。余りの不思議さにその寺の僧に尋ねましたら、「宇賀神(うがじん)でしょう、観音さまが子供の形をして出て来てくれたのです、君が熱心に毎朝参拝に来ているから福徳を授けてくれたのでしょう。」

とのことでした。

 少年は天にも登る気持で純金小判のお守りを懐に深く納め、小躍りしながら山を降りました。

 少年の生活は一変しました。次々と運が開けました。人々の苦しみに真剣に取り組む仏のような易者になりました。彼の一心が観世音に通じたのです。

 彼の心と体は観世音に生かされたと言えましょう。”

 

(小林隆彰「生きている観音経」より)

 

*比叡山無動寺谷・辯天堂(滋賀県大津市坂本本町4220)では、今年は12月10日(日)から17日(日)までの間、弁才天尊の供養法として最秘法とされる「浴酒供」が弁天堂奥殿において修せられます。この期間中に限り、天堂入り口(奥殿)まで入って秘仏であるご本尊さまを拝むことが許されています。現在、祈願や献酒の受付中です。

 

*また、来年2024年1月6日(土)「初巳」で、無動寺谷弁天堂では福笹・福引(純金・金・銀・銀小判御守、宝軸)の授与、昼食などの接待があります。

 

・  宇賀神のお経「白蛇示現三日成就経」の功徳

 

 “大船観音は、今でも東海道線大船駅から望める大船のシンボル的存在であるが、この観音像建立の功労者のひとりに浜地天松居士がいる。

 浜地天松居士は、本名を浜地八郎という。天松はいわゆる居士号である。松の木が龍に変じて天に昇るさまを夢に見て、この名を号したのだという。また、弁護士という職業柄、弁舌の守り神として弁才天を深く信仰していた。

 天松居士は、明治から昭和初期にかけておもに政治犯の弁護にあたっていた。今は自由の時代であり、政治犯などというものも存在しないようだが、当時はまだそうではなかった。しかし、かといってこうした問題をかかえた被告もそうそうあるわけではない。

 若き日の居士はまったく経済的に困ってしまうこともあったようである。そんなとき、師にあたる曹洞宗の日置黙仙禅師より、一冊の経本を授けられた。見れば『弁才天五部経』とある。家へ帰り、経典を開こうと指をかけたとたん電撃が身に走った。開けてみると、『白蛇示現三日成就経』とある。この経は弁才天の化身・宇賀神の功徳として貧転呪を説き、居士は一心にこの経典を拝んだ。すると、不思議に大きな仕事が次々と入ってくるようになったという。

 また、「字々光明を放ち……」と経にあるごとく、居士の霊眼には、光を放つ経文の一字一字が空中へ浮かんでは消えて見えたという。

 天松居士は、のちに曹洞宗管長となった高階瓏仙師禅師が深く其の教えを乞うた人であり、各界の重鎮とも交際があり、また、土御門流の心易にも通じていた。とりわけ金剛禅と『金剛般若経』信仰の宣揚は一流をなすにいたった人である。また、『最勝王経』『観音経』をあわせて深く信仰し、三経一致の境涯にいたったという。”

 

 (「Books Esoterica 27 お経の本 真理の智慧をひらく仏の言葉の集成」(学研)より)

 

*濱地天松居士は頭山満先生とも親交があり、その関係か国士舘大学の理事もしておられました。また、永年比叡山延暦寺の信徒惣代を勤められたということですので、当然無動寺谷の弁才天尊も信仰の対象としておられたはずです。さらに、弁才天尊のみならず歓喜天尊(聖天様)をも熱烈に信仰され、米寿の記念に書かれた「我有微妙法」の書が、林屋友次郎先生の「昭和新篇 大聖歓喜天利生記」および「聖天信仰の手引き」(共に大井聖天堂大福生寺発行)に載っていますが、これは「大聖歓喜天使咒法経」の冒頭の一節です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人気ブログランキング
人気ブログランキング