”菅原道真を祭って天満天神と称しているのは、みろく様と菅原道真を一緒に祭って天神となるのだ。(大正十年)”
(木庭次守編「新月のかけ」)
“聖師は大正十年第一次大本事件後しばらく、書画に王仁という名をさけて忠勝と書かれた。染筆しながら「今誰が来ているかわかるか」と申されたので「わかりません」と答えると「菅原道真だ。道真は王仁の分霊である」と教えられた。西南に流罪になり、飛梅の話、牛がすきであること、大文章家であること等々聖師に酷似している。明治三十三年に開祖・二代教主が京都の北野天神に参拝されたのは決して偶然のことではない。菅公は天のミロクの神の分霊であったので、卑家より忽ちに大臣になることもできたのである。「延喜式」はほとんど菅公の編纂になるものである。式内社の決定はサニハの力があったから出来たのである。”
(「大本教学 十一号」)
・死後に太政大臣の位を追贈されたとき、菅公の神霊が詠まれたとされる御霊詩
“その昔、勅使が大宰府に参向され、菅公に正一位太政大臣を追贈せられ給う宣命を読み終えられた時、神殿鳴動して、空に御声ありたる御霊詩で、別当の松寿大法師が筆をとり、畏みて記し奉りました、
昨爲北闕被悲士(きのうはほくけつにかなしみをこうむるのしとなり)
今作西都雪耻尸(きょうはせいとにはじをすすぐのかばねとなる)
生怨死歓其奈我(いきてのうらみししてのよろこびそれわれをいかにせんや)
今須望足護皇基(いまはすべからくのぞみたりてこうきをまもるべし)
という七言絶句であります。後で、この御霊詩を「一度び詠吟の人をば、毎日に七度び守護するぞ!」との御託宣ありと洩れ承りました私は、毎日一回以上、いまも奉唱を続けております。遂に、格別の御守護、御神授を賜りました。”
(相原牧雄(切畑神社、中須賀神社宮司)「あなたも神さまになれる」今日の話題社)