仏陀とキリスト (ある真言僧の体験) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・真言宗御室派管長 小田慈舟師の体験  

 

 “京都の西北に仁和寺という真言宗の大きなお寺があります。私も学生時代、何度か拝観させていただいたことがありますが、門構えからして何か厳しさを感じさせるお寺であったように記憶しています。

 

 さて、かつてそこの管長を務められた方に小田慈舟といわれる大僧正がおられました。この小田慈舟管長は修業時代、日本人として初めてチベットへ国費留学され、チベットの僧院でチベット密教を修められたということです。話というのは、その師のチベットでの修行中の神秘体験にまつわるものです。

 

 チベットでの修行がどれほどの年月を要したのか私には分かりませんが(多分それについての記述はあったと思いますが覚えていません)、とにかく師のチベットでの修行がほぼ完成したと思われたある時のこと、師は、いつものように瞑想の行を修していました。瞑想の書に記されている各段階の意識状態を確かめながら、瞑想を深めて行ったのです。

 

 と突然、師の意識の中に目も眩むような強烈な光が出現しました。よく見るとその光の中心に人の姿が見えます。何とイエス・キリストではありませんか!このキリストの出現に圧倒されつつも、しかし、師の心には疑問が湧いてきました。自分は仏教の修行をしてきたのに、なぜキリストが現れたのだろう。お釈迦様が現れるのならまだ納得することもあるが……と。すると師の心を察しになられたのか、眼前のキリストはにっこり微笑むとくるりと背を向け、その場から忽然と姿を消されました。そして、それと入れ替わるようにそこに仏陀が出現されたのです。

 

 小田慈舟大僧正のこの経験にどれほど深い霊的意義が込められているのか、凡夫の私には到底理解の及ぶところではありませんが、この話を初めて読んだとき、私は素直に、霊的世界ではキリストも仏陀も親しい友達であり、共に人類の向上のために働いていらっしゃるのだと思いました。その考えは今でも変りません。後にリーディングの中で、ケイシーが「霊的領域におられたキリストは、成道の為に瞑想修行を続けておられた仏陀の意識に働きかけて、その修行をたすけた」ということを述べているのを知ったときにも、小田大僧正のチベット僧院での神秘体験を裏書きするものとして、ケイシーのこの言葉を素直に信じることができました。

 

 また、小田大僧正のこの神秘体験が、霊的世界の実相を正しく反映するものであるなら、(私はそう信じていますが)、仏教とキリスト教が互いに相手を邪教だの異教だのといって罵り合うことがどれほど無益で馬鹿らしいものであることか。

 

 さらに師の体験は、たとえ宗教は異なっていても(もっと言えばたとえ特定の信仰を持っていなくても)、私達が自らを正しく高める努力をしていれば、それはキリストにも仏陀にも通じるものとなる、ということを教えているのではないでしょうか。自分は仏教をやっているからキリスト教は関係がないとか、自分はクリスチャンだから仏陀とは縁がない、などという考えは大きな誤解ですね。”

 

(日本エドガー・ケイシーセンター発行「Oneess No.8」 光田秀『エドガー・ケイシーに関するエッセイ』より)

 

「釈迦・キリスト併立像」(ガンダーラ出土、2世紀)

 

*エドガー・ケイシーに関する本は、最近は日本でも数多く出版されていますが、それでもまだ翻訳されていないリーディングが数多くあります。日本エドガー・ケイシーセンターの会員になると、それらのまだ書籍では知ることのできない様々な情報をも入手することができます。

 

*光田氏は、たとえ特定の信仰を持っていなくても、私達が自らを正しく高める努力をしていれば、それで充分であると考えておられるようですが、その点については私は考えが違います。特定の宗教に属さず、また高い霊性を実現した方に師事するわけでもないのなら、必ず誘惑の試練を受けたときに道を外してしまいます。私はそのような人を何人も見て来ました。古代ユダヤの秘教集団であったエッセネ派が、イエスの復活後に大衆化し原始キリスト教団へと姿を変え、以後は万人に門戸を開いたことや、スワミ・ヴィヴェーカナンダが、「私は組織的な宗教の害毒は充分承知している」と言いながら、なぜ敢えてラーマクリシュナ・ミッションという組織をつくったのか、これらのことについて、より深く考察する必要があると思います。

 

*また、万教は同根であるといっても、現在のように様々な形態に別れたのはそれ相当の理由があります。さらに、出口聖師は「神道は一神教である」と主張されて「主神信仰」の重要性を繰り返し説いておられました。決して多神教が間違いなのではありませんが、たとえば、ルドルフ・シュタイナーの人智学においては、

 『たんに多神教的に神々に向かい合うだけでは、太古の意識状態に先祖帰りするだけで終わってしまい、今までの進化は無駄になってしまう。一神教的な思考力をいささかも失うことなく、神々に向かい合う必要があるのである。

と説かれていますし、スウェーデンボルグも、

 「人々が主ではなく天使を崇拝の対象としてしまうことは、彼ら(天使たち)にとって恐怖である」

と言っています(出口聖師によれば八百万の神々はキリスト教のエンゼルに相当)。八百万の神々や祖霊に敬意を表すべきなのは言うまでもありませんが、本来は主神(=天帝、万物の根源)こそが第一の崇拝対象であって、主神をないがしろにした単なる多神崇拝では霊的に退化することになってしまいます。

 

*ただし、出口聖師は、日本神道における根源神・天之御中主大神については、「この神の静的状態、動的状態は一通り正しい観念を得ればそれで充分とすべきである」(「大本略義」)と言われました。時空を超越した無限なる神、つまり「形のない神」は、我々の限定された知覚ではとらえることができず、崇拝の対象とするのは不可能であり、よって、人間が神の似姿であり、小宇宙として大宇宙と相応する存在であるからには、キリストや仏陀などの「人の姿をした神」あるいは「主神の神格に充たされたる預言者」が崇拝の対象となるのは当然です。

 

 

 

 “愛善苑で唱道する宗教帰一は各宗教を一宗教に統合するの意ではない。各々の意志想念が違っているように各々の宗教も違っているのであるから、大きな目で見た場合は名称は神であろうが、佛であろうが、キリストであろうが何でもよいのである。すべての宗教団体や思想界が宗教の本質、すなわち信真と愛善に帰一したならば、回教でもキリスト教でも精神と精神とは宗派、民族、国境を超えて統一結合されたことになるわけである。

 

(出口王仁三郎「愛善苑」昭和21年12月1日)

 

 

 “皇道大本の真髄、変性男子と変性女子の、天賦神業を了解せむとするには、第一に皇宗皇祖の御遺訓皇典古事記の言霊解と、大本神霊学の実習、基督教の聖書と、佛教の経典、老子経、儒教等を神佑の下に至誠を以て、大活眼を開き心読すれば、容易に神界の経綸、天下の将来を窺ひ知ることが出来るので在ります。然るに偏屈、頑迷、小心の者は、只一方にのみ心を傾けて、大局に眼を注がぬから、何時まで研究しても、大本の教理が了解出来ずして、日に日に迷宮に入りて、狼狽するようになるので在りますから、寸暇あれば老子や基督や佛教の典籍を参考として一応通読され度いもので在ります

 其の上で皇道大本の神諭を研究すれば、大抵の見当は付くもので在ります。近くは本月発行の公論雑誌を一読あれば、神諭の実に尊く、神慮の忝(かたじけ)なき事を納得する事が出来ませう。又た特別に耶蘇の聖書は好(よ)き参考書でありますから、未だ聖書を読まない方々に一読あらむ事を希望いたします。”

 

(「神霊界」大正8年12月15日号 王仁 『随筆』より)

 

 

 “半可通論者は、日本の神道は多神教だからつまらない野蛮教だと云って居るが、斯かる連中は我国の神典を了解せないからの誤りである。独一真神にして天之御中主大神と称え奉り、其の他の神名は何れも天使や古代の英雄に神名を附されたまでである事を知らないからである。真神は宇宙一切の全体であり、八百万の神々は個体である。全体は個体と合致し、個体は全体と合致するものだ。故にドコまでも我神道は一神教であるのだ。”

     (木庭次守編「新月のかけ 出口王仁三郎玉言集 霊界物語啓示の世界」より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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