漢方の健康観 「無無病之人」「無無治之病」 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “漢方の健康観から見れば、人間は自然の子であり、親と同じリズムで呼吸したり、鼓動を打ったりしながら成長する生体でもある。成長しながら、自然から常に異物としての病原が侵入しているわけである。これは、漢方の専門用語で「邪気」という。その「邪気」に対抗する力が「正気」である。
 したがって、生体というものは、この邪気と正気との間で展開される激しい攻防戦の戦場であり、その戦況をそのつど細かく報道するステーションでもあるとも考えられる。
 俗に解説すれば、邪気が生体に侵入し、正気より優勢にいる時を病気といい、正気が生体から邪気を完全に駆逐した状況を健康と理解してよい。が、残念ながら、100%完全な真空状態が出来ないように、純粋な健康もありえないものである。これは漢方の名言「無無病之人(むむびょうのひと、病気を持っていない人はいない)」の所以である。
 また、いかに邪気に全身を被われたとしても、その生体がまだ生きているのであれば、それは正気が残っている証拠である。ならば、幽(かす)かであっても、積極的に正気を動員して邪気と戦い、そして克つことは、患者の使命であると共に、医者の倫理であると昔から戒められている。
 これが「無無治之病(むむちのやまい、治療の出来ない病気はない)」の所以である。“

 


「千金要方」孫思邈著。「夫(さて)、医者としては、先ず病原を洞暁すべきである。その犯されたところを知り、食を持って治療する。治らない場合に、薬を使う。若しくは、食を持って疴を平し、疾を釋するものは、良工と謂う」


周代「周禮」著者不明。「食医は中士二人、疾医は中士八人、痬医は下士八人、獣医は下士三人。食医は六飲、六膳、百饈、百醤を調合する」(今より約三千年前、中国初の医事制度に記録された食医に関する表記)

                (劉大器「死諌之医(しかんのい)」(扶桑社)より)

 

*「千金要法」を著わした孫思邈は、隋・唐の時代に活躍した医師ですが、仙道にも通じ、死後に棺の中を確認すると衣だけで遺体は消失していたという話が伝えられています。道教では医神、薬神として崇められ、道院・紅卍字会でも慈院副掌籍・孫真人の名で祀られています。この1月24日(農暦正月三日)には道院・日本総院(新宿区上落合)でも、孫真人誕日祭典が行なわれる予定です。

 

孫真人(孫思邈)

 

*以前、ある宗教家の本に「病気になって医者にかかるなど信仰心が足らないからだ」と書いてあるのを読んで、あまりの狂信にぶりに驚いたことがあります。しかし、例えばパラマハンサ・ヨガナンダ師の高弟であったスリ・ダヤ・マタ師が「もし頭痛がしたら、その事実を認め、手に入れられる、理に適った療法を行う事はまちがっていません。」と言われているように、神への全託と医療とは決して矛盾するものではありません。エドガー・ケイシーは、「もし、私の内なる神が、私のすべての必要を満たしてくれるのであれば、なぜ私は整骨療法を受けなければならないのですか?」との問いに、「確かにそうだが、物質的な身体には物質的な世話が必要なのだ」と答えています。また、出口王仁三郎聖師が詠まれた歌の中にも、「病悩(いたづき)の身を天地(あめつち)にいのるとも ゆめ現世(うつしよ)の医師をわすれな」というのがあります。医薬の祖は少彦名大神であって、医学もまた神からもたらされたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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