原始一神教  〔スウェーデンボルグ〕 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  


・原始一神教(宗教の原初形態)   〔スウェーデンボルグ〕
 

 “現在、日本では、一神教への歴史的反省から、多神教が見直される気運がある。そのさいに決まってもち出されるのが、「砂漠の宗教」の教条主義や不寛容への批判である。
 ところが興味深いことに、スウェーデンボルグは、従来のキリスト教は不合理な「三神教」(一種の多神教)に傾いていることを指摘し、逆に古代の健全な宗教は一神教だったと主張している。一神教か多神教かの選択以前に、私たちはもっと宗教の本質を別な視点から掘り下げてみる必要があるように思われる。・・・”

 “人類学派や社会学派の学説に根本から対立するのが、イギリスの神話研究の先駆者、A・ラングやドイツの民族学者、W・シュミットの原始一神観である。
 ラングは、未開人の多くが「高神 High God」ないし「全父 All Father」である至高の創造神を信じているとし、宗教の原初形態は一神教だと主張した。そればかりか、彼はアニミズムが原始一神教の堕落した形態だともいう。その理由は、人間は我欲や物欲に反対する高貴で道徳的な創造主よりも、利己的な欲望のために利用できる霊的存在や物神に愛着を感じがちだというものである。さらに彼は神話について、これは二次的なものにすぎず、高度に倫理的な宗教的価値を破壊するものと考えた。要するに神話的観念は空想の所産にすぎず、これに対して真の宗教的観念は、真摯な瞑想と帰依の心的状態において知性から生じるとした。
 ラング説の擁護者、W・シュミットは『神観念の起源』という12巻の著作で原始一神観を展開した。彼の理論で特筆に値するのは、原始一神観は一夫一婦制を含む原初の倫理にも関係し、多神教と復婚は原初の信仰と風習の堕落だと見なした点である。ただ彼は、原初における神の啓示は想定していない。
 以上のような結論を彼らはたんなる机上の理論から引き出したのではない。広範な実証的研究に基づいて、彼らは、トーテミズムを信奉するオーストラリアの種族よりも、ピグミー族の方が古い原始的な種族であることを明らかにし、ピグミー族の宗教にはトーテミズムはなく、かえって超越神への信仰が中心にあることを明らかにしたのである。
 ピグミー族についてはシュミットの弟子、M・グシンデのすぐれた研究書「アフリカの矮小民族・・・ピグミーの生活と文化」(築島謙三訳)がある。それによれば、現在の人類中最古の種族であり、最小身の種族であるピグミーは「採集経済しか知らず、権力者がなく、社会階層職業種別も存在せず・・・一夫一婦制の家族だけが彼らの唯一の社会構成の単位である」(日本語版に対する著者の序文)。彼らの神は「自立的な一つの人格」であり、「可視の世界、人間と神話的人格を含めた全部の唯一人の創始者」である(75ページ)。また彼らは「各個人における生命の原理としての人間の霊魂に関する特有の観念をもっており、死後における霊魂の存在をはっきり信じている(78~79ページ)。
 古代エジプトの文書によれば、ピグミーは「霊地から来た神の踊り子であるコビト」として宗教的畏敬にも近い待遇を高位の人々から受けたという(2~3ページ)。このピグミーの記述を読むと、スウェーデンボルグの説く原古代教会の天的種族が現代に生き残っているのではないかと思わざるをえない。”

          (高橋和夫「スウェーデンボルグの宗教世界」人文書院より)

 

*リブログした記事に載せていますが、出口聖師は「神道は一神教である」と主張されています。多神教が間違いなのではありませんが、たとえば、ルドルフ・シュタイナーの人智学においては、『たんに多神教的に神々に向かい合うだけでは、太古の意識状態に先祖帰りするだけで終わってしまい、今までの進化は無駄になってしまう。一神教的な思考力をいささかも失うことなく、神々に向かい合う必要があるのである。』と説かれています。出口聖師は、「主神信仰」の重要性をしばしば強調しておられました。そして、スウェーデンボルグは、「人々が主ではなく天使を崇拝の対象としてしまうことは、彼ら(天使たち)にとって恐怖である」とも言っています(出口聖師によれば八百万の神々はキリスト教のエンゼルに相当)。八百万の神々や祖霊たちに敬意を表すべきなのは言うまでもありませんが、本来は主神(=天帝、万物の根源)こそが崇拝の対象であるべきであって、主神をないがしろにした単なる多神崇拝では霊的な退化でしかありません。ヒンドゥの聖典「バガヴァッド・ギーター」の中で、最高神ヴィシュヌの化身、クリシュナは次のように語っています。

 

 “ひたすら私を崇拝し、他を思わず、敬虔であれば、私は必要な一切を彼に与え、彼の持つものを保護する。他の神々を礼拝し、神々に信仰を捧げる者も、誤った道ではあるが確かに私を礼拝している。なぜなら、私はあらゆる祭祀の唯一の享受者であり、あらゆる祭祀を受ける唯一の神であるから。しかし彼等は私の本性を理解していないので再び地上の生活に戻る。神々を祭る者はその神々のもとに行く。祖先を崇拝する者は祖先に行く。精霊を崇拝する者は精霊に行く。そのように、私を熱愛する者は私のもとに来る。”(「バガヴァッド・ギーター」ヴェーダーンタ文庫より)