2011年5月7日(土)~毎週土曜日にFM高知で放送された伝説の番組。

『長宗我部元親 on the history』

いまはまだpod castで聴けますが、聴けなくなった時に備え、文字で残しておくことにしました。言い回しが若干変わっている部分もあります。あしからず・・・。

では第一回「長宗我部家の出自」です。

 

パ:お話は高知県立歴史民俗資料館学芸課チーフ野本亮さんです。(2011年当時)

まずは長宗我部氏、高知の方にとってはそれはもう有名。長宗我部氏がいったい、いつ頃、どうやってこの高知に来たのか?

もしくはもともと高知にいたのか。そのあたりを教えてほしい。

 

野本:長宗我部という非常に珍しい名前なんですけれども、もともとは中国、朝鮮半島を経て日本に渡ってきた渡来人の一族に【秦(はた)】氏という一族がおります。古代の朝廷に大変重んじられて、日本各地に土地をもらって住み着いて、日本の豪族になっていくんですが、長宗我部の先祖はこの秦氏ということになっている。

 

パ:ということはその秦氏が高知にも土地を持っていたんでしょうかね。それとも高知に何かのきっかけで来たんでしょうか?

 

野本:詳しい記録が残ってませんので、あくまで家の言い伝えなんですけれども、いくつかのグループに分かれて土佐に入ってきたようです。

現在でも幡多郡なんて言い方をしますが、現在では2文字で表してますが本来は秦氏の、秦の始皇帝の秦という文字ですけれどもね、これを使っていた可能性がありますから、あちらにもどうも一族がいたようなんですが、「長宗我部氏」のグループというのは紀貫之の居住した地域としても有名な南国市のこの岡豊あたりに入ってきた秦氏の一派と思われまして、国司と深い関係にあったようです。

 

パ:そうやって国司との結びつきを強めながら武家として、武士としてどういう風に成長していったのかという過程は今、どんな風に捉えられているのでしょうか?

 

野本:今、中世の研究者が昔から関心を持って、いろんな角度から調べてきたんですが、なかなか詳しいことは分かっていない。ですが、国司が住むところを「国衙(こくが)」といいますけれども、そこを守る豪族となっていたことは間違いありませんから、難しい言葉なんですけれども「在庁官人(ざいちょうかんじん)」という地元の豪族が国衙を守る役目をしていた。長宗我部家の先祖も国衛の近くに土地を持ってますから、当然国司を守って、古代朝廷の土佐の出先機関を守る立場を取っていたんだそうで、そこがだんだんと力をつけていく、つまり武装をして武士になっていく根拠になっていく。

長宗我部家の苗字、なぜそういう苗字を名乗るようになったかという意味もそこにある。というのも中央政府が地方を抑えていく時に国郡里制(こくぐんりせい)というのを引きます。「土佐の国、長岡の郡(こおり)、宗我部の郷(ごう)」にいた豪族だから「長」の文字と「宗我部」の文字をひっつけて「長宗我部」になった。

つまり、それだけ地元に根付いて、それだけ大きい力を持っていくことになった。ですから苗字に出自の秘密、ヒントがちゃんと入ってる。

 

パ:そのお名前に、どこの何をしていた、どういう人たちなんだということが現れてるということなんですね。すごいですね。名前の由来といいますか。

 

野本:武士にとって苗字というのは地名と密接な繋がりがあるわけですね。

 

パ:そうしてだんだんと武士として、武家として長宗我部家というものがどんどん勢力を地元で強めていくわけですね。そうなりながら、いわば長きにわたり長宗我部家、繁栄の一途をたどったということだけではないんですか?やはり、お家というのはいつも順調に続くわけではないということもあったかと思うんですが、長宗我部家にはそういう苦しい時代というものはなかったんでしょうか?

 

野本:当然ございました。鎌倉時代に鎌倉に将軍がいて。諸国の武士たちは主従関係を結んで御家人になっていくんですが、長宗我部家が鎌倉将軍の御家人であったという明確な証拠はありません。やはり国衙との結びつきが強いせいですかね。国衙といえば当然朝廷になりますから、なかなか御家人になりにくかったのかもしれません。明確に武士としての活動がはっきりとらえられるようになるのは南北朝時代になってからなんですね

 

パ:は~。鎌倉幕府、御家人と聞くとですね、そして武家、武士の誕生という流れから考えると、武士である以上は一般的には鎌倉幕府の支配下に置かれて、御恩と奉公の関係を結んでいたと思いがちなんですが、長宗我部家、なかなかあれですね。一つ筋が通っているといいますが、なんといいますか、不思議ですね。

 

野本:そうですね。一足飛びに御家人にはならなかったのかもしれません。ただ武士化していることは間違いないのでそれなりの勢力もあり、それがゆえに鎌倉幕府がつぶれた後の南北朝の騒乱の時に北朝側の足利尊氏に認められて足利尊氏の家来になるわけなんです。

 

パ:そこではじめて、その、どちらかというと武家の直属の家来としてますますじゃあ、あれですか長宗我部家、台頭していくと。特にこの土佐で、いまでいうとこの岡豊の地周辺で。

 

野本:そうなんです。

 

FM高知様 「長宗我部元親on the history」第一回はこちら


【補足】

土佐とは現在の高知県である。


南国市

高知県の中心部に位置するのが南国市です。

郡分け
だいたい郡を分けるとこんな感じです。