なんでそんなことを私が申しますかというと、フロイスという宣教師が書いたという「日本史」という本を皆さん聞いたことがありますかね。その中に実はこの時の長宗我部親子について書いた記述が出てくるのです。土佐の領主、長宗我部元親・信親は非常にわれらに対して好意的に接してくれていると書いてあります。そしてもしお困りのようなことがあれば、我々の名においてあなた方を守りますよとまで言ってくれている。非常に好印象なのですね。さらに息子の信親はキリスト教というものを深く感じたようで、何だったら入信しても良いということまで言って、後日我々の教会に来るということを約束していたんだけれども、あの戦に出かけ死んでしまった、とこう書いているのです。ですからそんなことを考えますとね、単に秀吉に言われたから嫌々九州に行ったのではなく、そこで何かですね、得るものを一つでも得て、息子信親には戦以外での様々な経験をさし、無事帰って、それを土佐の国の政治内政に生かしながら、土佐の国をもっと豊かにできるという方策を考えていた節もありますので、元親にしてみれば本当に、この戸次川の合戦は余計な戦であったという事が言えると思いますね。

 

パ:ということは元親の被ったダメージというのはですね、これは長宗我部家にとってもそうですけれども、もう計り知れないほどのダメージを受けてしまったのですね、この戦いに於いて。

 

野本:はい。戦が終わった後、使者を派遣しまして信親の遺骸をもらい受けることに成功はするのですが、信親の死骸が余りにも悲惨であったために、とてもじゃないがこれを元親には見せられないという事で、使者の判断で荼毘に付して骨だけを持って帰ったということで、元親はそれをまともに見ることができず涙したと言われていますが、この後元親が受けた精神的な打撃は物凄いものがあったと思うのですが、その後も九州島津攻めに従軍を続けまして、実は戸次で大敗したからそれで終わったのではなく、彼は彼なりに勤めをちゃんと果たすのです。最後は宮崎県のほうまで秀吉軍の一部隊として進撃を続け、自分の責任をきちんと果たして土佐に帰る。それから壮大な葬式を営むわけなのです。

 

FM高知様「長宗我部元親 on the history 戸次川の戦い」補足はこちら

 

担当者コメント:悲劇の後も従軍を続け、勤めを全うされた元親公・・・心情を思うと涙がこみ上げてきます。