今週は室町時代の長宗我部家についてのお話です。

室町幕府、足利将軍家において長宗我部家はどんな位置づけでどんなところを評価されていたんでしょうか。

 

野本:やはりすぐ近くに国分寺という非常に古いお寺がありますし、それから五台山に皆さん竹林寺さん有名なんですが、もう一つ吸江寺(ぎゅうこうじ)という臨済宗のお寺さんがあるんですね。

そちらを武家が護る、外護者(げごしゃ)としてお寺がつぶれないように。夢窓国師(むそうこくし)開基の非常に土佐でも古い臨済宗の寺院ですから。足利将軍家は臨済宗を大変大事にしておりましたんでね。その関係もあって、そのお寺の外護者である長宗我部、そして軍事活動も有能に忠実にやる。そういうことで大変中央から認められるようになっていくわけなんです。

 

パ:室町時代に長宗我部家も突入していったわけですけれども室町、最初は安定した時代でしたけれども、やはりその騒乱の時を室町幕府も迎えようとしております。野本さん、室町もなかなか大変な時代に差し掛かりつつあります。

そういった時に長宗我部家というのは当時は室町幕府の中でどうやった位置づけの家として認められていたんでしょうね。

 

野本:やはり土佐のまほろばと言われている長岡郡に古くから所領を持ち、忠実に室町幕府に仕えている家ですから評価は高いです。

それだけではなく、やはり臨済宗寺院である、先ほど申しましたが吸江庵、吸江寺をしっかり護っているという実績。これは高く評価されています。当時、土佐の国の守護、いまでいうと県知事みたいなもんですけれども、細川氏という足利一族の名家が土佐の守護だったわけですけど、

この細川氏の信頼というのも大変厚かったんですね。とにかく裏切らない。与えられた仕事を忠実にやる。そういったところを評価されていましたので、順調に勢力は拡大していくんですけれども、なかなか室町中期から後期にかけて、この守護である細川氏の力がですね、土佐全域に及ばないんです。親分がそういう状態ですから、その子分である長宗我部家の力もやはり長岡郡くらいしか力が及んでないんですね。あちこちで守護に楯突く勢力なんかもどんどん出てきて。いわゆるそれが戦国武将のはしりなんですね。

 

パ:そういった、まあ簡単に言ってしまえばですけれども、足利将軍家、室町幕府の支配体制というものがなかなか行き届かなくなっていく中で、各地、今お話にありましたような戦国大名、戦国武将のはしりのような、まあ豪族といいますか、有力者が地域にいくつもいくつも出てくる。そういった時代を迎え始める。騒乱の気配がもう漂ってくる。そんな中でその騒乱の中を長宗我部家は生き抜いていかねばならないですし、結果生き抜きました。そこはどんな風にしてこれ、まず室町後期の騒乱、ますますこれから混迷の度は高まっていくんですけれども、まずその初期にどんな風に生き残っていったんでしょうかね。

 

野本:まず長宗我部自体のお家騒動が一回ありましてね。

 

パ:それはあれですか、お家内のですか?身内の?

 

野本:身内の。よく大名家にはあることなんですけれども。それ以外にも元親、有名な元親ですよね。土佐を平定しました。のおじいさんの時代。元秀という人の時代に周辺の豪族に攻められて岡豊城は一度落城してるんですね。

 

パ:ここですか、この歴史民俗資料館がある、この岡豊城、一度落城していたんですか。

 

野本:落城しているです。焼けた土なんかも出土していますから、これは間違いない。

 

パ:焼けたということは城を追われたということですか。所領ですよね。自分たちの。

 

野:あの、先ほど吸江寺、吸江庵の寺奉行を長宗我部家の当主が代々やっていたという話をしましたが、寺を護るということはお寺の所領、土地を護るということになります。当時の武家の諍いで一番多かったのは土地をめぐる争いなんです。

やはり何代も年数がたってきますと、その時はもともとうちのものだ、いやいやそうじゃないこっちのもんだなんて言い争いが鎌倉のころからずっと起きているわけなんです。ですから、吸江寺を護るということはお寺の土地を護るということ。吸江寺と領地を接している他の豪族との争いに否応なしに長宗我部家の当主は巻き込まれてしまう。そういう危険性をはらんだ仕事でもあったわけです。そういったものが高じていって、長宗我部ごときになんで我々がいつも命令されたり、裁判にかけられてお前のほうが間違ってるなんていう裁定を受けて、土地を手放さなければならないのかという不満を持つ人たちが出てくるわけです。長宗我部家の後ろには細川、そして将軍家がいます。ですから憎々しく思っていた豪族もいるわけです。そういった人たちが手を夢図んで、この19代元秀の時に、4氏が連合しましてね。一気に攻めていたわけです。徹底抗戦するんですが、結局破れてしまって19代元秀は岡豊城内で腹を切って果てる。家老の人達もほとんどがその時に一緒に腹を切って、ほとんど壊滅状態になってしまったんですよね。

 

パ:しかしそれで長宗我部家残ったんですけれども、これは一体その一旦岡豊城落城、当主は切腹というときにどうやって続いていったんでしょうか。

 

FM高知様 「長宗我部元親on the history」第2回はこちら

 

個人の感想

4氏というのは、本山、山田、大平、吉良と言われています。

しかし、最近の吉良氏研究では、どうも吉良氏は足利に連なる名家ということで、血筋として残っていたようですが、覇権は失っており、大平氏に従っていたような説もあります。

とすると、どちらかというと大平氏に従って吉良氏が・・・という感じになるでしょうか。

大平氏をもっと研究し、評価する必要があるのかもしれませんな。