『戸次川の戦い』の補足。
九州に出陣した元親が思い描いていたものとは?
「フロイスの日本史」の記述などから見えてくるもの。

 

パ:長宗我部元親にしてみれば嫡男を失ってしまうという、しかも非常に自らの思いと裏腹な戦いを強いられたということになりますと、野本さん、長宗我部元親にとって、この九州攻めの戦いというものは一体何を残したと言えるのでしょうか?

 

野本:正直申しまして必要のない戦をし、信親と若い侍衆500~700名を失ったと言われているのですが、何の意味もない、まさに本当に無意味な人的消耗をした戦いだったということになると思うのですが、あのう元親にはいろいろ考えがありましてね、そもそも信親に対して従軍命令が出たのに対して自分も後見として付いていく、そして最初は治安活動を豊後の国でやっていましたよね。

 

でも、ちょっと暇がありますとね、温泉地のほうへ行ったり保養に行ったりとか、あるいは、実は当時豊後の国の大都市であります府内、今の大分市でありますがここにはですね多くの外国人がいたのです。特にキリシタンと言われるキリスト教の宣教師でありますとか、そういった人たちが来ていて南蛮都市と言われるような非常に繁栄した風情があったわけなのです。それを息子とともに目に焼き付け、何かこれから、そういった異国との交易というものを土佐でもできないかと考えていたのではないか、そういう節があるのですね。

 

 

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