第25回「天下人:秀吉と元親の関係」

 

九州島津攻めにおいて四国勢を先鋒とした秀吉、
仙石秀久を指揮官に据えたり、本隊は到着が遅れたり、
結果的には孤立した(四国勢)長宗我部軍も大打撃を被る。


さらにこの戦いの後、
秀吉は一条 政親に元親よりも上の官位を与える。
「九州攻めにおけるらしからぬ人員配置」
(仙石秀久を司令官に任命)や
元親を「土佐の主と認めていないかのような振る舞い」の
背後に見え隠れする「天下人:秀吉の本心」とは?

 

パ:九州島津攻めに於いて秀吉は仙石秀久を指揮官に据えたり、本隊は到着が遅れたりで孤立した四国勢、長宗我部軍も大打撃を受けました。今週は戸次川合戦以降のお話ですが、この戦い秀吉には何か意図があったのでしょうか。

 

野本:仙石秀久のまずい指揮により四国衆は壊滅、長宗我部元親の長男が戦死してしまう。さらには次の時代を背負わなければならなかった桑名太郎左衛門率いる、いわゆる小姓組と言われる20代30代の若武者で編成された親衛隊、これも全滅してしまうという陸上戦闘に於いて長宗我部家は立ち直ることができないぐらいの大打撃を結果として受けてしまう。

 

これは秀吉が意図していたかどうかは別として、仮にそういう結果になったとしても秀吉には全くオッケーなのです。

 

と言うますのは天正13年の四国攻めの折、元親が余りにも巧妙に降伏したものですから、実を言いますと大打撃を受けたのは土佐方に味方をしていた阿波讃岐伊予の城主たち、その将兵であり、土佐勢はべつに壊滅していないんですね。

 

ですから天正13年の四国攻めでは政治的には降伏したけれども、軍事的には長宗我部軍は戦力の温存に成功しているわけなのです。これが元親の名将である所以でして、ところがその温存していた軍事力の貯金の分をこの九州攻めですべて吐いてしまったと考えますと、秀吉の隠れた一面、つまり陸上戦闘における能力をある程度削いでおきたいという意図があったとしたら、負けたとはいえそれはそれで、秀吉にしてみれば長宗我部の力を削ぐという事については結果として成功するという事になりますから、いろんな角度でやはりこの戸次川合戦というものは見ていく必要があるという気がしますね。

 

それともう一つ秀吉の思惑めいたものを感じますのは、信親が戸次川で戦死した10日後に、突然ですね、皆さん覚えてますでしょうか「大津御所」一条内政の話をしましたね、兼定の息子で元親が大津に置いて、自分の娘を嫁がせて天正8年までは面倒を見たあの一条内政なのですけどね、あの内政は謀反のかどで、当時伊予に追放されていましたが、実は元親の娘との間に男の子が一人生まれています。これを久礼田という場所で「久礼田御所」と呼ばれるものを作り、そこで実は養育していたのです。その名前を政親とよく言われていますが一条政親が突然高い位を貰うのです。

 

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