宿屋のおやじ日記 -108ページ目

63. スキューバダイビングと思い出

平成元年頃まで 山口県内で積極的にテレビCMを出していた。

この十数年は何の提供もしていないから 最近の状況は分からないが

当時は テレビ局の方から一年に一度 海外旅行のご案内があった。

ある年に 3泊4日でグァム島の招待を頂き、参加させてもらった事が

ある。その頃のパターンとして、最低二日のゴルフには参加協力して 

後はのんびりと合同のバスツアーに行くくらいの気持ちで出かけた。

このときに参加されていた小郡駅( 今は山口市、新山口駅 )前で歯科

クリニックを開業されている先生から ホテルでのコーヒータイムに声を

かけて頂いた。「 チンスイさんとやら、ここまで来てゴルフばかりする

もんじゃないぞ。一回は協力しないといけないけれど、ゴルフ場なら

料金は別にして日本にも立派なところが沢山あるんだから、帰って

すればいい。とにかく明日は僕が、素晴らしいところに案内してあげるから

楽しみにしていなさい。」との事。素晴らしいところ・・・とは、いろいろと

妄想を含んだ空想世界が広がって 当日のゴルフの記憶がまったく無い。

あの頃は ゴルフも楽しくて 各ゴルフ場のスコア表は勿論 ボールの

マーカーなんかを大事に記念にしていたのだが この時のツアーでは

何の印象も記念の品も残っていない。

で翌朝 迎えのボンゴに乗せられどこかの海岸に。ここで初めて

スキューバダイブを体験させて頂く。ライセンスがあるわけではないから

体験ダイブの15メートル以上は潜っていないはずだが それはそれで

大いに感動した。 加えてこの先生、かなりのグルメ。夜は夜で せっかく

だからとヤシガニを( 到着時に特注で連絡されていたらしい )夕食に

食べさせていただいた。 

旅館にはいろいろの旅行エージェントさんから低料金の旅行参加要請が

入る。ここ10数年はてっきりご無沙汰なのだが、参加者の方から「 どこに

行っても 到着時と出発の時にしか チンスイさんの顔を見ない 」と

言われるような単独行動の習慣がついたのは、この先生のいろんな考え方

の影響が大である。

帰国後すぐに スキューバダイビングのライセンスを取り 今は レスキュー

ダイバーの資格も習得している。 この時には JTBさんのハワイ旅行中で 

ビーチに多くの日本の方がおられて 試験管が「 では・・・・さん、溺死体

のAを、・・・・さんは 溺死体のB( の役 )をお願いします 」とアナウンスが

あって試験中の生徒も観覧者も一緒に笑って 試験がスタートしたのも

思い出される。


62. 妻とふたりの我が家になって

我が家が妻との二人になって三日目の朝がきました。

自分の気持ちウンヌンより 何とはなしに 一人で生活を始めた末娘の

事が妙に気になる二日間でした。こんな気持ちは上の二人には、 申し

訳ないが 感じなかったなぁ。これも昨年の出来事が有難く作用している

のだろうなぁ、と自己弁護。

 昨日のお昼 商工会議所の Y森君が仕事に来てくれたついでに 

思い出話に花が咲きました。 彼は 以前に商青会の事務局長をしていた

関係で このブログに書かせてもらった各種事件や出来事を目の当たりに

しているから 読みながら笑う事も随分あるとの事で その作成者として少々

プレッシャーを感じた次第。彼は これまた 各種の司会や余興としての

物まねがとてもうまくて 湯本温泉の夏の風物詩 納涼盆踊り大会の

司会者として欠かせない存在になっている。

この彼が数年前に開局した地元FM局のパーソナリティでも楽しい放送を

してくれている。その中で 僕は残念ながら聴いていなかったが 「 つれづれ

コーナー 」の一部の言葉を使った事が何度かあるとの事で ますます圧力を

感じた午後でした。

一時 我が愛する体重が90から69キロまで落ちてしまい 少しあわてながらも 

もう太っちゃいけないぞ、と用心していたのに ここ数週間 若干上昇しつつあり

気持ちが体重計から離れつつありますが それはさておき 気合を入れて

仕事にスポーツにブログに取り組みます。

 そういえば 一昨日の事 O山荘のO奥様 と 15代 萩焼作家S先生と 

ある会の懇親会場で久しぶりにしばらくお話する機会がありました。O奥様

とは昨年帰られて専務として勤務されているご長男の事や ご主人のO社長

との商青会の思い出やあれこれアレコレ。 一方でS先生とは つい僕がこの

ブログの話をしましたら「 最近よくそのブログという言葉を耳にするけれど、

ナンなの。それは・・・ 」との事にて しっかりと「 まず チンスイ ドットコムで

開いてもらってですね。・・・・・ 」とアピールさせて頂きました。

  

 随分と日が昇る時間も早くなったようで、我が事務所にもかなり前から朝日が

長く入り込んでいます。 本日も元気に明るく過ごさせていただきます。  

 

61. 新山口駅での さようなら

ついに子供達三人が我が家から 巣立って行きました。

決して僕だけが育てたわけではないし 父として 至らないところばかりが

思い出されるものの 長女は就職先の大阪に 末娘は妻が引越しの手伝い

で一緒に福岡にお出かけ。「 お父さん ありがとね。元気でね。 」と 

喫茶店の入口でバイバイして僕は 湯本温泉の温泉祭の会場に急いだ

のでした。 

「 モーニングセットをとって出たいから自由席で 」と三人分のチケットを

手渡したとたんに 末娘が泣き出して こちらももらい泣き。思えば昨年の

この月4月に 出張先で倒れて 夜中に救急隊からの連絡で 妻は飛び出し

て我が病院へ。妻からの連絡で母が代わりに来てくれた。そんなこんなで

上の二人とは違って 父の別の一面と向き合ってくれた一年でした。今まで

のこのブログには 詳しくは触れませんでしたが 地元の病院に転院して

しばらく後に「 もうじき退院だし、調子もいいようですから1泊自宅に帰って

みますか? 」という案内で せっかく帰りつつも 夕食時にまた 調子が

おかしくなり またまた救急車に同乗しくれたのが 強烈な思い出です。 

思い出せば このときには妻の救急電話に「 今 ・・・に出動していまして 

すみ次第そちらに向かいます 」。

めったに無いがお客様の時の救急車到着時間とはまた違った 待つ身での

長く思える時間から担架で乗車させられてから病院まで 手を握って

泣きながら「 お父さん 」を繰り返すばかりの娘だった。

「 お父さんは 大丈夫。4年間 楽しい思い出をつくっておいで 」と言った

所で 彼女はポケットから手紙を取り出して 僕に渡してくれました。

 

 温泉祭は無事に進みましたが、今月から毎月第一日曜日に開催する  

「 おとづれ夜市 じゃらんじゃらん 」は 降り始めた雨で中止しました。

いつもは 一週間延期するのですが 今回は 朝10時から じゃらん 

じゃらん の延長の形でお店の皆様に協力いただきましたので 今回の

延期はありません。来月は6日の予定です。今年もどうぞ宜しく。 

60. 最近の我が家

昨日 長女が帰ってきまして 少しにぎやかな二日目です。

今宵の晩御飯は あさっての福岡への引越しを心待ちにしている末娘と

合作の 親子どんぶり でした。こんな時って 女の子がいてよかったなぁ

とシミジミ思いますね。 この冬休みには 長男坊との三人で 我が家の

目の前の橋をワイワイ笑いながら足湯に向かっているのを目撃した弟( 

専務 )が 「 本当に仲がいいねぇ。同じ三人兄弟でも 僕たちのアノ頃

の時代には 並んで歩いた記憶なんか無いなぁ 」とシミジミ 母に話した

との事。 思えば年の間隔の影響があるかもと思いつつ お菓子の取り

合いはしょっちゅうだったし 原因は忘れたが 小競り合いは よくあった

から 三人どころか 一番下の妹とも二人で並ぶ事は無かったはずで

ある。 甘いものは食べないという気持ちは我が子の三人とも一緒のよう

で チョコレートやケーキを買っていても 何日もそのままに 冷蔵庫や

テーブルの上に置かれたままの様子を見るにつけ 不思議としか思えない。

昨年の今頃までは、( 早くも去年のドタバタからまもなく 一年になろうとして

います )  「 まったく勿体ないなぁ 」とほぼ全部を僕が片付けていたのも

懐かしい。    

59. 「煙草」 の思い出

何時から吸い始めたのか よく覚えていない。

ハッキリしているのは 長女が お腹の中で胎動を始めた 

昭和59年5月15日に その習慣がなくなった事。

高校に入学してまもなくの頃か、夏休みであったろうと思う。今から思えば

いわゆる 金魚 で、口に入れたものをすぐ吐き出す繰りかえし。お正月の

寅さん映画鑑賞の習慣で映画を観ながら煙をくゆらせている人も多く ( 

高校に入ったら吸ってみたい )が単純な動機。こっそりトイレで吸いつつ、

バレてはいないと思っていたが いくら窓を開けて 手をうちわ代わりに

あおってみたところで家にコモる あの匂いに気がつかないはずはなく・・・・

・・と最初の帰省のときにコチラが気付いたが 看護婦( 当時の呼び方 )

だった母と、旅館のおやじより歌手になりたくて家出を2回体験した図太い

父のお陰だったか  一度も注意された事がない。 何章か前に書いた 

当時東京の医学部に在籍していた従兄の家で入試が一段落した折に 

カッコつけて「 ねぇ、煙草吸っていいかねぇ。 」に「 おう イッチョ前に

やってんのか。遠慮するな 」と 火をつけるのもたどたどしくスパスパ始め

たら 「 ナンだ、弘人。お前、金魚じゃないか。もったいない。あのな 息を

吸いながら肺まで入れてみろ 」 「 フーン 」と2度ばかりフーっと吸った

ろうか みるみる目が回り始めた。あわててトイレに駆け込んで30分くらい

ジッとしているハメになった。

初めての子供ができても 妻に対する配慮もなく、依然と毎日3箱ほど吸い

続けていた。 胎動もはじまったょうで いつか 僕にも触らせて欲しいと希望

しつつチャンスが無かったのだが 運命の5月15日の14時頃 動きそうだ、

という妻の一言に早速手を当ててみたら、初めてこんなに動いたと感心する

くらいに手や足でアチラコチラを蹴ってくれた。 子の誕生を知らされてからは

毎日お腹に手を当てて「 もしもし おとうさんですよ。初めまして。・・・・・」と

会話するのが習慣であったから この時の驚きは ハンパじゃなくって その

まま 喫煙癖がなくなった次第。煙草を吸ってた人には理解できるはずだが

食後の一服 風呂上りの一服が これまた 至福のというくらい 美味いので

ある。これがその日旅館が暇な日で 夕方におフロに入ったが ( 吸おう )

という気にならない 御飯を食べて 目の前に 煙草があるのに 吸いたくない

のである。  それっきり 一度も煙草を持った事が無い。


目の前で煙草を吸う僕に向かって 「『 たぱことか お酒がどうしても止めら

れない 』という人は 心のどこかで 何か満足していない 何か心の引っかかり

があるはずで 心底 有難いなぁ 嬉しいなぁ という心境になったら 自然に

そんなものは不要になるはず 」と、言い続けた 母の勝ちというところかなぁと

今は 長女に感謝し その体験を 機会あるごとに話している。


思えば 三高といい 背の高さや学歴や あるいは 喫煙くせや いわゆる 

外見で主な判断をされていたら 僕は 該当外になっていたのかもしれないが

全てを 否定せず 容認してくれて 結婚してくれた妻に心から感謝している。


58. 熱川温泉にて

旅館では 各旅館の営業方法の違いにもよるが 各地域の旅行案内をされる

旅行業者さんとの仲介役として 複数の旅館で 案内所という組織を設立

する。

我社の東京案内所と熱川の某旅館の東案の所長同士が親しくて 一年少々

研修をさせて頂く事になった。晩秋だったか初冬だったか 伊豆沖地震が

発生した翌年の春であった。増築した部分の接続部分が5階から上で

亀裂が生じ 応急の処置がされて 再オープンしたばかりであった。  

4月に入社した頃には少しガランとしていたが すぐの事 満館が続くように

なり、大都会の近郊ってのは 立ち上がりが早いなあ とびっくりしていた。

実は 僕の研修話が具体的になってくる中で 一度そのホテルを見てみたい

と2月に寄ったことがある。伊豆急行があんなに早く終電が来るとも思わず

また 暖かいはずの伊豆があんなに寒いとは思いもよらず そのホテルを

一回りして伊豆熱川駅に戻ったら 駅に入れない。 「 あのー 帰りたいの

ですが 」とそこにおられた 駅員さんに聞いたら 「 えっ もう電車は

ありませんよ 」とのご返答。ただぶらりと来ただけで 宿泊するお金もない。

ただ その時はまだ 学生の延長気分。まず 駅のベンチの利用を断られた

ものの ( なんとか なるやろ )と 当てもなく歩き出した。

これがこれがなんとも長い長い夜のスタート。電車賃プラス煙草数箱分の

お金しかない。どこかの空き家のひさしの下でもと 気楽に探したが 意外と

その下に入り込むのに随分と勇気が必要で ただ歩くだけ。お寺とか神社

なんて とてもじゃないが 入ろうと言う気さえおこらない。

ブラブラしているうちに海岸線に猟師小屋を発見。ガラス戸をガタピシと開けて

中を覗いてみる。強い塩の香りがするものの 朝の6時まで辛抱すればいい

事だ。と迷うことなく不法侵入・・・・。土間の上にぐるぐる巻きになった網の上に

腰掛ける。「 一晩 厄介になります。」と誰に言うともなく ご挨拶。

最初の一時間は あっという間だったが その後が長かったーーー。

煙草があっという間になくなり 自販機を探したが 見当たらない。仕方なく

近くのホテルのロビーにしのびこんで 煙草を買って出ようとしたところに

夜警の人から 「 どうされました 」 思えば駅員さんでも 海岸線の道路で

「 寒いですね。 」と声をかわしたどこかのおじさんであっても どうもヘンな

人がいる・・・と思われたら一悶着あったかも知れないが なんとか 朝を

迎えられた。それにしても 3時からの3時間が特別に長かった。どこででも

平気で休めるという自信があったが この時だけは 寒すぎて寝るに眠れな

かった。寄せては返す波の音を数えたり わざわざ窓を開けて震えながら

星を見たりしながら 以前から時々何の意味もない行動をしてしまう事の

反省をしつつ 目の前の 伊豆大島の稜線がうっすらと見えてきたときには 

やっと帰れる、とつい笑ってしまった。

音( 大島、利島 )に( 新島 )聞こえし( 式根島 ) 神津島 見えぬ御蔵

( 島 )は 八丈( 島 )に近し などと申しまして とかで 伊豆七島の名を

覚えたり ( 伊豆大島に )一度も行かぬバカ 二度行くバカ・・・なんて言葉

をきいて なるほど、そうかも と笑ったのは このときから3ヵ月後の事である。

ただ 未だに あの クサヤの干物だけは 食べ物である事自体が信じられない。

この笑い話は いずれ また。

57. 「 読書 」の思い出 続き

伊豆 熱川のホテルにて 研修がスタートして 2週間が経過。最初の仕事で

ある内務 とは ルーム係りさんの補佐役として 料理の運びやお布団引き、

時には 煙草やテーブル運びなどの裏方の仕事で 順調に進んでいた。

この朝 出社してから 何か分からず気持ちが落ち着かない。体調はいいし

( ナンなんだろう。いまさら ホームシックでもあるまいに )とヘンだな変だな、

と仕事をこなしつつ昼まで過ごした。で、社員食堂でボンヤリとお味噌汁を

口にしたとたん ( そうか 本を読んでいない )事に何故か気がついた。

思えば 今までとまるで違った環境が珍しく 見るもの聞くものが新鮮で 

新聞を始めとする一切の活字情報から離れていて それがイライラの原因

だと直感で思い至った 次第。

居てもたってもおられず 近所の喫茶店に走った。勤務以来初めての社外の

コーヒータイム。早速 スポーツ紙を手にして読んだよんだ。それこそ 求人欄

の全部を舐めるように読み続けた。

大好きな さだまさし さんが 「 自分の何歳かの誕生日に 出張( というのか

どうか 公演先という意味 )のホテルのベッドの上で 新聞の求人欄を見ていて

 いろんな制限から、もう自分は他の産業に就職ができない事、よってこの音楽

の道を続けて行くしかできない事に気付いて 愕然とした という話をされたのを

随分後のコンサートで聴いたことがあるが なんとなく それに近い読み方

だったと思う。ふと気がついたら2時間が過ぎていて あわててホテルに帰ったが、

後にも先にも スポーツ紙を2時間もかけて読んだ事はない。

これがキッカケで 本屋を探す事に。残念ながら熱川には本屋がなくって

隣の稲取に通う事になった。この一年も いろいろ読みました。この年に

海岸線に大きなプールが完成し そこやホテルのプールでコンパニオンさん

なんかと遊ぶ事も多かったが それ以上に本に親しんだ一年であった。

 以前には 「 どんな酔狂がこんな本読むのだろう 」と本屋で眺めていた 

山岡荘八氏の 徳川家康40巻もこの年に読んだ。世に棲む日々 や 一連の

山岡氏の かなりの本が自分のものになった。 40巻は 本当に勉強になり

帰省したら もう一度読み返そうと 赤ペンで線を引きながら 大切に湯本に

持って帰ったが 未だ読み返せず 本棚の一番上に並んだままになっている。

 そういえば 研修時代の事をあまり書いていません。おいおい思い出した

事を書き連ねていきます。

 伊東に 大和館という有名なお宿があって 熱川で大変お世話になっていた

大住氏のご友人がおられた縁で 芸子( アノ頃はまだ酒席では芸者さんの

接待が主流で カラオケが出始めの頃だった )マンションを見に行った時には

30分5円の積立でこんな どえらいモノが何棟もできるのかと、「 チリ 」の

パワーを思い知った。

56.  「  読書 」の思い出

子供の頃から読書は大の苦手であった。小学生時分に「 この文章を読んで

思った事を書きなさい 」という問いに、感じたままを書いたら ペケで返って

きて 子供心に えらく理不尽に思えて憤慨した事がある。 感想であるなら

思った事は思えた事として サンカクならまだしも ペケとはどういう意味

なんだと、意味が分からず 「 ( 小学校の先生だった )おば様に聴いて

ほしい。納得できん。 」とジラ( 駄々 )を言った記憶がある。このときは 母が

叔母に相談する前に「 自分の言いたい事が 相手に正しく伝わらなければ

困るでしょう。同じように他人がなにを言っているのかが 正確に自分に理解

できなければ お互いが困った事になるから 正しく理解するという事は 

とても大切な事なんだ 」という様な内容だつたと思うが、話してくれた事が

ある。

感想を否定され、自分の頭脳全体を否定されたみたいで、不愉快の念は

なかなか払拭されず、この事がなんとなく理解できるまでに これまた 長い

時間を要した。

「 漫画でいいから活字に親しみなさい。人として大切な事だから 」という

母の一言が耳につくようになったのが この頃からだろうか。今ではとても

読めるはずがないと思う本まで購入して積んであるだけの本棚のコーナー

がある。


夏休みの読書感想文の評価は 持ち前の性格で結構高く 金色や銀色の

短冊が題名の上に誇らしげに張られた作文がそれなりにあるのだが、

基本的に やはり本嫌いであった。それが高校二年の時に 例年恒例の

お正月の寅さん映画を下関まで観にいった折 何かの拍子に本屋に入り

初めて買った 松本清張の 点と線。いつもの食堂で 焼き飯をほうばり

つつ ふと開いて読んだ数ページからが気になって気になって 初めて

寅さん映画を上の空で観たことがあって それから 随分と読書の楽しみが

理解でき始めた。  しみじみと 「 本を読みなさい 」と言い続けてくれた

母心に感謝している次第。 思えば 子育てってこういうことなんだろうな、

と、この春に末娘が引越しすれば 我が家が妻との二人暮らしになる頃に

気付いても仕方ないなぁと苦笑い。  

それからは 清張本ばかり。ただ 友達には 「 本なんか読んでも。なぁ。」

なんて言っていた手前もあって 自宅だけでの読書風景だった。

大学に入り これは以前からやりたかった 三島本にチャレンジ。中学2年の

時の大事件で知った彼が偉大な作家である事を知って いつか挑戦した

かった企画だった。近くの本屋にあった20冊くらいをまとめ買いしてアパートの

テーブルに並べたが 開く本 開く本 さっぱり理解ができず 4から5ページ

進んでは最初からの繰り返し。の繰り返し。ようよう最後まで読めたのは

「 金閣寺 」と「 午後の曳航 」だけであった。高校二年からの習慣では 

まだ 実力不足かと 思い知らされた。同じ様に 有島武雄氏の 

「 惜しみなく愛はうばう 」も今まで3度ばかり挑んで返り討ちにあっています。

新田二郎、山本周五郎、横溝正史、城山三郎、遠藤周作などなど 一人の

作家を集中して読む読み方できていたが ここ数年、読書好きの同級生から

の案内で いろいろなジャンルの本も親しんでいる。3年位前に 子供の眼 

と他に数冊進められ 気楽に本屋に注文した後で 到着案内の本屋では

カウンターの下から出てきた分厚い本に面食らって財布をあわてて捜した

のも懐かしい。ダビンチコードもいち早く読了し 昨年 お礼に 当時まだ

60万部突破の頃の 「 国家の品格 」を推薦して喜んでもらった。

今は 「 チーム バチスタの栄光 」を読んでいます。

   ではでは。今日の湯本は 雨模様です。


あす  ルネッサ長門で おやじバンドの演奏会が開催されます。

ロペのマスターも出演です。

55. ブログの縁で

中学時代に転校生として 長門市に来てくれて 同じ高校だったものの

さしたる話をするでもなく 大学も違ってしばらくご無沙汰だった女の子から、

( ったって同い年ですから それなりのお年をとられた奥様におなりに

なっていると思われますが・・・・) 「 楽しく読んでいます 」 のメールを

頂きました。 こういうところが いろんな会の幹事を担当している者の

有難いところというか役得でしょうか。

同窓会の出欠の返事、( 特に彼女は関東近郊にお住まいで殆ど欠席ながら、

いつもキチンとメッセージや伝言を添えてくれる人だったから ) に対しての

お礼に僕の連絡先の全情報を記入した葉書に一筆書いて送っておくと 後で

メールや便りにて近況を教えていただく事がある。

どちらかと言うと 学生時代は比較的におとなしかった僕・・・・ここまで

ブログで披露というかバクロしていて、図々しい気もするが・・・・に見えていた

ようで その僕が髄分と陰ではいろんな事を体験していた様子に興味を覚えて

もらうものらしい。


今の図々しさと よくしゃべりまくってどんなグループの会話の中でもに入れる

性格をアノ頃に持っていたらどんな学生生活になったであろう。

勿論あの頃の自分があったから 今の我もあるわけで 人生に無駄はない、

有難い ありがたいで 今日の一日をスタートさせる 宿屋のおやじ でした。

丁度今 まぶしい太陽の光が事務室に差し込んできました。今日もいい天気

の湯本温泉のようです。

54.  我が家アレコレ

末娘も福岡の大学に進学を決めて この春から我が家は23年ぶりの 妻と

僕の二人になります。

いつかこうなると思いながら あと二週間・・・なんて頭脳から 直接肌で感じ

始めると 随分と淋しいものですね。

昨夜 ロペのマスターとの会話。彼のお嬢ちゃんがうちの長女と同い年で

なんだかんだと話をしていたら 同じ福岡市内に生活する事がわかり、

家賃の話から 水道代は月額が一定で自由に使えるなんて事が判明しま

した。それぞれの地域で 独特の支払い方法があることを知った次第。

で 今から20年前。高校の同窓会で 山口大学に通っていた同級との会話。

僕は紹介者のお陰もあって 世田谷区世田谷という静かな環境にありながら

25000円と言う随分と恵まれた生活をおくっていた。おまけに直前に使用され

ていた方が 急な移動で早く片付けたいという強い願いもあって 電話と

クーラーを市価の数分の一で譲ってもらうという有難い部屋を与えられた。

ただし 両方とも比較的に使用料金が高くって 一年の夏に電気代と電話料

の金額に 父が驚いていた( いや怒っていた )らしい。おまけに初めての

帰省で長門湯本の駅まで迎えに来てくれていた彼の目の前に、アパートの

近所の美容院で頭をカールさせて電車から降りた僕が出現。

みるみる父の顔が険しくなり 「 ナンだその頭は。僕は お前のゼイタクや

ワガママと付き合う為に仕送りはしていないぞ。その髪の毛のカーブが

分からなくなるまで短くしないと我が家には帰らせない。」とそのまま 子供の

頃からお世話になっていた 上田理容院につれていかれ 放り出された。

店に入ってそこのおばさんに事情を説明。「 さすがチンスイのタイショウ 

( 今はもうこんな呼び方はない。この地域では 父の代まで、宿屋の社長

は皆 「・・・・・の大将」で通じていた )じゃね。スジが通っちょる。親として気持

ちも良く分かる。  ただ それにしてもカールが消えるまでっていったら 

丸坊主になっちゃうね。 」と大いに同情してもらった。アレコレと話しながら

落ち着いたのは 母を仲介者にして僕が徹底的に謝る事で許してもらうとして

数センチまでのカットにしてもらう事に。

 その夜、説得に時間がかかったが もう無駄遣いはしませんという約束で

一件落着。


つい書く予定にない話を思い出して いつもの事ながら あい とぅいまてーん。


「 山口の付近って家賃どのくらい 」という僕の質問に 「 あのね 8000円 」

いやービックリ。友達に青学に通っていて 3畳一間で8000円の奴を知っていた

から地域差も考慮したつもりで 「 すごいなぁ。10畳くらい? 」なんてきりかえ

したら「 ううん。10畳と8畳と キッチンとね バス トイレがついてる。 」

いやー この時も ビックリしたなぁ、もう。

とにもかくにも 子供達が元気に生活してくれる事を祈りつつ 本日 ここまで。