宿屋のおやじ日記 -109ページ目

53. これからの我社の企画予定

.昨日 ベンチャーワークス( 我社のホームページを作成して頂いてます )

の藤井社長を交えて これからの季節の企画の検討会を開催しました。

お陰さまで、料理も好評 お風呂も大変喜んで頂いていて ゆっくりくつろい

で頂ける宿屋として これからも精一杯 頑張りましょうで終了しました。

具体的なプランはこれから随時 このホームページ上でお知らせして参り

ますので どうぞ ごゆっくりお楽しみ下さいませ。

深澤調理長の手作り料理を伸ばしつつ 下関の南風泊市場直送の河豚と

角島産の魚を積極的に使ったものをご提供する予定です。ご満足頂ける

と確信しております。

・・・・それにしても おめーのブログはなぎゃー( 長い )のぉ・・・・・との

感想を時々頂いてます。あはは、私もそう思います。ただ 何回か

書きましたが子供達に こんな父親だったってことを紹介しておきたいなんて

心持ちも多分にあるものですから どうぞ どうぞ 気長に気楽にお付き合い

下さい。

今日も穏やかな一日になりそうな湯本温泉より、宿屋のおやじが お伝え

いたしました。

52. 今度は「 神宮球場のバックネット裏 」(少し書き換え)

昔の後楽園球場のバックネット裏の進入に何度も成功し スポーツ

ニュースに出る快感も覚えた。当時はビデオが無かった為に 

試合終了後には 急いでアパートに帰り急ぎ銭湯に。これまた急いで

帰宅。テレビ鑑賞。前出の広島の友人と話していたのだが まだ一年生の頃

は 百円玉をひとつ 握り締めてお風呂に入り( 確か45円だった ) 帰り

には コーラの自販機で50円のコーラを買い 5円玉を空中に放り上げ

ながら帰っていた記憶があるのですが 同じご記憶の方は いらっしゃい

ませんか?  それはともかく・・・・・

父が旅館の客室で使えなくなった画面の小さなテレビを持ってきてくれ

たのが一年の秋。 初めての夏休みに帰郷したときに さだまさし の 

精霊流しを聴いて 大ヒットの予感に それまではラジオだけの生活だった

のを「ボロでいいからテレビが欲しい」とねだったのが原因。 

( 兎に角 車が好きでフェリーも使わず高速道路もない山陽路、国道2号

線を大阪までひた走り名神 東名を飛ばしてからわがアパートに訪ねてきて

くれた事が10回くらいある。それも 今は殆ど見ることもないGMの

マーキュリーなどと言うゴツゴツのアメ車で・・・ ) 

「 おう あのな 今、お前のアパートの前じゃ 」という突然

の電話に何回かパジャマのまま階段を 少しふてくされた顔をして 一方で

心の中は( よし小遣いがもらえる )とほくそ笑みながら 「 まったく 

無茶するなよ 」と近づいた事が数度。

子供としては孝行息子の部類に必ず入ると言う自信はあるが、時々の個々の

場面では、もう少し素直に 「 ありがとう 」 と伝えておくべきだった。と 

少々心がつまる事も多い。 さてさて 何でこんなに話が飛ぶんだろう・・・・ 

佐々木信也の「 プロ野球ニュース 」の鑑賞。出た出た。 時には あっ 

あいつ 顔を見ないと思ったら ここにいたのか。なんてことも結構あった。


かなり日も経ち 何度も違反を繰り返すのに 常に無傷で進入して おまけに

テレビにも登場しているうちに 誰かが 今度は神宮球場で考えるか と思った

らしい。しばらくして皆で 球場に行くことになったようで誘いを受けた。一年の

時に入部したグランドホッケーはひどい腰痛に悩まされ 当時、虎ノ門病院が

その分野で有名で随分通ったが直りかけてはまたぶり返す状態で退部含みの

休部状態でそれなりに自由時間を楽しんでいた。この時は総勢7.8名ほどで、

ご他聞にもれず内野の自由席。・・・・・アレコレ アレコレと作戦会議・・・・・・・・

結論。ここは駄目でした。このエリアからバックネット裏に 高さ3-4メーターの

金網が鎮座ましましていて、出入り口と違い 意外とチェックも厳しくてあきらめ

ざるを得ませんでした。

ただ 後日 誰かが 金網を上って移っていけたと言う うわさを耳にして 

またグループでお出かけ時には ご想像通り 僕もチャレンジしました。「 

やっぱりやるのはお前しかいないよなぁ。 」 「 しょーがねーなー 」 

「おい 恥ずかしいから帰るぞ」 やんやの励ましの中 試合も白熱していて 

場内が騒々しかったのが幸いして無事に移れました。 これも後日談あり。

この時の様子を見ていた女子高校生がいたらしくて 数日後、別の熱心な

ヤクルトファンに誘われて行った時に 夕方のヤクルトの練習中、つまり明るい

夕日の中で 金網に登るセーラー服のツワモノ3人。

ドキッとして アレを見られてたのかなぁと話していたら そのうち 当然の事 

係員から注意を受けていて なんとなく聞こえたのが「 でもぉ この前の試合

でぇ、 そっちに移った人がいましたけどぉ。 」 ・・・・・

すぐに帰宅の途についたのは言うまでもない。 

51. 昔の「 後楽園球場のバックネット裏 」への道

前章の「50.」を読んでくれた友人から 内野席の料金とソフトクリーム2個分

でバックネット裏に入れて 「 プロ野球ニュース 」に出ていた・・・・なんて

本当かよ。女の子でも買収してたのか?・・・なんて連絡が入りました。

実は こんな問合せがあったらどうしようと、少々悩んではいたのです。僕は

友人がすでに無傷で実践していた時に 闖入というか 乱入した立場で、

あの時も「 数人が二日間徹夜して組み立てた 技・わざ だから ハンパな

お礼じゃあ 教えてやんない 」 なんてヤボな事を言う奴はひとりもいなくて

「 水津じゃあ( この頃には チンスイ とか ボンボン などという呼ばれ方

はなくなっていた ) しょうがないなあ。教えてやるよ 」と田村タイジ君

だったか 花野君だったか 今も成城大学の学生課にいる 山形の酒屋の

次男 高田のマサだかが教えてくれた。

くれぐれも今の東京ドームでは通じません。何せ出入りのたびにチケットを

機械に通さないといけないから。 ここがヒント。僕たちの頃には 10箇所

くらいあるゲートの係員のチェックだけだった。

あの頃の巨人戦でも内野の自由席なら 当日ならだいたい手に入っていた。

それで入場して、バックネット裏のソフトクリーム屋に向かう。もうチケットは

いらない。 捨てて良し。 ここで 必ず2個注文。これを両手(これも大切)

に持って、例のゲートに。すぐに係員が 「 チケットお願いしマース 」 顔色

変えずにクルッと回れ右。「 ゴメン。ズボン( あの頃はまだ パンツとは言っ

てはいなかった )のポケットに入っている。取って・・・」と回答すると、これが

見事100パーセントの確率で 「 あっ はい どうぞ 」となるから不思議

ふしぎ。僕でさえ数十回 知ってたメンバー数を掛けたら すごい数字になる

はずだが ひとりとして バレなかった。 これも いろいろオチがあって、

記念すべき第一回目に 巨人の練習中という早い時間から 中に入って

しまい、試合途中にトイレに行けずに往生した。 後で その日の

係員に顔を記憶しておいてもらえばフリーに出入りできる事を体験したが、

その日は 正直 試合どころじゃなかった。 日本ハムの試合なんかは

内野指定席( ネット裏 ほとんど年間予約席で完売のはず )も 試合終了

までガラガラでずっと座れているのだけれど さすがに巨人戦は3回か4回

の表の頃にはほぼ満席。後から来た人に 席を譲りつつ移動しようにも

空席がゼロになるのである。こうなったら 行くところは一箇所しかない。

まさにキャッチャーの真後ろ。席と席の間にある階段に直接座る。

同好の士も多いみたいで 僕たちのグループ以外の見知らぬ顔も多かった。

この時である、テレビに出るのが。ピッチャーズマウンドの右斜め後ろから

カメラが向いている その真正面に僕( 僕達が か? )が座っているから

スポーツニュースにも当然出番は多い。 で またまた 不思議でしょ?

だって 係員からすれば 「 全席満員 」なのに 中央の一番目立つ階段に

多いときで14から15人が縦一列に陣取っているわけですから。これまた

不思議で 誰も注意された事がないのです。 多分、試合途中に テレビ

画面の真ん中、バックネット裏でトラブルになりそうな問いかけをしたく

なかったのでしょう。

 もしかして 当時ゲートの係員をされてた方があったら 連絡くださいな。

見た限りでは 皆さん アルバイトの様に見えてはいたのですが・・・・。


神宮球場では 5回過ぎたら受付の係員が だれもいなくなって 本当の

フリーパス。なんども 只で観戦した。この神宮球場では 前に書いた従兄が

フライが当たったり、貧血を起こしたりする緊急のための医師のアルバイト

だったか 大学の命令だったのか 一、二ヶ月 試合の度につめていて、

遊びに行ったときに 特に巨人戦で バレてはいけないからと白衣を着せられ

本物の 年間指定席で ヒヤヒヤする事もなく じっくりゆっくり観戦させて

いただいたこともなつかしい。

50. 30年ぶりの再会

広島の友人が訪ねて来てくれました。「 少々年をとった両親にお礼をこめて

一緒に行くけぇ 」と電話連絡があったのが 十日ほど前。数年前に会社で

の同僚 後輩の方々と来てくれた時には 予約の前にわが市の観光協会に

電話を入れ「 つかぬ事をお伺いするが、湯本温泉に まだ 枕水という旅館

はありますか? 」という電話をしてから 僕に改めて連絡してきた同級生で

ある。二人の共通の友人が連絡不如意になったり電話が繋がらなくなったり

していた事と、金融機関に関係している関係から ある特定の地域密着型の

金融機関の消滅で( 僕たちの間では秋田県であった )ある産業がバッサリ

なくなったりという現実のニュースが 大変に気になっていたらしくて 面と

向かったときには「 スマン すまん 」と詫びてはくれた。後日 この協会の

受付の女性に聞いてみたら「 妙な問合せだったんで覚えています 」との

回答。に こちらは苦笑い。 この男、頭もよかったが とにかく根っからの

カープファン。僕たちが20歳の年に 初のリーグ優勝をしたのだがゼミの

何分の一かを、今で言う追っかけに近い応援で休んだツワモノであったが 

成績の良さと熱く語る 広島東洋カープへの思いに ゼミの助教授

( 現 教授 )も空けて通させてしまった。お陰で にわかカープファンに

なった僕と 西鉄ライオンズの大ファンの花野君( 以前 登場 )は ダフ屋

から3000円で購入した 昔の人工芝の後楽園球場のレフト側の外野スタンド

( 定価 300円 )で古葉監督の胴上げが観られた。このときは 2回か3回に

「 ピッチャー新浦 」を告げる長嶋監督に 巨人側から 大ブーイング。

この年は 監督も新浦もどん底で このとき カープ側から「 やったーこれで

今日の優勝が決まったー 」と大歓声。その予想通り 新浦が山本こうじ か

衣笠にホームランを打たれ巨人軍最悪の年が終わった。

 で、またまた いつもの様に 余談。

こんなチャンスはないな。ヨシ行け。という 我が内からの強烈なメッセージに

応えて、そして「 僕がアレコレ言ったって どうせ行くんだろ 」 その後に

「 おい やっぱり、やめろー 」と叫ぶ親友 花野君の声を振りほどいて

グランドに飛び降りた。あはは、また 中断のお仕事。また今宵中に

書き足します。 


繰り返しますが今の後楽園ではないですよ。今の高さなら 骨折か 下手

すれば死んでしまう。昭和49年頃に 人工芝に改装なった 昔の後楽園

球場です。

他のファンと一緒に ワーッとホームベースを目指したが そこはグラウンド

整備員の手馴れたもの。両手を広げた数十人がコチラに迫り寄る。中には

ケンカごしですり抜けるファンもいるが 追っかけられてタックルされて

ものの哀れ。 こちらは 話の種に グラウンドに下りれば上出来という思想

だから すぐにユーターン。振り返って ビックリ。こんな高さをよくおりたなぁ。

それにとなりの子供達をみていたら 数人がグループになって 飛び上がる

台になる子。その上に飛び乗り肩車の要領で 後から来た子を上に押し

上げる子。素晴らしい要領で アッという間に誰もいなくなってしまった。

飛び上がってみたら 中指の先っぽがようやく届く高さ。ただ、安全のためか

角がカーブして踏ん張れない。こうなりゃ 頼みは 花野 ただ一人。 

「 花野ー。 はーなーのー 」と大声を出したが グラウンド全体が 万歳 

ばんざーい の大合唱の中。聞こえるはずもない。  静かで温厚なあいつの

事だから 聞こえない振りをしているかも と こちらは疑心暗鬼。整備員に

捕まって 始末書でも取られちゃ叶わんな と思っていたから あせったが

どうにもならない。 「 あはは やっぱり無理でしょう 」というリーダーらしき

人の声。と数人の冷たい笑い声に取り囲まれてしまった。 「 スミマセンが

ここから帰ってもらいます。」という厳粛な声と同時に 腕とお尻と足を

つかまれて 正に放り投げる感じ。両腕が全部 フェンスにかぶさるくらいに

飛び上がり なんとか脱出。 「 どうもすみませーン 」 「 ありがとうござい

ましたー 」と 満面の笑みでお礼をしたのは サービス産業に生まれついた

男の悲しい性か。とになく ホッとして 花野を探した。 あとしばらくして 

来なけりゃ 帰っていたぞ。と また笑われた。


現在のシステムでは無理だということが 東京ドーム完成後の訪問で

分かったが僕たちが大学を卒業するまで 数百円の内野のチケットと ソフト

クリーム2個分の料金で内野指定席 つまり バックネット裏に入り込み 

佐々木信也の「 プロ野球ニュース 」にチョクチョク出ていたのもなつかしい

思い出である。

49. かまぼこ板の絵馬 護摩焚き供養祭

この一年半 お客様に御記入頂いていた「 かまぼこ板の絵馬 」の供養祭

を三月一日の14時に 地元の名刹 大寧寺様の御協力で開催いたしました。

当日は 前日の強い風も止み 所謂 日本晴れ、今頃この様な表現がある

のかどうか分かりませんが 素晴らしくいいおだやかな天気に恵まれました。

我社のスタッフは勿論ですが 当日は 関西からの滞在プランで御滞在中

の大勢のお客様と地元の皆様にもおいで頂いて 2500枚の絵馬を供養

させて頂きました。

毎日 調理部から出される かなりの数の かまぼこ板を見ながら ( なにか

有効な利用が出来ないものか )と感じていた常務のアイディアから誕生した

企画でした。

お客様それぞれ御自身への願いや感謝、それも自分の事から友人へあるい

は わが子やお孫さん はたまた おばあちゃん おじいちゃんへの暖かい

愛情の言葉を読みながら ほほえんだり 感心したり 拝見しておりました。

「 いい人とめぐり遇えますように 」「 ・・・君の怪我が早く直りますように 」

「 おばあちゃんが元気になってくれますように 」とか 「 ・・高校に入れます

ように 」 「 今日の試合で優勝できますように 」 「 毎年 こんな家族旅行

が続けられますように 」とかが書かれたかまぼこ板の 絵馬を一枚一枚心を

こめて 御供養焼却させていただきました。

大寧寺様から 毎年この日を この企画開催の日にされていいですよ、という

御案内を頂きましたので これから第二回目 三回目と実施してまいります。 

書かれたご本人はもとより 人の為にお祈りさせて頂く事のできる有難さを

感じる事の出来る素敵な行事です。どうぞ 気ままにおいで下さい。 

48. 「 J 」のつく全国組織

こんな書き方をすると 熱心に取り組んでいらっしゃる各ロムメンバーに

失礼かと思いつつ 僕自身が 35歳の入会で、嫌いではないものの さほど 

熱心にのめり込まなかったために 多少のテレもあって あえてこの表現に

しました。現在も地元の為に 真面目に熱心に取り組んでいる会員にとって

何の中身もない記述になるような気もしますが いろいろの思い出話を書い

てみます。

 随分以前の章で書きましたが 僕に直接入会を強制・・いえ 要請して頂い

たのは イニシャルと漢字が同じ読みの地元のO山荘のOT社長でした。

その数年前に長門J・の企画で 萩原茂祐 先生の講演を聴きにいく機会が

あり 内容の素晴らしさと 会場の熱心な雰囲気に すごい会があるのだなぁ

・・・と認識はしていました。  

ただ当時聞いていた 入会金の高さと 一度入ったら 行事が多くて仕事

どころではなくなる・・・といううわさばかりが耳に入り 躊躇していたのも

事実です。もうひとつ 僕は商工会議所の青年部に縁が早かった関係で

すでにいろいろの行事に取り組んでいたため どちらかと言うと こちらに

対する思いの方が強かったのも現実です。 そのため、ある年の商青会の

会合で 他地域の会員同士が「」「 よう 久しいな。 どうしてる? 」「 おう 

今か? それがよう、J・を卒業させられちまったからよう こっちでチンタラ

やってる。 」 「 フーン そうか 」・・・・  当時から長門商青会以外では

定年が40を過ぎて設定されていましたから  そんな会話をロビーで聞いた

ときには正直腹立たしい気がして よし当分は入会はすまいという僕なりの

決意をしたのであります。( ちなみに今は長門の商青会も定年が45になった

ようですが県内では飛びぬけて遅くまで40の定年を遵守していたのは

ここだけで、この時の思いを少しオーバーに後輩に伝えていたせいかも

しれませぬ )  ただ同級のS野君とは当時から何かとお世話になっていた

O石油のOS専務( 当時 現 社長 )が理事長になられる時には、同時入会

しようとの約束をしてはいました。

 

そろそろOSさんが理事長らしいといううわさが耳に入りだしてじきに・・・・・・・

・・・・・・。

ついでの余談。このOS氏、僕が高校の時のソフトテニスの主将で 国体

クラスの実力でとてもおっかないイメージが強かったのですが どこでどう

人生のラインがクロスしたのか 僕の大学、成城学園の同窓生。いつも この

話をして「 おまえ また話すのかよ 」とあきれられているのですが つい

一言。

高校卒業時には 僕が一つ年下。大学で僕はグランドホッケー( 今は

フィールドホッケーと呼ぶらしい )部に入っていて 新入生のオリエンテー

ションの日に入部案内でチラシを配っていましたら 後ろからでかい声で

「 おい すいづー 何しとるんか 」 「 あれっ おおすみさんこそ ここで

何しよってんですか 」 この時の先輩の動作が未だに脳裏に焼きついて

います。頭をかきながら 「 いやー ちょっと 遊んじゃってよー 」  この

時点で僕が一級上。・・・・・・・それから 二年後・・・・・僕の同級生から 

「 おう お前と同じ高校にOSってのがいるか? 」 「 うん いるよ。でも

僕らより年上だよ。何で 」 「 へー、そう?まぁいいや。 今 クラスで話題に

なっているんだけどよ、あいつ新宿のスナックのママのヒモになっている

らしいぜ。 」 「 えーっ 」・・・・ これはハッキリとガセでしたが詳細はまた

後日に。

・・・ついでに言うと卒業名簿では僕が 3年度早く名前が出ています。

さあここで質問です。OS先輩は 何年間浪人で 何年間留年でしょう。

さあ、皆さんで考えておくれやっしゃ。


で 日本J・の「 こんな規制・モノ いらない 委員会」 に OS氏が副委員長 

僕がセクレタリーとして出向した折に 僕が滋賀県大津のあるホテルのロビー

で公衆電話( まだ首都圏と大都市近郊が主たる利用地で、山口には携帯が

一般的ではなかった頃 )をかけていて バスに遅刻しそうになった僕の為に 

O氏が僕の荷物と自分の両方の荷物を持たれて乗車されたときに 僕の

ずっと年下のメンバーから「 君はOS副委員長の秘書としての自覚がある

のか 」って おもいきり叱られたのもこの卒業年度の思いがあるからかもと

いまだに 言い訳している。

47. きらきら橋アコースティックライブ. 少し訂正

現在 湯本温泉では四月から十一月の毎月第一日曜に「 じゃらんじゃらん 

」という夜市を開催しています。今は同時開催になっていますが、その中で

19時半頃から地元のギター大好き人間の方が 思いおもいの歌を披露して

頂く企画が 表記の「きらきら橋アコースティックライブ」です。

思えば11年前の平成8年4月22日がきらきら橋の竣工式でした。

子供達の安全な通学路確保のために 県から大きな予算を付けて頂いて

出来た 全部木作りのシャレた橋で、湯本温泉の上流 大谷山荘さんと

白木屋グランドホテルさんの中間あたりの 清流 おとづれ川にかかって

います。


それから二年がたち 朝夕は子供達で賑わうものの夜になると バッタリ

静かになり 今時 木ばかりで出来た橋も珍しいし、もっと湯本の顔のひとつ

として何か活用できないかとロペのマスターと スナック ポッパのマスター

( この「 夜市 じゃらんじゃらん 」という名の名付け親。 )と話すように

なっていました。で、すぐ決まった企画会議が橋の上での バーベキューでした。

すごいでしょ、木造りの橋の上でバーベキュー!!! いかにも 宿屋の

おやじと、スナックのおやじ二人が考え付きそうな企画・・・??  

で8月22日の夜、旅館組合の当時事務局にいた吉岡恵美子ちゃんを誘って

のスタート。やっぱり男3人だけじゃぁね。ご理解下さい。電源のコンセントも

あり照明OK。心配だったのが 誰かの通報でドタバタになっては・・・でした。


余談ですが。


この部分に日ごろ感じていた思いを書いておりましたが、なんとなく唐突に

思われるかなぁと妙に不安になり削除いたしました。すでに読まれた方には

失礼。ご容赦ください。


「 笑い 」の破壊力。これはまたすごいですね。日本で一番ノーベル章

に近い男として テレビにも出演されている、筑波大学の村上名誉教授のお話

を聴くチャンスがありました。 人の中にある60兆個の細胞とDNA、そして

糖尿病や血圧等との関連が 吉本興業さんとの共同研究で次々に明かされる

神秘の世界。こういうベールをドンドンと剥がしていってほしいと強烈に熱望して

います。


無駄な心配も不要だった様で さりとて話もまとまらずそろそろ片付けの時間

になり、つい僕が「 ねー、ここでコンサートってのは無理かね 」とついつぶ

やいたのがきっかけでまずロペのリンダ( 御案内スミ )が反応。河岸をロペ

に移してなんだかんだと詰めの作業。そしてスタートした企画がこれなのです。

すでに 橋の上の段階でポッパのおやじは 討論の出来るステージから早く

も滑り落ちて 「 あんまし 真面目な話はするないや 」と完全に他人事。

僕の問いかけに「 コンサートは無理じゃが、アコギなら ええかもな 」。

この時  アコーステックギターの略称を知らなかった僕の頭には 「 あこぎ 

な奴 」なんて言葉しか思い浮かばず 何故、突然に彼が ヤクザな言葉を

使い出したのか見当もつかなかった。


今では ルネッサ長門での出張公演を含めて100回を数え 地元の皆様にも

認めて頂けるようになりました。チャーターメンバーとして 中学校の先生で

長門市の教育委員会にもおられた 白沢 真史 氏も忘れてはならない

立役者のおひとりです。

46. 今夏 ゆかたまつり の取り組みと 高校二年の初酒飲み

二年前に 湯本温泉全体の取組みとして「 ゆかたまつり(企画委員会) 」が

スタートしました。なかなか好評で昨年もそれなりの成果が出て 今年も

開催の予定です。先日 旅館組合でその企画委員会がありました。

今度の月例会でオーケーが出て きちんとした検討が始まります。

ただ 委員会自体が青年部の全員と親会でも青年部に一番近い 僕と

六角堂の秋山社長がメンバーですので よっぽどのひどい企画か まるで

採算の採れない企画でしたら別として 大体通過するはずですから 

ホンのさわりを一節。

 この企画に申し込まれる女性にふたタイプ。泊まられたその日に 浴衣を

着て頂く方と 少々お年を召された女性が お子さんやお孫さんの為に受け

取られ お持ち帰りになるタイプ。僕たちとしては その日に着ていただいて

湯本をぶらぶら散策して頂くのが有難いのですが さりとて お持ち帰りは

不可ではありませんから 喜んでお渡ししております。  でですね、今夏は

なるべく 大勢の方々に 館外に出て頂く工夫として 湯本に二箇所ある

足湯近辺で写真を撮っていただき フォトコンテストをしてみよう。にして

おります。  なかなかいいアイディアでしょう? ? ?

 キチンと決定しましたら このホームぺージはもとより 各館のHP、

湯本温泉のページでも御案内いたしますので よろしくご検討下さい。


さて 夏になると思い出す高校2年の思い出。湯本温泉の納涼祭に来て

くれた 和田かずまさ君(  このブログ始めの頃のシーカヤックの担当者

として登場 ) 松永れいじ君( 高校の頃からのバイク大好き男。昨年 

ハーレーを購入したらしい。) 木藤しずお君( 高校時代 ラグビーの全国

大会の二回戦で目黒高校に10得点し相手監督が激昂し 試合終了後に 

生徒相手に説教しているのに興味を覚えてこっそり裏手まで聴きに行った

ことは つれづれコーナーに書きました。今は下関市内の高校教師

です )の4人が踊り回った後で 冷やかしに飲んだ日本酒の冷や。

なにせ大汗をかいた直後だったから のど越しさわやか。「 なーんだ、酒

っちゃ こんなもんか。なかなか美味いど。 」とある一人にあおられて

全員がまず一杯目。そのうちに「 意外と飲めるのー。さー競争じゃ。 」と、

イーチ ニーイ サーン と飲みも飲んだり10杯。つまり 一升。怖さを

知らない強みとはこの事か。 でやっぱり不思議なのが 体質的に 飲める

体質と 飲めない体質があるようで 僕と木藤君は 8杯でギブアップ。

あとの かずまさ と れいじ はキッチリ10杯飲んだのを記憶している。
それにしても 一晩に8合なんて その後も飲んだ事がない。そのうち

「 さあ帰るか。ええか、おーいおまえら まっすぐ歩け 」とれいじ君が号令を

かける。有難い事に 全員が朗らかでどちらからっていうと 笑い上戸で 

「 おまえこそ まっすぐ行け 」「 わっはっは 」「 あっはっは 」と自宅まで

帰った。僕がどこの誰かは小さな地域だから だれもがご存知のはずだったし

警備にかなりの数のお巡りさんもいらっしゃったから 通報されたらそれまで

だったであろうけれどそんな事もなく 我が家にたどり着いた。 

多分一番驚いたのが 小学校の先生をしていた叔母であろう。 玄関先で

「 まーあなたたち。どうしたの 」という一言に「 ただいまー 」と応えた事だけ

は妙に記憶に残っている。それからは ご想像通りの展開。

トイレの便器を抱きかかえて寝込む奴。高校の校歌を歌いだす奴。みずー 

みず くれ、とひたすら懇願する奴。ただ黙って 縁側にもどす奴。その間を 

「 まー まー 」と濡れタオルと洗面器を持って走り回る叔母。学校も随分前に

定年になり 最近少し元気のなくなった彼女だが 今も僕の事を大変に心配して

頂く。とにかく心からやさしい素晴らしい女性である。

あの時は 本当に心配をおかけしました。今も時々 お風呂に入りに来て

もらうのを有難く思っています。いつまでもお元気でいてください。


とりあえず 公開いたします。もしかすると 書き換える部分があるかも

しれませぬ。  では では。

 

少し書き換えました。

ちなみに トイレ関連は 号令をかけ続けて家まで引っ張ってくれた ・い・君。

後の三様は あははは、僕。教師は縁側組。かずまさは、「 くるしー 」と

言いながら よく寝ていた。その後も 強い酒飲みだったなぁ。このかずまさも

昨冬体調をくずして 今は若干おとなしめ。 今は 無病息災 は、なかなか

ないらしい。    皆様、一病息災で長い付き合いをお願いいたします。


45. 御案内

今回は御案内のみ


明日 2月14日、何局か不案内ですが 「 めざましテレビ 」に昨日の

湯本温泉の企画 「 ラブ花火 イン バレンタイン 」 の様子が取り

上げられる様です。

メッセージを添えて ハート型になる花火を打ち上げる内容です。

よろしければ お付き合い下さいませ。湯本温泉旅館協同組合 

青年部の部長 白木君 ( 白木屋グランドホテル 専務 )が

御案内致します。


44. ふと思い出した従姉のご主人

受験で上京した時からお世話になりっぱなしの従姉がいる。母の兄、つまり

開業医の叔父貴の娘で僕の3歳年上である。上京時に 早速彼女の吉祥寺

の部屋に泊めてもらった。  このときに さすが東京だと 感心した事柄が

数個。 部屋で見た初めてのティッシュペーパー。これはすごい、ノーベル

賞ものだと感心した。ついで エフエムではない AM局の入りの良さ。ご

多分にもれず 僕は オールナイトニッポン世代。あんこう氏 あまいくにお

氏、春日部のてっちゃん( 数年後に ある方の選挙のお手伝いで 春日部

に行った時に メガホンを使って 何棟も聳え立つマンション群に向かって

 『 全国区の・・・・・・・でございます 』と叫ぶ度に どこの窓からかが

最後までわからなかったが 『 やっかましー 』と連動するヤリトリに 

とうとう全員が噴き出してしまい かなりうるさ型の責任者の方も 

「 もういいだろ 」と早目に引き上げたのも 懐かしい思い出である )氏・・・


スミマセン。今日は 末娘を受験で新山口まで送る約束をしていまして

またまた中座いたします。 今宵中には仕上げます。


失礼しました。夜が明けてしまいました。昨日は連休の初日にてドタバタ

している間に時間が経ちました。 送った末娘は 生まれた時に いわゆる

未熟児で 病院に駆けつけた時には すでに 処置がすんでいて保育器を

通したご対面だったが なんとも細い腕や体全体にめぐらされた点滴等の

パイプというか管が痛々しくて 思わず もう少し減らせないんですか、と、

問い合わせた事を思い出して 階段を上る後姿に 人目も気にならず

思わず 合掌してしまいました。


さてさて何を書くつもりだったのか。そうです。深夜放送でした。

ひでぼう氏 いといごろう氏 あとだれでしたっけ・・・そう かめ氏でした。

誰が好きという事はなく 全体の雰囲気がなんとなく好きだった。

湯本の地域は 韓国に近くて はっきりと日本語が聞こえていてもしばらく

すると今度はハングル語がジワジワ聞こえ始める。右手は鉛筆を持って

お勉強 左手はラジオのボリュームを持って完全に消えてはいない

日本語の声を探すというのが 毎日の行事であった。


何の脈絡もなく 話は続く。


大津 あきら先輩の事を書きながらふと思い出したのが 彼女の主人の

事。亜細亜大学在学中に なにかフォークのイベントで優勝か準優勝した

とかで LPなんかも出していた。一週間の滞在でとりあえず僕の受験は

終了し明日帰宅という日にすき焼きをごちそうになった。「 かぶとむし 」

というバンド名でその後も活躍していたのだが もう解散して随分になる。

昭和55年頃に 日清の( でしたっけ )出前一丁 のコマーシャルで 

「 育ーち盛りは 食ーべ盛り ゴマの健康 あーらよ 出前一丁 」と 

歌っていたのは従姉の主人でした。 なんと長い導入。


で彼女の兄、現在は相模原市でクリニックを開業し 成城に大きな自宅を

購入した従兄には 二回目の上京の折 ( つまり初回は全敗で ) 初めて

成人映画を所望して 連れて行ってもらったのはよかったが 鑑賞中に

後ろのおじさんから背中をポンポンとたたかれて「 おじさんね、警察の人

なんだけれど 君ー 何歳?」と話しかけられたのには驚いた。 動揺して

何も言えず 少し離れた従兄に向かい 「 ねーねー ケーサツ てーね。

どねーしょー 」と問いかけた。ニヤッと笑って 「 警察も何も お前 18才

じゃないのか 」とぼそり。 ふと我に返って ( そうか そうだった )と 

めったに使った事のない学生手帳を 堂々と手渡したの事も思い出す。