宿屋のおやじ日記 -107ページ目

73. 花粉症完治から

花粉症が完治しつつも あまりにも 説明のつかない完治方法にて その

体験談が同じ症状で悩む人の役に 思うほど立たなかった話はしました。

中にはこっそり実行されていて びっくり仰天の体験をされつつも 僕みたい

にアッケラカンと説明も出来ず ある会合で「 ちょっと 」と呼び止められて

「 イヤー実はね・・・・ 」と感謝された事も かなり少ないが一度だけあり、

それが僕に妙な自信を植え付けていた。「 人には言わないで 」という言葉

が最後に付いたが。アハハハ。


実は 一昨年の大津高校の学校評議員会ではない、保健関係の委員会の

席上で校医の先生方を前にして ついお話をしてしまったのである。

コレコレこうで こうなりまして、完治して20数年。先生方のお口から これで

直るなんて とても 言えるはずは無いと それは理解しているつもりですが

もし生徒にいろんな処方が合わずに悩んでいる様な子がいたら 「 知ってる

人に、・・・・コレコレこんなんで直った人がいるよ。」ってアナウンスだけでも

してもらえませんか? 千人に一人でも、万人に一人でも もしかして直る子

がいれば・・・と感じまして・・・・と長々 説明させて頂いた。思えば まったく

もって失礼な話。


校医をして頂く程の現役のお医者様であるからして 人格的に素晴らしい方々

ばかりではあり 突然の途方も無いPTA会長の長話しに 反論される事も無く

しばらく暖かい笑顔を僕に向けられるだけであったが この場の妙な雰囲気を

打開されるべく 内科 小児科クリニックのドクターが口を開かれた。

「 会長さんの大変に貴重な体験談だと思います。水津さんの事は ここに

いる皆がよく知っていますし、決して疑う事はありませんが なかなか 私達の

側からの説明はですね・・・・」とさらりと他の先生方を見渡されて「 一応 記憶

に留めさせて頂く事にしまして 如何でしょう 」と本当にありがたくご回答いた

だき収めていただいた。他の先生も ホッとされたようで 僕もアンドの胸をなで

おろしたのでありました。


何らかの都合で 花粉症とかで 困っていらっしゃる方があればと あえて 

報告させて頂きました。   どうぞ ご寛容に。


72. 花粉症の思い出と完治まで

花粉がかゆみの原因だなんて 思いもしなかった頃の話と完治までの話。

ちょうど「 光化学スモッグ注意報 」という新語が出来た年か翌年。

昭和49か50年の春から初夏にかけて。ホッケー部の一員として 大学の

グランドで練習をしていた頃の事だった。 数日前から目がかゆくて 

その上おまけに頭がクラクラする。 休憩時間に 頭痛の事を言ったら

「 お前もか。俺もそうなんだ。 」という先輩が三人。すかさず3年の近藤

先輩が「 それって 光化学スモッグとかじゃないですか 」「 ふーん、

そんなのがあるのか 」 「 昨日 ニュースでいってましたよ。」てな会話

がなされて僕もその注意報を知った。 武蔵野の青い空に そんな成分が

混じっているのかとただ不思議な気分だった。 目がかゆいのも その為

だという勘違いをしていたわけである。

で その翌日眼科の医院に行って その注意報の話と 目のかゆみを訴え

る。注意報と目の症状は関係ないと思うよ。と言われながら原因は分から

ない、との事。結局 この眼科には 卒業まで 春先に限って何度となく通った

が目薬を頂くだけで いつの間にか夏になったら 症状が軽くなり そんな

ものだと深くも考えなかった。周りに同じ症状の方がいなかったせいもある。

で多分、一番の迷惑は渋谷のコンタクトレンズの会社というかお店であった

ろう。 眼科の先生のように こちらもへりくだらないし 目薬がさほど効か

ないのも 少し頭にきていたから言葉に遠慮もない。

「 レンズが汚いんじゃないの。」から始まって「 何か病原菌がつく素材が

あるのでは 」等々 素人発想の注文にて申し訳ないことをしました。

卒業してしばらくして 花粉が原因というニュースを耳にして 「 あっちゃー」

と思ったが後の祭り。

 この症状は かかった人じゃないと分からないと思うが 正直 目を抉り

出したくなるくらい。よく何年も耐えたなぁと、我ながら感心する。これも今は

全快。今日はこれについて・・・・・一筆啓上。

 あれは鹿児島方面に出張に行っていた 僕が28か29才の頃だから昭和

58年か59年の頃じゃないかと思う。たまたま運転中の車内でつけたラジオの

ニュースで 何かの特集だったのかこんな事を言っていた。最初に 北海道

大学の医学部教授というアナウンスがあったと思うのだが 違うかもしれない。


でその方の言われるのに 「 大学の教授として こんな事を電波で話す事も

正直はばかられるが 」という話からこんな内容が続いた。

「 何故かは分からない。全ての人がこれで完治するとは とても思えない。

ただ現実の症状として これで直ったゼミの子供達が複数いるのですから 

報告だけだと思って聴いてください。」との事であった。

「 就寝時に ふとんに入ってから下のパジャマを下着ともども取って、つまり

下半身を裸にして 休むのです。」  これには正直、バカにするな、なに馬鹿な

事を放送しているのだと抗議が殺到するのではないかと、心配したくらい。相手

のアナウンサーも 「 それだけですか? 」 としつこい。教授も何度も 

「 理由は分からない 」を連発されていた。

返す返すも僕のエライのは このブログでお付き合い頂いてる方にはご理解

頂けると信じてはいるが、とにかく何でも自分で確認してみる事である。


で早速 その夜の鹿児島市内のホテルで 二重窓にも入り込む桜島の火山

灰も気にせず どうせならとオマケついでに全身裸で つまり素っ裸で寝て

みた。モノコ゜コロついて殆どの人がそうだと思うが 何かを身につけて休んで

いたはずで 確かに開放感はあるものの なんともかんとも 無用心で 

不安定で ベッドの上で声を出して笑ってしまった。

  で 翌日。 「 これはもしかすると ???」  確かに症状が半減して

いる。翌二日目の熊本のホテルの挑戦で完全に治った。本当に完治。以来

20数年間、花粉症からの完全 独立。


ウソではありません。僕が生き証人。 ただ残念な事は これを 他人が

信じてくれない事。  ホーント、妻を始め 初年度は興奮して 随分あちら

こちらで話しまくったが どこでも わはは、 ワッ八ッ八 で  ジャンジャン。

僕の説明不足もあったらしく 「 役に立つ話だと思うけれど、18歳の姪っ子

に裸で家の中をブラブラさせられないしなぁ 」と随分日がたってから感想を

言われて、「 それは誤解です。布団に入ってからの作業ですし 目が覚め

たらパジャマを着て布団から出るんですから何の支障もないはずですよ 」と

説明して やっとわかってくださった方もあるから 改めて人に何かを伝える

事の困難さを感じた次第。 


「 一度でいいから 駄目モトで やってみればイイジャン 」と妻にも何年間か

攻めたてたが 「 どんなに苦しくて 鼻の下が真っ赤になっても、 何度

病院に通う事になっても それだけはいやだ 」と言われる僕のつらさも理解

して欲しいのだけれど・・・・。嗚呼。 ただこの妻も ある年に 忽然と まさに 

突然と 何もしないのに完治したから、本人はモトより 周りもビックリした。

何を信じられるかは 皆様にお任せ。ただの体験談だとしてお聞きいただけ

ればとご案内まで。

71. 最近聞いて驚いたお話

コンビニで ある特定の時間が過ぎたら 時間切れとして廃棄される 日々

のお弁当が毎日どれくらいあるのでしょうか。

この二月にこんな事を聞かれました。かなり多めにと思って300万くらい

ですか?と返答しましたら その方が言われるのに なんと3000万食だ

そうです。数え方なり 推計の仕方で誤差は出るのでしょうが それに

してもビックリでした。さりとて もったいないからと 食べられる期限ぎり

ぎりまで置いておいて 今の日本で商売が成り立つのかどうかを含めて

かなりいろいろの事を含んだ問題だなぁと しばらく 考えてしまいました。


環境問題はまさに待ったなしという話題は よく耳にする事ですし 我社で

出来ることも積極的に取り組むつもりでおります。       ただ

以前は「 箸 を マイ箸に 」などという話も なんとなく 時代の人気取り

のアナウンスみたいで あまり 真剣に考えていませんでしたし アジアの

国の洪水も植林をしてこなかった という その国の政策ミスに思えて 

ボンヤリとしか思えなかったのです。

それが 「 木を植えよ 」という本を書かれた 宮脇 昭 横浜国立大学名誉

教授の公演をお聴きする機会があって俄然興味がわいてまいりました。

実は「 楽天 」さんのお客様からのアンケートにお答えする形で書きました

のが 我社の第三駐車場の事。雨天時に泥だらけになるし、「折角 洗車して

も精がない無い。」と、バスの乗務員さんに不評だった その借地の駐車場を

昨年舗装する事になり 正にいまから その工事に取りかかろうとする時に 

たまたま通りかかった方からこんな申し出があったのです。「 全面に舗装を

するように見えるけれど、できたら考え直してもらえまいか。一度舗装すると

10年後にそれをはがしても 何も生えてこない。端っこから できたら

1メートル、無理なら50センチメートルでいいから 土のままにして何か

植える形にして欲しい。」との 申し出でありました。 大変に説得力のある

話ですこぶる素直に納得できましたので すぐに 工事責任者の方の処に

すっ飛んで行きまして、あれやこれやの直談判。結局 まだ何をどう植えて

よいか不案内でそのままですが 部分的に60センチほどにせよかなりの

地面が生きています。こんな事があったばかりだったからです。

その宮脇名誉教授の話。

全国各地のその土地その土地にあった木がある。植えたが最後、いつも

アレコレと面倒を見ないと枯れるような木や草は そもそも その土地に

あっていないニセモノの証拠。その無駄の最たるものが ゴルフ場の芝、

だとか。 

何章か前に書きましたが 10年前にそのスポーツを止めた僕は 先見の

明があったのかどうか、一応 ホッと安堵。

全国各地や中国、上海での植林 森林化の成功事例や 「 木が三本で

森、五本あれば 森林です。 」などという楽しいお話。

機会を見つけられて 一緒にまず読んでみられませんか?

70. ああ勘違い 66章.の訂正とお詫び

大きな勘違いをしていまして、66. に以下の文章を挿入しました。


( えー今4月17日です。僕の勘違いがあってはいけないと今朝、母にこの

  部分を読んでもらったら 随分僕の思い違いがあったようで訂正いたし

  ます)

  まず会員さんは八十名くらい。湯本のためにも 地元の皆さんのため

  にもなると 張り切ってオープンしたのはいいけれど この土地が

  農地であったが為に 農地法に引っかかり 連日大変な心痛をしたこと。

  そして その年の冬に「 このまま行けば なんとかスムースに返済

  出来るかねぇ 」と話をしていたら ものすごい大雪で建物全部が倒れて

  しまい それから何年も返済に苦労した事・・・・などなど

  ジックリ聞かされました。大変失礼しました。 僕の記憶にある

  練習場も そういえば 事務室の天井は 確かに無かったなぁと思い

  出した次第。地元の方で もしこの部分を読まれてた方がいらっしゃれば

  どうぞ お許しくださいませ。)

いい加減で書いたつもりではないのですが なんとも 失礼を致しました。

学校の行き帰りに 寄り道をしていたのが この練習場でして こちらは

おもしろ半分での見学でしたし、それに 会社のいやな事なんかは あまり

聞かずに育てられた環境でしたんで そんなドラマがあった事も ツユ知らず

に思い違いをしていました。 ふと このブログにも なんとなく そんな箇所が

あるやも知れず不安になりましたが もしまた 気付くことがありましたら直

します。

 

 今回は とにかく お詫びまで。

69. 同級生のお父上、ご来館 

中学高校の同級生のお父上が 米寿のお祝いでご来館ご宿泊頂き、今朝

お帰りになりました。同級生直接の来館も勿論うれしいけれど、ご家族や

ご親戚の皆様のおいでは これまた うれしいものがありますね。

それにしても このお父上 どう見ても 米寿には見えませぬ。今頃は

僕たち世代のほうが 少々静かすぎる場面があるみたいで 精神的にどちら

が年上かがわからない時がママありますね。     随分前の話ですが、

総量規制がスタートして2年程後。 今回は都会だけの不況か、と思って

いたら、さにあらず。 やはり 地方にもジワジワと波が押し寄せて来て 少し

あわてだし、気を引き締めないといけないなと感じ始めてきた頃、ある勉強会

で 「 今頃の若い経営者は馬力がなさ過ぎる。元気を出せ。自分達世代が

20才30才台で会社を立ち上げた所謂戦後の頃は 今のサラ金どころじゃない

高い金利を請求されて 3年で返せ。5年で返せ。と、矢の催促。その中で

頑張ってきたんだ。 」といきなりの導入講話。続く八割方は激励のアラシ。

終了後には周りのメンバーと「 すげー。 」「 つっかれたー 」と言いつつ

コチラもハイテンションになってあれこれと話し合ったことがあります。


父が70才前で死んでしまい その時には ( 寿命ではあるし 仕方のない事か

 )と思っていたのですが 友達のお父上のご様子を見るに付け やっぱり

早すぎたのか。もしかして父も 何か心残りの事とか思い残す事があったのか

なぁと あのおだやかな笑い顔をしばし思い出した一晩でした。

68.セブンイレブンと宅急便との出会い

67.を書いて公開した後 自宅に帰り朝ごはん。日経新聞の最終ページから

読み始める。いつものように 堺屋太一氏のジンギスカンの物語をまず

読んで 交遊抄、それから私の履歴書と続く。僕は日本で最高の推理小説は

高木アキ光氏の「 成吉思汗の秘密 」だとかたく信じているひとり。堺屋氏の

本もアレコレ読んでいることもあり 毎朝興味深く読み進んでいる。

それにしても あの 例の「 失楽園 」の掲載の最中には、確かスタートして

④くらいの頃に初めて読み始めて 日経らしからぬいろんな表現に ぺリべり

サプライズ。何回も最初のページをひっくり返しては「 やっぱり 日経だなぁ。

こんなの読ませてて いいのかなぁ。 」とびっくりしながら読んでいた。

で今日は宇部興産の社長の交遊抄であった。で ・・・履歴書の方はセブン

イレブンの鈴木会長の連載中。

記憶が正しければ 昭和49年か50年のはずである。近所のお米屋さんで

工事が始まった。そのうちに看板が取り付けられたが これに数字で 7と11

が書かれている。あの頃は 月末に仕送りの送金があったら ここのお店で

お米何キロかと 野菜ジュース 30本くらいだったか とにかく一箱を買って 

とりあえず一か月分の最低限の食料を確保しておくのが習慣で そのお店の

親父さんのこともそれなりに知っていたから 「 おじさん この 七と十一は

何の意味ですか。 」と聞いてみた。

親父さんの答え 「 それが おっかぁが『 やりたい 』って言うから始めたん

だがよ。朝の7時から 『 夜中の 』 11時までやるんだってよ。 」

あの頃は 近所のお店は 大体19時か20時頃には閉まっていて それに

対して強いて不満にも思っていなかったから 「 7時から11時ですか。

それは大変ですね 」と話をした記憶がある。 そんな店舗が今では全国に

何万件にまで増えるとは想像もできず ただ 大都市にだけが可能な店だ

としか思えなかった。オープンしてから 確かに便利だと感心はしていたものの

生まれ故郷の山口のしかも日本海側ではとても成り立たないビジネスだとしか

考えられなかった。  今から随分前に このセブンイレブンが長門市内に出来

た時には本当にうれしかったですね。 「 ここには コンビ二もないんですか 」

なんてかなりの頻度で 言われていましたから。


同じように 宅急便も 昭和50年頃に渋谷の駅のプラットホームの木製ベンチ

に例の 子猫を咥えた猫の図柄のデザインに ( 僕はどちらかと言うと犬派で

あまり好きではなかったが ) 「 ああ これが、今日 荷物を預ければ 大阪に

限って 明日届けます。 」っていう会社の看板かぁ と眺めていた事もあわせて

思い出される。

67. ゆけむりピンポンの取組み

今日の午後から 旅館組合の会議室で 今年の ゆけむりピンポン の

打合せ会があります。

市の体育課の方から企画を持ってきていただきスタートさせて もう7から8回

目になります。最初の関わりから なんとなく ずっと実行委員長のままで

今日を迎えていますが 湯本温泉のオフシーズンの対策のひとつのプラン

として 多くのシニアの皆様が楽しみにして頂いている様で 有難い事だと感謝

してします。

ただ スタートした時には 実行委員会全体のイメージとして ほんわか

ホンワカ の山なりのゆったりした球でのラリーを思い浮かべていたのですが

ただそれだけに限定する事もできませんし、スピードボールを打たれる方だけ

が優勝されてるばかりでは無いようなので このままでいいのかなぁと、考えて

います。

具体的に日程や要綱がきまりましたら 湯本温泉旅館協同組合や長門市の

ホームページ等で御案内します。 オンシーズン前の比較的に静かな時期の

平日になります。また年齢制限がある事もご理解下さい。90歳代で参加して

頂いたおばあチャマもいらっしゃいます。

各地域のクラブ活動も盛んなようで 第一回目の開催時に 色とりどりのユニ

フォームにドギマギした事を思い出します。 また タオルを頭に乗せ 下駄を

ラケット代わりに お二人でラリーをしていただくような オープニングの余興も

( 毎回 内容は変わります ) ありますので 前向きにご参加下さい。

 本日は 御案内まで。

66. ゴルフの思い出

このスポーツも「 よし、もう止めた 」と決意して2年、 実際に車のトランク

からバッグを玄関横のスミッコにほうり投げてから 早10年程になる。

今我が旅館が建っているこの場所も 僕が小学生の時分には インドアの

ゴルフ練習場であった。 父が死んで しばらくして いろいろな昔の書類を

整理していたら この練習場を設立するときの会員募集の案内と会員名簿

が出てきたことがある。 商青会での友人のお父上、あるいはおじい様の

お名前が2.3百人分出てきて ヘぇー、っと感心した。

母に聞いたら 「 そういえば 確かに この周りでは ゴルフの取組みでは

初めてだったと思うよ。募集を締め切った時点で 工事費のあらかたは片が

ついてしまい、オープン後も 『 こんなに儲かっていいのかね。』と話をする

くらい現金が入ってきた。」との事。昭和38年頃の話である。


( えー今4月17日です。僕の勘違いがあってはいけないと今朝、母にこの

  部分を読んでもらったら 随分僕の思い違いがあったようで訂正いたし

  ます)

  まず会員さんは八十名くらい。湯本のためにも 地元の皆さんのため

  にもなると 張り切ってオープンしたのはいいけれど この土地が

  農地であったが為に 農地法に引っかかり 連日大変な心痛をしたこと。

  そして その年の冬に「 このまま行けば なんとかスムースに返済

  出来るかねぇ 」と話をしていたら ものすごい大雪で建物全部が倒れて

  しまい それから何年も返済に苦労した事・・・・などなど

  ジックリ聞かされました。大変失礼しました。 僕の記憶にあった

  練習場も そういえば 事務室の天井は 確かに無かったなぁと思い

  出した次第。地元の方で もしこの部分を読まれてた方がいらっしゃれば

  どうぞ お許しくださいませ。)


湯本に帰って 旅館組合に挨拶に行った翌日 何かの打合せで再度寄った

時に 当時の 旅館組合青年部の大先輩がお二人で 「 えー天気じゃのう

。」 「 そうじゃのう。」 「のう チンスイさん。ティシャツを持っちょってじゃ

ろう。持っておいでーや」 「 はい 」と我が家に帰ったが 釣りかどこかの

名所につれて行ってもらうくらいの気持ちであった。車に乗せられて着いた

のがゴルフ場。「 えーっ、素振りもルールも知りませんよ。 」とたじろいだ

が「 そんなことはなかろう。お父さんは 練習場もされよったし、なかなか

上手いプレイヤーのはず 」と譲ってもらえない。 実は 大学生時代に 

父との会話で「 この前 久しぶりにゴルフをしたら 休憩時間に となりの

テーブルでは ビールは飲むは 大声で話をするは、行儀が悪すぎる。

僕たちがプレーしている頃には スタートと終了時には 帽子を取って

『 よろしくお願いします 』 『 有難うございました 』 と挨拶していたくらい

なのに。」と随分憤慨していた。 「 今頃 そんなことを言ったって。一緒に

行く人がいなくなるよ。」と僕も母も反論した事があるが 「 いいや もう行く

ことはない。」と妙にかたくなだった事がある。一つには以前のようなプレー

が出来なかったいらだたしさもあったのではないかと思うのだが 父と同じ

世代の 当時の社長さん達があまり取り組んでおられなかったので 一回

ほど「 一度 体験だけでも 」と無理にお誘いして 大笑いで帰ってきた時

と僕と二人だけで行った数回くらいしか行っていないはずである。


この話も話題は尽きませぬ。いずれ いずれ。


で結局 随分前に 地元の 長門市危険物安全協会の総会がらみのコンペ

でなんと ホールインワン をやってしまい 大義名分が出来たので止めま

した。打ってすぐ よし ニアピンは取ったぞ とボールの行方を追って

ましたら左からの強い風にピンの旗がたなびいていまして そのど真ん中に

当たり まっすぐ下に落ちて 左方向に二回転位してポトリと穴の中に。

いわゆる 「 旗包み 」とかいう入り方。

その頃はゴルフも正直 食傷気味で、なにせ多いときには一週間に4日

行ってたくらい。40台のスコアの時にはがっくりしていたレベルでもあった。

 これからは海のスポーツ。そろそろ縁切りしたいと思っていたから、後日の

披露パーティで これまた張り切って会費2000円で企画したら「 お前は

旅館だからいいよ。でも これからホールインワンやってもこんな対応は

出来ない、ってみんな嘆いているぜ 」と同級生から有難い忠告。

当日も そう挨拶して おことわりしたはずだが 改めて 申し訳ありません

でした。そして 有難うございました。


65. 岩国にて

昨日 会合で岩国に行った。

いつもは 車で行くのだが まだ そこまでは無理かもしれない、と新幹線を

使った訪問にした。もし時間が残ったら 錦帯橋の桜でも観てみようか、という

下心もあった。今までまるで知らなかったが 新山口駅で地図をみていたら

新岩国駅に 清流錦川線が接続していること、それが岩国駅まで続いている

ことを学習したのでした。 新幹線から観える岩国城界隈が 只ならぬ渋滞で

あることが判明。 こんな時には やはりタクシーやバスより列車だな、と、

初めて錦川線に乗ってみる。接続している御庄駅は 無人駅だったが

以前は 駅のプラットホームを挟んで駅構内は複線になっていたらしい。

このうちの一方が廃線で 人が歩ける( 勿論 本当はいけないはずで )状態

になっていた。駅から岩国とは反対方面に500メートルほど桜並木。僕たちの

小学生時分には 入学式や新学期の頃が 桜が丁度散る頃で 気持ちは

子供の頃に戻ってしばらく歩いてみた。

会合終了後 岩国駅から 今度はバスに乗ろうとしたが 臨時便が次々に

出ていながら 新岩国に行ったバスがまるで帰れずにいて いつここを出発

出来るか分からない、との事。かなり強い雨も降り出したから( これで少しは

減るかも )と様子を見ていたが そんな様子も無く 仕方なく バスを待つ。 

昔は つい気楽に気ままにタクシーを利用したりしていたが 最近の様々な

ニュースから 極力公共交通機関を使うようになっている。  錦帯橋の手前で

降りてみたが まさに人 人 ひと。ようよう河原に下りてしばらく歩いてみた。

この最近には感じたことも無かったが そういえば 桜ってこんな匂いだったなぁ、

と記憶が蘇る。屋台でたこ焼きを久しぶりに買ったものの 味は 我社一階の

ロペのマスターの方が数段美味いことを確認。やっと18時頃我社に帰った。

 

 


64. 単独行動の習慣

前章の「 63. 」で書いたが 日本を離れて 自由に行動ができるように

なると つい 一人で出かけたがる。どこの各空港でも案内コーナーに

置いてあるパンフやチラシを見て 早いときには その場で申込みをして

タクシーで出かける。勿論 ツアコンさんには機内でキチンと説明はして

いる。

始めの頃はやれ「 責任は 」とか 「 他の皆様に ご迷惑が 」とか

アレコレ忠告をうけていたが そのうちに社内での申し送りもあるようで 

「 はいはい 聞いています。気をつけて。出発は・・日の・・空港ですから

 」と 軽くいなされるようになった。

 そしてタクシーで必ず最初に寄るのは その国というか その地域に

おける戦争で命を落とされた方々の墓所である。

ハワイ グァム サイパン 台湾 返還前の香港 インドネシア マレーシア

シンガポール オーストラリア等などで焼香をさせて頂きながら お礼と

これからの行動のお詫びをして旅がスタートする。 

始めの頃は 行き先の呼び方が分からず 随分と苦労したが そのうち 

ジャパニーズ メモリアル で通じる事を知った。そして どこの墓所も

立派に整備されていて 驚くことも多かった。

どこのタクシーでも 「 あなたみたいな人は 珍しい 」と話して頂いていた

が 特にホノルルから乗車したタクシーでは 日系の方だったらしくて

「 あなたみたいな人と初めて出あった。嬉しいうれしい。ありがとう。 」を

連発され 「 僕みたいな日本人もいるって事を知っていて欲しい。 」と

応えたらぽろぽろとと涙を流されて 少々動揺したことも思い出される。

ここでおことわり。あまり上手とはいえない僕の英語であるからして 会話の

内容も 多分こうであろうと 推測の範囲であることは ご理解いただきたい。


珍しいスポーツとして体験したのをあげると

ハワイの スカイダイビング ハングライダー ハーレー借りての一人ツアー

オーストラリアの バンジージャンプ

台湾の 川下り

射撃や スキューバは あちらこちらで体験しているが ハワイで海底の砂浜

に沈む飛行機の操縦席に座ったときには 正直 涙が出た。

それぞれの思い出は いずれ 話すとして これから 出かけられる若い方

には 積極的に自分から動いて 楽しい思い出を作って欲しいと願うばかり。

豪州の 50メートルのバンジーでは マジック テープ付きのロープで足首を 

クルクルっと巻かれただけで カモーン と言われ 足首を指差して

オンリー ディス? とビビって反論。イエース、ノープロブレム、ついには 

ユーアー ヤング まで言われて飛んだが 4500メートルのスカイダイブより

怖かった。