66. ゴルフの思い出
このスポーツも「 よし、もう止めた 」と決意して2年、 実際に車のトランク
からバッグを玄関横のスミッコにほうり投げてから 早10年程になる。
今我が旅館が建っているこの場所も 僕が小学生の時分には インドアの
ゴルフ練習場であった。 父が死んで しばらくして いろいろな昔の書類を
整理していたら この練習場を設立するときの会員募集の案内と会員名簿
が出てきたことがある。 商青会での友人のお父上、あるいはおじい様の
お名前が2.3百人分出てきて ヘぇー、っと感心した。
母に聞いたら 「 そういえば 確かに この周りでは ゴルフの取組みでは
初めてだったと思うよ。募集を締め切った時点で 工事費のあらかたは片が
ついてしまい、オープン後も 『 こんなに儲かっていいのかね。』と話をする
くらい現金が入ってきた。」との事。昭和38年頃の話である。
( えー今4月17日です。僕の勘違いがあってはいけないと今朝、母にこの
部分を読んでもらったら 随分僕の思い違いがあったようで訂正いたし
ます)
まず会員さんは八十名くらい。湯本のためにも 地元の皆さんのため
にもなると 張り切ってオープンしたのはいいけれど この土地が
農地であったが為に 農地法に引っかかり 連日大変な心痛をしたこと。
そして その年の冬に「 このまま行けば なんとかスムースに返済
出来るかねぇ 」と話をしていたら ものすごい大雪で建物全部が倒れて
しまい それから何年も返済に苦労した事・・・・などなど
ジックリ聞かされました。大変失礼しました。 僕の記憶にあった
練習場も そういえば 事務室の天井は 確かに無かったなぁと思い
出した次第。地元の方で もしこの部分を読まれてた方がいらっしゃれば
どうぞ お許しくださいませ。)
湯本に帰って 旅館組合に挨拶に行った翌日 何かの打合せで再度寄った
時に 当時の 旅館組合青年部の大先輩がお二人で 「 えー天気じゃのう
。」 「 そうじゃのう。」 「のう チンスイさん。ティシャツを持っちょってじゃ
ろう。持っておいでーや」 「 はい 」と我が家に帰ったが 釣りかどこかの
名所につれて行ってもらうくらいの気持ちであった。車に乗せられて着いた
のがゴルフ場。「 えーっ、素振りもルールも知りませんよ。 」とたじろいだ
が「 そんなことはなかろう。お父さんは 練習場もされよったし、なかなか
上手いプレイヤーのはず 」と譲ってもらえない。 実は 大学生時代に
父との会話で「 この前 久しぶりにゴルフをしたら 休憩時間に となりの
テーブルでは ビールは飲むは 大声で話をするは、行儀が悪すぎる。
僕たちがプレーしている頃には スタートと終了時には 帽子を取って
『 よろしくお願いします 』 『 有難うございました 』 と挨拶していたくらい
なのに。」と随分憤慨していた。 「 今頃 そんなことを言ったって。一緒に
行く人がいなくなるよ。」と僕も母も反論した事があるが 「 いいや もう行く
ことはない。」と妙にかたくなだった事がある。一つには以前のようなプレー
が出来なかったいらだたしさもあったのではないかと思うのだが 父と同じ
世代の 当時の社長さん達があまり取り組んでおられなかったので 一回
ほど「 一度 体験だけでも 」と無理にお誘いして 大笑いで帰ってきた時
と僕と二人だけで行った数回くらいしか行っていないはずである。
この話も話題は尽きませぬ。いずれ いずれ。
で結局 随分前に 地元の 長門市危険物安全協会の総会がらみのコンペ
でなんと ホールインワン をやってしまい 大義名分が出来たので止めま
した。打ってすぐ よし ニアピンは取ったぞ とボールの行方を追って
ましたら左からの強い風にピンの旗がたなびいていまして そのど真ん中に
当たり まっすぐ下に落ちて 左方向に二回転位してポトリと穴の中に。
いわゆる 「 旗包み 」とかいう入り方。
その頃はゴルフも正直 食傷気味で、なにせ多いときには一週間に4日
行ってたくらい。40台のスコアの時にはがっくりしていたレベルでもあった。
これからは海のスポーツ。そろそろ縁切りしたいと思っていたから、後日の
披露パーティで これまた張り切って会費2000円で企画したら「 お前は
旅館だからいいよ。でも これからホールインワンやってもこんな対応は
出来ない、ってみんな嘆いているぜ 」と同級生から有難い忠告。
当日も そう挨拶して おことわりしたはずだが 改めて 申し訳ありません
でした。そして 有難うございました。