「空中ブランコ」を読んでから、奥田英朗を続けて読んでます。

これまた、NYに行って迷わず手にした一冊。

面白いな。やっぱり。

でも、「空中ブランコ」の方が面白かった。

順番に読めたら一番良かったのだけど、そうは行かないのが悲しいところ。


こちらもとにかく人間の滑稽さが可愛くて、愛しくなる一品。


あははは。ヽ(゜▽、゜)ノ


って声に出して笑うほどではないけど、思わず、


くすっ。( ´艸`)


ってなる。


それにしても、精神医学って何でも病名つけるんだなっていうのが正直な感想。

世間一般でいうと精神病というと、今目立って多いのが「鬱病」みたいだけど、

「○○依存症」で何かに固執し過ぎる人の事を病気にしてしまったり、

全てに病名がつけられてしまうのもどうなのかなぁ?

これって、何かに対してずば抜けた知識をもったり極度の嗜好を持った人に対して

「○○オタク」っていうのと変わらない次元ですね。


そんな私も実は「先端恐怖症」手裏剣 なる神経病を持ってます。


昔、誰かのエッセイでファンの方にサインを頼まれて自分の万年筆で書こうとしたら、

「サインペンで書いてください」と、持参したペンを渡されて書かされたそうです。

実はその方、先端恐怖症で万年筆などの尖った筆跡を読む事が出来ない人だった、

というエピソードを読んだ事があります。


私はそこまで酷くはないのですが、剣山や毬栗などをまともに見る事が出来ません。

でも、不思議なのですが針一本ならまだ大丈夫。

針山になるとダメみたいなんですね。

ハリネズミも見れないし、シャーペンの芯が固まっているのを見るのもダメ。

でも、一本ならまだ何とかなるんです。

なんなんでしょうね??


以前、友達にそんな話をしたところ、


「『先端恐怖症』は幼い頃に両親のHを見た子供がよくなるんだよぉ」


と言われましたが、私にはそんな記憶は皆無です。


私が思うに、中学生の時、通学途中に 毬栗 が頭に命中した事がきっかけのような気が・・・。

本当に痛くて、しかもそんなものが頭に落ちてきた事がショックで、学校を休んだ記憶があります。

トラウマですか?


う~~~~ん、想像しただけで眉間が痛い・・・。


とにもかくも、私のこの「先端恐怖症」も含め、本来なら深刻な現代特有の精神病なんだけど、

ユーモアを交えて笑い飛ばしてしまうこのエンターテイメント性が清清しい。

本人にとっては、また読者の方で真剣にこのような問題に直面している方にとっては

不愉快極まる所はあるのかもしれないけど、

本人以外の人間としては、実際、こんな感じにしか感じていないし、笑い話の延長でしかないんだよなぁ、

と反面教師(使い方が違う気がしますが・・・)的要素はある気がします。


「今あなたが悩み苦しんでいる事柄は、こんなにユーモアに溢れる些細な事なのですよ。」


そんな意味合いが無きにしも非ず?


それより、今回収録されていた「フレンズ」を読んで、

昔、ダウンタウンのまっちゃんと、Smapの中居君主演で放映されたドラマ

「伝説の教師」 を思い出しました。


あれでも 「本当の友達とは何ぞや?」  なるお話がありましたね。


携帯に何百件ものメモリーを持ち、趣味嗜好が合う友達を「ソウルフレンズ」と呼びつつ、

携帯だけで繋がっている「友達」を「本当の友達」と勘違いしている。


「先生、友達いないのぉ?」


その一言に切れたまっちゃんが、その生徒を拉致し携帯のメモリーに入っている

「ソウルフレンズ」一人一人に連絡をしていく。


「彼女を拉致しました。」 


一人一人、生徒の携帯からメモリーが消えていく。

最後の一人に電話をし終えても、誰も助けに来てはくれない。


「もういいよ。」


そういう生徒の元に、「ダサくて、暗くて、いけてない」というだけで縁を切ってしまった

昔の友達たった一人が助けにくる。


「10個そいつの悪い所を言えて、

それでも友達でいれたら、それが本当の友達。」


まっちゃんのその台詞を何となく思い出してしまいました。




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東野圭吾の傑作ではないでしょうか。

今まで、彼の作品は随分と読んできましたが、その中でも秀逸な一作。


二人きりの兄弟。兄は弟を大学に入れてやりたいという一心から強盗殺人を犯してしまう。

そんな兄は服役中、弟宛に月に一度手紙を送り続ける。

その一方、弟は進学、就職、夢、恋人と全てにおいて強盗殺人犯の弟という事で、

差別を受け続ける暮らしを余儀なくされる。


こちらもネットのレビューであらすじは頭に入ってはいたのだけど、

このような難しい題材を著者がどのように完結させるのかにとても興味があった。


というのも、数年前に「『少年A』この子を産んで」という、

あの日本全国を震撼させた神戸少年 殺害事件の両親が書いた手記を読んだから。

特に少年犯罪に興味があるとか、そういった事には関係なく、

読む本が無くて、とりあえず借りて読んだだけだったけど、かなり衝撃的だった。



犯罪者の家族というのは、自分の家族が加害者になった時、

何を思い、何を考え、どう行動できるのか。

読後、悲しいくらい、彼のご両親の存在が歯がゆかったのを覚えている。

親としての責任は当然だけど、それ以上に自分の子供を理解できなかった事に、

終始苦しんでいる事が、あぁ、人間って本当に弱いな、って思った。



「自分の家族はそんな事をするはずはない。」



そんな詭弁は通じない。

私の家族だって、絶対人殺しなんかしないと思うけど、それさえ未知の世界。

もしかしたら、殺人犯になるかもしれない。

ならない事を祈るし、私は家族を信じているし、愛しているから、

私自身は家族を悲しませるような事は(倫理的にですが・・・)、絶対しない。

でも、その愛する対象が変わってしまった時、自分が犯罪者にならない可能性はない。



愛するがゆえ、殺人を犯す。

愛する人を守るため、殺人を犯す。



これって、どう対処したらいいのでしょうか?



人は殺したくない。

でも、もし私の大事な人を苦しめたり、悲しませたりする人がいたら、

私は、人を殺す事も厭わない気がする。



実際、私は過去に一度、殺意を覚えた事がある。

もし、本当にその人が私の大事な人をもう一度苦しめる行為をしたら、

その人を確実に傷つけた。



犯罪者になるのも、ならないのも紙一重。

それを押さえているのが、人間がもつ「理性」であって、

「倫理観」で、「社会性」なんだと思う。




社会がある限り倫理観は植えつけられ、それを守る為の理性を働かせる。

それが人間。



もし、その方程式が間違った答えを出した時、人は犯罪者になる。



そして、その犯罪者が自分の家族だったら・・・。



自分なら・・・なんて仮定はあえてしない。

それでも、東野さんの「差別」と「逆差別」の定義には

悔しいけど納得せざる終えなかった。



差別をしてはいけない。

その道徳観から、周りの人間が差別を受けるべき人から

逆に差別を受けている環境を作り出してしまう。



アメリカのような多人種国家にいると、痛いほどその意味が解る。

例えば、黒人。

はっきりいって、彼らを差別する事が今は周りの人間にとっての害になる。

彼らを明瞭に差別する人は、今の時代、いない。

それでも、歴史が彼らを差別し続けている。

それは黒人以外の人ではなく、黒人自身が自ら差別する環境を未だに作ろうとしている。

強者でいるよりも、弱者でいるほうが楽な事を彼らは覚えてしまっている。



「僕らが黒人だから」



違うよ。と言いたい。

それにすがって、それに拘っているのは黒人自身だと気づかない。

就学率が悪いのも、就職率が悪いのも、失業率が高いのも黒人だからと思い込もうとしている。

本当は自分達が怠惰なだけなのに、それを認めようとしない。



私だってアジア人さ。マイノリティさ。

未だに「Jap」呼ばわれする事もあるさ。

でも、私は怒らないし、不機嫌になったりもしない。

内心、気分は悪いけど、馬鹿はほっとく。

自分の成績が悪い事も、就職活動が上手くいかない事も人種のせいになんかしない。

自分の能力を先ず始めに疑う。



すべては自分次第だと私は知っているから。



差別する人間も、差別される人間も、どちらが正しいとも、間違っているともいえない。

それでも、はっきりしているのは、全ての人間には選択肢があり、決定権がある。

誰かの幸せや権利を奪う事はおろか、命を奪う権利だってない。

何が自分にとって、大事な人にとって幸せなのかを考えた時、

人は本当の意味でのその大事な人を守る強さや優しさ、思いやりを持てる気がする。

そんな事を考えさせてくれた作品でした。





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金城一紀の「対話篇」を読みました。

以前から読みたかったのですが、なかなか手に入れる事が出来ず、

NYに行った際にようやく出会えた一冊。


ネット上で交わされるレビューで期待はしていたのですが、

星で言ったら星星星ぐらいかな・・・。


実は、「恋愛小説」は先に映画で見てしまって、

内容も落ちも知っていたので、映画と原作の違いを知った、

みたいな感じになってしまったのが残念。


それでも、やっぱりお話の内容は印象深かったです。

自分と関わった人間が次から次へと亡くなっていく。

それ故、周りからは「死神」と呼ばれ、孤独を余儀なくされた青年が恋に落ちる。

その恋人の一言がとても印象的。


「いくら親しい人がいたとしても、

会わなくなったらその人は死んじゃうのよ。

-たとえ思い出の中で生きていてもね、

いつの間にか死んじゃってるのよ。」


アメリカに来て早5年半。

日本にいる友達との繋がりがどんどん薄くなっているのを

身をもって知っている私としてはとても切ない言葉だった。

確かに、もう生きているのか死んでいるのか解らなくなった友達がいっぱいいる。

一緒に過ごした時は、泣いたり笑ったり、随分したものだけど、

そんな思い出はあっても、実際の友達の姿は目に見えない。


悲しいくらい、人との出会いと別れの運命性を私は信じている。

もしも・・・の世界で出会った人と、出会わなかった人がいる事を日々感じている。

あの日、あの場にいたから出会えた。

あの時、あの場所で決断をしたから別れた。

そんな時間軸の運命性を私は享受している。


そう、運命とは自分で作り出しながらも流されていくものだと思う。


「対話篇」は死を根底に、人との出会いと別れを記憶と思い出で紡いだお話だと思う。

そして、そこには人生において出会い、別れていく人々の運命がある。

でも、それは偶然ではなく、自分自身で作り出した必然だと思う。

元からあった運命というレールに沿って過ごしてきたのではなく、

一つ一つ自分で決めた決断の上でレールが敷かれ、その上の歩むのが

運命に支配された人生なのだと思う。


その答えは、「対話篇」の最後のお話「花」で証明されている気がする。

死を選ぶのも、生きるのを選ぶのも、全ては主人公自身の決断に任されている。

たとえそこに潜む悲しみや、後悔や、絶望があっても

人は自分の人生においての決断を迫られ、下す。

思い出も、記憶も、失敗と後悔の連続だったとしても、

自分のものである以上、それは愛しさで溢れている。


鼻の奥がつんとする切なさの中に、優しさがある、

そんな本に出会えて良かった。




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何とか無事に2日間のNY滞在を終えて、

いざ帰ろうとしても上手く帰れないのがアメリカ。


覚悟はしていても、やっぱり、つっこみたくなる。


まず、道に迷った。

自分のミスだけど・・・。σ(^_^;)


グレイハウンドを使ってのボストン-NY間の移動はメジャーだけど、

だからこそ穴がいっぱい。


私の変な思い込みで、バスステーションが見つからなかった・・・。


ずっとグランドセントラル発着だと思っていたんだけど、

バスステーションがない!?(-"-;A


えぇーーーーーーーーーーー!!!!


なんで??なんで??なんで??。(;°皿°)


駅構内を歩き回っても、案内図を見てもどうしても見慣れたステーションの影が無い。


だったらちがうだろう!\(*`∧´)/


って思うんだけど、思い込んだら人は意地でも見つけたくなるのが性。


結局、構内を20,30分彷徨した挙句、やっと観念して人に聞いてみたらびっくり。


「34STだよ、それ」


まじでぇーーーーーーーーー!(@ ̄Д ̄@;)


私がいるところから10ブロックは離れている。

これから重い荷物を持って、10ブロックも下る体力はない。

それ以上に、絶対に42St沿いにあったはず、の思い込みが邪魔をする。


うーーーーーーーん・・・  (-"-;A


迷っていたら、目の前に交通整理をしているポリスが!


「8Th Aveだよ。ここを下っていけばあるよぉ。」


やっぱり42Stであってんじゃん。

でも、それでも遠い・・・。


な~んて、迷っている暇は無い!!

出発時間が迫っている。

せっせととりあえず黙々と歩き続ける。

5Th Aveを超え、タイムズスクエアを超え、

ひたすら、てくてくてくてくてくてくてく。


と、見覚えのあるビルが目の前に!!


おぉぉぉぉぉぉ~~~~~~~。キタ━━━(゚∀゚)━━━!!!


時計の針は出発30分前。

急いで、生理現象を解消し、水と非常食(キャンディバー)を買い求めゲートへ。

この時点で、出発10分前。


せーーーーーーーーふ!A=´、`=)ゞ


バスに乗り込む乗客の列の最後尾に並ぶ事数分。


「定員オーバーだから、さがってぇ。別のバスをよういするからぁ」


らっき。( ̄▽+ ̄*)


待つ事10分。来ない。

20分。来ない。

30分。来ない。


おいおいおいおいおい・・・。( ̄Д ̄;;


周りの乗れなかった人がいらいらし始め、次の時間のバスの予約の人が現れ始め、

現場は若干険悪ムード・・・。


と、横のゲートから別のバスのボーディングが始まった途端に、

乗れなかった人の堪忍袋が・・・。


係員に詰め寄る乗客たち。


そうだ。そうだ。いってやれ。


で、妥協案が他の行き先のバスに同乗しての出発。


なんやかんやで乗れたのはいいけど、経由地4つって・・・。


当初の予定では1時にはボストンに到着はずだったのに、

結局、3時。


マジ疲れた。


まぁ、無事に着いたからよしとするか。


ちなみに他の乗客は、ボストン到着後何やらクレームをつけてたけど、

私は無視して、帰った。

夜中の3時に誰かと口論する元気なんかありませぇ~ん。






夕べ、NYからボストンに帰ってきました。

やっぱり自分の家があるボストンが一番だなぁ、としみじみ。


さすがNYだけど、やっぱり都会は疲れる。

ボストンも都会だと思っている人、多いみたいだけど

ただの地方都市だし、大学都市だし、NYの比じゃない。


交通機関も目が回るぐらい多いし、人もいっぱい、観光客もいっぱい。

いっぱいが多すぎて、おなかいっぱい。


それはそうと、雨 雨 だったのがつらかったぁ。

ビル風なのか、傘を差してても下からも雨が降ってきて参った。

それでも、何とか就職活動をしてきましよ。

成果はというと・・・

何と 祝日 仮採用!!


すごいね、やったね、私。


いきなり面接した人が運良く社長さんで、話をしている内に


「いいよ、おいで。」


まじでぇーーーーー!!(ノ゚ο゚)ノ


とりあえず、2週間の査定研修を受けてお互いを見て決めましょうって事になりました。


といってもボストンに家がある私にしたら2週間NY滞在はなかなかの関門。

で、頼りは友。


就職活動はもちろんだけど、もう一つの目的は

ここボストンでルームメートを通じて知り合ったピアニストの演奏を聞くこと。

NYのホテルのラウンジでレギュラーの仕事を確保した彼女。

出会いはたまたま家に遊びに来ていただけ。

即興でルームメートと二人でセッションをしてくれて、もう目から鱗。

カッコいいの、なんのって。

バークリーを筆頭に音楽学校がひしめくボストンと言う土地柄、

様々なミュージシャンの演奏を聞く機会があったけど、

彼女の演奏はその中でも群を抜いて素晴らしい。

女性が持つ繊細なタッチに加え、絶妙なダイナミックスとパワー。

技術が素晴らしい人は一杯いるけど、技術を超えて

ピアノが好き、っていうのが音に現れていて、聞いているこっちが

思わず微笑んでしまうような演奏。

今回の彼女の演奏もそれに答えるかのように素晴らしかった。

でも、ファンキーを擬人化したような私のルームメートと二人での演奏を目の当たりにしている私には、

ちょっと、物足りなかったかナァ。

また、二人のセッションを聞きたいです。

あれは私の人生の中でも最高の瞬間だったナァ。

今まで色々なアーティストのライブにいって、それなりに有名な箱で聞いてきたけど、

私の人生の中でベスト1の演奏。

恥ずかしいから、二人にはそこまでは言っていないけど・・・。


そんな彼女に、実は相談が・・・、っていう事で紹介してもらって、

何とか2週間のNY滞在先を確保。


本当に持つべきは友達。


という事で、早ければ今週、来週の初めにはNY Again。


疲れるが、それもまた人生の通過点と思えば、たいした事無いね。


でも、たいした事があるのがアメリカ、なのよねぇ。






今週の初めにルームメート(以下RM)が日本へ一時帰国。

本当は月曜日に出発の予定が、火曜日に。

そうです。乗り遅れたのです。

前日、朝方5時まで仕事に追われていたRM。

さてさて、荷物の整理を・・・と腰を落ち着けた途端、意識が無くなったそうです。


「貧血おこしちゃったよぉ。気が付いたら3時間たっててさぁ。あははは。」


貧血じゃなくて、「気絶」じゃん!!


日本に帰るまでに終わらせなければいけない仕事に追われ、

連日不眠不休の日々。

何とか仕事を終わらせられた安心感からか、気が抜けたと同時に意識まで無くしたRM。


「一日休みができちったぁ。」


空港からののほほん声には破顔しつつも、帰ってくるはずのRMが帰ってこない!?


実は途中友達の家によって、「インターネットしてきた」とほざき、

「夜に仕事いれちったぁ」とのたまう。


「ねろよ!!!」


頑張り屋の君は素晴らしい。

でも、体調管理にも気を配ってね。


とにかくも、無事、日本へと旅立っていったRM。


そして、私はNYへ。


今日から2泊3日。就職活動の旅。


宿泊先が上手く見つからず焦りつつも、

知り合いを紹介してもらって、なんとか落ち着く先を確保。


これで、上手く職も決まればいいのだが・・・・。

世の中、そんなに甘くないしなぁ。


出来れば、ボストンを離れたくない私。

ボストンに住みつつ、自分のやりたい仕事が出来る道はないか。

妥協も必要、と思ってはいても、諦めきれない自分がいる。

潔さも必要だけど、粘りも必要よね。


あぁ、やっぱり自分の考えは甘いなぁ。

反省する前に、とりあえずは実効あるのみだね。



2年前。

今のアパートに引っ越してきたばかりの頃。

大学都市として名高いボストンでは、

9月の学校の始まりにあわせて一斉に引越しが始まる。

みんな8月31日までのリースにあわせて家を出、

9月1日の入居を目指して町が動き出す。

様々な大きさのU-hallのトラックが徘徊しては目的のアパートの前を陣取り、

それはそれは恐ろしい交通渋滞に巻き込まれる。

基本的に、Walking Cityと呼ばれるボストン内では

西海岸と違って車を持つ必要性が全くない。

実際、車を持っている人たちも必要性に駆られて、というよりは

ステータスの為に持っているようなものだと思う。

事実、ボストン内では西海岸に住んでいた頃に見たようなオンボロは見かけないし、

車に疎い人間でも一般常識的に知っている高級車が

狭い上に一方通行の迷路と化したボストンの道を行き交っている。

フェラーリを路肩に止めて、オープンカフェでお食事、見たいな光景が普通に見れる。


卑しい町だ。


ボストンに着たばかりの頃は、本当にそう思った。

人が優しくない。自分本位で周りを省みない。我侭で陰湿。

西の穏やかな時間に暫く体を浸した身としては、

グローサリーストアのキャッシャーが「Hi」を言ってくれないだけで、悲嘆にくれた。

アメリカ人だけではなく、同胞である日本人同士で交わされる

人を蔑むような視線や態度にも途方に暮れた。


東海岸は私が住む場所ではない。


辛い辛い日々。

一人暮らしにピリオドを打って初めてのルームメート付きの生活を選んだのも、

レントやユーティリティが半分になるという利点とは別のところで

もう少し人との交わりを持ちたかった。

幸い、人好きをするルームメートで、多少のトラブルはあったものの、

大きな諍いになる事もなく、安定した生活を送ってきた。


あの日から2年が経っている。

偶然で手にした一冊を今まで手にする事が無かった。

というのも、私が手にしたこの一冊は3部作のど真ん中、2部目だったから。

出来ればちゃんと最初から読みたいと思うのが本音。

そんな理由から今まで読むことを怠けていた。


新しいアパートへの引越しの途中だったのか、

引っ越し終えたばかりの頃だったのか、記憶は定かではないが、

とりあえずアパートの裏に添えられているガベージスペースにゴミを捨てに行った時、

日本語の本が何冊か捨てられていた。

咄嗟に損傷が比較的少ないいくらかの本をこっそり持ち帰った。

「地球の歩き方」と数冊の小説。その中の一冊が「The Lost Boy」だった。

前評判で、本の内容は大体想像できた。

児童虐待。

悲しいけど、アメリカを筆頭に、どの国でも両親に虐待を受けている子供は実際にいる。

特に興味がある分野でもないし、福祉精神の乏しい私は遠い話としか受け止めていない。

それでも、10代から20代前半にかけて何故かそういった類の本を多く手にしてきた。

ダニエル・キイスの「ビリー・ミリガン」から、トリ・ヘイデンの「シーラという子」。

どれも、幼い頃の両親からの虐待により人生を虐げられてきた人達の話。

何故、あの頃、児童虐待やら心理学関係の話を手にしてきたのか、

今となっては思春期特有の興味以外にないのだろうとしか思えないけれど、

読むことによって思慮を深めるきっかけにはなっていると思う。


誰の話も、どんな話も辛く、悲しい。

何よりも、虐待を受けた子供達の健気さには随分と心を痛めた。

それ以上に、我が子を貶めてしまう大人たちの不甲斐なさや不器用さに

言いようがなく切なくなった。


生まれながらに悪い人間はいない。


誰も悪くはない。


犯罪を犯した人たちも、犯罪を犯すまでの道程でなにかしらの困難を抱えている。

貧乏でも裕福であっても、賢くてもそうでなくても、

どこかで糸が切れてしまうキッカケが潜んでいる。


いじめの問題にしても、いじめる側が悪で、いじめられる側が善とはいえないように、

全ての物事はシンメトリーであるが故、リアルに繋げられる事はない気がする。


虐待した親は犯罪者で、子供は被害者。

その方程式を覆す事は出来ない事実。

それでも、それだけではない人間の複雑なオブセッションが絡み合って、

人と人とがコミュニケートする上で単純さを失っていると思う。


加害者と被害者、どちらの味方にも敵にはなれないし、中立の立場になるつもりもない。

ただ生まれながらにメビウスの輪の中で、始まりと終わりを繰り返している

人間の儚さと滑稽さを思って、少し憂鬱になった。






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「平岩弓枝氏」の本を初めて手に取った。

時代物を書いているイメージのみで、食わず嫌いをしていた。

タイトルにもある「女の河」、「女たちの家」、そして「絹の道」。

今だから読めたのだな、といのが読後評。

今以前でも以後でもダメだったような気がします。


自分の状況に置き換えて、全ての女たちに共感してしまうし、

容易にその女心が解ってしまう。

今は昔の現代もの。それでも、今に通じる人間像、

特に女の心情描写に脱帽です。


男に翻弄されて生きる事に甘んじている女の狡さ、

その中で自我に目覚める女の身勝手さ、勘違い、

優しさと思いやりに隠れる、残酷さ。

純潔である事への正当化。

女って、つくづく卑しい生き物だなぁ、って思いました。

野心とプライドだけを鎧に現代を生き抜いてきた、生きている男の方が、

単純で清潔感があるような気がしてしまったのは、

私が捻くれているからでしょうか?


「女の河」は、基本的には似たもの同士の二人の女を中心に渦巻かれた、

男達、女達の人間模様とでもいうのでしょうか。

大企業の内幕に関わる人間達の間で繰り広げられる心理戦。

これがまた、ありそうでなさそうな、はっきりいって陳腐で使い古されたプロット。

昭和50年にサンケイ新聞で連載されていた時点では新しかったのかもしれませんが、

読み飽きている感があるストーリ展開です。


それでも、続きを読みたくなる。

主人公たちに次に何が起こるのか、何をするのか、

それを期待させる筆力は流石です。(素人が何を言っている、と思いますが・・・)

それは、前記したとおり主人公達の心理描写の素晴らしさでしょうか。

読者にだけ解る彼らの気持を、彼ら自身は知る事もなく、

かといって、取ってつけたように理解するわけでもない。

実世界でもそうあるように、物思いに耽っている時の気持を他人に解られたらたまったもんじゃない。

一人思うのは、一人で思うのであって、誰かに告げない限りその思いが解る事はない。

平岩さんはそういったリアルを忠実に人物描写の際に扱っている事に共感がもてました。


あとあと話の流れを繋げる為だけに、「あれはそうだったのか!」みたいに、

誰も言っていないのに、また言う必要もなく告げたりして繋げている文章を読むと

「おいおい。」と、つっこみたくなります。


解らないものは、解らない。


だからこそ、小説という虚像の世界で主人公達が空回っていたりすると

先を読み続けたくなるモチベーションをあげてくれます。


まぁ、一つ難点は長いお話だったので忘れた頃に、

あれはあぁだったのよ、みたいに後々謎解きをしたり、

不審点に合点がいったりすると、ちょっと歯がゆいです。


推理小説じゃないんだから。


まぁ、推理小説でトリックが下手なものを読まされるよりはましですけど。







ビックリ!

日本でも「牛」のオブジェが出現したのですね。

実は、ここボストンでも「牛」のオブジェがあちらこちらにいっぱい!


聞いた話によると、始まりはスイス。

実物大の牛のオブジェに、選ばれたアーティストたちが

クリエーティブかつユーモアに溢れるペイントを施し、町中に展示。

展示後はオークションに賭けられ、そこで発生したお金は

その後のイベント費用、若きアーティストを育てる為の補助金として使われるそうです。


かつては、シカゴ、NYでも実施され、ここボストンでも行われています。

私の記憶が正しければ、去年は 「豚」ぶーぶー だったような気が・・・。


地域活性化運動の一つとして、今ではあらゆる都市で行われいて、

カナダはブリティッシュコロンビア州では 「熊」クマ だそうです。


それはいいとして、ボストンで行われたこのイベント。

確かIndependence Dayあたりから展示され始めていたような気がするのですが、

風雨に晒され、観光客に触られ、蹴られ、殴られ・・・、で、

(↑そんな跡が多数見受けられるだけで、詳細は不明です。語弊があったら、ごめんなさい!)、

ペイントは剥げているわ、傷だらけになっているわで、


こんな状態で、ちゃんと買われていくのかしら?


私も人づてにこの話を聞いたので、

同じ疑問を持っていた友達に説明した所、


「ドナドナやん。」


「・・・・・・。」



やれやれ。





詳細はYahoo Japan Newsにて↓

http://dailynews.yahoo.co.jp/photograph/pickup/?1157619029


後で、ボストンの「牛」の写真もUpします!

重松清、という作家が大好きだ。


出会いは簡単。


日本から本を送って貰う本を選ぶ為に、ネットサーフィン波 をしている際に出会った。

忘却曲線を慎重に辿りつつ、記憶をどうにかこうにか引っ張り出して思い出すと、

最初に目を惹いた一冊は、「流星ワゴン」流れ星 だったと思う。

そこから、「ナイフ」手裏剣 やら「疾走」走る人 やらの表題作をみつけた。

レビューの多さや、評価の高さから、彼の本ならどれでもいいから、

手に入るだけ送ってもらったのだったと思う。

正直、特にこれは絶対、というものはなく、読めれば良かった。

届いた荷物の中、重松さんの本だけで5、6冊は送ってもらっていた気がする。

その中でも、最初に手にしたのが「卒業」だった。

それははっきり覚えている。


というのも、私が日本に本の発注をすると、母は最低でも3日をかけて私の為に本を探してくれる。

その間、買い集めた本の中の1,2冊は、母も目を通す機会が出来る。

せっかく買ったのだから、自分も読みたいと思うのは当たり前。

荷物が届いた事を報告する為に日本に電話をした際に、

母から 「卒業」 を読んだ、と聞かされれば、読みたくもなる。

しかも、本に関わらず、全ての芸術に対して厳しい目を持っている母曰く、


「泣いちゃった。」


読まないわけにいかない。

今まで、どんなに私が良い本だ、感動した、と告げては読ませても


「若い子向けね。」


とか、


「文章が幼稚ね。」


であしらわれていたのが、「泣いた」と言うのだから。


読んで解った。

時代が、母、なのだ。

母の世代なのだ。

きっと、母は自分をそれぞれの主人公に重ね合わせて泣いたのだろう。

それを思って、私は泣いた。


「まゆみのマーチ」では、主人公の母親に、自分の母を重ねた。

どうしようもない娘で、いつも苦労をかけている自分がマユミに重なった。

何も出来ない、それでも何かをしてあげたい、そう思えば思うほど、

母の最期の時、私はこれから十分な程の親孝行をしてあげる事ができたとしても、

まだ何かあったはずだと後悔するような気がする。

幼い頃の記憶が蘇って、可愛いくらいに私を守ってくれていた母を思って、泣いた。


「仰げば尊し」が一番泣いたかもしれない。

厳格な父を持つ主人公の冷静な佇まいに、静かな悲しみと人に対する尊厳を感じた。

時期を近くして、私の父が定年退職をした。

その少し前、Smapのクサナギ君主演の「僕と彼女と彼女の生きる道」なるドラマを見ていた。

主人公の父親が管理職まで上り詰めるものの、定年間際、世代交代の為、窓際族に追いやられる。

職についていた時は、部下から慕われいたもの、降格と同時に、その人望も失う。

退職当日、時計の針が5時を射すと同時に席を立った父親に同僚、部下は小さな花束のみを渡す。


「花束、小さすぎたんじゃない?」


見てて、悲しかった。辛かった。

夜、主人公であるクサナギ君が父親に電話で「送別会?」と尋ねるものの、

実際の父親は、小さな花束をカウンターにのせ、一人酒。


以前の父親の栄光のみを信じるクサナギ君演じる主人公。

以前の父親の厳格さを知っているが故、

誰にもその死を悼んでもらえないと覚悟しているこの本の主人公。


色んな父親の姿が脳裏を駆け巡った。

自分の父親であるからこそ、信じたい。

かっこ良くいてほしい。

周りに認められる人間であってほしい。

誰からも愛された人間であってほしい。


最後のシーンでは、安堵のあまり涙が止まりませんでした。


予断ですが、私の父親は、幸い、大きな花束も貰って帰ってきたし、

ちゃんと送別会もして頂けたそうです。

本当にありがとうございました。





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