小ネタ?(書いていたら長くなった) 格差のない社会 | 秋山のブログ

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またニュース女子からの小?ネタ(2017.5.22)

格差社会の問題が取り上げられていたが、考察に経済学(主流派)の誤りが多数見られる。取り上げてみたい。

 

まずプレゼンテーションから引用する。

『裕福な8人≒貧乏な36億人』

『10人にひとりが一日2ドル以下で生活』

『格差の拡大はグローバル化と自由貿易の避けがたい副産物』

『市場における公正な競争の結果にすぎない』

『競争原理を否定してしまうと、経済は円滑に運営できなくなる』

 

この話のどこが間違っているかと言えば、公正な競争の結果であるというところだ。事実は逆で、大きすぎる利益は公正でない競争の結果なのである。大きな利益を得るためには独占、寡占、情報の非対称など、市場の失敗を利用する必要がある。競争がもし完璧なものであれば、余剰利益はライバルの存在によってどんどん小さくなるはずだからだ。莫大な富を築いた例を見れば、どれも市場の失敗によって、多くは有利な政策を実行させることによってそれが成されている。

グローバル化や自由貿易は、市場の失敗を是正する措置をやりにくくするので、格差を拡大する。逆に言えば企業が儲けたいと考えるのであれば、是正は邪魔なものとなるのだ(例えば国内の規制をし難くするTPPのISD条項などの狙いもそれだ)。多国籍企業の御用学者である主流派経済学者が、規制不要という理論を垂れ流す理由が分かるだろう。

規制をすれば競争原理が働かないということはない。むしろ必要なルールで縛らない事の方が効率を悪くすると考えられないだろうか。規制下の競争の方が優れていた例としては、日本の規制だらけの保険医療があげらえるだろう。共産主義を格差是正の例として上げるのは、是正のためにそれしか方法がないわけではなく、適切ではない。

 

この後、吉木りさ氏が『努力した人がお金をもらえる、上に上がれるというのは、私は仕方ないと思っている』とコメントしていたが、効率賃金説というプロパガンダが女性タレントにまで浸透しているのはかなり悪い状況だ。

八田亜矢子氏が『教育格差だけかなと私も思う』と言っていたのも、機会均等伝説に騙されているということである。

 

飯田泰之氏が面白い話をしていた。『若者から取って年金受給者に渡している』『日本は税金を取って分配すると何故か格差が拡大する』とのことである。ただ理解としては微妙だ。高齢者は生産する能力がないので、基本的には労働年齢の人間から援助を受け無くてはならない。一方、労働年齢層が、全ての人間が消費するモノ、サービスを生産しているのだから本来、労働年齢層は老人が消費するために必要な費用も収入としているはずなのである(実際はなっていない)。つまりこれはフローの話として理解しなくてはいけない。ところが老人が金持ちという話はストックの話である。現在の老人は搾取が少なかった頃の人間で、貯蓄可能な社会状況であったというだけのことであり、受け取るべきお金を企業や外国の株主に搾取されているために現代の労働者層には貯蓄する余裕がないこととは分けて考えるべきで、ストックを正しい状況にするためには搾取を減らして収入を上げることを考えるべきなのである。

 

岸博幸氏がいいことを言っている。「デジタル、つまりロボットやAIも格差を広げる。グローバルとデジタルが進むと、すごく賢い人、クリエイティブな人か、資本を持っている人が儲かるようになっている。金持ちから困っている人にまわす仕組みをかんがえなくてはいけないけれど、残念ながら世界中でできていない」といった内容だ。

ロボットやAIは生産能力を極端に高めるが、それを実現するためにはそれなりの資本が必要で参入障壁が高い。すなわち生産能力の向上に伴う搾取の拡大が起こりやすいだろう。ただし、世界中で改善する仕組みを思いついていないということではない。改善する仕組みを作られないように、主流派経済学がプロパガンダをおこなっているのである。赤字の財政政策(特に中下層の所得を増やすもの)によるインフレは、まさに格差を縮小する仕組みである。しかしインフレ抑制と財政均衡という誤った方針がすっかり刷り込まれ、間違った政策をとり続けている。その結果がピケティ氏が示した結果なのである。

 

この後の飯田氏の主張はたいへん残念だ。日本の貧困と海外の貧困の比較を述べている。この海外との比較や、現代の貧乏と大昔の金持ちの比較などは、主流派経済学者が貧困の問題を誤魔化そうとする時に持ち出す定番の話である。日本政府が先ずすべきは日本の問題である。

 

原英史氏がまたいい指摘をしている。「国の役割として政策的に解消する必要があるが、日本政府の政策は十分でない。日本の社会でそれを担ってきたのは企業である。」といったことを述べた。企業の変節は、米国からの誤った考えの流入による。そしてこれもまた主流派経済学者のプロパガンダが関係しているのだ。フリードマンは、企業は株主のためにある。企業は社会貢献など考えるべきではないと主張し、それが常識のようになっている。しかし米国でもそれ以前それは常識ではなかった。例えば日本でも有名なドラッカーもそれとは全く異なる主張をしている。

昔はよかったなどとあまり言いたくはないが、日本の社会のシステムに関しては、以前のものがよい。高度成長期の経済の強さを現在再現できないのは、少子高齢化のせいなどでは全くなく、新古典派のプロパガンダを信じておこなわれた制度の改悪によるものである。

 

この後の須田氏の問題発言は前回書いた通りなので割愛。

 

こうしてみると、実務経験のある元経産官僚の方が、経済学者、経済評論家(?)より本質に近づいている。産業という視点で経済を見ているので、経済の現実が分かるのかもしれない。