【古代賀茂氏の足跡】高鴨神社 | 東風友春ブログ

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高鴨神社神名帳の大和国葛上郡に「高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大社、月次相嘗新嘗とある式内社です。

 

 

高鴨神社

所在地/奈良県御所市鴨神(大字鴨神小字捨篠)Google Map

御祭神/阿遅志貴高日子根命・事代主命・阿治須岐速雄命・下照姫命・天稚彦命

 

高鴨社の祭神は「阿遅志貴高日子根命・事代主命・阿治須岐速雄命・下照姫命・天稚彦命」ですが、神名帳での社名が示すとおり、かつては味鉏高彦根神(記では阿遲鉏高日子根命、紀では味耜高彦根神)を主体として四柱の神が祀られた神社でした。

出雲国造神賀詞にも「阿遅須伎高孫根御魂葛木神奈備坐」とあり、また、旧事紀(平安前期)にも「味鉏高彦根神坐倭國葛上郡高鴨社、云捨篠社とあるように、高鴨社は味鉏高彦根神を祀る代表的な神社なのです。

ちなみに古事記では「此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也」として、つまり味鉏高彦根神を「賀茂大御神」と明記しており、このため、高鴨社は全国の鴨社の元宮もしくは総本宮だと主張している。

尚、祭神の一柱である「阿治須岐速雄命」について、高鴨社では味鉏高彦根神の御子神としているが、摂津国東生郡には「阿遅速雄神社」という式内社が存在しており、高鴨社と何らかの関係性が窺えます。

また、味鉏高彦根神以外の三座の神は古来より諸説あり、「三輪叢書」(1928)所収の「大神分身類社鈔」では、高鴨社の祭神を「阿治須岐高彦根命・阿治須岐速雄命・夷守比賣命・天八重事代主命」の四座と記しています。

この中で「夷守比賣命」については、他に見ない神名だが、同じく大神分身類社鈔「比奈守神社一座、美濃国厚見郡、下照姫命之御魂」とあり、夷守比賣命を下照姫命と関連づけています。

また、高鴨社境内には摂末社も多く、比較的大きな摂社に東神社及び西神社があり、西神社は「多紀理毘売命・天御勝姫命・塩冶彦命・瀧津彦命」を祀るが、天御勝姫命味鉏高彦根神の后神とされ、尾張国風土記逸文「阿麻乃彌加都比女」とし、出雲国風土記「天瓺津日女命」と見え、又、塩冶彦命瀧津彦命は味鉏高彦根神の御子神とされ、出雲国神門郡に鹽冶比古神社がある。

 

 

ところで、高鴨社は、釈日本紀所収の「土左國風土記逸文」によると「土左國風土記曰、土左郡、郡家西去四里、有土左高賀茂大社と見え、土佐の高賀茂大社とは、現在高知県高知市一宮に鎮座する「土佐神社」のことであるが、続日本紀によると天平宝字八年(764)に土佐から旧地である葛城に復祠されたものらしい。

 

復祠高鴨神於大和国葛上郡、高鴨神者法臣圓興、其弟中衛将監従五位下賀茂朝臣田守等言、昔大泊瀬天皇獦于葛城山時有老夫、毎與天皇相逐争獲、天皇怒之流其人於土佐国、先祖所主之神化成老夫、爰被放逐、今検前記、不見此事、於是、天皇乃遣田守、迎之令本處

【続日本紀】(797)天平宝字八年十一月条より

 

続日本紀では、高鴨社が一時期土佐国に遷座していたのではなく、高鴨神が土佐に配流になっていたことが分かる。

高鴨神が土佐に配流になった理由について、続日本紀は、雄略天皇(大泊瀬天皇)が葛城山に狩猟に出かけた際、老夫に出会うが、毎度天皇と獲物を争ったことから、天皇は怒ってその人を土佐国に流してしまうが、実は、この老夫は「先祖が主る所の神」、つまり高鴨神が化けた者だったと記している。

この記述からは、高鴨神というより一言主神の伝説を彷彿させるのである。

土左国風土記逸文にも「其神名為一言主尊、其祖未詳、一説曰大穴六道尊子味鉏高彦根尊として、土佐神社の祭神が味鉏高彦根神なのか一言主神なのか、どちらか分からないような書きぶりで、これは多くの人が指摘している所であるが、両神が同一視される問題でもある。

しかし、もし同じ神だと仮定したなら、一言主神は現人神であるし、相手があの雄略天皇なので、捕らえられて流されたとしても然もありなんとは思える。

 

 

さて、高鴨社の創始年代は不明だが、大神分身類社鈔では(第五代)孝昭天皇の御世とし、味鉏高彦根神がこの地に来臨して、神剣を祀ったことに始まると書かれています。

 

神代之昔、味鉏高彦根命弔天若彦之喪、其親尿誤亡者、則忍抜大葉刈剣喪屋、然後来臨于此地焉、大葉刈剣、蔵齋社後、於今而焉、孝昭天皇御于造神殿齋祭

【大神分身類社鈔】大神朝臣家次(文永年間1264~1275成立)より

 

この大葉刈剣は、記紀には味鉏高彦根神天稚彦の喪を弔問する場面に登場します。

 

是阿遲志貴高日子根神、大怒曰、我者愛友故弔來耳。何吾比穢死人云而、拔御佩之十掬劒、切伏其喪屋、以足蹶離遣。此者在美濃國藍見河之河上、喪山之者也。其持所切大刀名、謂大量、亦名謂神度劒

【古事記】太安万侶(712)より

 

この場面では、弔問した味鉏高彦根神が、天稚彦と瓜二つの容貌だったため、天稚彦の親族妻子から死者と間違えられ、これに怒った味鉏高彦根神は、喪屋を斬り伏せ足蹴にして出て行きます。

古事記は、この喪屋を斬り伏せた剣を「大量(おほはかり)又は「神度剣」とし、日本紀では「則拔其帶劔大葉刈、刈、此云我里、亦名神度劒として、この剣を「大葉刈(おほばがり)と呼んでいます。

 

 

ここで連想するのは、葛城にあったとされる「高尾張邑」です。

高尾張邑は、日本紀「又高尾張邑、或本云葛城邑也、有赤銅八十梟帥」とあるが、実際に葛城の何処に在ったのか不明で、「尾張」とは元来、開墾された土地もしくは山の尾根が張り出た地形から名付けられたと考え、段丘状になった葛城山腹のどこかに在ったのだろうと思われてきました。

しかし、「尾張(おわり)は、味鉏高彦根神の神剣「大葉刈(おほはがり)が転訛したものではないだろうか。

葛城では、高鴨や高天や高日子など「高」という文字に何らかの意味があるが、高尾張の「尾張」については、この「大葉刈」の剣を祀ったことに由来すると考えるのです。

高鴨社の近くに「伏見遺跡」と呼ばれる縄文時代の集落跡が発掘されていますが、そのような集落がかつての高尾張邑だったかもしれません。

そして、この高尾張邑を出自としている氏族に「尾張氏」がいます。

尾張氏は、賀茂氏葛城氏とは先祖を辿るとほぼ同族か、とても近い血縁関係にあって、各氏族の居住地が近接していたと考えるより、高鴨社を崇拝する高尾張邑に同居していたのではと考えるのです。

布都御魂剣神武帝に献じた高倉下命の裔である尾張氏と、葛城国造となった剣根命を始祖とする葛城氏とは、「剣」に関して不思議な共通点を持っているからです。