【古代賀茂氏の足跡】高倉下命と尾張氏 | 東風友春ブログ

東風友春ブログ

古代史が好き。自分で調べて書いた記事や、休日に神社へ行った時の写真を載せています。
あと、タイに行った時の旅行記やミニ知識なんかも書いています。

 

古代の葛城はもともと「高尾張」と呼ばれていました。

日本紀では、高尾張を根城としていた部族について「赤銅八十梟帥」とも記している。

 

倭国の磯城邑に磯城八十梟帥有り。又、高尾張邑(或本に云う、葛城邑なり)赤銅八十梟帥有り。此が類は皆天皇と距ぎ戦わんと欲す。

【日本書紀】舎人親王(720)神武天皇より

 

谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で、鍛治屋との関連性に触れながら、赤銅の八十梟帥とは「古代の鋳銅者の姿をまざまざと思い浮かべる表現」だと書いています。

これは、古代日本の製鉄や製銅の歴史が神武東征以前に遡る可能性を示唆するものであり、もしかすると、長髄彦孔舎衛の戦にて神武軍を迎え撃った際、「五瀬命、御手に登美毘古が痛矢串(いたやぐし)を負いたまひき」とある「痛矢串」とは、金属製の鏃を用いたものだったかもしれない。

そして、長髄彦が河内大和の二カ国で神武軍を迎撃したことは、生駒山地及び金剛山地の東西に渡る地域を勢力圏としていたことを意味している。

「住吉大社神代記」「葛城山は元の高尾張なり」とあるように、葛城山全体が高尾張であり、赤銅八十梟帥の根拠地だったのではないだろうか。

古代、高尾張を居住地としていた集団は、栗などの山の幸を得るだけでなく、道具に加工するための木材や鉱石を採集する知恵を持った山地民であって、いわゆる「山幸彦」だったのかもしれない。

 

この高尾張を出自としている一族に「尾張氏」がいます。

尾張氏は、尾張国造熱田神宮の大宮司家で広く知られていますが、姓氏録には「尾張宿禰」「尾張連」と見え、日本紀一書に「天火明命の児天香山は、是尾張連等が遠祖なり」とあるように、「天火明命」及び「天香山命」の子孫と称している。

この天火明命は、古事記「邇芸速日(にぎはやひ)命」日本紀には「櫛玉饒速日命」とあり、記紀では神武東征時に登場する神のことです。

天火明命は、饒速日命とは別神だとの説もありますが、旧事紀に「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」とあり、同一神と見なされています。

天火明命を祖神とする尾張氏、饒速日命を祖神とする物部氏とは、祖神を同じくする同族なのです。

そして天香山命は、天火明命の子神であり、旧事紀では「天香語山命、天降りての名は手栗彦命、亦は高倉下命と云ふと記され、一般的には「高倉下命」の別名とされています。

尚、「丹後風土記残欠」には天香語山命天村雲命が丹後国の伊去奈子嶽に天降る説話を伝えており、天香語山命の伝説は丹後国はじめ各地にあって、歴史上の人物というより神話上の存在に近く、高倉下命とは別神だという所伝もあります。

天香語山命と別神であるかどうかは、この際さておき、高倉下命は、神武東征の物語に登場する人物です。

 

この時熊野の高倉下(たかくらじ)、一ふりの横刀をもちて、天つ神の御子の伏したまへる地に到りて献りし時、天つ神の御子、すなはち寤め起きて、「長く寝つるかも」と詔りたまひき。故、その横刀を受け取りたまひし時、その熊野の山の荒ぶる神、自ら皆切り仆さえき。

【古事記】太安万侶(712)より

 

九州から遠征して来た神日本磐余彦(後の神武天皇)は、孔舎衛の戦にて五瀬命を失うなど痛い敗戦を経験します。

太陽に向かって戦をする不利を痛感した神武軍は、海路を迂回して、紀伊国の熊野村に上陸しますが、熊野の神の毒気にあたり倒れ伏してしまいます。

そこに、建御雷神の夢のお告げによって、横刀(日本紀では剣)を献上するために、高倉下命が現れます。

神武軍はこの後、八咫烏の導きによって現在の奈良県宇陀市に抜け、長髄彦軍の背後に回ることに成功します。

この時まで大和では、饒速日命を推戴した長髄彦の軍や、在地の豪族たちが頑強に抵抗していました。

見方を変えれば、高倉下命は、饒速日命率いる物部氏族の中で、一番最初に神武側に協力した人物だとも言えます。

しかし、神武東征の論功行賞に高倉下命の名は見えません。

高倉下命は、紀伊国の熊野邑に住していたとされるが、神武東征後に高尾張邑に移住したのか、熊野邑以前すでに高尾張邑に住していたのか不明です。

しかしながら、旧事紀尾張氏系譜では、葛城と関わりある人物が登場するので、少なくとも神武東征後には、賀茂氏や葛城氏と同じく葛城に居住していたと考えられます。

例えば、「天忍男命」天香語山命の孫にあたり、葛城の「剣根命」の娘を妻としています。

そして、天忍男命の子の「瀛津世襲命」は、別名を「葛木彦命」と記しています。

瀛津世襲命と兄弟である「建額赤命」「葛城尾張置姫」を妻としています。

天火明命の五世孫であり、建額赤命の子の「建箇草命」は、「葛木厨直の祖」と記されています。

 

【尾張宿禰系図】「諸系譜」第一冊より

 

また、天忍男命と兄弟である「天忍人命」は、「尾張宿禰系図」では「一名を高倉下命」と記し、「葛木出石姫」を妻としています。

天忍人命の子の「天戸目命」「葛木避姫」を妻としています。

天火明命の七世孫の「建諸偶命」「葛木直の祖」の大諸見足尼の娘の「諸見己姫」を妻としています。

建諸偶命と兄妹である「大海姫命」は別名を「葛木高名姫命」とし、崇神帝の后になっています。

また、尾張宿禰系図では、建諸偶命の娘に「葛城高千那毘賣命」が見え、この女性は「彦太忍信命」の后になっています。

 

尾張国造 志賀高穴穂朝の御世、天別、天火明命十世孫の小止與命を以て国造に定賜ふ。

【先代旧事本紀】(平安前期頃成立)国造本紀より

 

さて、尾張氏は、天火明命の十一世孫の「小止與命」が、成務朝に尾張国造に任じられ、尾張氏族はこの小止與命の代の前後に葛城から尾張国へ移住したと思われます。

このため、葛城氏との縁戚関係は尾張氏系譜の初期に限られます。

葛城での尾張氏を知る手掛かりは、神武東征から成務朝までの間にしか無いのです。

もちろん系譜が示す通り、尾張氏と葛城氏及び賀茂氏とでは祖神を異にする別氏族です。

しかし、この時代にはまだ姓が無く、葛城に住していた何某という意味で、尾張氏であっても「葛城」を冠した名を持つ者も見られます。

これは、尾張氏が葛城に居住していたか、もしくは葛城氏と非常に近しい関係であったとしか考えられません。

古代の葛城の原姿を考える時、賀茂氏及び葛城氏と同じく、その同居者だった尾張氏についても考えない訳にはいかないのです。