【古代賀茂氏の足跡】布都御魂の剣 | 東風友春ブログ

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尾張氏は、不思議と「剣」と関係する氏族です。

「尾張」氏姓の語源を「大葉刈剣」を奉斎した高尾張邑に求めているだけではありません。

例えば、尾張氏の祖神である高倉下命神日本磐余彦(以下、磐余彦命)に神剣を献上したこと、尾張氏が熱田宮にて草薙剣を奉斎したことなど、尾張氏と剣との関係性は奇妙な符号の一致と言わざるを得ません。

ここでは尾張氏と関わりのある剣について簡単に触れておこうと思います。

 

 

先ずは、高倉下命が磐余彦命に献上した神剣は、古事記「佐士布都神」又は「甕布都神」或いは「布都御魂」と書かれ、日本紀では「韴霊(ふつのみたま)」と表記しています。

 

僕は降らずとも、専らその国を平けし横刀あれば、この刀を降すべし。この刀の名は、佐士布都神と云ひ、亦の名は、甕布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す。この刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂を穿ちて、それより堕し入れむ。故、朝目吉く汝取り持ちて、天つ神の御子に献れ。

【古事記】太安万侶(712)より

 

この高倉下の夢で、建御雷神が「国を平けし横刀(平国之剣)」と語っているのは、大国主神から国譲りを成功させた際に用いた剣に因んでいるからです。

また、この剣を「布都の御魂」と呼ぶのは、そもそも建御雷神自身の別名が、古事記「健御雷之男神、亦の名は建布都神、亦の名は豊布都神」とあり、建御雷神の分身もしくは分魂と言えるでしょう。

さて布都御魂は、現在奈良県天理市にある石上神宮の御祭神であり、神名を「布都御霊大神」と称えて奉祀されています。

 

 

石上神宮

所在地/奈良県天理市布留町

主祭神/布都御霊大神・布留御魂大神・布都斯魂大神

例祭/四月十五日(春季大祭)、六月三十日(神剣渡御祭)、十月十五日(例祭)

 

石上神宮は、延喜式「石上坐布都御魂神社」とある古社で、神社の由緒や歴史については沢山あり過ぎて到底書ききれない。

布都御魂の剣に関して言えば、旧事紀では「今木を布都主の劔に刺し繞し、大神を殿内に奉齊る」とあり、神武東征後は、物部氏遠祖の「宇摩志麻治命」により十種神宝(布留御魂)と共に宮中にて祀られていたが、社伝によると「崇神天皇七年十二月、物部連の祖伊香色雄命が勅を奉じて石上邑に移し祀った」とあり、宮中から石上神宮に遷されたことが分かる。

この崇神天皇七年太田々根子命が歴史に登場した年であり、その前年には古語拾遺「天照大神及び草薙剣を遷し奉りて、皇女豊鍬入姫命をして斎ひ奉らしむ」とあり、皇室伝来の神器が各所に遷された時代でもありました。

 

 

ちなみに石上神宮では、素戔嗚尊八岐大蛇を斬ったという剣を「布都斯魂大神」と称え、布都御霊大神と共に主祭神として奉祀しています。

 

天十握剣(其の名は天羽々斬といふ。今、石上神宮に在り。古語に、大蛇を羽々と謂ふ。言ふこころは蛇を斬るなり)を以て、八岐大蛇を斬りたまふ。

【古語拾遺】斎部広成(807)より

 

この剣は、古事記「十握剣」日本紀「蛇之麁正(をろちのあらまさ)」「蛇韓鋤之剣」「天蝿斫剣(あまのははきりのつるぎ)」古語拾遺「天十握剣」又は「天羽々斬(あめのははきり)」と様々な名で呼ばれています。

しかし、日本紀一書には「素戔嗚尊の蛇を斬りたまへる剣は、今吉備の神部の許に在り」と書かれてあり、この「吉備神部許」とは現在岡山県にある石上布都魂神社だとされ、もともとは岡山に伝わっていたものが、後に石上神宮に遷されたとしています。

 

石上布都魂神社

所在地/岡山県赤磐市石上(字風呂谷)

御祭神/素盞嗚尊

例祭/十月二十日前後の日曜日

 

石上布都魂神社は、延喜式「石上布都之魂神社」とある古社。

明治初年(1868)成立の「備前国式内書上考録」では、「当国石上神社を大和国に勧請して地名も石上といいしならん。さすれば当国の石上本社なる事も分明なり」と述べており、石上神宮の元宮である可能性を示唆している。

だとすれば、社名が示すように「布都御魂」とは、素戔嗚の剣の方だったかもしれない。

しかし、布都斯御魂の備前から大和への遷座を、石上神宮社伝では「仁徳天皇五十六年十月、物部首市川臣が勅を奉じて、石上振神宮高庭之地に奉遷して、地底石窟の内、布都御魂横刀の左座に加え蔵め、其上に靈畤を設けて并祭した」としているので、石上神宮が崇神朝に創始されたとの由緒を信じるなら、石上布都魂神社が石上神宮の元宮である説は成り立たない。

しかしながら、確かに布都御魂布都斯御魂は一字違いで紛らわしい。

そもそも素戔嗚の剣を、なぜ布都斯御魂と呼ぶようになったのかさえよく分からない。

この点について、享保五年(1720)成立の「石上布留神宮略抄」では「布都御魂神と布都斯魂神とは連枝にて、竝て天尾羽張神の分神」だと述べている。

 

斬りたまひし刀の名は、天之尾羽張(あめのをはばり)と謂ひ、亦の名は伊都之尾羽張(いつのをはばり)と謂ふ。

【古事記】太安万侶(712)より

 

この「天尾羽張」とは、伊邪那岐命迦具土神を斬った際に用いた十拳剣のことで、そもそも建御雷神はその十拳剣の「御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて成れる神」とされており、天尾羽張神は剣の根源と考えるか、それとも剣はすべて天尾羽張神の類と考えられていたのではないでしょうか。

もしかすると、尾張氏の「尾張」とは、剣を扱う武人集団か、剣に特別な霊力が宿ると信じる祭祀者集団か、それとも剣を製造できる技術者集団として、この天尾羽張神の名を負っていたのかもしれません。

 

 

尚、石上神宮ではもともと本殿が存在せず、かつては拝殿後方の「高庭」と呼ばれる禁足地を祭祀対象としており、この禁足地下には御神体が埋納されているとの伝承がありました。

明治七年(1874)禁足地中央の土盛りを発掘したところ環頭大刀が出土し、これを布都御魂と断定して、現在は御正体として、大正二年(1913)新たに造営された本殿奥に奉斎されています。

また、明治十一年(1878)再び禁足地から刀剣類が出土し、この中には布都斯御魂と見られる鉄剣も含んでいるが、布都御魂にしろ布都斯御魂にしろ、これら神器の製造年代解明は不可能であり、日本の鉄器の起源は依然謎のままである。