【古代賀茂氏の足跡】太田々根子命 | 東風友春ブログ

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「多太神社」は、長柄から葛城川の方へ少し下った、昔ながらの集落の雰囲気を残す「御所市多田」にある小さな社で、鳥居脇に生えている大きなムクロジが目印です。

 

 

多太神社

所在地/奈良県御所市多田(小字正神口)

御祭神/太田々根子命

例祭/七月十四日

社伝に太田々根子命を祭る。(中略)下鴨神社を創始せる大賀茂津美が其の祖父を祭れるものならん。

【大和志料】奈良県教育会(1914)葛上郡/多太神社より

 

延喜式神名帳「多太神社 鍬靫」とある。

現在の祭神は「太田々根子命」

ただし「神社覈録」(1870)に「多太は仮字なり。祭神詳ならず。吐田荘多田村に在す。今荘神と称す」とあり、大和志料の記事とは祭神の見解が異なる。

創始年代や由緒など委細も不明。

鎮座地は「多田」と書くが、江戸期には「大井田村」であり、現地では「オイダ」と読むそうだ。

社名や地名は、太田々根子命の神名に因むとされるが、元来の祭神が不明ならその確証は無い。 

 

 

しかし、葛城の鴨を語るには、太田々根子命に触れない訳にはいかない。

太田々根子命は、崇神天皇の御世に大神神社を創建し、初代神主になった人物です。

先刻ご存知だと思うが、古事記「此の意富多多泥古命は、神君、鴨君の祖なり」とあるように、大神氏(三輪氏)の祖先であり、賀茂氏にとっても祖先にあたります。

記紀は、太田々根子命が大神神社を開く端緒になった不思議なエピソードを載せている。

 

この天皇の御世に、役病多に起こりて、人民死にて尽きむとしき。

ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床に坐しし夜、大物主大神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ。」とのりたまひき。

ここをもちて驛使ひを四方に班ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内の美努村にその人を見得て貢進りき。

ここに天皇、「汝は誰が子ぞ。」と問ひたまへば、答へて曰ししく、「僕は大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘賣を娶して生める子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕、意富多多泥古ぞ。」と白しき。

ここに天皇大く歓びて詔りたまひしく、「天の下平らぎ、人民栄えなむ。」とのりたまひて、すなはち意富多多泥古命をもちて神主として、御諸山に意富美和の大神の前を拝き祭りたまひき。

【古事記】太安万侶(712)崇神天皇より

 

崇神天皇七年は、疫病が発生して多数の死者を出していました。

ちなみに前年も、百姓の逃散など国内が不穏で、皇居にて祭っていた「天照大神」豊鍬入姫命に託し、「日本大国魂神」渟名城入姫命に託して祭らせています。

このような国状に頭を悩ませていた天皇の夢に、大物主神が現れて「太田々根子という人物に我を祭らせたなら万事解決する」と教えます。

太田々根子を河内国美努村に発見した天皇は、太田々根子に「何者か」と質問します。

 

この時、太田々根子は大物主神から自分の代まで先祖の名を順々に述べるのですが、これは口伝による家系譜の原型だとされています。

例えば、現代でも東南アジアなどに、祖神から自分の代まで父子名を連ねることによって、正式な名前もしくは戒名としている民族がいる。

古代の日本人も自分達の出自を記憶し継承するために、名前の前に先祖の系譜を並べたのかもしれません。

 

 

話が逸れましたが、ここで、太田々根子は「大物主神の子孫だ」と答えたのです。

ところで、太田々根子の先祖に「活玉依姫」という名の女性が登場しましたが、この活玉依姫は、賀茂社伝承「玉依姫」と同一人物か、又はそのモデルとされる人物です。

しかも、賀茂社伝承との関連性を窺えるのは「玉依姫」だけではありません。

 

天皇、夢の辞を得て、益ます心に歓びたまふ。布く天下に告りたまひて、大田田根子を求ぐに、即ち茅渟県の陶邑に大田田根子を得て貢る。天皇、即ち親ら神浅茅原に臨まして、諸王卿及び八十諸部を会へて、大田田根子に問ひて曰はく、「汝は其れ誰が子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「父をば大物主大神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり」とまうす。亦云はく、「奇日方天日方武茅渟祇の女なり」といふ。

【日本書紀】舎人親王(720)崇神天皇より

 

日本紀では、太田々根子が茅渟県の陶村で見つかったことになっています。

そして、同場面の太田々根子は「父を大物主大神、母を活玉依媛」と答えています。

紀はこのあたりの記述に混乱があるのですが、続いて母親の活玉依姫を「奇日方天日方武茅渟祇の娘」と説明しています。

この「奇日方天日方」は、旧事紀によると、活玉依姫が生んだ子である「天日方奇日方命」のことかと思われます。

続いて「武茅渟祇(タケチヌツミ)」とは、もちろん賀茂社伝承の「建角身命」に該当します。

建角身命の原義は、茅渟県の「祇(ツミ)」なのかもしれません。

もしくは「地祇」を「国つ神」と訓じることから、茅渟の神や首長を意味する「チヌツカミ」だったのかもしれません。