【古代賀茂氏の足跡】鴨都波神社 | 東風友春ブログ

東風友春ブログ

古代史が好き。自分で調べて書いた記事や、休日に神社へ行った時の写真を載せています。
あと、タイに行った時の旅行記やミニ知識なんかも書いています。

 

鴨都波神社(以下、鴨都波社)は、葛城川と柳田川の合流地に鎮座しており、近鉄御所駅からは南へ約450m、国道24号線沿いに面していてよく目立つ。

鎮座地の小字「掖上」は、記紀に登場する「掖上嗛間丘、掖上池心宮、掖上玉手丘上陵」などに見られる土地で、まさに大和王朝発祥の舞台であります。

また、鎮座地を中心とした一帯は、「鴨都波遺跡」と呼ばれる弥生時代から古墳時代へと続く集落跡で、遺跡からは、石器や弥生式土器などが多数発見され、竪穴式住居跡や古墳、矢板が打ち込まれた水路状の遺構なども見つかっている。

この地は名実ともに、古代史実を伝承する重要な遺跡でもあるのです。

 

 

鴨都波神社

所在地/奈良県御所市宮前町(小字掖上)

御祭神/積羽八重事代主命・下照比売命・建御名方命・大物主櫛瓺玉命

例祭/四月第一日曜(春祭)、七月十六日(夏祭)、十月九日十日(秋季大祭)

第十代崇神天皇の御代、大国主命第十一世太田田根子命の孫、大賀茂祇命に勅を奉りて葛城邑加茂の地に奉斎されたのが始めとされている。葛城加茂社、下津加茂社とも称され全国の加茂(鴨)社の根源である。

【鴨都波神社由緒書】より

 

 

鴨都波社の主祭神は、積羽八重事代主命下照比売命

上記の二座に加え、現在では大物主櫛瓺玉命建御名方命をも配祀神としています。

延喜式神名帳には「鴨都波八重事代主命神社二座 並びに名神大社、月次、相嘗、新嘗とあり、旧社格は県社

事代主神は、古事記では「八重事代主神」の名で、有名な「大国主神の国譲り」に登場します。

 

故ここに天鳥船神を遣はして、八重事代主神を徴し来て、問ひたまひし時に、その父の大神に語りて言ひしく、「恐し。この国は、天つ神の御子に立奉らむ。」といひて、すなはちその船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して、隠りき。

【古事記】太安万侶(712)より

 

ちなみに旧事紀では、事代主神を「都味齒八重事代主神」と記しています。

これは、祭神の「積羽八重事代主命」と同じ読みであり、このため社名の「鴨都波」が事代主神の美称であり、元は「鴨都味波」が省略されたものではないかと考えられます。

また、水辺に鎮座してる理由から正しくは「鴨味都波」であり、「大国主命分身類社鈔」「鴨味都波八重事代主命」から省略されたとする説や、水の神である「彌都波能賣神」と関係があるとする説、この他に「鴨ツ三輪」とする説や、「賀茂角身」からの転訛だとする説まであります。

 

 

さて、鴨都波社のもう一柱の祭神である下照姫命は、天稚彦の妻であり、味鉏高彦根神の妹神でした。

旧事紀では、味鉏高彦根神や下照姫と、同じ大国主神の子である事代主神とは、異母兄弟の関係になります。

 

大己貴神。亦の名は大国主神、亦は大物主神と云う。

亦は国造大穴牟遲命と云う。亦は大国玉神と云う。亦は顯見国玉神と云う。亦は葦原醜雄命と云う。亦は八千矛神と云う。並びに八つの名有ます。

其の子凡て百八十一神有ます。

先づ宗像の奥津嶋に坐す神、田心姫を娶り一男一女を生む。

兒、味鉏高彦根神、倭国葛上郡高鴨に坐す神。捨篠社と云う。

妹、下照姫命、倭国葛上郡雲櫛社に坐す。

次に邊都宮に坐す高津姫神を娶りて、一男一女を生む。

兒、都味齒八重事代主神、倭国高市郡高市社に坐す。亦は甘南備飛鳥社と云う。

妹、高照光姫大神命、倭国葛上郡御歳神社に坐す。

次に稲羽八上姫を娶りて、一兒を生む。

兒、御井神、亦の名は、木俣神。

次に高志沼河姫を娶りて、一男を生む。

兒、建御名方神、信濃国諏方郡諏方神社に坐す。

【先代旧事本紀】(平安前期頃成立)地祗本紀より

 

鴨都波社の祭神に関して、大国主命分身類社鈔では「下鴨神社二座 鴨味都波八重事代主命、高照光姫」と記しています。

旧事紀では、事代主神の妹神を「高照光姫大神命」としているので、もしかすると大国主命分身類社鈔の記述の方が正しいかもしれません。

 

【大神系図】「大国主命分身類社鈔附尾」(文永年中1264~1275)より

 

「大神系図」では、高照光姫の別名を「加夜奈流美姫」としています。

加夜奈流美姫は、出雲国造神賀詞「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せ」のところで登場しました。

下照姫と高照姫はよく混同されるのですが、とりあえずは、別の機会に説明したいと思う。

 

 

ところで、鴨都波社には「葛城鴨神社」「賀茂明神」といった通称があります。

この他にも、高鴨社を上鴨社、御歳社を中鴨社と呼ぶのに対し、鴨都波社を「下鴨社」と呼んだり、鴨山口社を上津賀茂社とするのに対し、鴨都波社を「下津賀茂社」とも呼んだようです。

葛城の鴨社では、祭神が出雲系の神であるという共通項以外は、それぞれ異なった神を信仰していました。

特に、高尾張邑に居住し、迦毛大御神である味鉏高彦根神を祀っていたはずの賀茂族が、平野部に移住して、なぜ事代主神を祀ったのかは謎の一つです。

このことに関して、鳥越憲三郎氏は「高鴨神を祀っていた部族の一派が、弥生中期にこの平坦地に下りて、水稲耕作をはじめるにあたり、葛城川の水辺に田の神を祀ったものである」として、賀茂氏族の生活様式が変化した事が原因だと説明しています。

 

 

一方、鴨都波社の創始について由緒では、「崇神朝に大賀茂祇命により奉斎されたのが始め」と説明がなされています。

これは、大神神社の社記である「大三輪鎮座次第」「瑞籬宮御宇天皇御世、太田田根子命の孫、大賀茂祇命、勅を承りて葛城邑賀茂の地に於いて社を立て、事代主命を斎き奉る。仍りて賀茂君氏を賜う」と書かれてあるのに依拠しています。

しかし、これでは、なぜ葛城の鴨の地に事代主神を祀ったかについての疑問には答えていません。

それには、鴨都波社を創始した「大賀茂祇命」について、もう少し詳しく知る必要がありそうです。