【古代賀茂氏の足跡】迦毛大御神 | 東風友春ブログ

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高鴨社の主神、阿遅志貴高日子根命(以下、味鉏高彦根神)とは、一体如何なる神なのだろうか。

 

この大国主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毘売命を娶して生める子は、阿遅鉏高日子根神。次に妹、高比売の命、亦の名は下光比賣命。この阿遅鉏高日子根神は、今、迦毛大御神と謂うなり。大国主神、また神屋楯比賣命を娶して生める子は、事代主神。

【古事記】太安万侶(712)より

 

古事記では、味鉏高彦根神を「迦毛大御神(かものおほみかみ)」と表現し、あたかも賀茂氏族の崇める祖神であるかのような表現です。

「賀茂伝説考」肥後和男氏は、「阿遅」は朝鮮語系の美称、「高」も美称、「彦」は男性、「根」は宿禰などの敬称、残るのは「スキ」であり、この神は「農具としてのスキを祀れるものであろう」と述べています。

鳥越憲三郎氏の「神々と天皇の間」でも、「金剛山麓のきつい斜面をもつ古い居住地では、『美しい鋤をもつ高彦根』をまつったが、それは陸稲や稗・粟などの畑作であったことが明らかである」として、肥後氏の説と大差はありません。

肥後氏も鳥越氏も、味鉏高彦根神を、神名から連想された農業神のイメージで語っています。

もちろん鋤や鍬が無ければ農業の発展はあり得ません。

 

 

しかも、この美しい鋤が、金属製だった可能性はないでしょうか。

日本書紀の一書には、素戔嗚尊八岐大蛇「乃ち蛇の韓鋤(からさひ)の剣を以て、頭を斬り腹を斬る」という話を載せています。

古代では「鋤」が、農具でもあり、剣をも意味する言葉だったのではないでしょうか。

もしくは農具が、有事の際には武器として用いられた事が、「鋤」が二つの道具を意味していた理由ではないでしょうか。

 

天稚彦と味耜高彦根神と友善し。故、味耜高彦根神、天に登りて喪を弔ひて大きに臨す。時に此の神の形貌、自づからに天稚彦と恰然相似れり。故、天稚彦の妻子等、見て喜びて曰はく、「吾が君は猶在しましけり」といふ。則ち衣帯に攀ぢ持る。排離つべからず。時に味耜高彦根神、忿りて曰はく、「朋友喪亡せたり。故、吾即ち来弔ふ。如何ぞ死人を我に誤つや」といひて、乃ち十握剣を抜きて、喪屋を斫り倒す。其の屋堕ちて山と成る。此則ち美濃国の喪山、是なり。

【日本書紀】舎人親王(720)一書[第一]より

 

記紀には、味鉏高彦根神が、天稚彦の死を弔問する場面が描かれています。

ここでは、味鉏高彦根神が「剣」を用いて喪屋を斬り倒す描写以外に、味鉏高彦根神と「葬式」、それに「死と再生」とに関連付けて考えることもできそうです。

 

時に、味耜高彦根神、光儀華艶しくして、二丘二谷の間に映る。故、喪に会へる者歌して曰はく、或いは云はく、味耜高彦根神の妹下照媛、衆人をして丘谷に映く者は、是味耜高彦根神なりといふことを知らしめむと欲ふ。

【日本書紀】舎人親王(720)一書[第一]より

 

その後、天稚彦の妻であり味鉏高彦根神の妹でもある下照媛は、天稚彦と間違えられたことに怒り、喪屋を斬り伏せて出て行った神が、味鉏高彦根神だったことを伝えるために二首の歌を唄います。

この時に唄われた歌は「夷曲(ひなぶり。記では夷振)」と呼ばれます。

 

天なるや、弟織女の、頸がせる、玉の御統の、穴玉はや、み谷、二渡らす、味耜高彦根

【日本書紀】舎人親王(720)一書[第一]より

 

この「光儀華艶しくして二丘二谷の間に映る」と、夷曲の「み谷二渡らす」とは、味鉏高彦根神の姿を形容したものです。

味鉏高彦根神(首飾りの玉)「山二つ、谷二つに渡り、光り輝いている」と解釈すればいいのでしょうか。

この描写について、岩波文庫「古事記」の校注では「この歌は雷神の電光を讃嘆したもの」と書き、吉野裕氏は「風土記世界の鉄王神話」の中で「稲妻のごとき白熱光で鉄(あるいはガラス)を溶かす溶鉱炉を支配する者の表現」としています。

又、谷川健一氏も「青銅の神の足跡」の中で「アジスキタカヒコは、ぴかぴかした金属を思わせる美麗な神であり、『み谷二渡らす』と形容された。これは雷神の雷光を想像させもするが、また野だたらの炎が谷の夜空をかがやかす光景とも受け取れる」と表現しています。

 

 

つまり味鉏高彦根神には、農業神、農具と剣に象徴される金属神、製鉄業者が崇める神、雷神と、複数の性格が見て取れるのです。

雷を「稲妻」と書き、雷の多い年は豊作になる等と言われ、日本の農家にとって、雷は雨の恵みを呼んでくる有難い存在です。

味鉏高彦根神が雷神と見做される事に関しては、賀茂別雷命火雷神に通じるものがありそうです。

ちなみに、水田稲作は紀元前十世紀頃に九州北部から始まり、近畿でも奈良県御所市條に約2400年前の水田跡である「中西遺跡」が発見されています。

しかし、日本での製鉄の歴史は、神話の世界である有史以前にまで遡ることはできません。

現在の考古学の認識では、西日本での鉄器の登場は紀元前四世紀頃としているので、神武天皇即位元年の紀元前660年を一応の目安とすれば、神武東征以前の近畿圏が、製鉄の神を含む出雲文化の影響下にあったという仮説は崩れてしまうのです。

 

天離る、夷つ女の、い渡らす迫門、石川片淵、片淵に、網張り渡し、目ろ寄しに、寄し寄り来ね、石川片淵

【日本書紀】舎人親王(720)一書[第一]より

 

さて、下照姫のもう一首の夷曲は、「田舎娘が瀬戸を渡って石川の淵に網を張り渡し、(魚を獲るように)その網の目に寄っておいで」というような歌詞であり、味鉏高彦根神とは全く関係ないように思えます。

引用した岩波文庫「日本書紀」の校注では、この歌の形式が五七七五七七「男女の応酬の歌であろう」と記し、原始の歌垣の可能性を指摘している事から、元々は葬会の際に唄われた歌が、後にこちらの一首が加えられ、男女の求愛の歌に変化したものと考えます。

 

しかし、注目したいのは、何故「石川」なのかです。

石川の片淵は、葛城の地名でしょうか、出雲の地名なのでしょうか、それとも喪山の堕ちた美濃国にあるのでしょうか。

そう言えば、賀茂社伝承にも「狭小くあれども石川の清川なり、仍りて石川の瀬見の小川と名づけ給う」と出てきます。

この「石川」は、古代賀茂氏の深層心理に残された古里の記憶かもしれず、葛城のカモと山城のカモとを結ぶ鍵になるかもしれません。