三輪山伝説の頁では、新撰姓氏録の「大神朝臣」条に「大國主神娶三島溝杭耳之女玉櫛姫」とあり、「玉櫛姫」は活玉依姫の別名であり、「三島溝杭耳」は陶津耳命の別名であると書きました。
しかし、三島溝杭耳と玉櫛姫の名前は、実は日本紀にも登場しています。
庚申年の秋八月の癸丑の朔戊辰に、天皇、正妃を立てむとす。改めて広く華胄を求めたまふ。時に、人有りて奏して曰さく、「事代主神、三嶋溝橛耳神の女、玉櫛媛に共ひして生める児を、号けて媛蹈鞴五十鈴媛命と曰す。是、国色秀れたる者なり」とまうす。天皇悦びたまふ。九月の壬午の朔乙巳に、媛蹈鞴五十鈴媛命を納れて、正妃としたまふ。辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に即帝位す。是歳を天皇の元年とす。正妃を尊びて皇后としたまふ。皇子神八井命・神渟名川耳尊を生みたまふ。
【日本書紀】舎人親王(720)神武天皇より
ここに登場するのが「媛蹈鞴五十鈴媛命」です。
この記事では、事代主神と「三嶋溝橛耳神の娘の玉櫛媛」との間に姫蹈鞴五十鈴姫命が生まれ、初代天皇である神武帝の皇后に選ばれます。
古事記によると、太田々根子命は、自らを「大物主大神、陶津耳命の女、活玉依毘賣を娶して生める子、名は櫛御方命」の子孫と語っており、一見、この姫蹈鞴五十鈴姫命の話と三輪山伝説とは異なる話のように思います。
しかしながら、太田々根子命と三輪山の伝説、そして姫蹈鞴五十鈴姫命の物語を読み比べれば、これらの話が同じく「神の子」の誕生を表現したものだと理解できるでしょう。
【大神姓本系牒略】「諸系譜」第七冊より
櫛御方命は、この系図では「天日方奇日方命」と記され、太田々根子命つまり三輪氏にとっての先祖にあたります。
そして、天日方奇日方命と姫蹈鞴五十鈴姫命とは兄妹の間柄であり、兄妹には他にもう一人「五十鈴依媛命」がいます。
姫蹈鞴五十鈴姫命が神武帝の皇后だったのに対し、この五十鈴依姫命は第二代天皇の綏靖帝の皇后となった人物です。
三輪氏は、皇后となる女性を初期天皇家に提供した一族なのです。
ところで、古事記では姫蹈鞴五十鈴姫命が生まれた経緯を次のように記しています。
然れども更に大后とせむ美人を求ぎたまひし時、大久米命曰しけらく「ここに媛女あり。こを神の御子と謂ふ。その神の御子と謂ふ所以は、三島溝咋の女、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、その容姿麗美しくありき。故、美和の大物主紳、見感でて、その美人の大便まれる時、丹塗矢に化りて、その大便まれる溝より流れ下りて、その美人の陰を突きき。ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。 すなはちその矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、すなはちその美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめ)と謂ひ、 亦の名は比売多多良伊須氣余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と謂ふ。こはそのほとといふ事を悪みて、後に名を改めつるぞ。故、ここを以ちて神の御子と謂ふなり」とまをしき。
【古事記】太安万侶(712)より
三島溝咋の娘「勢夜陀多良比売」が用を足していた時、大物主神は「丹塗矢」に化け、便所の溝から侵入し、勢夜陀多良比売の女陰を突きます。
驚いた勢夜陀多良比売は、その矢を持ち帰り、家の床に置くと、麗しき男性に変身する。
この男性に変身した大物主神と、勢夜陀多良比売との間に生まれたのが「富登多多良伊須須岐比売命」であるが、「富登」は女陰の意であり、後に富登を「姫」に換えて「比売多多良伊須氣余理比売(姫蹈鞴五十鈴姫)」と名を改めた。
このため、姫蹈鞴五十鈴姫命は「神の御子」と呼ばれていました。
大来目命は、神武帝の皇后にこの女性を推薦します。
この物語は、大便や女陰を突くといった表現があるので些か下品な感じもするが、表現が直接的な分、相当古い時代に成立したのではないだろうか。
ちなみに、岩波文庫「古事記」の注では、「蹈鞴」は鍛治に使う「ふいご」に因んだ名であり、「伊須須岐(いすすき)」は「慌てふためいた」である。
となると、もしかしてこの物語は、鍛治の技法を寓話化したものであるかもしれない。
さて、この「姫蹈鞴五十鈴姫命」の物語は、いくつかの重要な論点を含んでいます。
一つは、神武帝と姫蹈鞴五十鈴姫命の結婚は、すなわち天津神の子孫と国津神の子孫との結婚であるという点です。
我が国の歴史及び天皇家が、天空から天降った神の子と、大地の神秘により誕生した子との結婚から始まるとは、何とも素敵な話ではないでしょうか。
この事は、九州からやって来た神武帝の神性を高め、天皇家の権威を増強することになったことでしょう。
そしてもう一つは、すでにご存知の通り、玉依姫が「丹塗矢」を拾って「神の子」を生んだという賀茂社伝承と非常によく似ていることです。
何度も言いますが、賀茂社伝承や三輪山伝説、それに姫蹈鞴五十鈴姫命の物語も、同一の事象から派生していると考えるのです。
この事は、山城のカモと葛城のカモが、遥か昔には同一の氏族であった一つの証ではないでしょうか。
つまり姫蹈鞴五十鈴姫命は古代賀茂族の人間だったのです。
ここでは丹塗矢を拾ったのが玉依姫ではなく、勢夜陀多良比売という女性ですが、仔細はともかく、このように未婚の女性が「神の子」を生んだという出来事が、実際に発生したのではないかと考えるのです。
西洋にも、処女マリアが神の子イエスを生む物語があるので、あながち珍しい話ではありません。
そして、姫蹈鞴五十鈴姫命や天日方奇日方命の存在こそが、太田々根子命が「神の子(子孫)」と呼ばれた由縁なのです。