高天彦社の岡本家家系図では、賀茂氏と葛城氏が同族関係にあったと述べました。
賀茂氏や葛城氏そして尾張氏の祖先達は、この葛城の地に同居していたのです。
【鴨県主系図】「諸系譜」第十五冊より
この「鴨県主系図」は、国立国会図書館に所蔵されている「諸系譜」に収められており、古代賀茂氏を考察できる数少ない資料となっています。
そして、この系図では「玉依毘古命」から始まっています。
この系図では、玉依毘古から十一代を経て、「賀茂神官賀茂氏系図」及び「河合神職鴨県主系図」の冒頭の人物である「大伊乃伎命」に接続しています。
「賀茂神官賀茂氏系図」「続群書類従」より
そして注目すべきは、玉依毘古の子「五十手美命」の兄弟に「剣根命」と書かれていることです。
この剣根命とは、初代葛城国造に任じられた人物であり、葛城氏の始祖とされています。
つまり先祖を遡れば、賀茂氏と葛城氏とは兄弟の間柄だったのです。
ところで、剣根命の子孫には「難波田使首」となった一族がいます。
秋七月の甲戌の朔己卯に、蘇我大臣稲目宿禰等を備前の児嶋郡に遣して、屯倉を置かしむ。葛城山田直瑞子を以て田令(たつかひ)にす。
【日本書紀】舎人親王(720)欽明天皇十七年より
欽明帝の時代、葛城の「瑞子」は、備前国の屯倉の管理者に任命され、田使の首(おびと)となります。
この葛城氏の一派である田使首の系図は、前述の「諸系譜」にも収められています。
【難波田使首系図】「諸系譜」第十一冊より
そして、こちらにも「劍根命」が「玉依彦命」の子供として登場します。
この系図では、劍根命の兄弟である「生玉兄日子命」の子孫が、山城に進出した賀茂氏、つまり賀茂県主や鴨県主ということになります。
また、玉依彦命の兄妹とされる「奇美加比咩」は、おそらく賀茂社伝承における玉依姫のことで、賀茂朝臣や大神朝臣はこの女性の子孫という事になるかと思います。
ただし、系図とは後世になって作成されたもので、信憑性に乏しく、これらの系図を以って葛城氏と賀茂氏が同族関係にあると証明できる訳ではありません。
しかし、少なくとも賀茂氏や葛城氏が、古代の葛城において非常に密接した形で居住していたことを物語っているのではないでしょうか。
現代でも村民が先祖を同じくする村落があることは珍しくありません。
賀茂氏にとって故郷の記憶が、後世の系図作成に反映されたと考えていいでしょう。
さて、葛城氏については、神武東征の論功行賞にて葛城国造に任じられた剣根命に始まります。
珍彦を以て倭国造とす。又、弟猾に猛田邑を給ふ。因りて猛田県主とす。是菟田主水部が遠祖なり。弟磯城、名は黒速を、磯城県主とす。復、剣根といふ者を以て、葛城国造とす。
【日本書紀】舎人親王(720)神武天皇二年より
この時、国造に任じられたのは、剣根命と「倭国造」に任じられた「珍彦(記では槁根津日子)」だけです。
この国造とは、おそらく大きな集落か、もしくは特定の領域内に存在する村々を、統治管轄する首長職のようなものでしょう。
今の奈良盆地には「葛城国」と「倭国」という二つの国が存在することとなったのです。
ちなみにこの時に国造や県主に任じられたのは、剣根命を除いては神武東征の功労者ばかりです。
剣根命については、何の功績によって葛城国造に任じられたのか、そもそも剣根命の人物像について何も記されていません。
ただ、旧事紀では剣根命を「葛木土神」と記しています。
次に天忍男命、此命は葛木土神、劔根命の女賀奈良知姫を妻と為し二男一女を生む。
【先代旧事本紀】(平安前期頃成立)天孫本紀より
葛木土神を「土着の神」と解釈すべきか悩みますが、肥後守や越前守の「カミ」も同音なので、ここでは葛城の首長といった意味で良いのでしょう。
剣根命を葛城国造と表現していないのは、おそらく国造に任じられる以前から、葛城の首長だったからなのではないでしょうか。
そして、もともと葛城の首長であった剣根命は、大和にやって来た神武軍を何らかの形で協力し、この功により所領を安堵され、葛城国造に任じられたのかもしれません。