【古代賀茂氏の足跡】神武天皇 | 東風友春ブログ

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「神倭伊波礼毘古命」つまり「神武天皇」は我が国の初代天皇です。

日本紀では、大和を平定した神武帝は夫の畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区かと宣言し、「橿原宮」を造営しました。

橿原宮(記では畝火の白檮原宮)は、畝傍山の東南にあったとされます。

現在、畝傍山の東南には「橿原神宮」が鎮座しています。

 

 

橿原神宮

所在地/奈良県橿原市久米町

御祭神/神武天皇・媛蹈韛五十鈴媛命

例祭/二月十一日(紀元祭)、四月三日(神武天皇祭)、十月三日(秋季大祭)

明治の時代になり神武天皇の御聖徳を景仰してこの橿原の宮跡に橿原神宮創建の請願が民間有志から起り明治天皇にはこれを御嘉納になり明治二十三年四月二日御鎮座になった。

【橿原神宮社頭案内板】より

 

橿原神宮は、明治二十三年(1890)畝傍山の東南に創建されました。 

鎮座地は、表向きには「橿原宮趾」とのことだが、実際にこの地から宮跡が発見された訳ではなく、あくまで推定である。

ただ、「橿原遺跡」と言って、神宮外苑からは縄文晩期の土器や土偶、石器など多数の遺物が出土している。

橿原遺跡は、橿原宮の実在を証明できるものではないが、約三千年の昔からこの地には人間の営みが繰り返されて来たのです。

 

 

ところが、橿原宮趾の比定地はここだけではない。

大和志(1734)では「橿原宮、在柏原村」と記し、畝傍山から約4キロ南に位置する「柏原村」にあったとしている。

 

うねびやま見ればかしこしかしばらの、ひじりの御世の大宮どころ。今かしばらてふ名はのこらぬかととへば、さいふ村はこれより一里あまりにしみなみの方にこそ侍れ、このちかき方にはきき侍らずといふ。

【菅笠日記】本居宣長(1772)より

 

本居宣長「かしはら」という地名が残っていないか土地の人間に伺ったところ、この柏原村の存在を聞いている。

柏原村は現在の御所市柏原であり、今も「かしはら」の地名が残っている。

ここに神倭伊波礼毘古命を祀る「神武天皇社(以下、神武社)」がある。

神武社は、鴨都波社のちょうど真東2650mの距離に位置します。

 

 

神武天皇社

所在地/奈良県御所市柏原(小字屋鋪)

御祭神/神倭伊波礼毘古命

祭神は神倭伊波礼毘古命で、初代神武天皇の即位した場所であるといわれる。享保二一年(1736)の大和誌には「橿原宮、柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和九年(1772)の「菅笠日記」に「畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いた」と記している。言い伝えによると、この地が宮跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、明治のはじめに証拠書類を全て焼却して指定を逃れたという。

【神武天皇社社頭案内板】より

 

神武社の南には「嗛間神社(別名ホングワラの宮)」があり、神武帝の前后だった「吾平津媛命」を祀っている。

吾平津媛命は、神武帝が神の子「媛蹈鞴五十鈴姫命」を皇后に迎えたため、やむなくこの地に侘び住まいしたと伝えられる。

嗛間神社は「サワリの神」だとされ、嫁入り行列はこの社の前を避けると言われている。

 

 

また、当地には「ヨウバイ(遥拝か)」「御酒田」など宮跡を匂わせる地名が残るなど、古くからこの地の住民は、橿原宮がここにあったと信じていたらしい。

さらに、神武社の背後には「本間山」があり、神武帝が国見をした「腋上の嗛間丘」であると伝えられている。 

 

三十有一年の夏四月の乙酉の朔に、皇輿巡り幸す。因りて腋上の嗛間丘に登りまして、国の状を廻らし望みて曰はく、「妍哉乎、国を獲つること。妍哉、此をば鞅奈珥夜と云ふ。内木綿の真迮国と雖も、猶し蜻蛉の臀呫の如くにあるかな」とのたまふ。是に由りて、始めて秋津洲の号有り。

【日本書紀】舎人親王(720)より

 

日本紀によれば、神武帝はこの丘の上に登り、国誉めの歌を残している。

ここで、神武帝が「蜻蛉(あきつ)の臀呫(交尾)の如く」と詠んだことにより、この丘から見える平野を「秋津洲」と呼び、やがてそれが大日本豊秋津島、つまり日本の国号となったのです。

トンボの交尾とは、もしかすると大和を制した神武帝と先住民族との合流を表現したものかもしれない。

 

 

しかしながら、大和志料(1914)は「一に望国山(くにみやま)と称す、掖上村大字本馬の南にあり、本馬は『ほほま』の傳訛なり」と記し、神武社の南方約2キロに位置する「国見山」(標高229メートル)を嗛間丘としている。

つまり「腋上の嗛間丘」の候補地が二つあることになる。

この国見山麓には、皇室の祖神である瓊瓊杵尊を祀る「国見神社」が鎮座しています。

 

 

圀見神社

所在地/奈良県御所市原谷

主祭神/瓊瓊杵尊

日本書紀によれば、神武天皇は、夏四月、腋の上の嗛間丘に登って国見され(中略)のちにこの丘を国見山といわれるようになった。往時、社殿は山頂にあり秋津村冨田区の人も氏子であったが、いつの時代か丘の東麓のこの場所に移され、今では原谷・今住・上方地区の氏子の産土の神として奉仕、信仰されている。

【圀見神社社頭案内板】より

 

本間山(標高143メートル)は低く、国見山は樹木や山が邪魔して、どちらもあまり見晴らしが良いとは思えない。

しかし、本間山が位置する御所市本間はかつての「本間村」であり、本間は嗛間(ほほま)の訛ったものであろう。

ただ「腋上の嗛間丘」がどちらの山だったにせよ、御所市柏原に神武帝に纏わる伝承が少なからず存在することに変わりはない。

 

 

一方、「腋上」は、明治二十二年(1889)に東寺田村、柏原村、原谷村、玉手村、茅原村、南十三村、本馬村が合併し「掖上村」が成立し、現在も御所市柏原に「掖上駅」がある。

大和史料によれば「腋上池腋上池心宮は池内、御所の間にあり、掖上博多山は三室にあれば、古へ惣へて之を掖上と称せしなり」とあり、御所市池ノ内から考昭天皇陵(掖上博多山上陵)の間の広い地域を比定している。

これなら、鴨都波社鎮座地に「掖上」の小字が残るのも頷ける。

ちなみに掖上は、一説に「若神」が訛ったものとされている。

若神とは、「大国魂」に対する「稚国魂」の別名がある下照姫命のこととされるが、葛城に新たな神として迎えられた神武帝のことだったのではあるまいか。

私個人の想像では、神武帝は大和を武力で制圧したのではなく、「出雲の国譲り」のような形で大和の先住民に受け入れられ、皇位に就いたのではないかと考えている。

そして、大和入りした神武帝が初めて治らす国が、この葛城国だったのではないだろうか。

神武帝が嗛間丘に登り、自らの国を眺めて「秋津洲」と表現したのは、まさにこの葛城だったからだ。