【古代賀茂氏の足跡】鴨山口神社 | 東風友春ブログ

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これまで述べてきたように、葛城では、高鴨社上鴨社御歳社中鴨社鴨都波社下鴨社と呼ぶ三社が存在します。

それ以外に、鴨都波社「下津賀茂社」とも呼ばれ、これは、鴨山口神社(鴨山口社)「上津賀茂社」と呼ぶことに対するものです。

和名抄に見える大和国葛上郡の上鳥郷下鳥郷は、それぞれ「上ツ鴨社」と「下ツ鴨社」の所在地に該当します。

ちなみに上鳥郷及び下鳥郷の鳥の字は、それぞれ「鳧(かも)」の字の誤写で、正しくは上鳧郷下鳧郷であろう。

鴨山口社は、鴨都波社のちょうど真西約1.6kmに鎮座しているので、上ツ鴨と下ツ鴨とは、葛城山の斜面に沿って上下の位置関係にあるといえる。

鴨山口社は、近鉄御所駅から西に葛城山ロープウェイ登山口駅へ向かう途中、県道30号線の「櫛羅」交差点近くに鎮座している。

 

 

鴨山口神社

所在地/奈良県御所市櫛羅(小字大湊)

御祭神/大山祇命、大日孁貴命、御霊大神

例祭/七月十六日(夏季例大祭)、十月第二日曜日(秋季例大祭)

当神社西方に猿目という垣内がありますが、昔猿田彦大神現れ給ひて申されるには、このような霊異地(人間の知識で考えられない不思議な霊妙な地)はめずらしく照り輝くこと日・月のごとく、すなわち時々天照皇大神天降り給ひて、鎮座云々と記されており今此の在所を倶尸羅邑と申すも天照大神の御霊日月のごとく奇異(不思議な奇妙な)に現れ給しよりの名なりとされクシラとはクシヒトと云う転訓なり、御霊の二字もクシヒトと読めり。

【鴨山口神社由緒書】より

 

 

鴨山口社の主祭神は、大山祇命

大山祇命は、古事記に、速秋津日子速秋津比賣から生まれた山の神、名は大山津見神として登場する。

また、日本紀の一書によると、伊弉諾尊軻遇突智を斬った際に三段に為す。其の一段は是雷神と為る。一段は是大山祇神と為る。一段は是高龗と為るとあるが、大山祇神も雷神高龗神もそれぞれ祈雨の対象とされる神であり興味深い。

 

 

鴨山口社は、大和国葛上郡十七座(大十二座、小五座)鴨山口神社 大社、月次、新嘗とある式内社。

山口社は概ね大和国特有の神社である。

大和国には、鴨山口社の他に「巨勢、飛鳥、石寸、忍坂、長谷、畝傍、耳成、夜支布、伊古麻、大坂、当麻、吉野、都祁」の山口社が、延喜式神名帳に記載されている。

現在、これらすべての山口社が大山祇神を祭神としているとは限らないが、一般的に、もともとは大山祇神を祀っていたと考えられている。

山口ノ神とは、山の口の神、つまり山の入り口に坐す神と解釈される。

鴨山口社の社頭案内板には「本社は、古くから朝廷に皇居の用材を献上する山口祭を司った由緒深い神社であります」と書かれている。

おそらく山口社とは、山の神を入山口に祀って、山の恵みに感謝しつつも、山神が入山者に悪さを働かないよう畏れ崇め奉りて、山中での安全を祈念した神社なのだろう。

 

 

また、延喜式に記載されている廣瀬大忌祭の祝詞に倭国の六の御縣の山口に坐す皇神等の前にも(中略)皇神等の敷坐す山山の口より狭久那多利に下し賜ふ水を甘水と受けてとあるのを鑑みれば、山口とは山から流れ出づる水の口とも解釈できる。

延喜式には「賀茂山口社一座」を含む十四座の山口社が「祈雨神祭八十五座」に記載されており、三代実録の貞観元年九月の記事に、鴨山口神を含む四十五神に奉幣使を遣り風雨の祈りと為すとあるので、山口神は祈雨の対象とされたらしい。

鴨山口社は今でこそ小さな神社だが、古くは祈雨の際に朝廷から奉幣に預かる大社だったのだ。

 

しかしながら、現在の鴨山口社は元来の鎮座地から遷座してきたようだ。

鴨山口社には、享保十三年銘の石灯籠があり、現在は磨耗して判読しずらいが「葛城岸根山倶尸羅村」と刻まれている。

岸根山とは、式内社調査報告「旧社は現在地の西方、大字櫛羅猿目上方、俗称『岸野山』にあったと伝承する」と記されている通り、倶尸羅邑「猿目」にあった鴨山口社の旧鎮座地を指すらしい。

この猿目は、鎮魂祭の歌舞を生業とした「猿女君」に通じるため、谷川健一氏は「遊部考」の中で、死者葬送にたずさわる「遊部」が居住していたのではないかと推測している。

谷川氏の指摘は、葛城に所縁の深い味鉏高彦根神下照姫命の葬送儀礼の説話に関連がありそうで大変興味深い。

 

 

ところで「鴨山口神社」とは「鴨山ノ口」に祀られている神の社という意味であり、実際に旧鎮座地である猿目は、葛城山の登山口に程近い。

このため、鴨山とは葛城山を指していると考えられる。

また、大和志には「倶尸羅村の高鴨山に在り。松樹一株、樹下に小祠有り。土人云はく、樹頭、時に聖燈を見る」とあるので、古くは葛城山を鴨山または高鴨山とも呼んだかもしれない。

大和志によると鴨山口社は、旧地では松の樹の下に小さな祠があるだけの状態だったようで、その松の樹の頂に時々神霊が宿り、灯明のように光を放っていたらしい。

鴨山口社の由緒にある「天照大神の御霊日月のごとく奇異に現れ給し」とは、この現象を表現したものだろうか、不思議な話である。

鴨山口社では、明治十二年の神社明細帳によれば、相殿神を「大日孁尊、天御中主尊」と記しているが、重要文化財である「大日孁貴命坐像」「御靈​​​​​​​大明神坐像」を所蔵しており、このため現在は「大日孁貴命、御霊大神」を相殿神としている。

天岩戸の前で舞を踊り、天照大神の御心を慰めた天鈿女命の裔である猿女君らが、鴨山口社に現れた神秘の光を太陽の化身と考えて、天照大神すなわち大日孁貴命を祭神に加えたものなのだろう。