【古代賀茂氏の足跡】大倭の葛木山の峯 | 東風友春ブログ

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建角身命は「大倭の葛木山の峯に宿り」、そこから次第に移動して「山代国の岡田の賀茂」に至りました。

葛木山とは、葛城山の古い表記で、現在の葛城山金剛山からなる葛城山脈を指しています。

現在、葛城山及び金剛山上へは、それぞれロープウェイが運行しており、行楽地として有名で、初夏の葛城山頂はツツジの名所としても知られています。

又、葛城山上には、奈良県側からロープウェイにて登ることができ、山上駅のそばには「葛城天神社」が鎮座しています。

 

 

葛城天神社

所在地/奈良県御所市櫛羅

御祭神/国常立命

葛城天神社は葛城の霊峰に鎮座ります。天の神の始祖国常立命を祭神としてお祈りしてあります。この境内は「天神の森」と称せられ古代祭祈の遺跡で加茂(鴨)氏の祖加茂建角身命の神跡とも伝えられ「鴨山」とも呼ばれています。

【葛城天神社社頭案内板】より

 

葛城天社の創建時期は不明。

葛城天社は大正四年(1915)、麓の鴨山口神社に合祀され、現地は小さな祠だけが残された状態でしたが、その後、観光開発により現地に新社殿が設けられ、鴨山口神社より還座しました。

建角身命の神跡とされていますが、後世の附会かも知れず、当社に関しては詳しく調査できていないので、後日改めて追記したいと思います。

 

さて、この葛城山及び金剛山の麓に位置するのが、賀茂氏の古里とされる大和の葛城です。

延喜式神名帳によれば、大和国葛上郡に「鴨」の字が付く神社が、鴨都波八重事代主命神社・鴨山口神社・高鴨阿治須岐託彦根命神社の三カ所が見られます。

 

大和国葛上郡十七座 大十二座 小五座

鴨都波八重事代主命神社二座、葛木御歳神社、葛木坐一言主神社、多太神社、長柄神社、巨勢山口神社、葛木水分神社、鴨山口神社、大穴持神社、葛木大重神社、高天彦神社、大倉比賣神社、高鴨阿治須岐託彦根命神社四座

【延喜式神名帳】「延喜式」巻九巻十(927)より

 

この葛城にも、京都の上賀茂社下鴨社のように通称で呼ばれた神社が存在します。

葛城では、高鴨社上鴨社御歳社中鴨社鴨都波社下鴨社と呼んでいました。

ちなみに葛城は、大和国葛上郡・忍海郡・葛下郡とあり、上記三社はすべて葛上郡に属し、葛上郡は現在の奈良県御所市にほぼ該当します。

 

この地は古代の豪族・鴨族発祥の地で、鴨族は山を支配し、薬草・天体観測による暦・製鉄、農耕技術・馬術にすぐれ弥生中期後半、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端、今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社を祀って水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に水稲生活に入りました。その為、一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりました。

【高鴨神社由緒書】より

 

葛城は、賀茂氏にとって初めて歴史にその姿を現した発祥の地であるのです。

それのみならず、葛城は、葛城氏尾張氏にとっても発祥の地であるし、神武天皇は東遷して柏原に居を定め、謂わば大和王朝の発祥の地でもあるのです。

 

 

しかし、意外にも葛城の鴨社には「賀茂建角身命」や「八咫烏」を祀っていません。

 

鴨都波神社/積羽八重事代主命・下照姫命

葛木御歳神社/御歳神

鴨山口神社/大山祇命

高鴨神社/阿遅志貴高日子根命・事代主命・阿治須岐速雄命・下照姫命・天稚彦命

 

それどころか、葛城の地に「賀茂建角身命」「八咫烏」を祀る神社は無く、かろうじて葛城天社の説明にその名を認めるのみです。

賀茂社伝承の出発点とも言える葛城に、主役であるはずの彼らの消息が残されていないのは、どうしてでしょうか?

実は、この疑問が、私が賀茂氏に興味を持った一つのきっかけでもあるのです。

 

要するに、カモに於いては、カモ又はカモツミを最も古い基礎的な観念とするものであり、京都のカモ葛城のカモ共にそこより出発したものであるが、葛城方面は早く社会の発達文化の進展ありし為、神々もそれぞれ特殊なる神格を分離することとなり、味鉏高彦根とか事代主等の限定せられたる存在となっていった。

【賀茂伝説考】肥後和男(1933)より

 

肥後和男氏「賀茂伝説考」では、山城のカモ氏と葛城のカモ氏との関係に触れて、両者は同源としながらも、葛城については社会の発展により、原始的な神であるカモツミから、限定された神格である阿治須岐託彦根事代主に変化したのだろうと述べています。

だとすれば、どうして賀茂の神が、出雲神話の神々に置き換えられたのでしょうか。

確かに、上にあげた葛城の鴨社は、全て出雲系の神を祀っています。

しかも葛城は、謂わば大和王朝発祥の地でもある筈なのですが、皇室の祖神を祀る神社より、出雲の神を祀っている神社が多い気がするのは、何故でしょうか。

 

 

すなわち「古事記」が、国譲りの神話を出雲国にまで舞台をひろげたことにもとづいて、大和の古くからの豪族であった鴨氏が、出雲系の分派という地位に落ちる結果をまねいたのである。

【神々と天皇の間】鳥越憲三郎(1970)より

 

鳥越憲三郎氏「神々と天皇の間」では、「賀茂伝説考」とは逆に、阿治須岐託彦根神はもともとカモの神であり、賀茂氏など地方の豪族たちは、彼らの神を出雲の神統譜に挿入することによって、大国主神の子孫だと自らの出自を誇ろうとしたと推測しています。

しかし私自身は、大和王朝誕生以前の近畿の諸豪族が、少なくとも出雲文化の影響下にあったと考える方が、自然なのではないかと思います。

 

(前略)乃ち大穴持命の申し給はく、皇御孫の命の鎮まり坐さむ大倭の国と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主櫛厳玉命と御名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子、阿遅須伎高孫根命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫の命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まり坐しき。(後略)

【出雲国造神賀詞】一部抜粋「延喜式」巻八(927)より

 

出雲国造神賀詞は、霊亀二年(716)出雲国造が、初めて朝廷に参向して奏上した寿詞です。

時代が下るとしても、これは、大和朝庭及び出雲国側ともに、葛城の鴨の神が、出雲由来であると認めているのに他なりません。

 

さて、鳥越氏の「神々と天皇の間」では、全国の賀茂社が「すべて源を葛城に発するもの」しながらも、葛城の神々と八咫烏もしくは建角身命との関係については、あまり考察されていません。

大和と出雲の関係性については、別稿で追い追い述べるとして、次号からは葛城の神社及び賀茂氏に纏わる伝承や系譜についてを紹介し、この問題を深く掘り下げてみたいと思います。