古代鴨氏物語[弐]賀茂建角身命と八咫烏伝説 | 東風友春ブログ

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賀茂社伝承の前半部分は、賀茂氏の祖神である「賀茂建角身命」が主人公のお話です。 

しかしながら、記紀には、賀茂建角身命という名の神や人物は登場しません。

山城国風土記以外に、賀茂建角身命(以下、建角身命)という名が記された古い文献は「新撰姓氏録」があります。

 

賀茂縣主

神魂命の孫、武津之身命の後なり。

鴨縣主

賀茂縣主と同祖 神日本磐余彦天皇、中洲にいでまさんとする時に、山の中険絶しく、踏みゆかむに路を失ふ。ここに神魂命の孫・鴨建津之身命、大きなる烏となりて、飛び翔けり導き奉りて、遂に中洲にとほりいたる。天皇その功あるを嘉したまひて、特に厚く褒めたまふ。天八咫烏の号は、これより始りき。 

【新撰姓氏録】(815)山城国神別天神より

 

新撰姓氏録(以下、姓氏録)とは、簡単に言うと、京・畿内に在住していた古代氏族の名鑑です。

ここに「賀茂県主」「鴨県主」という二つの「カモ県主(あがたぬし)を紹介したが、簡潔に説明すれば、賀茂県主上賀茂神社の社家であり、鴨県主とは下鴨神社の社家のことで、発音は同じでありながら「賀茂」と「鴨」の漢字表記が違うだけで、元は同じ氏族だったことが分かります。

カモ県主の条には、賀茂建角身命を「武津之身命(たけつのみ)とか鴨建津之身命」として登場させています。

また、鴨県主の条に「神日本磐余彦天皇」と記すのは、神武天皇のことであり、賀茂社伝承に「神倭石余比古」とあるのは、古事記「神倭伊波禮毘古命」とするのと同じく、神武天皇の即位前の名前です。

つまり、賀茂社伝承やカモ県主の始祖伝説が、初代天皇の神武の時代に遡ることを示唆しています。

さらにこの条には「天八咫烏(あめのやたがらす)の号はこれより始りき」とあるように、「八咫烏(やたがらす)という建角身命の別名に言及しています。

これは、奈良県宇陀市の八咫烏神社の口碑に「八咫烏とは、黒い衣を着て道案内をした豪族の姿が、まるで大きなカラスのように見えたので、天皇が勲功を称えて与えた称号」と伝えられており、八咫烏とは鳥のことではなく、建角身命に与えられた称号だとしています。

 

賀茂県主が遠祖八咫烏は、宸駕(みゆき)を導き奉りて、瑞を菟田の径に顕す。

【古語拾遺】斎部広成(807)より

 

古語拾遺は、斎部広成が記紀に漏れている伝統があることを憂いて著した史書である。

古語拾遺では、八咫烏を賀茂県主の遠祖とし、また、日本紀では「頭八咫烏、亦賞の例に入る。其の苗裔は、即ち葛野主殿県主部是なり」とあり、旧事紀(平安初期成立)では「頭八咫烏に詔りて、汝、皇師を導きし功有り。因りて賞の例に入るとのたまふ。其の苗裔は葛野縣主部是なり」と記しています。

ちなみに日本紀旧事紀では、八咫烏を「頭八咫烏」と表記しており、また、葛野主殿県主部葛野縣主部と記しているのは、賀茂県主と称するようになる以前の彼らの呼称です。

そして「皇師を導きし功有り」とは、有名な「神武東征」において、八咫烏が神武天皇一行を道案内したことに因みます。

ここで神武東征について大まかに説明しておくと、神武天皇(即位前なので磐余彦命)一行は、九州日向の地を発って大和への侵攻を試みますが、河内国草香邑で迎え撃った長髄彦により、海上に退却を余儀無くされます。

磐余彦命の兄の五瀬命は、日神の御子が日に向かって戦う不利を説きますが、矢傷がもとで亡くなり、磐余彦命の一行は、海を迂回して熊野村に上陸しますが、山の神気にあてられて病み臥せってしまいます。

そこで、高倉下命が夢のお告げに従って神剣を献上すると、磐余彦命は士気を回復し、高木大神(紀では天照大神)「今、天より八咫烏を遣はさむ。故、その八咫烏道引きてむ。その立たむ後より幸行でますべし」と宣りて、天から八咫烏を遣わし、一行は八咫烏の後を追うように熊野の険しい山中を進んで、ついに大和の宇陀(奈良県宇陀市)に到ります。

 

既にして皇師、中洲に趣かむとす。而るを山の中嶮絶しくして、復行くべき路無し。乃ち棲遑ひて其の跋み渉かむ所を知らず。時に夜夢みらく、天照大神、天皇に訓へまつりて曰はく「朕今、頭八咫烏を遣す。以て郷導者としたまへ。」とのたまふ。果して頭八咫烏有りて、空より翔び降る。天皇の曰はく「此の烏の来ること、自づからに祥き夢に叶へり。大きなるかな、赫なるかな。我が皇祖天照大神、以て基業を助け成さむと欲せるか」とのたまふ。是の時に、大伴氏の遠祖日臣命、大来目を師ゐて、元戎に督將として、山を蹈み啓け行きて、乃ち烏の向ひの尋に、仰ぎ視て追ふ。遂に菟田下県に達る。

【日本書紀】舎人親王(720)より

 

上記の箇所が、神武東征における八咫烏の故事(以下、八咫烏伝説)を詳しく述べたものであり、日本紀「頭八咫烏、亦賞の例に入る」とされた理由なのです。

その後、宇陀から進軍した磐余彦命は、各地で大和の抵抗勢力を撃退し、饒速日命の帰順を受け入れて、ついに大和を平定することができたのでした。

 

 

この八咫烏伝説は、姓氏録「鴨建津之身命、大きなる烏となりて」として、また、賀茂社伝承では「賀茂建角身命、神倭石余比古の御前に立ちまして」として取り入れられています。

特に日本紀の八咫烏伝説に熊野山中が大変険しい様子を「中洲に趣かむとす。而るを山の中嶮絶しくして、復行くべき路無し。乃ち棲遑ひて其の跋み渉かむ所を知らず(欲趣中洲、而山中嶮絶、無復可行之路、乃棲遑不知其所跋渉)と記す箇所と、姓氏録「中洲にいでまさんとする時に、山の中険絶しく、踏みゆかむに路を失ふ(欲向中洲之時、山中嶮絶、跋渉失路)のくだりは、とてもよく似た表現であり、これはもともとカモ県主が有していた伝承が、日本紀の編集過程で採用されたのかも知れず、仮にそうだとすると、日本紀成立以前すでにカモ県主の伝承と八咫烏伝説とが結びついていたと考えるのです。

 

佐伯有清氏は「ヤタガラス伝説と鴨氏」において、続日本紀(797年成立)慶雲二年(705)九月の条に「八咫烏社を大倭国宇太郡に置き之を祭る」と記録があることから推測して、「おそらくこれより、あまりさかのぼらぬ時期にヤタガラス伝説(八咫烏伝説)は完成したものである」と述べています。

しかし、賀茂社伝承「大倭の葛木山の峯に宿りまし」とあるが、宇陀には八咫烏の伝承は残っていても、葛城には八咫烏や建角身命の痕跡は何も残っていません。

葛城に賀茂の神を祀る高鴨神社などが存在していることから、カモ県主の祖先は、葛城に居住していた賀茂氏の一派だったと考えるのは疑いようがありません。

宇陀には八咫烏の伝承が残り、葛城にはカモ県主の祖先が居住していたとすると、もともと八咫烏と建角身命とは、本来別々に生じた伝説が結びついただけなのかもしれません。

しかし、元は同族関係にあったと思われる大和国の賀茂氏大神氏には、八咫烏伝説が見られないことから、八咫烏を始祖とするのはカモ県主独自の思想であり、賀茂氏の一派が葛城から離れて、日本紀が編纂される頃までに生じたものだと考えるのです。

このような伝説が生まれたことにより、現代でも上賀茂社で重陽の節句に「烏相撲」の行事を執り行う等、賀茂の社家の人々は建角身命を祖神とし、また、八咫烏の子孫であることを自負してきたのです。