【古代賀茂氏の足跡】岡田鴨神社 | 東風友春ブログ

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賀茂社伝承において、建角身命は、「大倭の葛木山」「山代の国の岡田の賀茂」「葛野河と賀茂河との会う所」「久我の国の北の山基」の順で移動しました。

「山代国」は、山城国の古代の表記名です。

「山代」は、その後、およそ奈良時代には「山背」と書き、もともとは大和国から山を越えた後ろ側というような意味だったのでしょう。

また、山代を流れる川、現在の木津川を、昔は「山代川」と呼んでいました。

建角身命は、岡田の賀茂を発って、木津川に沿って移動し、葛野川と賀茂川の会う所へ到るのでした。

そして、「山代国の岡田の賀茂」は、今の「京都府木津川市加茂町」にあたります。

 

和銅元年(708年)九月庚辰

山背国相楽郡岡田の離宮に行幸し、(中略)特に賀茂・久仁の二里の戸毎に稲三十束を給ふ。

【続日本紀】(797)より

 

四方を山に囲まれた地形の「加茂町」は、古代には「岡田」と呼ばれていたようです。

続日本紀の記述からは、「岡田」が賀茂・久仁(恭仁)の里を含むこの地域の古名だということが分かります。

 

 

 「岡田」は、「延喜式神名帳」にも山城国相楽郡に「岡田鴨神社(以下、岡田鴨社)」「岡田国神社」の名が見え、岡田鴨社は現在も加茂町に存在しています。

 

山城国相楽郡六座 大四座 小二座

岡田鴨神社 大社、月次、新嘗

岡田国神社 大社、月次、新嘗

【延喜式神名帳】「延喜式」巻九巻十(927)より

 

しかしながら、当地での岡田の地名は、その後殆ど用いられず、わずかに木津川北岸の「岡田山」と、岡田鴨社近所の小字に「岡田ノ庄」の地名を残すのみです。

ちなみに、岡田国社は「久仁里」に所縁ある神社かと思われ、久仁里は木津川の北岸、天平十二年(740年)聖武天皇により恭仁京が置かれた地として知られています。

 

 

 

岡田鴨神社 

所在地/京都府木津川市加茂町北鴨村

主祭神/加茂建角身命・菅原道真公

例祭/四月三日

賀茂氏族の発展を祈り岡田賀茂の地に洛北より賀茂明神を勧請し賀茂氏族の祖神、建角身命が祀られた。当社の御鎮座は、崇神天皇の御代と伝えられている。境内は、元明天皇の岡田離宮の旧跡と伝えられ、村人が離宮の旧跡を保存するためにこの地に天満宮を創祀したと伝えられる。

【全国神社祭祀祭礼総合調査】神社本庁(1995)より

 

岡田鴨社の社伝では、創建年代を崇神天皇の御代としているが、「洛北より賀茂明神を勧請」が事実なら、上賀茂社の創建が天武天皇六年(678)としているので時代が合わない。

創祀年代不詳の場合は、崇神天皇御代が持ち出される例が多い。

 

貞観元年(859)正月二十七日甲申

従五位下祝園神、天野夫支賣神、岡田鴨神、岡田園神、樺井月讀神、棚倉孫神、許波多神、出雲井於神、片山神、鴨川合神等、並従五位上

【日本三代実録】(901)より

 

当社に関する記事は少なく、わずかに日本三代実録にその名を見るのみだが、貞観元年の記録があるので、実際には、天武天皇六年から貞観元年までの間に勧請されたと見るべきだろう。

 

 

和銅天平時代には、現在の木津川は岡田山(流岡)の北側を流れていたが、その後木津川が南側を流れるように変化し、水害が頻繁になり、式内岡田鴨神社を旧社地より岡田離宮の跡である天満宮の境内に遷された。

【全国神社祭祀祭礼総合調査】神社本庁(1995)より

 

木津川の氾濫により遷座を余儀なくされたようで、現社地より西へ約200mの竹藪の中に、旧鎮座地を示す石碑が建っているそうです。 

その際、岡田離宮跡に建つ天満宮境内の当地に遷座したため、現在の祭神は、加茂建角身命菅原道真公の二柱となっています。

 

今天満宮社内二間四面の神殿と社前鳥居の傍に標石あるのみ、然れども社を距たる西南十町許に鳥居あり、左右に古松及び燈籠あり、通称鴨大明神の鳥居と称す。是より田間に介して堤状の馬場あり、この社に通ず。又社の北方木津川河岸に鴨大明神趾と称する地あり、今藪となる。洪水に遭遇し移転せるものなるべく、以って昔時の大社たりしことを知るべし。

【山城国相楽郡誌】(1900)より

 

 

面白いのは当社の北、木津川の対岸に見える「岡田山」別名「流岡」と呼ばれる山があり、これは、聖武天皇が東大寺建立のため木材を運ぶ際に、上流にあった巨岩を取り除こうと良弁僧正が秘法を用いて大雨を降らせ、洪水となって流れ着いたのが現在の「流岡山」だとする伝説がある。

 

雷が巨岩に落ち、岩は大小二つに割れた。洪水は岩を流し、一方は当時の都、恭仁京があった瓶原まで、もう一方はさらに下流の田辺まで流され、木材を運ぶことができた。二つに分かれてしまった岩は互いに恋しがり、風が吹くと瓶原の岩からは「流れようか」、田辺の岩からは「いのうか」と呼び合う声が聞こえてきた。人々は岩の叫びを聞き、慰めようと「流れようか」と叫んだ岩を流岡、「いのうか」と叫んだ岩を飯岡と呼ぶようになったという。

【京都新聞ホームページ「ふるさと昔語り」】より

 

もしかすると、流岡の洪水は、聖武天皇が早々に恭仁京の完成を諦めて、「幻の都」になってしまった要因なのかもしれない。

余程の大洪水だったのだろう。

賀茂氏が、当地に定着しなかったのも、度重なる洪水に原因があるかもしれない。

 

 

現在、岡田鴨社の立つ地名を「鴨村」と言い、これは、かつての「加茂の里」でした。

「岡田」の地名は使われなくなる一方、いつしか鴨村が「加茂町」としてこの地を表す地名となったようです。

この地に岡田鴨社を奉祀したカモの一族が定住して、賀茂氏の村を営んだ事実は疑いようがない。

しかしながら、岡田鴨社の社伝が語るように「洛北より賀茂明神を勧請」したのなら、当社の存在が、賀茂社伝承の伝える賀茂氏が大和から山城へ移動した証だと見なして良いものか疑問ではある。