賀茂社伝承の「乙訓郡社坐火雷神」とは、神名帳の山城国乙訓郡に「乙訓坐火雷神社 名神大、月次新嘗」とある式内社であり、単に「乙訓社」とも呼ばれていました。
乙訓社は、続日本紀(797)の大宝二年(702)に「在二山背国乙訓郡一火雷神、毎レ旱祈レ雨、頻有二微験一。宜レ入二大幣及月次幣例一」とある記録が一番古く、火雷神は祈雨に霊験ありとして、その後、度々奉幣を受けるようになり、延喜式の祈雨神祭八十五座の中にも名を連ねています。
また、祈雨ばかりでは無く、続日本紀の宝亀五年(774)正月の条に「山背國言、去年十二月、於二管内乙訓郡乙訓社一、狼及鹿多、野狐一百許、毎レ夜鳴、七日而止」とあり、さらに同年六月に「奉二幣於山背國乙訓郡乙訓社一、以二豺狼之怪一也」として、怪異に対して奉幣が行われた記録まであります。
「犲」とは山犬の事ですが、人々は野獣の群れが騒ぐことを一種の神意とみなし、きっと火雷神の祟りだと恐れたことでしょう。
しかしながら、乙訓社は、日本紀略の安和二年(969)七月の祈雨の奉幣十一社の中に「乙訓」とあるのを最後に史料からは姿を消してしまいます。
なぜなら、乙訓社の運命は、承久の変(1221)に際して一変したからです。
現在、「乙訓神社」もしくは「火雷神社」といった社号の神社は無く、「式内社調査報告」(1977)は、乙訓社の論社について「向日神社」及び「角宮神社」の二カ所を挙げています。
論社の一つである角宮社の氏子総代、林和夫氏が記した「角宮神社略誌」(1986)では「この変に際し、乙訓社は朝廷に味方した。しかし、官軍には利あらずで、賊将の三浦義村が西の丘に侵入することとなり、神社はついに回録し、乙訓社の神官の一人である六人部氏義は、一時、丹波に逃れ隠棲することとなった」とし、承久の変によって乙訓社は荒廃し、神主の六人部氏義が丹波に避難したことは、もう一方の向日社も伝承を同じくしている。
角宮神社(すみのみやじんじゃ)
所在地/京都府長岡京市井ノ内南内畑(乙訓郡井之内村字南内畑)
御祭神/火雷神・玉依姫命・建角身命・活目入彦五十狹茅尊
角宮社の祭神は「火雷神・玉依姫命・建角身命・活目入彦五十狹茅尊(垂仁天皇)」の四柱。
社伝では「継体天皇六年五月勅して乙訓社を建営し給ひ、火雷神を鎮め給ふ。延暦四年二月十二日、桓武天皇勅して玉依姫命、建角身命、活目入彦五十狹茅尊の三神を火雷神と共に鎮め給ひ、同年四月朔日天皇行幸奉幣し、角宮乙訓大明神と仰ぎ給ふ」として、継体天皇の時代に創建されたとある。
日本紀の継体天皇十二年には「遷都二弟国一」とあり、継体天皇の遷都との関連を思わせるが、角宮社が伝える創建時期とはややズレがあるため真偽は不明である。
乙訓社は承久の変により灰燼に帰したため、「角宮神社略誌」では「井ノ内では、宮山の旧社地に替えて現鎮座地(旧社のお旅)に移り、ここに乙訓社をお祀りした」として、社伝には「文明十六年後土御門天皇再び営御し給い卜部兼倶卿をして今の地に幣を捧げ給う」とあり、文明十六年(1484)にもともとは乙訓社の御旅所であった現在地に復興したと伝えています。
角宮社の説明では、乙訓社の旧鎮座地は現社地から西に離れた「長岡京井ノ内宮山」にあったそうだが、それ以上の情報が無く、場所の特定は難しい。
向日神社(むこうじんじゃ)
御祭神/向日神・火雷神・玉依姫命・神武天皇
一方の向日社は、神名帳の山城国乙訓郡に「向神社」と記載され、同じく式内社の乙訓坐火雷神社とは別々の神社でした。
本来は大歳神の御子神である御歳神(向日神)を祀った神社であったが、現在は「向日神・火雷神・玉依姫命・神武天皇」を祀る。
向日社の社伝(向日神社参拝の栞)によると「火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である」とし、乙訓社の創建が神武天皇の時代にまで遡るとして、継体朝の創建とする角宮社の伝承とは異なります。
式内社調査報告が載せる向日社の「旧聞抄」によると「承久の乱に火雷神社の神主六人部氏義が天皇方に組して敗れ、その子孫は丹波に隠生していたが、曾孫氏貫の代に至り、建治元年旧里に帰ったが、社屋の頽廃はなはだしく、向神社の神主葛野義益の建議によって、火雷神社の樋代を向日神社に納めたものである」とし、建治元年(1275)に向日社は乙訓社の御樋代(御神体)を遷して併祭することになったようです。
つまり向日社は、乙訓坐火雷神社の後継社も兼ねているということです。
しかし、六人部氏貫が丹波から密かに戻り、地元の氏子らには内緒で火雷神の御神体を向日社に遷した事が、後世の式内社論争に発展するのだが、ここでは省略する。
ちなみに六人部氏とは、姓氏録(山城国天孫)に「六人部連、火明命之後也」とあり、現在の向日社神主家も六人部家で、この家系からは幕末に国学者の六人部是香が現れている。
また、向日社の社伝(向日神社参拝の栞)には「後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至ってる。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた」とし、乙訓社は往古この向日山の麓に鎮座していて、向日社と乙訓社を各々「上ノ社・下ノ社」と呼んでいたそうです。
この下ノ社が向日山麓のどの辺りにあったのかは、残念ながら伝わっていない。
向日社と角宮社が伝える乙訓社は、承久の変以外は、創建の由緒や旧社地に関して全く異なっており、まるで別々の神社だったかのようだ。
しかしながら、向日社境内には「増井神社」があり、この社は火雷神の荒御魂を祀る井戸を御神体としている。
この井戸には不思議な伝説が残されており、その昔、大阪浪速の大火の時、神のお告げにより増井の水を持ち帰り、燃え盛る火にかけて消したという話が伝わります。
増井社の鳥居には「奉寄進、増井神社、天保四年、浪速北浜、加嶋屋藤十郎、大西茂興」の文字が刻まれており、鳥居はこの時のお礼に寄進されたものと思われ、増井の伝説が事実だったことを物語っています。
この増井社は、向日山西斜面の林間に小祠と井戸がひっそりと鎮座しており、乙訓社に何らかの関係があるものだと考えます。
また、向日社は「向日二所社御鎮坐記」という古文書も保有しており、その中には賀茂社伝承の類型と思われる丹塗矢伝説を載せている。
ちなみに向日社は「向日山(または勝山)」と呼ぶ小高い山上に鎮座する神社で、この向日山は「北山遺跡」と呼ばれる弥生時代の集落遺跡であり、この遺跡からは周溝墓が五基発見されて、墓地を備えた集落だったことが判明している。
さらには、向日社北側に隣接して「元稲荷古墳」という前方後方墳が存在し、この古墳から出土した「特殊器台形」と呼ばれる最古形の円筒埴輪や葺石の状態から三世紀後半の築造と考えられ、全国的にも最古級に属する大型古墳として知られている。
この元稲荷社古墳は、後方部上にあった稲荷神の祠が名称の由来だが、現在その祠は、向日社境内社の「勝山稲荷社」の裏に移されて「元稲荷社」と呼ばれています。
もし向日社が伝承する「下ノ社」が乙訓社だったなら、大和の「葛木坐火雷神社」と同じように、この元稲荷社古墳を拝する形ではなかったかと想像するのだ。
なぜなら、火雷神は祈雨の神である以前に、本来は古代人の祖霊信仰に関わる神だと考えるからである。