【古代鴨氏物語】鳥見山中霊畤 | 東風友春ブログ

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日本紀によると、兄磯城軍との戦いの後、金色の霊鵄の出現により長髄彦軍は戦意を喪失するが、饒速日命は徹底抗戦を貫く長髄彦を殺害し、諸人を率いて降参する。

この饒速日命の帰順によって神武東征は一応の決着をみるが、未だ服従しない大和各地の土蜘蛛が存在しており、それらの平定を終えて畝傍山の東南に橿原宮を置き、神武は初代天皇に即位して、ここに日本の建国が成るのである。

ところで、日本紀には神武天皇の即位後に気になる記述がある。

 

詔曰、我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原、下小野榛原。用祭皇祖天神焉。

 

 

神武天皇「我が皇祖の霊、天より降り鑒て、朕が躬を光し助けたまへり」と詔して、「鳥見山」霊畤(まつりのには)を設けて、「皇祖の天神」を祀ったという。

天より降り来たりて天皇を助けたのは、あの天皇の御弓の弭に止まった「金色の霊鵄」に他ならない。

この鳥見山中に霊畤を設けた記事は古語拾遺にも「爾乃、立靈畤於鳥見山中。天富命、陳幣、祝詞、禋祀皇天、徧秩群望、以答神祇之恩焉」とあり、これを以って国家祭祀の始まりとしている。

 

 

ちなみにこの鳥見山は宇陀市榛原や奈良市富雄などに複数の候補地が存在する。

しかしながら、桜井市の鳥見山(標高二四五M)には西麓に「等彌神社」という式内社(式上郡)が鎮座しており、この神社の社紋は、当に光り輝く鵄が弓に止まった様子を表している。

 

 

また、この山には、祭祀や鵄を連想させる「白庭、祭場、庭殿、齋場山、鵄谷」といった地名や、神武天皇が神祀りのため山を注連縄で巡らせたと伝える「縄頭、方示坂、〆ヶ辻」などの小字を持つ土地も残されている。

以上の理由から、桜井市の鳥見山を最有力候補として、昭和十五年(一九四○)、当地に「神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤顕彰碑」が建てられた。

 

 

そして、この等彌神社によれば、神武天皇が鳥見山の靈畤にて祭祀を行ったのが、今の「大嘗祭」の最初であると説明している。

しかしながら、鳥見山での祭祀と大嘗祭とは共に皇祖神に感謝することについて一致するものの、鳥見山の祭祀は神武天皇四年とされるので、天皇の代替わりに際して行われる大嘗祭の原形だと断定するのは尚一層の考察が必要だと思う。

 

さて、等彌神社境内摂社の「恵比須社」の裏手に何故か「剣池」と刻まれた石碑があるが、そこにはかつて「磐余之松」と呼ばれた巨木が生えていたそうな。

奈良県神社庁発行の「かみのみあと」(二○一二)は、藤堂藩谷代官所手代辻井三郎の元治元年(一八六四)の日記を引いて、この磐余之松の伝説を記している。

 

堺川にある御幸橋の近くに、二丈廻り位の古き松あり。二百年も前に大風雨の節、打ち倒れたりと聞く。これ矢はづの松とて、折々田地よりその根出す事これあり。神代木ともいえり。この辺の字は総じて松ヶ下御幸坂より齋場山に登る、字庭殿に磐余之松と申すあり。この松を一般に一本松と唱えいて、毎年正月十五日注連縄を掛けるは、昔より仕来、綱掛けとも申し候。

 

 

この磐余之松を一名「矢弭之松」と呼んだのは、神武天皇の弓の弭に霊鵄が止まった故事から来たものだろう。

つまり、磐余の松は当地のご神木であり、「謂れの松」だとも言えるが、実際に金色の霊鵄と関係があったのかどうかは分からない。

ちなみに先述の辻井三郎の日記には「建石は残りある様子。その建石はいつの頃出来たるとも存ぜず。たしかに皇祖神と彫りつけしやにあい覚え候」とあり、かつて磐余之松の根元に「皇祖神」と刻まれた建石があったそうだ。

これは神武天皇の詔にある「我皇祖之霊」から来ていると思うが、そもそも「金色の霊鵄」は、どうして「皇祖神」として鳥見山に祀られたのだろうか。

 

 

皇師遂擊長髄彥、連戰不能取勝。時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄、飛來止于皇弓之弭、其鵄光曄煜、狀如流電。由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰。

 

日本紀には「忽然と天が翳って氷雨が降り」とあるので、この時は大気の状態が不安定となり、「その鵄、光り煌めいて雷光の如し」とあるから、一種の球電現象のようなものが発生したのかもしれない。

その光は、まるで鵄が空高くからまっすぐ舞い降りたかのように現れて、天皇の御弓の弭に止まったのかは確証できないが、両軍の衆目の中で浮遊しつつ、神武天皇の許へ移動したのではないだろうか。

 

 

これは、文永八年(一二七一)「竜の口の法難」にて「江ノ島の方より月の如く光りたる物、鞠のようにて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る」とある謎の発光体が出現し、太刀取りの目が眩んで、日蓮は処刑を免れた話と似たような現象が起きたのでないか。

この正体不明の発光体を、神武天皇は「皇軍を助けるために天降った神霊」と理解したのだろう。

そして、この奇跡により神武天皇は大和の平定を成し遂げ、建国の大きな助けとなった事に感謝して、その時の「神霊」をこの地に祀ったのが鳥見山の霊畤なのだ。

 

 

尚、元文五年(一七三六)、この磐余之松の枯れ株の下から土偶と永正十一年(一五一四)の年紀を持つ古地図が掘り出された。

この土偶は鳥のような何ともユーモラスな顔を持つ人物像で、等彌神社では「八咫烏」を模した神像だとして、現在は本殿内に祀られているそうだが、社務所に行けば、この像の複製があるのを目にすることができる。

この像は、おそらく神武天皇の弓の弭に止まった金色の霊鵄を八咫烏と同一視する解釈によって、松の根元に供えられたものだろう。

これは、天皇の前に突如出現した霊光を「皇祖神」と結びつけるがために、高皇産霊神が八咫烏を遣わしたり、神武天皇が丹生川上に天神地祇を祭った話が、物語上の伏線として加えられた事から生じた誤解であるのだろう。